「こんにちは」
古びた塔の扉をわたしがノックすると、目当ての幽霊が顔を出した。
「こんにちワッフル……」
『秩序』の幽霊リムが、今日も定番の少し寒いギャグでわたしを出迎える。
幽霊の中でも古参の二人、シェイディとリムは他人を亜空間に連れ込み、自由に移動できるくらいには空間移動の技量が高い。シェイディとは異なりねぐらも分かるリムなら、幽霊の移動技術を上手く教えてくれるのではないかとわたしは期待していた。
「急にすみません」
「大丈夫です。また食べ物が足りなくなりましたか?」
幽霊の沼に住み始めてしばらく、食糧不足で度々お世話になっていたせいか、リムの口から最初に出たのは空腹への心配の言葉だった。
幽霊の中でわたしがもっともお世話になっているのが、リムである。周囲に寄りつく幽霊が少ないせいか、リムは自身を避けないわたしをよく気にかけてくれていた。それも、教えを乞うにあたり、リムを選んだ理由である。シェイディの方だと、亜空間に叩きこまれて自力で脱出できるようになるまで放置される、そんな雑な扱いをされかねないので怖かった。
「いえ、食料は大丈夫です。今日はリム様とお話ができればと思って来ました」
わたしがちょこんと頭を下げると、リムはふっと顔を緩ませて微笑んだ。幽霊の沼とは思えない、常識的で温かいやり取りがそこにあった。
「サヤが自分から来てくれてうれしいです。今日はチョコがなくて、ちょこっと寂しい、そんな気分だったので……」
リムの言葉と共に、部屋の温度が少し下がり、わたしは防寒用に持ってきていた毛布を体に巻き付ける。急に変なダジャレを混ぜてくる癖さえなければ、リムは幽霊の師匠として完璧なのに。しかも、リムの寒いギャグは、本当に室温を下げる特異性を持っているから、困ってしまう。わたしはそんなことを考えながら、本題を口に出す。
「今日はわたしの体質のことで相談したくて……」
「体質……ですか」
わたしの言葉に、リムは真剣な目になった。
「とりあえず、まずは腰掛けて」
リムに促されるままに、わたしはテーブルの前の椅子に座る。いつものように紅茶がカップに注ぎこまれ、わたしに提供された。湯気とともに豊かな香りが立ちのぼり、部屋の空気が静かに落ち着いていく。
「あの……亜空間を使った移動や浮遊、壁の通り抜けを教えてもらえませんか?」
「それは……うーん……まあ……そうですね」
わたしのお願いに、てっきりいつものように快諾してくれると思っていたのだが、リムは渋い顔をしていた。
「自然に出来るようになるのを待つ方が良いと思います」
最終的にリムが発した言葉は、実質的にわたしの依頼を断るものだった。自然のままでいて、できるようになる気がしないから尋ねることにしたのに。そのわたしの不満が伝わってしまったのか、リムは少し困った顔をした。
「わたし達は幽霊、闇ノ精霊、エーリアスに深く関わる存在です。あなたの幽霊としてのテーマが何にせよ、亜空間に潜れないと本能が言っているのであれば、それに従うべきだと思います」
リムは優しくわたしに語りかける。
「そうは言われても……この沼ではみんな出来ていることですよ!」
「本当に問題ないのであれば、自然に出来るようになるはずです。……ごめんなさい。『秩序』の幽霊として、あなたのテーマに反する行動となり、不測の事態が起こりかねないことには協力できません」
まるで固く重い岩を押しているかのように、リムは頑なに考えを変えようとしなかった。声音は優しくても、そこには明確な拒絶があった。幽霊、いや闇ノ精霊としての自負があるためか、時々リムは堅苦しすぎる態度をとることがある。それがシェイディとの対立を生み、ひいては幽霊の沼での孤立に繋がった原因の一つだと、わたしは知っている。
「私と反対のシェイディならあるいは………いえ、絶対にロクでもないことになるので、彼女に頼るのはやめてください」
