宰相閣下の「運命の対」を探せと仰せですが、鑑定の水盤に映ったのは私でした ~共鳴した鑑定官は引退の掟なので、全力で隠します~ 作:kuratn
名簿は十四番まで進んだ。十三人ぶんの「不一致」は、どれも静かなものだった――娘より親のほうが深く落胆する家が、七つ。安堵の息を隠しきれない令嬢が、三人。残りは肩をすくめて茶を出してくれた。不一致という同じ言葉の値打ちが、家によってこうも違う。水盤は毎回、涼しい顔で黙っている。
十四番は、少し違った。
ザビーネ嬢、子爵令嬢、十九歳。出向いた先で、ご令嬢は噂のとおり泣いている。正確には、泣き腫らした目に
名検めの間、ザビーネ嬢は一度だけ口を開いた。
「あの、わたくし、名簿には相応しく――」
「ふさわしいかどうかは水盤が決めますのよ。ね、鑑定官さま」
母君の声が、娘の言葉を斜めに断ち切った。
台帳を検めながら、私は世間話の顔で水を向けてみる。
「ご本を、よくお読みになるのですか?」
「え、ええ。……この綴じ、丁寧でしょう。糸を二重に返してあって、開き癖がつきませんの。町の工房の若い職人さんの手で――」
声が、そこだけ生きた。母君の咳払いが飛んで、ザビーネ嬢は口を閉じる。閉じたけれど、本の背を撫でた指は、しばらく降りなかった。
卓の隅に、読みさしの本が一冊。背表紙の綴じが、丁寧な手製である。ふと窓の外を見れば、庭の生垣の向こうに人影がひとつ。職人の前掛け、指先に紙の埃と
帰りの玄関で、母君がにこやかに仰った。
「鑑定など形だけですのよ。閣下との内定は、もう固まったも同然ですの。――ですから検分は、そうねえ、娘の体調もございますし、来月あたりにごゆっくり」
娘を名簿に押し込んだのは、親御のほうらしい。縁談は外堀から埋める算段で、水盤の出番は、噂が固まりきった後ろへ回したいわけである。母君が「内定」と口にするたび、娘の白粉の下が、一段ずつ白くなっていった。
「日程は、主任のわたしが組みますの。あいにく、来週の頭が空いておりまして」
にっこりと申し上げた。母君の扇が、一瞬だけ止まる。
検分の日程は名簿の順で組むのが基準だが、道順や家々の都合による前後は、主任の裁量に含まれる。そして組んだ日程は、儀典の廊下に公示される決まりである。――「内定も同然」の噂が育ちきる前に、水盤の公式の記録が追いつく勘定だ。噂というものは、紙の記録に追い抜かれると存外もろい。
儀典の受付では、若い書記官に首をかしげられた。
「先方のご希望日と、違いますが?」
「主任裁量の範囲にございます。日程規則、第十一条の二」
「……よくご存じで」
「規則を覚えるのは、給金のうちですので」
嘘はない。越権もない。手順が少し、親切なだけである。
約束の週明け、局の水盤の間。ザビーネ嬢は、独りで来た。母君は頭痛だそうである。都合のよい頭痛もあったものだ。
水は、今日も正直である。
「――不一致にございます」
ザビーネ嬢は、長い、長い息を吐いた。白粉の下の素顔が、ようやく浮かんでくる。それから顔を上げて、彼女は言った。
「……その紙の写しは、わたくしもいただけますの?」
「規定の写しは両家と儀典に回ります。ご本人の分も、お出しできます」
「いただきますわ。母は、鑑定など形だけと申しました。――形には、形の力がございますのね」
写しを胸に、ご令嬢はまっすぐ立ち上がった。生垣の外の職人の名を、私は聞かないでおく。聞かなくても、検分の目には、帳尻が見えている。
十日後、風の噂が届いた。子爵家のご令嬢が、家の反対を押し切って、町の製本職人と婚約なさったそうだ。母君は三日寝込み、父君は存外あっさり「働き者なら良い」と仰ったとか。名簿の外で、縁がひとつ結ばれたことになる。
さらに数日おいて、局に小さな包みが届いた。差出人の名はなく、中身は栞が一枚。二重に返した糸綴じの、丁寧な手製である。私はそれを『北天航海記』の六章に挟んだ。
水盤の光だけが、縁ではないのだ。
その日は給金日だった。両替商の帳場は銀貨の音で満ちていて、私はいつもの隅の卓で、銀貨を三つの封筒に分ける。弟の月謝に十二枚、実家の母と妹のヨゼファに八枚。妹の先週の手紙には、癖字でこうあった。『おかあさまが、おねえさまの給金は王国でいちばんきれいなお金だと言います』。
きれいなお金。……そうであってほしいものである。帳面と違って、妹の手紙は正直だ。正直の分だけ、よく効く。
この重さが、私の背骨である。背骨のためにも、あの光は、見なかったことにするほかない。私は封筒の角を、指でそろえる。
局に戻ると、閣下のご視察と行き合った。茶が出る。湯気の立つ茶器の縁が、りぃん、と細く鳴く。冬の鈴虫みたいな音である。うちの局に、鈴虫はいない。
「また鳴りましたな」
立会の書記が首をかしげる。
「古い建物ですので」
言いながら、湯気の向こうの閣下と目が合う。合って、しまった。私は茶器の縁を、そっと指で押さえる。指先に、湯気の湿りが残った。
帰り際。
「そうそう、東の書庫街の古本屋。雨漏りが、直ったそうですよ」
閣下はそう言いながら馬車のタラップに足をかける。
「…………なぜ、ご存じなのですか?」
「雨漏りをですか? それとも、あなたの行きつけをですか?」
閣下はいたずらっ子のような顔を見せる。
「いや、あの……」
「では……」
お答えにならないまま、閣下は馬車に乗られた。どちらも、である。どちらもです、閣下。
その晩、彫り上げた名錘を納めに行くと、師範のベンノ老の目が、私の手元に――一拍だけ、長く留まった。
……気のせいだと、思うことにする。思うことにした先から、指先だけが、正直に冷えていく。