頭を抑えて座り込む妖精や魔女をすり抜け、妖精の王宮、その上階へとわたしは歩いていく。
この被害は、間違いなく銀の竜族を名乗るヴィヴィによるものだろう。世界樹を恨むヴィヴィは、実際には水銀の竜族と呼ぶべき存在で、水銀を自由に操る権能を有している。エーリアスが混乱しているこの機を逃さず、動き出したのか。
先へ進むにつれて、どことなく空気が重くなったように感じられる。
「ケホッ!」
流石に息苦しさを感じて、空気を吸い込んだわたしは思わずむせ込んだ。水銀の池が広がるヴィヴィの家で感じた以上の、気持ち悪い金属の味。それが周辺の空気の異常をわたしに伝えていた。
幸いにも、次の呼吸のタイミングまでは猶予がある。わたしはそう
ヒトが一分間に必要な最少の呼吸の数、それを正確に理解しながら生きている人間は少ないだろう。わたしも、元人間とはいえ、その数字を唱えられるほど意識して呼吸をしてこなかった。その無知と、わたしが所詮、呼吸を無視できる幽霊であることを利用して、『人間』の幽霊として許容できる、限界まで少ない呼吸回数を維持している。
気が付けばそんなことができてしまうくらいに、わたしは今の身体に馴染んだのだろう。皮肉にも、ブルミによって元人間であることがしっかりと説明されたことで、わたしは自分がもうヒトではないことを自覚させられてしまったらしい。
「ゴホッ!ゴホッ!」
これで水銀の症状も抑えられれば良かったのだが、流石に有害性に関する常識と舌から感じる異常な味が、水銀の無害化に繋がる思い込みを阻害していた。まあ、それでいい。そこまで人間離れしたいわけではないし、もう、目的地にはたどり着く。
「ヴィヴィ!!」
白い煙の発生源についたわたしは、大きな声で呼びかけた。
「おや、あなたでしたの?小幽霊………」
煙の向こうから、想定していた通り、ヴィヴィの声が返ってくる。白い水銀の霧が収まると、かがり火の向こうに、真っ白で綺麗な衣服に身を包んだヴィヴィの姿が現れた。
「邪魔をしないでくださいまし」
そう声を放つと、ヴィヴィはたっぷりの水銀を炎の上に注ぎ込む。熱された水銀はすぐに気化し、風に運ばれて世界樹の周りに広がっていった。
「オーホッホッホッ!ここまでお母様の近くに寄れる機会が来るなんて………くしゅんっ!地上に出た甲斐がありましたわ!」
愉快そうに、ヴィヴィは高笑いをして、水銀を炎の中に加えていく。わたしはそれを止めないといけない。
「身の程をお知りなさい……!それ以上近づけさせはしませんわよ」
わたしがヴィヴィに向かって一歩、足を進めた瞬間、水銀の槍が飛んできて、目の前に突き立てられた。
「わたくしの銀の権能を前に、あなたみたいな小さな存在に、何かができると思わないほうがいいですわよ」
ヴィヴィの言葉と共に、わたしの足元にまで水銀が広がる。
「今日は、今日だけはやめてよ。下に居るみんな、特にベリータやフリックルはもう限界で、これ以上そんなことされたら週末農場に行っちゃうから……」
わたしの拙い説得は、ヴィヴィへと届きそうにない。
「前に、世界樹が枯れて世界が滅びたらどう思うか、そんなことを聞いてきたよね……!」
そう遠くない思い出を振り返りながら、わたしは言った。その言葉を聞いて、ヴィヴィの目がわたしに向き、反応を示す。
「そんなこともありましたわね」
ヴィヴィの口から、小さな声が漏れた。
「今なら答えられると思うんだ……!」
わたしの声に、ヴィヴィは答えず、しかし権能で無理やり口を塞ごうとする気配も示さない。
「世界が滅びるのは、嫌だよ!産まれたばかりなんだし、世界も全部見れていない。どうせ、今後も色々騒動があって、大変だろうけど、生活も軌道に乗ってきたんだ。わたしはこのエーリアスが好きだ!無限に世界が続くことはないだろうけど、少しでも長く続いてくれればと、今は心の底からそう思っているよ!」
大声を出すために息を深く吸い込んだせいか、頭が痛い。しかし、言ったことそのものに後悔はなかった。内容はごく普通のものであったが、そこにはこの世界でそのまま生きていこうと考えた、わたしの決意が混じっている。当の昔に薄れてはいたけれど、今、この世界が夢であると思うような、浮ついた意識はわたしの中に残っていなかった。
「それで、わたくしを止めに来たというわけですか?」
