バロンに絡まれたわたしは、何の反応も示さずに黙り込んでいた。それを見て、自分の脅しがあまり効いていないと焦ったのか、バロンは袖に隠したままの手で沼の奥を指さす。
「沼の王が出てくる前兆だぁ……!」
バロンの手の先で、ブクブクと沼の水面が泡立った。本人の迫真の演技と合わせて、本当に何か巨大なものが浮かび上がってくるかのように感じられる。しかし、泡が出てくる直前、バロンが何かスイッチのようなものを押すのを、わたしは見逃さなかった。
おそらく沼の底にエルフ製の機械か何かが仕込んであるのだろう。本来であれば不気味さを高める演出だったが、詰めの甘さが恐怖を台無しにしていた。
「早く私にお菓子を寄こすのだぁ……誠意が足りないぞぉ……」
まだバレていないつもりなのか、バロンは言葉を重ねる。お菓子の要求をしてはいるが、バロン本人はモナティアムにて財を築いた資産家であり、お金や物には困っていないはずだ。おそらく、新人幽霊であるわたしの噂が遅れて耳に入り、悪戯が通じるか確かめるため、ちょっかいを出しに来たのだろう。
いや、そんなことはどうでもいい。バロンは頻繁にモナティアムを出入りしている幽霊であり、それはつまり、わたしが想いを馳せていた料理の数々を食べることのできる立場にいることを意味していた。上手くお願いすれば、わたしもモナティアムにこっそり連れ込んでもらえるかもしれない。期待感がわたしの中で膨らんでいく。
「うぅ、これは騙されてなさそう。どうしよう……」
長考が過ぎたわたしの前で、バロンはポツリと呟いた。その顔には、先ほどまでの演技がどこへ消えたのか、不安そうな色が浮かんでいる。
「あの……!」
「イヒヒ、今日は帰って出直すよ。コホン。沼地の王がおっしゃるには、今日はお休みの日なのだぁ……!」
手を伸ばし、声を掛けたわたしの前で、バロンは身を翻し、逃げ始めた。慌てて、わたしはその背を追いかける。まだ、わたしのバロンに対する用事は始まってもいなかった。
「ごめん!お願いだから待って!」
「うわ~~っ!来ないでぇ~!」
わたしとバロンの突発的な鬼ごっこで、まず有利を取ったのはわたしの方だった。逃げ慣れてはいるが、追いかけ慣れてはいない、そんなわたしだが、体格の割に足は速い方である。すぐに目の前のバロンに追いつき、その体に手を伸ばした。
まさに服の端に手が届くというその瞬間、バロンの身体がふわりと浮いて、沼の上を飛翔し始める。空を飛ぶことのできないわたしは泥に足を取られて、それ以上追いかけることができず、二人の距離がどんどんと離れていった。
「産まれたばかりの新人の癖にぃ……!」
最期に負け惜しみめいたことを呟くと、バロンの姿が宙で消える。おそらく、幽霊なら誰でもできる空間移動で別の場所に行ったのだろうとわたしは推測したが、詳細は分からない。なぜなら、わたしはそれもできないからだ。
結局、わたしの傍にはいつも食べている美味しくない芋だけが残されて、モナティアムでの美味しい食事への手掛かりは、何処かに失われてしまった。
変な別れ方になってしまったが、わたしはなんとかしてもう一度バロンと接触したかった。とはいえ、自由気ままに空間移動を繰り返し、宙に浮き、壁をすり抜ける幽霊相手に自分から近づくのは難しいだろう。正直、エーリアスに来てから追われることは多くあっても、自分から誰かに近づいていくことはそれほどしてこなかったため、勝手が分からない。
声を掛けてもらうのをまた気ままに待ち、その時に仲良くなれるよう備えておくのが一番のように思えた。もしくは、なんとか幽霊たちの移動手段を身に着けることが必要になるだろう。ただ、これまで一人で練習をしていてできた試しがないため、実現は絶望的に思えてしまう。
