うっすらと花の匂いが漂う部屋の中央、人間には小さすぎる、しかし今のわたしにとってはキングサイズに相当する、ふかふかのベッドの上でわたしは目を覚ました。新品のシーツの匂いと感触が、心地よい。
「んぅ…………」
エーリアスに来てから、ここまで良質な睡眠を取れたことがあっただろうか。地面や段ボール、自宅の硬いソファベッド、挙句の果てには水銀の池。歴代の寝床が脳裏をよぎる。
いつまでもここに住みたいところだが、今わたしがいるのはエレナが確保してくれたホテルの一室で、今朝のうちに出て行かなくてはならない。一応、ホテルの客室の中でも一番安い部屋らしいが、それでも満足できる一晩だった。
「うぅ………もっと眠りたい………」
寝起きの朧げな意識のなか、わたしはどこか他人を見るように自分を認識していた。わたしはまだ起きたくないらしく、もぞもぞとベッドの上で抵抗している。しかし、起きなければ、幽霊のわたしとしては初めてとなる、ホテルの朝食を味わう機会を逃してしまうのではないだろうか。
「それは嫌かな……」
なら、起きよう。モナティアム有数の高級ホテルとエレナは言っていたが、エシュールの店とこのホテル、どっちのパンが美味しいか、食べ比べてみることにしようじゃないか。
ホテルを後にしたわたしは、立ち並ぶビルの間の大通りを歩き始める。ホテルの朝食でお腹がいっぱいで、少し眠い。こういう時、身体が小さいと得だな。そんなことを思いながら、目的とする場所もなく、わたしは当てもなく歩き続けていた。
久しぶりの都会だったが、人気のない幽霊の沼に慣れてしまったせいで、落ち着かない。
周囲のエルフ達が、わたしを見ているように感じられる。自意識過剰だろうか。しかし、わたしはつい先日まで指名手配されていた幽霊であり、今朝ようやく、市長との間で和解と恩赦のやり取りがあったと報道されたばかりのはずである。きっと、この好奇の視線は、妄想ではないのだろう。
歩くわたしの背後から、一際強い気配を感じた。誰かがわたしに歩み寄ってきている。
「……あの!」
控えめな声で、誰かがわたしを呼び止めた。何処か聞き覚えがあるその声に、わたしは振り返る。
「良かった。ようやく気が付いてくれました」
穏やかな声と共に、髪や服に青い薔薇をあしらい、どこか悲しげで憂いを含んだ面持ちの少女が目に入った。青い薔薇の精霊、ブランセだ。モナティアムに到着した時に別れてからずっとそのままであったが、ついに再会できた。
「ブランセさん?」
「無事でよかったです。ニュースで見た時には驚きましたから……!」
確かに、ブランセには心配をかけてしまったに違いない。わたしをモナティアムに連れてきたのはいいものの、どうしているだろうかと思っている矢先に、市庁舎を襲ったテロリストとして指名手配されたという話が飛び込んできたのだろうから。
連絡を取りたかったが、当時のわたしにはその余裕も、手段もなかったため、これまで再会や釈明は叶わずにいたのだ。
「少し静かな場所に移動しましょう」
ブランセの提案を受けて、わたしは近くの公園へと足を向けた。
「なるほど、それで今は幽霊の沼にお家を………」
近況を話し終えたわたしの前で、ブランセは感情をほとんど見せずに相槌を打った。しかし、目をよく見れば、こちらを心配しているように揺れているのが見て取れる。
「馴染めていますか?変な悪戯で困らされていませんか?余計なお世話かもしれませんが、他の幽霊の方とは性格が違いそうなので、心配です」
ブランセの心配は的を射ており、本当に馴染めているわけでもなく、悪戯に困らされている毎日ではある。とはいえ、互いに好き放題する幽霊たちの間で、馴染む、という言葉は成立しにくい。それが分かる程度には慣れつつあるのも事実であった。
「大丈夫です!住み慣れてきましたし、仲のいい幽霊もいるので」
リムにエスピー、スピッキーあたりを思い浮かべながら、わたしは答える。とはいえ、リムは師匠や保護者のような存在であり、残りの二人はこちらを友達と認識しているのかは怪しいのだが。
「それは良かったです」
穏やかな口調でブランセはそう言った。しかし、言葉とは裏腹に、顔の憂いは深くなったような気がしてならない。
「どうかしましたか?」
「いえ、何も……」
わたしの質問に対して、ブランセは素っ気なく答えた。その意図は表情からは伺えないが、何かを口に出そうとして、止めているのが見てとれる。
そこでわたしは、『トリッカル』において、ブランセ自身が同族に馴染めず、モナティアムに出てきた精霊であることを思い出した。ブランセの複雑な表情は、同類と思っていたわたしが自然と幽霊に混じってしまったことに裏切られたような気持ちを抱きつつも、自身の善性ゆえ、そう思ってしまうことを自己嫌悪しているからなのかもしれない。