わたしの言葉はヴィヴィに届いたようだったが、それは今の考えを変えるほどのものではなかったらしい。悲しそうな目を一瞬見せたヴィヴィは、すぐに目線を頭上の巨大な木の枝に向ける。
はらりと一枚の葉っぱが空から落ちてきた。
偶然か、それとも水銀が効いていたのか、はたまた、何者かの意志が混じっていたのか。落ちてきた世界樹の葉は、ヴィヴィの足元の水銀の池に浮かんでいる。
「フッ、フフフッ……!」
ヴィヴィが怪しげな笑みを浮かべる。
「わたくしの力が効いていますわね!わたくしの銀の権能が!」
「水銀でしょ……!」
わたしの指摘に、ヴィヴィは初めて、動揺した顔を見せた。
「はぁっ!?幽霊の頭では覚えられなかったみたいですわね。わたくしは銀の竜族!銀の竜族ですわ!」
今まさに、世界の終わりを引き起こそうとしているというのに、ヴィヴィはそこに拘りを持ち続けているらしい。
「水銀だよ……どうしても違うと言うなら、モナティアムのエルフにでも調べてもらえばいいけれど……そもそも銀はそんな液状にならないでしょ」
「………それはっ!」
わたしに反論しようとしたヴィヴィは、言葉に詰まり、黙り込む。
「ダイヤモンドには、わたくしの……真の権能のことを伝えましたの?」
ヴィヴィの問いかけは、事実上、わたしの指摘を認めるものだった。
「言ってないよ」
わたしの言葉に、ヴィヴィは安堵の表情を浮かべる。
いくら『トリッカル』の知識からそれを知っていたとはいえ、ヴィヴィの大事な秘密の話であり、伝えるようなことをわたしはしない。もしこの事態を事前に予想していれば、伝えていたかもしれないが、それでも陰でこっそり、というのは出来る限り避けていただろう。
「はぁ。最期までわたくしが水銀の竜族と気が付かずに終わるなんて、ダイヤモンドの純粋さは、哀れなくらいですわね。オ~ホホ!」
高笑いするヴィヴィであったが、先ほどの態度に、わたしは違和感を覚えていた。もしかしたら、ヴィヴィはまだその意思を固めきれていないのかもしれない。
「そうですわ。世界が終わりを迎える中、眠りにつく無力感をあなたにも味わってもらってもいいかもしれませんわね」
ヴィヴィの言葉と共に、周囲の空気に混ざる水銀の濃度が上昇し、空気が重さを増していく。それを吸い込んでしまった私の喉から、荒い咳が出た。
「勝ち目のない勝負ではやる気も出ないでしょうから……こうしましょう。小幽霊。あなたがわたくしを一度でも押し倒すことができれば、今日の所は様子見で終わらせてあげますわ!無理でしょうけど、頑張って欲しいですわね。エーリアスと……お母様のために……!」
皮肉めいた笑みを浮かべ、ヴィヴィは言葉を紡いだ。
わたしとヴィヴィの間にはまだ、十歩以上の距離がある。ヴィヴィは空中に飛べるうえ、水銀の刀を数本宙に浮かべ、いつでもわたしを刺せる状況にあった。
対するわたしは、既に水銀の中毒症状によって頭が痛く、ふらついている。『人間』の幽霊に、水銀の竜族に勝てるビジョンが、わたしには見えなかった。
「ゴホッ!」
「一歩も歩かずに、毒で動けなくなるのは興が冷めるからやめてくださいまし」
咳き込むわたしを煽るように、銀色の刀がわたしの近くに寄ってくる。明らかに幼児でも躱せる速度で、遊ばれているのだとわたしは理解した。
「効きは悪くとも、精霊と同じように幽霊にもわたくしの権能は通用するのですわね!今頃、王宮前はどうなっているのかしら?」
それは間違いであると否定したいが、刀を交わすのに精いっぱいで、どうしようもない。幽霊として水銀の有害性を無視できるリムが助けに来てくれないだろうか。そのような期待を抱くも、この王宮から立ち昇る水銀の蒸気が原因だと知らない階下の皆が来る気配はなかった。
「互いに争って、仲直りして……どうせそんなことしている内に、お母様に捨てられるだけなのに、馬鹿みたいですわ……!」
王宮から今日の騒動を見ていたであろうヴィヴィがそこから何を感じたのか。わたしには正確なことは分からない。
「わたしに止めを刺す気はないんだね」
わたしはヴィヴィに言った。その言葉で、周囲の水銀の動きが止まる。
「も、もう少しで全て終わるのですから、関係ありませんわ!」