落ち込んでいるわたしを見ていられなかったのか、リムはポツリと呟いたが、慌ててその言葉を撤回した。わたしとしても、シェイディに頼る危険性を理解しているが故にその選択肢は取りたくない。あくまで、リムが相手だからこそ、教えて欲しかったのだ。
「分かりました」
完全に納得がいったわけではないが、表面上、わたしは彼女の意見を受け入れた。
「力になれなくて本当にごめんなさい」
目を伏せたリムの表情は不安に曇っている。もしかしたら、こういった堅苦しい対応の末に、周りから同族がいなくなっていったのかもしれない。わたしもこれで距離を取るようになると思われているのであれば、心外だ。わたしにとって、まともに会話とお茶を楽しめるご近所さんはリムしかいないのに。
「
また来ることを強調してわたしが返事をすると、安心したのか、リムの表情が穏やかになった。
「サヤの方こそ、移動が大変な時はいつでも頼ってください!ヤバイの
元気を取り戻せたのか、リムは愛用の鎌であるヤバイを振りながら、寒々しい冗談で場の温度を下げた。ちなみに、リムの孤立のもう一つの原因は、この癖の強い冗談にあったはずだ。わたしにとってはそこまで気にすることではなかったが、他の幽霊たちにとっては許せないレベルでつまらないらしい。
「頼りたい時は便りを出すので、その時はお願いします」
心強い協力の申し出に、わたしは顔をほころばせ、お礼の言葉を返した。
「頼りと便り……プフッ!サヤも成長しましたね。とても嬉しいです」
そんなつもりではなかったのに、わたしの言葉からギャグを読み取って、リムが吹き出す。どうにもリムと一緒に居ると癖がうつりがちで困ってしまう。
その後は、暖かい紅茶で体を温めながら、リムの新作ダジャレを聞いて体温を下げるという行為を繰り返しながら、お茶会を楽しむことができた。
自身の家に帰った直後、わたしは壁に手を付いて、再び空間移動の特訓を始めていた。
リムが作ってくれた空間の裂け目により、目を瞬く間もなく、お茶会の会場から自宅に帰還できるのはありがたい。しかし、一瞬で長距離の移動ができるその快適さを味わってしまうと、やはりどうしても、幽霊の移動技術の習得を諦められなかった。
リムの案内で潜り抜けたばかりの亜空間の感触を頼りに、わたしは脳内で自身の身体から周辺へと知覚を広げていく。同族である幽霊たちは空間移動を、東西方向に0.4光年などと説明しているが、わたしにはその表現がまったく理解できない。それでも、感覚を集中すれば何か分かるのではないか、そのような期待がわたしの中にはあった。
鋭くなった聴覚が、室内の誰かの衣擦れの音を拾い、わたしは目を開けて振り返る。
「エスピーから聞いたけど、本当に面白いことをしているじゃない」
猫型の椅子に乗りながら、アリスがふわふわと室内に浮かんでいた。騒々しい幽霊沼での生活の中でも、今日は特に来客が多い日のようだ。一瞬、アリスを追い出そうかとも思ったが、幽霊の先輩である彼女なら、わたしに何かアドバイスをくれるかもしれないと思い直した。
「せめて壁の通り抜けくらいはできるようになりたいんだけど、アドバイスはある?」
「アドバイス~!?私たちなら出来て当然のことに助言なんてできないわよ」
わたしの質問にアリスは笑いながら言う。アリスの小さな手の平の上で、自作のタロットカードがパタパタと音を立てていた。
「でも、占いの結果、今日ここで大きな事件が起きると知って私が来たんだから、何も起きないわけがないわよ!」
自身の占いの結果に相当の自信があるのか、アリスは胸を張って言い切る。『運命』の幽霊として、アリスの占いは、真実を示す予知となる可能性が高いあるはずだ。その言葉には一定の信憑性があった。しかし、ただの悪戯で、大したことのないことを大事件と言い張っていたり、アリス自身が事件を起こして占いの結果を真実にしてくる恐れもある。
「じゃあ、邪魔しないでね」