「はぁ……」
深いため息をつき、とぼとぼと自宅に帰ると、次の安息の土地を見つけたのか、もうメゾンの姿はなかった。整えられた室内の様子から、最低限の家事だけした後に、飽きて別の所に行ったのだろうと推測できる。
メゾンはいなくなったが、そこには別の幽霊が居座っていた。わたしの帰りを待っていたのか、『夢』の幽霊、エスピーがテーブルに腰掛けながら、手でろうそくを弄んでいる。
「サヤ~。暇なんだけど、何か面白いことない?」
エスピーが仮面の向こうから退屈そうに、帰ってきたばかりのわたしに尋ねる。先ほどの収穫の成果を床に置きながら、わたしは先ほどあった出来事のことを思い浮かべる。
「さっきバロンに会ったけど、逃げられちゃって……」
「またどんくさいことしているのね。すぐに次元を跨いで追いかければいいだけ。簡単でしょ」
わたしの言葉を受けて、興味なさげにエスピーが呟いた。しかし、幽霊特有の移動方法を習得できていないわたしにとっては、簡単なことではないのだ。空間を切り裂いて他者も連れて移動できる幽霊、リムの協力を得て、引率されての空間跳躍を経験したことはあるが、自分がそれをできるようになる気はしなかった。
「エスピー、目の前でちょっとやって見せてくれない?」
「えぇ…?あんたまだ出来ないの?………今日もまた夢を視聴させてもらえるならいいけど」
わたしのお願いに、渋々といった感じでエスピーがテーブルから降りて、宙に浮いた。
「ほら、こう……こんな感じに動くだけ…………難しくないでしょ」
エスピーの足元に異次元への穴が現れ、その姿が吸い込まれるように消える。そして、間髪いれずにわたしの背後に現われた。振り返ったわたしの前で、エスピーは大したことでもないように、肩をすくめる。
真似をするべく、とりあえずわたしもエスピー同様に空間を裂いて、また別の場所に自分が現われることをイメージしてみた。軽く跳ねた後、足元に空間の裂け目が現れる様子を思い浮かべ、目を閉じる。そのまま数秒待ってから目を開くと、残念ながら、わたしの立っている場所は一歩も変わっていなかった。
「ちょっと難しいかもしれない……」
「じゃあこれはどう?こっちの方がみんなもやっているし、簡単かもよ」
わたしの目の前に躍り出たエスピーが、先ほどのバロンのようにふっと姿を消す。
どこに行ったのかとキョロキョロ見渡すわたしの足元から、エスピーが飛び出した。
「まあ、こんなものね」
仮面の位置を微調整しながら、エスピーが淡々と呟く。もう一度、エスピーの真似をしようと、わたしは目を瞑った後、自分が別の場所に移動することを考えながら、体に力を込めた。
「できないんだけど……」
「クスクス、なにその変な顔?」
エスピーがわたしを見て笑う。こちらは真剣にやっているというのに!
「もう、仮面の下に触らないでよ!」
怒りに任せて仮面の裏から覗くモチモチした頬を引っ張ると、エスピーは抗議の声を上げた。
「こんなことしていてもつまらないし、早く寝て。あたしは夢を見に来たんだから!サヤも面白い夢が見られるかもよ」
「まだ昼でしょ。せめて夜に来てよ……」
自分勝手にエスピーがわたしをソファベッドに引っ張り始めたが、流石に寝るには早すぎる。眠気もないし、この流れだとエスピーに悪夢を見せられて中途半端な睡眠時間で目覚めるだけだろう。結局、ワープの練習には何の役にも立たなかったエスピーを無理やり追い出すと、室内に平和が戻った。
これからどうしようか。悩むわたしの脳裏には、エスピー以上に亜空間を使った移動に詳しい幽霊の姿が思い浮かんでいた。