バターの助けもあり、誰にも気づかれることなくこっそりと、獣人の村から妖精王国へと続く道にたどり着いた。
森の中の獣道とも違う、エーリアスについてから初めてのしっかりとした街道に、ゆっくりと足を踏み入れる。
アスファルト舗装の道路のように快適に歩けるわけではない。それでも、遭難する恐怖のない道がいかに有難いか、ここ数日の苦難を思えば嫌というほど身にしみた。
バターの助けは道案内だけではなかった。
手には、プラスチック製のペットボトルを流用して作られた水筒があり、これでようやく、喉の乾きに怯えずに動けるようになった。おそらくエルフ製品由来のゴミから作られたものだとは思うが、どんなにみすぼらしくても、それがあるだけで心に余裕が生まれていた。
せめてこれから、素晴らしい転生生活があることを願って、遠くに見える大きな世界樹に向けて、わたしは1歩ずつ歩みを進めていった。
妖精王国の街、エルフィンランドについた頃には日が沈み始めていた。
相変わらず、この身体が歩く速度は遅すぎる。
無我夢中で走ればそれなりに早く移動できるのだが、それでは体力が持たなくなってしまうのだ。
とはいえ、日が沈む前に街に付けたのは本当に助かった。
いつの間にか、足元の道路は石畳となっており、道の横には近代的とは言えないものの、しっかりと建てられた家屋やお店が並んでいる。
美味しそうな匂いが店の扉の隙間から漏れていたが、それを無視して、先を急ぐ。
バターから聞いた情報が確かであれば、道の先には、世界樹教団の宴会場があるはずだった。
もし、ゲームの主人公である教主がこの世界に来ていれば、そこには暖かな灯りと暖かい無料の食事があるはずなのだ。
「あら。そこは今使われてないわよ」
宴会場の扉を開けようと手を伸ばすと、前の道を歩いていた見知らぬ妖精の住民が優しく教えてくれた。
「はい……それでもちょっと中を見てみたくて……」
不審げな住民を他所に、無理やり扉の隙間から中を覗き込んだ。
そこには埃をかぶりつつも、ゲームと同じ見た目のカウンターテーブルや厨房があった。
当然、うすらデカい人間の教主の姿はそこにはなかった。
まあ、バターに聞いて、教主と出会ったことがないと説明された時点で、察してはいたのだ。
それでも、藁にも縋る思いで確認はしたかった、それだけだ。
どうせお金はないから、お店には入っても何も食べられない。
ゲームの描写通りであれば、エルフィンランドの広場には噴水があったはず。
せめて水で腹を膨らませるべく、わたしは宴会場を後にした。
深夜のエルフィンランドは静かだった。
しっかりと道を照らしてくれる電灯はなく、家から漏れる限られた灯りも、時間が経つにつれてどんどん消えていった。
「よし、やるか」
噴水の前に立つわたしには目的がある。
それは、日が暮れる直前に、噴水から直接水を飲もうとしてびしょ濡れになった時に思い付いたものだった。
ゆっくりと、肩に掛かるワンピースの紐に指を掛け、するり、と脱ぎ去る。下着についても、同じように脱いで、噴水の縁に丁寧に並べた。
「冷たっ」
今の季節は分からないが、足を噴水の池に入れると、流石に寒さを感じてしまった。
しかし、我慢して足から腰、肩と体を沈めていく。
そう、わたしは水浴びして体を洗いたかったのだ。
正直、人間でもない身体でそれをやる必要があるのかは分からない。
実際のところ、数日間は歩き続けていた割に、匂いや汚れなどが目立っているような気はしなかった。
それでも、これだけはやっておかないと、自分が人間であるという自意識が壊れてしまいそうな気がして、衝動を止められなかった。
誰もいなくなる夜まで待つという程度の理性は働いていたが、実際にやってみると、これはこれで人間としての自尊心は削れていく感覚があった。
ついでに、髪を流して、さらに一張羅のワンピースと下着も軽く洗ってしまうことにした。
夜行性の妖精がいたらどうしようかと思っていたが、結局、遭遇しなかったのは運が良かった。
「さ……寒い……」
水から上がると、突き刺すような寒さを感じて、早くも自身の行動を後悔してしまった。
ガタガタと震えながら、とりあえず風を凌げそうな、近くの建物の軒先に身を寄せる。
幸いなことに、すぐ眠気がやってきて、意識を刈り取ってくれた。
