宰相閣下の「運命の対」を探せと仰せですが、鑑定の水盤に映ったのは私でした ~共鳴した鑑定官は引退の掟なので、全力で隠します~ 作:kuratn
一睡もできないまま朝が来た――と書きたいところだが、実際は四刻ほど眠った。眠れてしまう自分の神経が恨めしい。
寝床の中では、一応、あらゆる逃げ道を検分した。水盤の誤検分は、あり得ない。名錘の彫り違いも、私に限ってあり得ない。残る望みは夢だが、夢なら朝には覚める。……覚めなかった。以上、検分終わり。私は起きて、顔を洗った。
鑑定官の手元は寝不足を嫌う。名錘の手入れを済ませ、水盤の間を拭き上げて、私は職務の顔を装着する。
「本日、宰相閣下のご視察です。皆、粗相のないように」
局長は今朝も白い。名目は「王命案件の進捗の検め」だそうで、進捗も何も、始まって二日目である。局長の胃の心配をしていたら、廊下の先の空気が、しん、と改まった。おいでになったのである。
宰相カシミール閣下。間近で見ると、思ったより背が高い。敷居のところで黒手袋を指先から外し、目礼ひとつ。所作に無駄がない。政の頂点というものは、こういう歩き方をするらしい。手袋を外すのが癖なのか、礼儀なのか――検分の目が、勝手にそんなものを拾う。
そして、その瞬間である。
水盤の水面が、さわ、とさざめいた。棚の検分用グラスが、りん、と澄んだ音で鳴く。
水気のものが、一斉に。
私は背筋を伸ばした。慌てるな。慌てる鑑定官は、手元より先に顔が滲むのだ。
「鑑定官どの」
「はい」
「この局は、よく物が鳴りますね」
「古い建物ですので」
嘘ではない。築二百年である。鳴っているのが水気のものばかりだ、という点については――問われていないので、申し上げない。
閣下は水盤とグラスを順に眺めて、一拍おいてから、仰った。
「……なるほど」
なるほどの中身は、追及しないことに決めた。追及して得をする気が、まるでしない。
卓を挟んで、検分計画の打ち合わせに入る。大水盤は部屋の中央、検分用の小盤と青銅の道具棚が壁際、卓はその間に置かれている。名簿の綴りは指の厚さで三冊、百二十名。局長は末席で、置物のように静かに胃を押さえている。
「手順を伺いたい」
「候補のお名前の
「一年で百二十名。……ぎりぎりですね」
「予備の週を見込んでおります。名簿が正しければ、間に合います」
閣下の指が、綴りの背を一冊ずつ、静かに撫でていった。検分するような手つきである。
「名簿が正しければ、とは?」
「名簿は、人がお作りになるものですので」
「あなたの目から見て、この名簿に偏りは?」
「釣り合いという名の、派閥の見本市にございます」
末席で局長が小さく咳き込んだ。閣下の口の端が、ほんの少し動いた気がする。笑ったのかもしれない。検分し損ねたのが、少し悔しい。
閣下は次に、道具棚の前で足を止めた。彫りかけの名錘が、布の上に並んでいる。
「名錘は、すべてあなたが?」
「主任の職掌ですので」
「……名を彫られる側の気分というのは、妙なものでしょうね?」
「彫られた方に、伺ったことがございません」
私は真顔で答えた。目の前に一人いらっしゃるが、伺うわけにはいかない。
「期限は、星祭までと陛下は仰せだ」
「間に合わせます」
「間に合わなければ?」
「……名簿の外を、探すことになります」
短い沈黙が落ちた。棚のグラスが、りん、と余計な相槌を打つ。古い建物である。
打ち合わせの間も、グラスは思い出したように、りん、りん、と鳴き続けている。そのたびに私は「古い建物ですので」の顔を維持した。頬の筋が、地味な労働をしている。給金に、頬の分は入っていない。
帰りがけ、閣下の目が私の文机の隅で止まった。読みさしの私物――『北天航海記』。潮と星の紀行文である。
「『水盤概論』では、ないのですね」
「休憩に概論を読みますと、休憩になりませんので」
「……一理ある」
「お読みになるなら、六章がよろしいですよ。義理抜きで笑えますので」
閣下は答えず、表紙を指の背で一度だけ叩いて、卓へお戻しになる。
玄関まで、見送りに立つ。閣下は敷居の手前で足を止め、振り向かずに言った。
「あなたの手順には、無駄がありませんね」
「恐れ入ります」
馬車の音が遠ざかってから、私はようやく、肺の底まで息を吐いた。廊下の奥で局長が生き返る気配がする。振り返ると、棚のグラスはもう鳴いていない。水面も、静かなものである。
……そういうことなのだ。あの方が敷居を跨いだときだけ、この建物は「古く」なる。理屈は知らない。知らないが、検分の目は帳尻というものを覚えてしまう。名簿が尽きるまで、あの方は視察にみえるのだろう。みえるのだろうな。困る。何がどう困るのかは、検分しないでおく。
◇
宰相府の執務室。秘書官クレメンスは予定表に「星見局視察」と書き加えて、首をひねった。就任三年、縁のなかった離宮の奥である。
「星の相が悪いそうだ」
主は書類から顔も上げない。相が悪いのは閣下の嘘のほうです、とは、有能な秘書官は言わない。
カシミールは筆を置き、窓の外を見た。下命の夜、回廊から見た光。沈んでいた名錘は、二つ。
――水に、人生を決めさせるつもりはない。
それは、あの鑑定官も同じらしい。