心地よい風が体を撫でて通り過ぎていく。
先ほどまであれほど騒がしかった都会の喧騒は消え去り、草が揺れて擦れる音だけが聞こえている。
これは……夢か?
あまりに急な環境の変化に、思わず頬をつねった。
人間の頬とは思えないモチモチとした、感触が指に伝わり、改めてこれは夢だと確信した。
となると、直前までスーツ姿で就職活動に勤しんでいたのも、夢だったのだろうか。
記憶がグチャグチャで、まとまらない。
とりあえず歩き出そうと一歩を踏み出した瞬間、高熱の時のようなめまいに襲われた。
重い頭にバランスを奪われ、あっけなく尻もちをついてしまった。
「…ぐえっ!」
汚い悲鳴が喉から出たが、それが自分の声という実感は得られなかった。
まともに歩くこともできず、四つん這いで歩きながら、なんとか近くの倒木の幹に背中を預けて、座り込む。
そこで改めて、やけに太く感じる自身の太ももに目が行った。
視界に映る黒いスカートの裾を見て、違和感を覚える。
記憶が確かなら、自分の性別は女性ではなかった……気がしたものの、これが夢なら気にするほどのことはないのかもしれない。
少女の身体で、心地よい森の中で微睡む夢。
心理学者ならどのような精神状態と診断するのか少し気になったが、この心地よさを前にしては、そんなことはどうでもいい。
朝の優しい日差しの下、夢の中にも関わらず眠気に襲われて、意識が薄れていった。
これって夢じゃなくね?
目が覚めても、相変わらず眼前に広がる大自然の光景を前に、一気に意識が覚醒していった。
胃はしくしくと空腹を訴え、乾いた舌は水分を欲している。
時刻は時計もないため分からないが、太陽の高さは今が昼過ぎであることを示していた。
自分を取り巻く状況から、2つの可能性が頭に浮かんだ。
1つ目、空腹も目の前の光景も幻覚でまだ夢の中である可能性。
この場合、別にこれまで通り夢の世界を楽しんでいれば問題ない。
2つ目、就活のために街を歩いている時に襲われ、拉致されてどこかの山奥に捨てられた可能性。
手元には水も食料もスマホもなく、このまま行けば遭難の末、死が見えてくる。
状況からして、前者を期待しつつも、後者のパターンに備えて、早く食料を探し、人里で警察に助けを求めるために行動すべきだろう。
慌てて体を起こしながら、第3の可能性として、まるで異世界転移したかのような状態だな、という考えが意識の端に生じたが、再びバランスを崩して倒れ込んでしまったことで、考え事どころではなくなってしまった。
とにかく、体が思い通りに動かない。
なんとか、1歩ずつゆっくりと進むことはできるようになったが、それだけで大分時間を使ってしまった。
まず頭が重い。
重心が上の方にあってバランスが取れない。
次に脚が短い。
これが原因ですぐに転んでしまう。
最後に手が短い。
ただでさえバランスを取るのが大変なのに、これがさらに難易度を上げている。
ここまで来て、自分が幼児のような体型をしているのではないかと思い至った。
そうなると、本当に異世界転生を疑わないと行けなくなるが………その場合でも、このままではあまり長い異世界ライフは送れなさそうだった。
歩く、という基本中の基本の動作を練習するだけで、すでに日が暮れ始めていた。
最初に目を覚ました場所がまだ近くに見えるくらいの距離しか移動できていないのに、喉の渇きはさらに悪化しており、周囲には水も食べられるものも見当たらない。
昨日まで文明の利器に囲まれ、自販機で好きな飲み物を買うことができ、蛇口を捻れば飲める水が出てくる生活を送れていたのに、今ではたったそれだけの環境が羨ましい。
なんで自分がこんな目に合っているのか。
異世界転移?なんてものではなく、もしかしたら自分は死んでいて、今は地獄にいるのかもしれない。
確か、飢えに苦しむ地獄なんてものもあったはずだ。
そんなところに行かされるほど、悪いことはしていないはずだけど。
あれだけ心地よさそうだった森は、夕日に照らされて、先の見えない不気味な世界に変わっていた。
せめて川か何かでも、と願ったが、よろよろと歩む先からは水の音1つ聞こえない。
その時、木々の間を金色の髪がひとすじ駆け抜けていくのが見えた。
「え?……っ……あっ!………あぅ」
一瞬呆然として、それがヒトの髪であると気が付いて、呼び止めようと声を上げた。
しかし、両足と同じように、舌も使い慣れていない道具のように思い通りに動いてくれず、考えた通りの言葉は発せられなかった。
慌てて人影を追いかけようとするも、足がもつれて盛大に地面に頭をぶつけてしまう。
「あっ…………あっ…………あっ…………」
伸ばした手の先で、金髪が木々の奥に消えていった。
お腹から、グーッと大きな音が響き、目頭が熱くなる。
さっきの遭遇が、衰弱して死ぬ未来を回避するための、最後の幸運だったのかもしれない。
そう考えると、急に体が冷えて、起き上る気力がなくなってしまった。
このまま死ぬのか?