誰かがわたしを揺すっているいる感覚で、目を覚ます。
「もしもし~。あなた、まだ週末農場に行ったわけじゃないわよね?」
「ふぁい」
誰かの問いかけに、眠気まなこで返事をすると、体を揺する手の動きが止まった。
「私の魔法学校の前で眠られたままだと、いつまでも営業できないでしょ。早く起きなさい!」
魔法学校という響きで、一気に目が覚めた。
目の前にいたのは妖精王国のブレーンにして、自称魔法学校の校長、パン屋のエシュールだった。
その姿を目にして、慌てて身体を起こそうとするが、ピクリとも動かない。
ただ、空っぽのお腹が、ぐーっと音を鳴らしていた。
「うわっ!身体冷たい!ちょっと温めるから、本当に店の前で週末農場に行くのはやめなさいよ!」
エシュールが杖の先を向けると、一気に周囲が暖かくなり、そこでようやく、手足の先の感覚がなくなっていたことに気が付いた。
ピリピリと痺れの走る指を少し曲げると、激痛が走った。
「あ……あいあおう……あいがとうございます……」
「お礼はいいからさっさと起きあがってちょうだい」
無理やり抱えられて起こされると、またお腹が空腹を訴えて音を鳴らした。
「しょうがないわね」
エシュールが店の中に消えて行き、しばらくして戻ってきた。
「昨日の廃棄パンだけど、食べなさい。本当は女王様用のパンだけど」
その手には幾つかの美味しそうなパンが握られていた。
「それ持ったらさっさと行って、もう戻ってきたらダメだからね!」
完全に厄介者に対する扱いだったが、文句を言える立場にはない。
もし、わたしが教主として転生できれば、違う立場だったのかもしれないと考えると悲しくなったが、口に運んだパンの美味しさで、多少辛さは緩和された。
本当は言われた通り裏路地にでも入り込んで、目立たないようにした方が余計な騒ぎを避けられるのかもしれなかったが、やりたいことが1つだけある。
パン片手にフラフラと歩み寄った先には、世界樹教団の本部があった。
そう、仮に教主が居ないのであっても、教団とのつながりを作っておきたかったのだ。
ゲーム『トリッカル』の舞台であるエーリアスには『死』が存在しない。
その一方で、並行世界の描写から、世界の破滅や死に等しい災厄などは容易に発生しうることが分かっていた。
それを防げる世界は、教主とブルミという特別な存在が揃っていることらしい。
つまり、教主が来るかどうかは世界にとって、そしてここで生きることを考えた上ではわたしにとっても、長期的には死活問題になるのだ。
すでに、この世界が夢であるという幻想は捨てつつあった。
そうである以上、世界の安寧のためにも、教主が来た時にその情報を手に入れられるよう、世界樹教団への入信は必須なのだ。
パンを食べながら、建物の前で司祭がやってくるのを、静かに待ち構える。
できれば、ゲームの主要キャラクターのネル司祭長が来てくれればいいな、などと考えていると、誰かがわたしの肩を叩いた。
「あ~~!この前の精霊じゃない!またお腹空かせているの?リンゴあげた私のこと、覚えてない?」
妖精王国の女王、エルフィンが立ったままケーキを食べながら、こちらを見下ろしていた。
「エルフィン女王様。あの時は、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、エルフィン女王様、という呼びかけが気に入ったのか、エルフィンは何度も足踏みをして喜びを表した。
「うひゃ~~っ!あなた素直でいい子ね!これもあげちゃう!」
エルフィンはケーキに乗っていたフルーツを幾つか、わたしに投げ渡した。
有難く口に運ぶと、爽やかな酸っぱい味が、舌を刺激した。
「これ甘くないから美味しくないのよね~。でも捨てるとネルが怒るから、助かるわ」
貰ったフルーツとエシュールの甘いパンとを一緒に食べると、爽やかな酸味と甘みが口の中で広がった。
「本当に美味しそうに食べるわね。そうだ、他にもミント味のパンとか要らないものを隠してあるけど、そういうのも食べるかしら?」
「食べます!食べたいです!」
大きな声を上げて飛びつくと、エルフィンは機嫌良さそうにわたしの手を握りしめて、エルフィンランド中央のお城に向かって歩き出した。
そんな中、私の胃袋はまだ食べ足りないのか、お腹の虫を鳴らし続けていた。