幽霊沼に辿り着いて2日目、わたしは兼ねてからの計画通り、自宅を離れて沼の奥へと突き進んでいた。
理由はいくつかある。
1つ目は食料。リムがくれたマカロンがそろそろなくなるため、代わりの食べ物を探しに行きたかったからだ。
2つ目は来客。一癖も二癖もある幽霊たちが、新人の顔を見ようと未だに自宅へやってきており、鉢合わせないように家を離れたかった。
3つ目は単なる好奇心。シェイディやリム、アリスらと顔を合わせたものの、彼女たちが住む家の場所すら分からないくらい幽霊沼の地理に疎く、少しでも土地勘を得て、困ったときに訪問できるようにしておきたかったからだ。
とはいえ、その沼の移動には多くの困難があった。
他の幽霊たちは宙に浮いたり、場合によっては空間を跳躍して好きに沼を行き来しているが、わたしにはそれができない。
必然的に沼地の合間の比較的固い地面を探して、迷路を歩くように彷徨いながら進んで行く必要があり、少し進むだけでもとんでもない時間が掛かってしまっていた。
さらに、沼地の景色はどこに行っても同じようなもので、しかも霧が掛かっていて遠くが見通せない。そうなると、土地勘がないわたしはすぐに自分の居場所を見失ってしまうのだ。
そして実際、今すでにわたしは自宅への帰り道を見失い、迷子になっていた。
幽霊の癖に、自分たちの棲家である幽霊沼で遭難している自分が恥ずかしい。
しかし、幸いなことに、以前に遭難した森とは異なり、ここには多くの住民がいるはずで、気軽に同族に助けを呼べるのが僅かな救いだった。
「お~~~い!だれかぁ~~!」
遠くの廃屋に人影が見えた気がして、わたしは手を振って助けを求めた。
「………クスクス」
返ってきたのは、小さな笑い声だけだった。
遭難2日目。
とうとうおやつ代わりに持っていたマカロンが尽きてしまう。
それ以前に、拾ったペットボトルに詰めていた水もすでに飲み切っており、渇きの方が先に限界となっていた。
遠くでまた笑い声が聞こえる。
「ねぇ!笑ってないでこっちに来てよ!」
偶に遠くに見える人影に掠れた声を掛けるも、帰ってくるのは笑い声だけ。
相変わらず霧が深く、遠くの木々や廃屋、さらに遠くの世界樹も見通せない。
もう脚は動かない、わたしは沼地の柔らかい土の上に倒れ込み、せめて雨が降ってくれることを願った。
遭難5日目。
ようやく雨が降った。
ここが地球であればとっくに脱水で死に至っていたと思うが、流石エーリアス、『死』どころか『週末農場』に行くこともなく、わたしは耐えている。
いや、耐えてしまっているというのが正しいかもしれない。
「リム様ぁ………シェイディ様ぁ………助けてぇ……」
わたしの異変に気が付いて、助けに来てくれるかもしれない数少ないエーリアスの住人に、小さな声を上げて救助を求める。
泥が混じった水を飲むと、皮肉にも少し体力が戻ってしまい、直前まで感じていなかった空腹でお腹がキリキリし始めた。
遭難40日目。
久しぶりの雨。
水は飲みたくない。
飲むとぽやぽやした意識がしっかりしてしまうから。
わたしはもう、ただの泥として沼地に沈みたい。
でも、わたしの中に残った僅かな人間性が水を求めて口が動いてしまい、冷たい水が喉を潤した。
遭難100日目。
どうして日数も数えていないのに、遭難からの経過日数が分かるんだろう。
経過日数が文字として頭の中に浮かび、わたしに遭難の長さ、苦難の長さを伝えていた。
最近、あまり空腹で困らなくなった。
そう、わたしは泥を食べればいいことに気が付いたのだ。
美味しいチョコレートだと思って泥を飲み込むと、甘さが口いっぱいに広がった。
胃の中が常に泥でいっぱいになっており全然お腹が空かない。
ドロドロのチョコレート。泥だけに……ふふっ……。
「クゥッ……リムみたいなこと考えないでよ!夢の中が寒くなるでしょ!」
遠くで誰かが何か叫んでいたが、わたしを助けに来てくれる気配はなかった。
遭難1000日目。
いや、時間の進み方がおかしい。
なんで100日目の次が1000日目なんだろう。
それに、いくら幽霊沼が特殊な環境とはいえ、ここまで誰も近くを通りかからないのはおかしい気がする。
まるで悪夢のような状況に、わたしは頭が痛くなった。
悪夢。
悪夢か……。
そういえば、わたしは1人、こんな悪夢を見せるような幽霊を知っている。
「エスピー!!」
まるで空腹や渇きで体力を失っていたのが夢であったかのように、思いがけない大声がわたしの口から飛び出した。
『夢』をテーマにする幽霊、エスピー。彼女であれば、この悪夢のような状況を、悪夢として引き起こすことができるはずだ。
「うぅ……。大声出さないでよ。もしかして、アリスかシェイディ様に聞いて、あたしのこと、もう知っていたの?」
果たして、想定通りの声と共に、仮面を被った少女が近くの木の後ろから現れる。『夢』の幽霊、エスピーがそこにいた。
「うえっ………うえぇぇっ」
エスピーに文句を言おうと口を開けると、お腹に入れた泥が存在を主張して、わたしは吐き出してしまった。
