宰相閣下の「運命の対」を探せと仰せですが、鑑定の水盤に映ったのは私でした ~共鳴した鑑定官は引退の掟なので、全力で隠します~ 作:kuratn
候補名簿、一番。ロスヴィータ嬢、男爵令嬢、二十四歳。
名検めには、こちらから出向くのが決まりである。商会街を抜ける馬車の窓から、荷揚げの掛け声と香辛料の匂いが流れ込んでくる。ロスヴィータ嬢のご実家は、この街でも指折りの手広い商会だ。門をくぐる前から、
星見局の紋の入った馬車を降りると、玄関の前に、ご本人が満面の笑みで立っていた。
嫌な予感の的中率は、検分より高い。
「鑑定官さま、ようこそ。……ときに、閣下とはお親しいの?」
「職務の分だけ、面識がございます」
「まあ。では、お好みの色などは?」
「本日は、家紋と洗礼名の検めに参りました」
押しの強いお方である。玉の輿への意欲を隠す気が、清々しいほどない。
挨拶もそこそこに、案内が始まった。案内といっても客間ではなく、なぜか倉である。
「ご覧になって。南方の香油、北の毛皮、東の絹。目録はぜんぶ、わたくしの字ですのよ」
名所案内のつもりが、倉自慢になっている。声が弾んでいるのは、宰相の話をするときではない。目録の話をするときである。私は相槌を打ちながら、それを検分する。
応接間で洗礼名の台帳を検めていると、廊下の向こうから泣きそうな声が飛び込んできた。五つ下の弟君である。
「姉上、東の仕入れの帳が、どうしても合いません」
「貸して。……ほら、樽の目方を升で書いてる。三行目から全部よ」
ロスヴィータ嬢は台帳をひと目で読み切り、暗算で直してのけた。弟君が拝むように引き下がっていく。聞けば、帳場を仕切ってきたのはずっと姉のほうで、なのに跡目は弟君に決まったのだという。女だから、という一言で。
それで、宰相夫人の椅子である。分かりやすい話――に見えて、私の検分の目は別のものを拾っていた。この方、帳簿の話をするときだけ、目の色が本物になる。茶菓を勧める指先には、算盤だこの跡がある。
その晩、局に戻って名錘を彫った。ロスヴィータ、と一画ずつ。他人の縁を彫る手は静かなものだが、彫り終えて布に置くとき、自分の帳面の一行が、ちらりと喉の奥で疼く。私はそれも、見なかったことにしている。
三日後、局の水盤の間。立会の書記と、なぜか本日もご視察の閣下。ロスヴィータ嬢は勝負服の正装で、髪には
作法の口上を上げ、ロスヴィータ嬢と閣下の名錘が、水底へ沈む。
水は、静かなものである。
「――不一致にございます」
ロスヴィータ嬢の肩が落ちた。よほど悔しかろうと思いきや、崩れ方が妙である。悔しさではなく、途方に暮れた目。
「……そう。じゃあ私、何のために」
「差し支えなければ。宰相夫人におなりだったら、何をなさるおつもりでした?」
「決まってるでしょ、商会をもうひとつ建てて、王都の――……あら」
ご自分の答えに、ご自分で立ち止まる。あら、あらあら、と二度言った。
気づけば、私の口も動いている。
「
沈黙が、ひとつ。それから彼女は、声を立てて笑い出した。
「水より、あなたの目のほうが確かだわ」
名簿からの辞退を申し出て、帰り際、肩越しに言い残していく。
「弟と共同で差配する道を、父に呑ませますわ。光らないなら、光らない道のほうが早くってよ」
名簿から、一名。ついでに人生がひとつ、動いた気がする。悪くない仕事である。
問題は、その記録の最中に起きた。
書きかけの字が、ふ、と滲んだのである。閣下が卓のそばへ歩み寄られた、ちょうどその時に。
「おや」
立会の書記が首を伸ばしかける。心臓が、跳ねた。
「その綴りを」
閣下の声が、書記の首をこちらから引き剥がす。
「昨年の検分数の綴りだ。――いや、今すぐに」
書記が小走りに消えた。棚の奥で、グラスが小さく、りん。広い水盤の間に、一瞬、閣下と私だけが残される。
「……古い建物ですね」
「はい。古い建物です」
それだけである。それだけの一往復が、妙に長く胸に残った。
……偶然にしては、手際が良すぎる。綴りの名を言い直した半瞬の間まで、含めて。私は書記の戻ってくる足音に、姿勢を戻した。検分はいつだって、疑いすぎるほうが安全である。安全のはずなのに、この件に限っては、疑いの先を考えたくない。
滲んだ紙は書き直しになる。ただし、破棄はできない。書き損じにも通し番号を振って綴りに残すのが局規で、「書き損じは検分の一部じゃ」というのが師範の
綴りに挟まれていく滲みの形を、私は眺めた。水面の輪に、よく似ている。私の帳面は正確だ。正確に、私の隠しごとの形をしている。資格欄の一行を思い出すたび、インクの匂いが少しだけ、喉の奥で苦くなる。
帰り際。閣下は敷居の手前で言った。
「先日の報告書。読みやすい字だ」
「……恐れ入ります」
帰り際の一言は、いつも鑑定と関係がない。関係がないのに、馬車の扉の閉まる音まで聞いてしまう。職業倫理の、静かな摩耗を感じる。
翌朝、名簿の次の下調べが届いた。付記に、局長の走り書きが一行。
――次のご令嬢は、泣いておられるらしい。