わたしは声と共に警戒の視線をアリスに投げ掛けて、再び、壁の通り抜けや浮遊、空間移動の練習に没頭し始めた。
「そう、いい感じ。あとは0.1光年だけでもいいから前に進んで!」
アリスがわたしに鋭く指示を出す。最初の頃は黙って見ていたアリスだが、退屈になってきたのか、当初の約束を破ってわたしに近づき、声を掛け始めた。
「はぁ~。違う。そっちは東。東西に進んでって言ったでしょ!」
アリスの大声が小屋に響く。正直、追い出しても良い状況ではあったが、わたしは素直にその指示に従っていた。理由は簡単で、アリスの言うことを聞き続けるうちに、徐々にコツを掴めるようになったからだ。わたしは通常の方位とは別に、アリスの言葉通り、相反する東西などの言葉で表現可能な空間の軸が把握できるようになりつつあった。
「あぁ~………」
今日は色々な出来事があったせいか、疲れで頭が回らず、わたしの口からうめき声が漏れる。
もしかすると、コツを掴んでいるというのも、疲れによる妄想なのかもしれない。それでも、これまでで一番強く掴めた感覚にわたしは縋るしかなかった。人間だった頃には、体験したこともない、実現することもできなかった現象が、わたしの手の中に握りしめられている。
一瞬、ズキっと頭に痛みが走った。
何故か、リムによる、幽霊としての本能に逆らわない方がいい、という言葉が脳裏をよぎった。でも、わたしの、『人間』の幽霊としての本能は……どちらなのだろう。人間なのか、幽霊なのか。
「上手い上手い、あとちょっとよ!」
意外と面倒見がよいのか、それとも自分の占いの結果を的中させたいのか、アリスが優しくわたしを応援してくれる。空間移動が出来るようになったら、バロンを掴まえてモナティアムにこっそり行こう。行って、人間時代に食べていたハンバーガーやラーメンなどを食べるのだ。
目標を定めると、堰き止めていた何かがなくなったかのように、わたしの知覚が広がった。しかし、乱雑な情報の波に頭の中が埋め尽くされて、わたしは呆然と立ち尽くすことしかできない。
「はぁ~、じれったいわね。ほら、こっち!」
アリスが大きな声で呼びかけながら、わたしの手をぎゅっと握り、勢いよく引っ張った。突然の行動にバランスを崩したわたしはよろめき、そのまま倒れ込む。家具などに頭をぶつけるのではないかという恐怖から、私は思わず目を瞑った。
覚悟していた衝撃は、訪れなかった。
わたしが目を開けると、頭上には赤くきれいな夕焼けが広がっていた。顔を水平に向けると、自宅の苔むした外壁が目に入る。わたしはいつの間に外に出ていたのだろう。
続いて、
「ほら、やればできるじゃない!………大したことなさそうだけど、これが占いで出た大きな事件ってことでいいのかしら?」
アリスの言葉を聞き、自分も他の同族のように壁をすり抜けることができたのだと遅れて気づいた。どことなく現実感のない状況に、わたしの身体は強張っていたが、徐々に思うように動き始める。今なら、宙に浮こうと思えばできる気がしていた。
アリスに向かって飛び跳ねると、そのまま浮遊して、足と地面がくっつくことはなくなった。
「アリス!ありがとね!」
宙に浮かぶアリスに抱き着いて感謝を伝える。生まれ変わったような全能感がわたしを包み込んでおり、クスクスとわたしは空中で笑い転げる。重いしがらみが全てなくなったようだった。
気持ち悪い。
思わず吐き気がして―――、吐き気ってなんだろう。
わたしの身体には何の異常もないのに、何か大事な感覚が抜け落ちているような気がしてならない。あるはずのものが、そこにはなかった。
冷静に考えよう。そもそもわたしはさっきまで何をしていたのか。空間移動や壁を通り抜ける練習をしていた。それはバロンに撒かれたことをきっかけに始めたものであり、バロンを追いかけていたのは、モナティアムで人間の食べ物を味わうため。そのはずであり、そこに情報の欠落はない。
本当に?
