今日、わたしは幽霊の沼に住居を構えてから初めて、外の世界に足を踏み出した。
目的地はエーリアスにそびえたつ精霊の山。流石に登頂までは目指さないが、その中腹の湖、そして、可能であればその先の洞窟の中まで到達したいと考えていた。
幽霊の沼から精霊の山までは、近いようで遠い。間に広がる森は言わずもがな、山の斜面もまた、自由に飛ぶこともワープすることもできない私には重い障害として立ちふさがるだろう。
それでも、ここで足を踏み出さなければいつまでも何もできないままになってしまう――その想いを胸に私は決意を固め、家からの一歩を踏み出したのだ。
そして今、私は山の裾野に広がる森の中で、現在地を見失い迷っていた。
端的に言えば、これは遭難かもしれない。
しかし、以前の森における遭難とは状況が大きく異なる。同じ『遭難』であっても、その実態には大きな隔たりがあるはずだ。
わたしの肩に掛かったリュックの中には、水やロープ、非常食、ブランケットなどが詰まっており、旅路が数日伸びても大丈夫なように備えてある。腰に下げた拳銃は不良品なのか全く稼働しないが、それでも脅しや投擲物代わりの武器にはなるだろう。
そういった装備面の差異から、以前の遭難ほど心細さはなかった。
とはいえ、想像よりも時間が掛かっていることは望ましいことではない。すでに日は傾き始めており、そろそろ行動を控えるべきだろう。わたしとしても、夜の森の厄介さは十分に理解しているつもりだった。
夜を明かすために、わたしはロープを使って木の上に身体を固定する。こういう時、万が一の転落死の心配をせずに済む、エーリアスの住民としての最低限の特性はありがたい。
電気式のランタンに灯りをともし、冷えたお茶に口を浸すと、夕闇の向こうに、天を覆う世界樹が大きく浮かび上がっていた。
「綺麗だな………」
最近、幽霊の沼に引き籠っていたせいか、久しぶりにしっかりと世界樹の姿を拝んだ気がする。
ファンタジーの世界のような超常の光景を目に焼き付けるうち、歩き疲れていたせいか、急激な眠気に襲われた。
翌日、日が昇り始めてすぐに登山を再開すると、びっくりするほどあっさりと精霊の山の湖に到達した。出発前、木の上から進めべき方向を確認できていたことに加え、頂上に近づくにつれ減少する木の密度が原因だろう。
エーリアスの精霊には4人の大精霊がおり、その内の1人が、この精霊の湖にいるはずだ。比較的話の通じやすい水の大精霊に話を通して、目的の大精霊のいる洞窟に案内してもらう、というのがわたしの本命の計画だった。
「ナ……ナイア様~~?」
『トリッカル』であれば、だいたい湖の傍にいるとナイアは出てくるのだが、声を掛けても、その姿は全く現れない。
都合悪く、何処かに出かけているのだろうか。
しょうがない。わたしは次善の策として直接洞窟を探すことを決意する。
幸いなことに、今回の登山の目的はナイアではなく、別の大精霊にあった。
火の大精霊、イフリート。気難しい相手なので、本来なら進んで関わりを持ちたいとは思わないはずだが、私には個人的に会って話したい理由がある。
エーリアスに迷い込んだその夜、心細い状況で助けてくれたのがイフリートであることも、いつか御礼をすると伝えたこともわたしは忘れていなかった。
わたしのリュックの中にはサバイバルグッズに加えて、イフリートが喜んでくれるかもしれない段ボールを纏めた燃料の塊がある。これを渡すことが、今回のわたしの旅の目的の一つであった。
洞窟の場所はまだ分からないが、幸いなことに、わたしの周辺には徐々に火や水の精霊が集まってきていた。
彼女たちに聞けば、すぐに場所を教えてもらえるだろう。
「あの……洞窟の―――」
「「「……………!!」」」
わたしが声を掛けようとした瞬間、精霊たちが無言で、四方八方に逃げ去った。
最近、同族だらけの沼の生活に慣れ過ぎて、エーリアスにおける幽霊の悪名を舐めていたのかもしれない。
「幽霊が何をしに来たんだ!?」