「ねえ、あなた。お腹空いて苦しいの?」
金色の髪をなびかせた幼女が、上から覗き込みながら、言った。
白を基調とした豪華な衣装と、黄金の王冠が目に入る。
人間にしては大きすぎる頭と頬っぺた。
伸ばされた四本指の手。
ゲーム『トリッカル』の主要キャラクターであるエルフィンがそこにいた。
声で返事をする前に、グーッとお腹が代わりに返事をした。
「え~っと、さっき獣人の村からとってきたリンゴならあるけど要る?」
エルフィンは手元の袋から、赤いリンゴを取り出した。
慌てて、首を縦に振る。
「酸っぱそうなのだけなら幾つかあげるわ!私は寛大な女王様なのよ!………お腹が空く辛さも分かるもの」
袋から小ぶりのリンゴが幾つか目の前に転がり出てくる。
慌てて手に取り、皮も剥かずに噛みしめると、染み出してきた水分が喉を潤した。
「そんなにお腹空いてたの?まあ、いいわ!そろそろ行かないとネルに怒られちゃうから、帰るわね!」
呼び止める間もなく、エルフィンの姿が消え、後には数個のリンゴが残された。
状況の整理も追い付かないまま、まずは喉と胃の訴えのまま、リンゴを口に運ぶことにした。
お腹が少し膨れると、精神にも余裕が出てきた。
改めて自分の手を広げてみると、4本の不自然な本数の指が視界に入った。
こちらで目覚めて以来、ずっとそうだったはずなのだが、不思議と違和感を覚えていなかったらしい。
「あ~~~~。あ~~~~。テストテスト~~」
また別の現地民に出会った時のために声を出す練習をしてみると、少し高い可愛らしい声が喉から出てきた。
どうにも自分は『トリッカル』世界のエーリアスの住人に転生した、またはそうなった夢を見ているらしい。
この身体になる前の記憶で、『トリッカル』についてはゲームとして遊び、ストーリーを読んだ記憶がある。
そして、そのゲームの知識から、ここが本当にエーリアスであれば、1つ安心できることがある。
そう、エーリアスには『死』がないのだ。
代わりに『週末農場』という言葉はあるが、ゲームの設定どおりの世界であれば、喉が渇いても、お腹が空いても死ぬことはない。
先ほどまで恐怖の源であった、遭難しての衰弱死、という可能性がこれで消えてくれた。
思わず笑みを浮かべながら、未知なるエーリアスの世界を目に焼き付けるべく、わたしは森の奥へと足を踏み出した。
数時間前の楽観的だった自分を呪いたい。
まず、そもそも灯り1つない夜の森を歩くのはどんなに危険かと言えば、装備1つ付けずにモンスター蔓延るダンジョンに乗り込むようなものである。
まあ実際、エーリアスの森にはモンスターがいるんだが。
言葉の通じない動く花やら2足歩行のトカゲやらに追い回されて、結果としてわたしは崖から足を踏み外して転落することになってしまった。
幸い、死ぬことも血が出ることもなかったが、痛いものは痛い。
思わず涙が出てきた。
次に、死ぬことがないとは言っても、喉の渇きは辛い。
いや、『死』がないからこそ辛いのかもしれない。
エルフィンからもらったリンゴで、多少腹は膨れたが、水分の接種は十分ではなかったらしい。
喉が渇いて、喉が渇いて、苦しい。
水を探したくても、モンスターが居て探せないし、そもそも崖から落ちたせいで方向感覚を失い、どっちから自分が来たかさえ、もはや分からない。
喉が渇きすぎて、お腹が空きすぎて動けなくなったらどうなるのだろう。
死ぬこともできず、意識だけ保ったままこの窪地に倒れ伏すことになるのだろうか。
それは、もしかしたら死よりも残酷な末路になるのかもしれなかった。
まずは動けるうちに水を探さないと。
そう思い立って、なんとか体を起こして崖を登り、窪地を抜け出した。
遭難時の鉄則として、山の上に上る、という教えがあったが、それは救助や下山を目的としたものだったはずだ。
水を探すのであれば、低地を探すべきと考え、身を屈めて歩きながら、低い方へと進んで行く。
しばらく進むと、周囲よりも低い窪地にたどり着いた。
そこに水はなかった。
もっと酷いことに、そこは先ほど崖から転がり落ちて、たどり着いた窪地で、自分の足跡がまだくっきりと地面に残っていた。
どうやらグルグルと回っているうちに、スタート地点に戻ってきてしまったらしい。
「あ~~!なんでええ~~~!」
思わず頭を抱えて、大声を出してしまった。
声を発してから、それがモンスター達を引き寄せかねないことに気が付いて、ゾッとした。
ここは窪地で、逃げ道はない。
そして、すでに遠くから赤い炎が揺らめきながら近づいてきていた。
「来るなら来い!」
腹をくくったわたしは、両手を高く掲げて精いっぱいの威嚇をしながら、迫り来る怪物と真正面から向き合う覚悟を決めた。
すでに脱水でフラフラだったが、もはや、戦うしか生き抜く道はないのだ。
「迷子の妖精か獣人かと思ったら、幽霊かよ……。それ何してるんだ?幽霊の儀式か?」
やってきた怪物は思いのほか言葉が通じた。
というか、よく見ればキャラクターとして普通に見覚えのある顔だった。
全身を火に包まれた炎の大精霊、イフリートが訝し気な顔をして、こちらを上から覗き込んでいた。