それはわたしの完全な妄想に過ぎなかったが、まったくの勘違いというわけでもないのだろう。
「すみません。私は表情を変えるのが苦手で……また困らせてしまいましたね……」
困っているわたしを前に、ブランセが呟いたその言葉には自己嫌悪の色がにじんでいた。わたしとしては、一癖も二癖もあるエーリアスの住民たちの中で、ブランセは話しやすい部類の相手なのだが、彼女自身は自分がそうだと思ってはいないらしい。
「あの……今度、わたしの家に遊びに来ませんか?」
わたしもそこまで社交的な性格とは言えないが、このまま、悲しい感情のままブランセとは別れたくなくて、勇気を出して声をあげた。
「サヤさんのお家に……!?」
「殺風景なので、花とかも育てたくて……アドバイスも欲しいかなって……」
驚くブランセの前で、言い訳じみた来訪の理由付けをわたしは口に出す。
「誰かのお家を訪れるのは、ガヴィア以来ですが……是非行かせて下さい」
ブランセは仲の良い大地の精霊の名前を出しながら、喜びの声をあげた。
「えっと……わたしがお世話になっている方も紹介しますよ」
きっと、リムとブランセは相性が良いのではないだろうか。そんなことを考えながら、わたしはブランセに声をかける。そこでようやく、ブランセはこれまで言おうとして止めていたのであろう言葉を発した。
「もしよろしければ、連絡先の交換をしませんか?」
ブランセの言葉を聞いて、以前に連絡先を貰って以降、使える連絡手段がなく放置していたことをわたしは思い出した。だが、今は違う。おそらくエージェント契約の交渉用だと思われるが、今のわたしはエレナから通信機能付きの携帯端末を借り受けており、文明人らしく電話やメール、さらにはダークネットにアクセスすることさえも可能である。格安契約らしく、不快なぐらい通信速度は遅いが、まあ、それはどうでもいい。
「その……これの使い方と、何が書いてあるか教えてくれませんか?」
わたしは恥を忍んで、ブランセに端末の使い方、特に各表示が何を意味しているか尋ねた。そう、まだ文字が読めない私にはそこまで使いこなせないので、通信速度の問題はあまり関係ないのだ。
時間を掛けてブランセに手伝ってもらいながら、わたしは端末に二人目の連絡先を登録することができた。ちなみに、最初から登録されていた一人目はやはり、エレナであった。
劇場に向かったブランセを見送り、わたしはまたモナティアムの街並みを歩き始める。本当はブランセの所属している劇団も見に行きたかったのだが、日が沈む前に歩いて幽霊の沼へと帰るなら、お昼にはこの街を発たねばならない。そう考えると、わたしは渋々諦めるしかなかった。
人通りの少ないところに行きたくなり、わたしは近場のコンビニに立ち寄ることにした。以前であれば、お金もなく、何も買えなかったわたしだが、今は違う。コツコツと貯めた貯金は僅かながらある上に、エレナから貰えた和解金もある。どちらも、子供の小遣い程度の金額ではあったが、それでも、好きなものを幾つか買うくらいのことはできるだろう。
「いらっしゃいませ、モナティーマートです……」
店へと入ったわたしに、元気のなさそうな店員の声が、小さく届いた。店員はドアの反対を向いており、こちらを見る気配はない。まあ、ジロジロ見られるよりはいいか。そんなことを考えながら、わたしはコンビニの商品を物色し始める。
折角なら、妖精王国では買えないようなものにしたい。ブラックコーヒーとか、辛いお菓子なんてどうだろうか。あとは新品の電灯も欲しいし………そんな感じで選んでいたら、予算ギリギリになってしまった。
わたしには少し大きすぎるレジカウンターに背伸びをして商品を置く。これで、店員が商品の会計をして、お金を払って、商品を持ち帰る。その流れであっているはずだ。久しぶりのコンビニ利用で、わたしは少し緊張していた。
「………………」
店員からの反応はない。もう一度背伸びをして様子をみると、レジに背を向けて作業をしており、わたしに気が付いていなかった。
「あの~!」
「あ!はい、少々お待ちください」
ホットスナックでも弄っていたのか、慌てて店員がこちらに向き直る。その姿を見て、わたしは何処か既視感を覚えた。こちらを視認した店員は、わたしの顔、というより頭に付いた髑髏の仮面を見て口を開く。
「おや?もしかして、我の同族ではないか?」
特徴的なオッドアイや幽霊らしい髑髏の仮面がない、普通の格好をしていたせいか、わたしは一目で認識できなかったらしい。モナティアムのコンビニアルバイトにして、特別な力を持つ『エルダイン』、シオン・ザ・