「大丈夫?」
挙動不審なわたしを気にしたのか、アリスが心配そうに尋ねてきた。
「大丈夫じゃない。気分が悪い……」
「気分が悪い……?さっきまでと比べても元気そうに見えるけど」
わたしの言葉に、アリスが首を傾げる。
アリスの感想は当然のものだった。わたしは気分が悪そうに振舞えていない。どうすれば気分が悪い様子を表現できるのか分からないのだから、そのように振舞うことができるはずがない。お腹を空かせること、眠くなること、人間らしく生きること。すべてを本能が切望するのに、やり方が分からない。先ほどまで出来ていたはずの人間の演技が、まるで出来なくなっていた。おそらく、他の同族以上に。
そういえば、リム様は無理して幽霊の移動方法を学ぶ必要はないと言っていたはずだ。どうしてわたしはそれを守っていないんだろう。味も分からないハンバーガーやラーメンといった人間の料理に、『人間性』の幽霊として興味はあるが、そこまで情熱を注ぐようなことだったのだろうか。
ようやく、わたしは自分が何をしでかしたのか、うっすらと理解し始めていた。可能な限り『人間』らしく振舞うのがわたしのテーマなのに、何故かそれを自分で否定してしまい、自己矛盾で壊れつつあった。そしてその過程で、大事な宝物を家の中に置いてきてしまったのだ。
「壁の向こうに戻らないと……」
わたしが震え声で呟いたそれは、確信を持っての解決策ではなかった。それでも、わたしの本能が、まだやり直せること、そして大事なものが壁の向こうに置き去りにされていることを告げていた。戻ればまだ、失くしたものを取り戻せるかもしれない。
わたしは亜空間をこじ開けて最短距離で、壁の向こう、家の中に飛び込んだ。
「すぅ~~~~、はぁ~~~~~」
家の中に飛び込んで、わたしが最初にしたことは、呼吸だった。信じられないことに、壁を抜けて向こうに転がり出てから、一回も呼吸をしておらず、それを不思議にすら思っていなかったのだから恐ろしい。
次に吐き気と、冷や汗の感覚がわたしを襲った。それも、先ほどまでは感覚として思い出すことすらできなかったものだった。『人間』の幽霊として、大事な感覚を取り戻せたことに、わたしは安堵する。
最後に、わたしが元々人間であったことを思い出すことができた。先ほどとは異なり、エーリアスではまだ口にしたこともない食べ物の味も、『トリッカル』のことも思い出せる。
何が起こったのか、わたしには完全に理解できたわけではないが、『人間』の幽霊としても、元人間の転生者としても、空間転移や壁抜けなどは重大な問題を引きこすことだけは把握できた。
「急にどうしたの!?何か面白い事件でも起こりそう!?」
壁を通り抜けて家に飛び込んできたアリスを見て、わたしは苦笑するしかない。先ほどのそれは私にとって紛れもない大事件だったが、うまく説明する言葉を持ち合わせていなかった。
この、小さな体の中に同居するテーマも記憶も知識も、あまりに不安定だ。下手なことをすれば自我が吹き飛び、意識の連続性が途絶えかねないというのに、幽霊としての本能が薄いらしいわたしにはタブーとなる行為がはっきりとは分からない。そんな状況をどう説明しろと言うのだ。
酸欠でズキズキと痛む頭を抱えながら、わたしはもう二度と、自分の意志で人間らしくない幽霊の移動手段を実行しないと心に決めた。
プロット上は中編の折り返し地点まで来れました
増えた分を補正するのであれば全四章の二章分くらいでしょうか
思っていたよりも長くなってしまい、更新もちょくちょく不安定になる中、お付き合い頂きありがとうございます
幽霊周りを書くにあたっては、基本的にスピッキーとリムの描写や説明を参考にしていますが、それでも妄想交じりの設定が入ってしまっている状態ですね
そのあたりがノイズになっていたら申し訳ない……
ちなみに、今回ちょっとその片鱗を出しましたが、普段から「人間を装っている幽霊としての自我」と「肉体を失った人間としての自我」が混ざり合っているので、主人公の自己認識はグチャグチャです。そんな状況でも頑張って、エーリアスの中で自己認識を確立し、自己同一性を再構築していく様子を見守ってもらえると嬉しいです
あとは主題であるで魅力的なトリッカルのキャラ(使徒)と世界観を、そのストーリー中でちゃんと出していけると良いのですが……