―――がうるさい。
まるでモナティアムのような街並みを行き交い、あるいは足を止める数多の人影が視界に映る。
わたしはどうやら仰向けに横たわっているらしい。
ビルの合間からは、青い空とうっすらと昼間の月が見える。
エルフにしては大きな人影。
ということは、ここは地球か。
手を宙に掲げると、五本の指が目に入った。
赤黒いものが付いた人間の手。
クラクションの音がうるさい。
わたしはこの音が苦手だ。
モナティアムで聴いた時は動揺して、足が上手く動かなくなってしまったことを思い出した。
もはや忘れ果てていた記憶が、わたしの脳裏で蘇り始める。
さきほどわたしが突き飛ばした女の人は無事だろうか。
トラックに轢かれずに済んでいるといいけれど。
クラクションの音が鳴り続けている。
わたしの横で壁にぶつかって動かないトラックが、狂ったように警報音を奏で続けていた。
運転席にいたおじさんは大丈夫だろうか。
最後に見た時はこちらに突っ込むトラックの座席の上、急病にでも襲われたのか、前に突っ伏して動かない姿だった。
痛いし、寒い。
トラックに撥ねられたわたしは、もうすぐ週末農場に行くことになるだろうに、現実感がない。
わたしの身体ではないからだろうか。
それとも、わたしでは『死』を理解しきれないからだろうか。
そんな中、人間のわたしは、折角人助けをしてトラックに轢かれたのだから、異世界転生でも出来るんじゃないかとか、呑気なことを考えていた。
いや、呑気なわけではなく、ただの現実逃避なのかもしれない。
わたしにはそういうところがあることを、一か月ほどの人生で、わたしも理解していた。
意識が薄れていく。
完全に視界が闇に染まる直前に、わたしは目を覚ました。
目の前には、小さな窓から朝日が差し込むいつもの自宅の光景が広がっていた。
酷い夢を見た気がする。
部屋を見渡しても、エスピーの姿はない。
ということは、自分で勝手に見た悪夢なのだろう。
一昨日の大事件の影響で、気分は最悪に近かった。だが、さらに辛い記憶まで蘇り、どん底まで落ち込んだ。
幽霊らしく壁をすり抜けるだけで、あんなことになるとは、どう受け止めればいいのだろう。あの短い時間、『人間』の幽霊は乱暴に壁で濾されて、テーマを否定された『人間』の幽霊の残骸と実体のない人間の幽霊に分けられていた。
でも、それぞれが独立して存在できるような、そういう結果にならなかったのは良かったのかもしれない。多重人格にもなり得ない、わたしとわたしが不可分であることの証拠だから。『人間』の幽霊としてのわたしは、最初から持ち合わせていた人間としてのわたしの記憶なしに自己同一性を保てず、テーマの表現も、本能の発露もできないのだろう。
その結果は、わたしが今のままここに居て良いと言ってくれているようで、ありがたかった。
朝ごはんを食べて、一息ついても、わたしは元気がなく、家を出て何かする気になれずにいた。
とはいえ、働かなければ食べていけない。幽霊は元々食事の必要性が薄いものの、その性質に胡座をかいて空腹を放置し続ければ、飢餓の苦しみを味わうのみでなく、先日のような自我の崩壊が起こり始めるのは予想がついていた。
結局、ヒトであることを止めてもなお、わたしはヒトとして生きなければならない。
突然、トントン、と優しく家の扉をノックする音が響いた。
誰だろうと思いつつも、今の気分を変えてくれることを期待して、わたしは扉を開け放つ。そこには、数日前に顔を合わせた無邪気な獣人、バターがいた。
「おはようございます!遊びに来ました!」
幽霊の沼に似つかわしくない明るい純粋な声で、バターがわたしに声を掛ける。
確かに、最後別れた時には遊びに行くと言ってはいたが、本当に来るとは。嬉しさと同時に、危険な幽霊の沼を歩かせてしまったことに罪悪感を覚えた。
「おはよう。えっと、ここに来るまで大丈夫だった?幽霊たちに絡まれなかった?」
「大丈夫でした!村長さまも着いてきてくれましたから!」
尻尾を振りながら楽しげに話すバターの後ろに、一回り大きな人影が寄り添っていることに、わたしは遅れて気が付いた。
大きな鹿の角を揺らしながら、優しげな表情を浮かべたもう1人の獣人が歩み出る。
「まあ、バターが幽霊の友達の家に遊びに行くと言いだすので、送迎役として着いてきただけなんですがねぇ……。初めまして、私はディアナ、獣人の村の長をしているものです」
身体を屈めて、わたしの視線に高さを合わせながらディアナが言った。
「よろしくお願いします。幽霊のサヤです」
わたしがお辞儀すると、ディアナはうっすらと目を開け、こちらを見つめた。
「ふむ……バターが騙されているんじゃないかと疑っていましたが、大丈夫そうですね。何というか、サヤさんは幽霊らしくないように見えますから」
「それは……たまに言われます」
ディアナの言う、幽霊らしくないというのは誉め言葉と受け取っていいのだろうか。そのようなことを考えながら、わたしが返答すると、ディアナは小さく笑った。
「送迎、ということでここまで来ましたが、この沼で遊ぶのはお勧めできません。もしよければ、サヤさんを私たちの村まで招待したいと思いますので、バターとはそちらで遊ぶのはどうでしょうか?」
ディアナはそう言うと、友好的な笑みを浮かべる。今いるここが幽霊以外の種族にとって遊びに向かないのは、わたしも同意見であった。とはいえ、わざわざわたしを招待する理由も分からない。
「んん……実はバターから、以前うちのものが冤罪でサヤさんを追いかけたと聞いていましてねぇ。どこかでお詫びできないかと思っていたんですよ」