「うえぇ……それやめてよ……泥喰い配信なんてもう見たくない………もう!なんで泥なんて食べるの?!こんな酷い夢、妖精王国の女王以来よ!」
抗議の声以上に効果的だったのか、吐き出される泥を見て、エスピーが口を抑えて悶絶する。
全てが夢であったことに胸を撫で下ろしながら、想像以上のエスピーの苦しみようを見ていると、怒りの気持ちは少し和らいだ。
とはいえ、さっさとこんな悪夢は後にしたい。
「どうでもいいから、早く起こして」
少し苛立ちを込めて、尋ねると、エスピーが困った顔をした。
「そもそも、あんたが勝手にあたしの家に近づいて、眠り罠を踏んだんでしょ。しばらく眠りこけたままだから、すぐには起きられないわよ」
エスピーは小さな声で呟いたが、その言葉に嘘はなさそうだった。
「もう少しまともな夢にはできない?」
とりあえず、感覚上は1000日近く見続けた、深い霧に覆われた沼地の光景にわたしは嫌気がさしており、エスピーに頼み込む。
「あたしは夢に入り込むのと、ちょっと干渉することしかできないの!だから夢を根底から変えたいのなら、あんたが頑張るしかないのよ。それよりも、沼の外でシェイディ様を驚かせるようなショーをしたって本当?それにこんなふうに夢を見るなんて、あんた本当に幽霊なの?」
エスピーはわたしのお願いを適当に流して、好き勝手に自分の質問を連続してぶつけてくる。
その態度にムカッとしてきたこともあり、わたしはエスピーと目を合わせることで、エルフ達にしたように、自分の力で何か仕返しをしてやれないかと考えてしまった。
「………っ……何かしてる?…………なんか、心地いい、懐かしい感覚だけど………」
しばらく目を合わせていたものの、エスピーからの反応は芳しくない。
それどころか、わたしを新米と舐めた態度になり、エスピーは続けた。
「はぁ、産まれたばかりだから分からないかもしれないけど、あたし達同士だと普通は能力がほとんど通じないの。まあ、これで同じ幽霊だってことは分かったけど、こんなのでどうやってパニックを引き起こせたのよ……」
馬鹿にしたような態度とは裏腹に、エスピーの声音は少しずつ、優しくなりつつあった。
「しょうがないわね。要望通り、少し夢の世界を明るくしてあげるわよ」
エスピーの言葉通り、突然沼地を覆っていた霧が晴れ、日光が差し込んできた。
思わず目を見開いたわたしの視界には、遠くの世界樹の枝さえ、しっかりと見えていた。
「でもその代わりに、またあんたの夢を覗きに行くわよ。近場にこんな夢の供給源ができるなんて、それこそ夢のようじゃない!」
クスクスと笑うエスピーの向こうで、遠くの世界樹の枝がわたしを見ていた。
捻じ曲がった枝には複数の目があった。
その眼がわたしを不思議そうに見つめている。
「あれ?あんた何を見てるの?」
肩越しにその先を見つめるわたしへ、エスピーが声を掛けた。
わたしは目を逸らして、エスピーの顔へと視線を戻したいのに、抗えない強い力に拒まれていた。
巨大な木の幹が、枝が、葉が、わたしと見つめ合う。
驚愕、歓喜、動揺、懐疑、複雑に混ざり合った感情が、視線の先に浮かんでいる。
「……ぁ………ぁあ………!?」
思わず漏れた声はわたしのものか、エスピーのものか、分からなかった。
わたしは何とか視線を世界樹から外すが、その先にも同じように、何百という目があった。
ああ、空に、地面に、沼に、遠くの山にさえ、こちらを見つめる目があるのだ。
そう、この世界はすべて、その影響を受けていないものなど一つもない。
わたしはそれを理解し、観念して、視線を沼の向こうに佇む巨大な木に戻すも、その目に浮かんでいた感情の大部分は、気が付けば失望に変わっていた。
失望……、そうか、失望か……。
わたしがわたしじゃなくなったような感覚の中で、その感情を噛みしめると、体内のどこかで悲しみが湧いてきた。
勝手に産み落とされて、失望されたなにかが、わたしの中で涙を流していた。
「ぎゃぁぁあああぁぁぁっ!何よあれ!」
目の前のエスピーの悲鳴が、まるで遠くで上がっているように、掠れて聞こえる。
突然夢の形が崩れ、沼地の泥が持ち上がり、わたしを包み込んでいった。
狭い場所にわたしは閉じ込められていた。
木の幹のようなゴツゴツとした壁が、身動きできない位にわたしを圧迫している。
しかし、不思議と恐怖や不快感はなく、むしろ、壁から伝わる暖かさが、わたしを微睡みに誘っていた。
ぼーっと前を眺めていると、壁に浮かんだ目のうちの1つがわたしを見つめ返してくる。
その目には慈愛と期待の感情が浮かんでいるように見えた。
そこで目が覚めた。
「夢?ここはまだ夢!?」
エスピーが叫びながらわたしの肩を掴んで揺さぶっている。
気が付けば周りはただの沼地に戻っており、すぐ目の前にはエスピーの自宅らしい、古びた家が建っていた。
寝起きの時点ですでに一部がおぼろげになった夢の記憶を整理しつつ、わたしは体を起こす。
「どうかな?何か食べたら、思い出すかも」
わたしは悪夢の意趣返しも兼ねて、エスピーに意地悪な要求を突きつけることにした。