逃げなかった精霊もいたが、むしろ敵意を向けられており、話にならない。
炎を纏う火の精霊に凄まれては、戦う力を持たないわたしに、これ以上強気で歩み寄る勇気など出なかった。
「ふ~ん。悪戯しに来た感じじゃないみたいだけど。今はあまり山に近づかないほうがいいよ」
声に気が付いて振り返ると、水の大精霊、ナイアが不敵に笑みを浮かべながら湖の水面に顔を浮かばせていた。
「「ナイア様!」」
わたしから距離を取っていた水の精霊たちが、ナイアの傍に逃げていく。
ナイアは湖から浮かんで、わたしの方に歩み寄った。
「私と遊びに来たって言うなら、別にいいけどね!」
ぴゅーぴゅーと水鉄砲で宙に水を放ちながら、ナイアは言った。
「うんうん、サヤはイフリートに会いたいんだね!それは危ないかも!」
警戒を続ける精霊たちの中心で、わたしと向き合ったナイアはそう言った。
「危ない!?」
他種族に対して厳しいイフリートに関する感想として、分からなくもないが、しかし、危ないとまで言うものだろうか。
「今、イフリートはシーラと会っているんだよ。でも、最近のシーラはなんかピリピリしていて、精霊以外は会わない方がいい気がするんだ」
少し顔を曇らせながら、ナイアは言った。風の大精霊シーラが、少し神経質になっているらしい。確かにそんな状況で、精霊と敵対的な幽霊が近づいては余計なトラブルが起きるかもしれない。
まだ未来の話だとは思うが、『トリッカル』のストーリーでも、幽霊のトップであるシェイディに煽られ、シーラはエルフとトラブルを起こした挙句、幽霊の沼に殴りこんでくるはずだ。逆に、そうなる前に顔つなぎをしておきたかったが、ここで精霊と幽霊の衝突を起こす訳にはいかない。
「イフリート様は、会っても大丈夫ですよね?」
「イフリート?大丈夫かな。どんな用事なのか教えてよ!私が今度会ったときに伝えておくよ!」
わたしの質問に、ナイアは喜んで答えてくれた。
素直な相手だと、話が早くて助かる。
「この前、夜に迷子の所を助けてもらったので、お礼の品を持ってきたんです!それを渡しにいこうかと………」
「プレゼント!?幽霊から!?幽霊と仲良しになるなんて、イフリートすごいね!私にはプレゼントないの?!」
一般精霊からの冷淡な対応は想定外だったが、ナイアの押しの強さもそれに劣らず、まさかここまで親密な関係になれるとは思っていなかったため、贈り物など用意していなかった。
「今度は持ってきますね!」
ナイアの眩しいほどの勢いに、思わずタジタジになりながら、わたしはそう答える。
その日、私はコミュ力の高い住人と意外にあっさり仲良くなれること、そして、そのテンションの高さにはついていけないことを学び、深く胸に刻み込んだ。
結局わたしは目的を果たせず、精霊の山から下山することになった。リュックに入ったままの燃料の塊が重く、肩が痛む。
水の大精霊という重要な役回りのナイアと顔見知りになれたのは大収穫。一方で、精霊と幽霊の隔たりを改めて思い知らされたことが、かすかな憂鬱となってわたしの中に残っていた。
とりあえず、他の精霊とトラブルになる前に山を下りてしまおう、その意識を持って、足早に幽霊の沼へと足を進めていく。
結局のところ、わたしが安心してゆっくりと過ごせるのは、幽霊の沼だけなのかもしれない。
はぁ、と吐き出したため息が、静かに山の中に、森の中に広がっていく。
その時、ガサガサ、とわたしの後ろの茂みが揺れた。
慌てて拳銃を投擲武器として構える。そんなわたしに向かって、茂みの向こうから聞いたことのある、特徴的な声が投げ掛けられた。
「幽霊さん、ため息なんてついて、どうしたの?」
声を聞いたわたしの手が、緊張で強張る。まさか、こんな場所で重要なキャラクターに会うとは思っていなかったのだ。
「悩んでいることがあったら、教えて!ウイが幸せにするよ!」
幸か不幸か、いつかは対面できればと考えていた、『トリッカル』における特別な存在、霧雨の精霊、ウイが巨大なカエルに乗って、茂みの向こうから姿を現した。