ディアナからそこまで聞いて、わたしが最後に獣人の村を訪れたきり、リンゴ泥棒の汚名を着せられたままであったことを思い出した。
「あれは結局、妖精の仕業であると分かりました。なので、お詫びを兼ねて私の家でご飯でもどうでしょう?」
「ありがとうございます!」
食料が枯渇している状況で、渡りに船の提案である。躊躇もせずに、わたしは飛びついた。
「じゃあ、村に着いたら、あたしがゆっくり案内してあげますね!」
バターが大きな声をあげながら、わたしに抱き着き、抱え上げる。そして、ディアナと一緒に、沼の端から森に向かって歩き始めた。
獣人の村の村長宅。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
健康的な野菜料理を味わい終わり、わたしはディアナにお礼を言った。
「美味しそうに食べてくれてうれしいですねぇ……」
ディアナはニコニコしながら呟くと、お皿を片付け始める。格別に美味というほどではなかったが、素材の味が活きており、普段のわたしの食事と比べれば十分に満足できるものばかりだった。
わたしもディアナのように、芋以外の基本的な食材くらいは調達先を確保しよう。そんなことを考えながら立ち上がると、背後に気配を感じた。
「おい!こいつが妖精のスパイか!?」
振り返ったわたしに、大声とともに剣の切っ先が突き立てられる。目の前に居たのは白髪の気の強そうな獣人。その鋭い眼差しが、容赦なくわたしに疑いの矛先を向けていた。
「ティグ!彼女は獣人の村のお客様ですよ…!」
「サヤはあたしの友達です!」
ディアナとバターが即座に否定してくれたものの、目の前の獣人、ティグはわたしに向けた武器を下ろさない。
「また妖精がアニマル缶をバラまいていたぞ!こいつも関係しているんじゃないのか!?」
ティグが大きな声で言った。
アニマル缶はエルフ達が獣人の村にバラまいている怪しい薬入りの缶詰である。一時的に知力が高まる代償に、長期的には知能が低下する、悪辣な薬が含まれている。さらに、獣人の村を混乱させるため、アニマル缶が詰まった箱の表面には妖精の女王のシールが張られており、出所が妖精王国であるかのように偽装されているため、ティグも勘違いしているようだ。
ティグは一人で騒いでいるように見えるが、『トリッカル』の記憶が正しければ、彼女が普段一緒に行動している獣人たち、反アニマル缶戦線を構成している二人のメンバーも近くに居るのではないだろうか。
「隊長!」
「反アニマル缶戦線、突撃なのだ!」
予想通り、暗い色の熊の獣人と明るい色の狐の獣人、ベニーとルポが続けて姿を現した。
「ベニーとルポも!お客様の前ですよ…!」
ディアナが声をあげながら、わたしの目の前の剣を素手で掴んで除ける。
さらに続けて、ディアナはわたしに頭を下げた。
「本当にすみませんねぇ……。こんな感じの子たちで、いつも暴れまわって大変なんですよ」
「今日は決定的な証拠を見つけて、妖精王国に攻め込む日だぞ!そんな日に来たそいつはスパイに決まっているだろ!」
わたし相手に下手に出ているディアナを見て、不満げにティグが叫ぶ。アニマル缶問題への不信感による妖精王国への襲撃。それは、エルフィンランドでクーデターが起きてすらいないこの段階では早すぎるイベントであるはずだ。そもそも、『トリッカル』では教主とエルフィンが来て、襲撃の前に首謀者が妖精王国ではなくモナティアムだとバレて、立ち消えになった話でもある。
「スパイじゃないですよ……」
わたしが両手を上げて降参の姿勢を示すと、ようやくティグは武器をしまった。
「それよりも、またアニマル缶がたくさん配られていたのだ!」
ルポが手一杯に抱えたアニマル缶の箱を示しながら叫んだ。試しに缶を手に取ると、ずっしりとした中身の重さが伝わってきた。
「確かに、そろそろ抗議に行かないといけない頃合いですねぇ」
ディアナが、薄く目を開けてアニマル缶を見つめる。その目線の先には、エルフィンを模ったシールがあった。
「戦いだ!」
剣を振り上げながらティグが叫ぶ。ここで、エルフィンランドが襲撃されるのは望ましくない。しかし、どうしたものか。そんなことを考えながら、箱表面のシールを弄っていると、徐々に剥がれてきてしまった。『トリッカル』から知り得た情報の通り、剥がれたシールの下にはモナティアムの市長、エレナのマークがあった。
「あっ」
剥がれたシールを元に戻せず、思わずわたしの喉がから声が漏れる。
「どうかしましたか?」
一回剥がれて粘着力を失ったせいか、シールはくっつかず、床に落ちてしまった。その様子を見たディアナが身体を屈めて落ちたシールに手を伸ばす。
「これは……?」
シールのエルフィンの顔と、箱に残るエレナの顔をディアナは交互に見比べた。
「なるほど、そういうことですか……。ティグ、私がしばらく調べますから、妖精王国への襲撃は許しませんよ」
何かに納得したかのようにディアナは頷くと、ティグに向き直って諫めた。
もしかすると、頭の回るディアナには、先ほどのわたしの小さなミスだけで、アニマル缶を巡る各種族の関係を見抜かれてしまったのかもしれない。
「どういうことだよ!」
当然、急なディアナの心変わりにティグは大声で抗議する。
「まあまあ……。バターとサヤさんは関係ない話なので、外で遊んできてください。……ティグ、これを見なさい」
そして、部外者であるわたしはバターと一緒に、ディアナに追い出されてしまった。
その後、バターに宣言通り村の案内をしてもらったものの、『トリッカル』ストーリーの今後の動向が気になり、単純に楽しむだけの時間とすることはできなかった。