そう言い切るヴィヴィは、わたしに追撃をする様子を見せない。ただ、宙に浮かぶ水銀の刀がわたしを拒絶するように、二人の間に壁を作っていた。
「本当に今日、全てを終わらせるつもりなら、なんでもう会わないダーヤに、水銀の竜族であることを知られるのが嫌なの?」
このわたしの質問は、本当であれば簡単に返されるような、大したことのないものである。オ~ホホ!高貴な竜族としての威厳を最後まで保つのはわたくしにとって重要なことですのよ!――そんな返しも、容易に想像ができる。
だが、ヴィヴィは黙った。
もしかしたら、今日は世界樹の近くまで行ける好機が揃ってしまっただけで、完全にエーリアスを終わらせ、自身の知人たちさえも駆逐する覚悟を持って、ヴィヴィがここに居るわけではないのかもしれない。
「ヴィヴィを押し倒したら、水銀を撒くのを止めてくれるんだよね?」
「や、約束したのですから当然ですわ!ただ、無理でしょうけど!」
わたしの質問にヴィヴィが焦りながら答える。この下らないやり取りの裏で、時間を引き延ばし、ヴィヴィは決意を固めようとしているのだろう。
なら、まだ手遅れではない。
わたしはヴィヴィに対して平行に走り出す。向かう先にはただ、王宮の壁があるだけだ。
「なにを……!?」
行動の意図を理解できないヴィヴィは、自身の前に刀の壁を作りながらも、わたしの邪魔をしようとこちらへ槍を放つ。
「痛っ!」
わたしは槍を回避するほどの反射神経を持ち合わせておらず、頭に直撃して弾き飛ばされた。
「……逃げ出すおつもりですか?」
ヴィヴィが低い声で、失望したようにわたしに尋ねる。逃げ出すつもりはなかった。しかし、この後のために、出来る限りヴィヴィを油断させる必要はある。
わたしは何も言わずに壁に飛び込んで、空間の軸を捻じ曲げてそのまま
気が付くと、わたしはどこかの部屋の中にいた。
なんで、こんなことをしているのか、わたし自身理解できていない。
幽霊の沼で遊んでいたんだっけ?
リム様や妖精の女王様と一緒にいたような記憶があるけど、よく覚えていない。
さっきまで、頭は痛かった気がするけれど、そんなこともない。
記憶が混濁している。
異常事態だ。
こんな状態になったことが、前にあった気がする。その時も壁をすり抜けたはずで――
「ふふっ」
わたしは思い出した。そう、さっきまでわたしは水銀の竜族と遊んでいたんだ。手を触れて、押し倒したら勝ちの単純なゲーム。でも、これはエーリアスを守り、明日のわたしの生活を守るために大切な賭けだった。
『人間』の幽霊としてのテーマをブレさせて存在を不安定にした上に、面倒ごとを押し付けてきた、さっきまでのわたしが恨めしい。しかし、その賢いわたしがこの程度の無茶なら大丈夫だと判断したのであれば、前例もあるこの状態は、一時的であれば問題ないのだろう。
東に、西に、方位を捻じ曲げ、光速で亜空間を超えて、わたしは狙い通り、水銀の竜族の目の前に現れた。驚いた竜族の顔が、実に愉快だ。
「どうして!?さっきまではわたくしの権能が効いていましたのに!!」
水銀でできた刀の壁を容易に越え、撒き散らされた水銀の蒸気も乗り越え、わたしは
「わたしの目を見て」
わたしとヴィヴィの視線が交差し、それぞれの身体が固まる。
ヴィヴィの真っ赤な眼の瞳孔が、わたしの眼から伝わる情報を受けて、小さくなった。
そして、そのままわたしの体重と勢いを受けて、ヴィヴィは後ろに倒れ込んだ。
「ヴェア!」
頭を打ったヴィヴィがあげる叫び声を聞きながら、わたしは徐々に、何でもない不安定な幽霊から、『人間』の幽霊に戻りつつあるのを感じていた。
気まずい沈黙が流れている。
わたしは宣言通り、ヴィヴィを床に押し倒した。
ヴィヴィも約束通り、水銀を撒くのをやめている。
しかし、ヴィヴィはわたしに対して何も言うことなく、動こうとしない。
「フフッ、なるほど……そういうことですのね……!お母様は懲りもせず……!」
ヴィヴィがブツブツと何かを呟く。世界樹への恨みを思い出したのか、トゲトゲした敵意が、再びヴィヴィを包み込んだ。
しかし、それもすぐに収まった。
「わたくしがした約束ですから、宣言した通り、今日の所は竜族の領域に戻りますの。幽霊相手にわたくしの権能が通用しないとなると、ゆっくり目立つ場所で散布するやり方は考え直さないといけませんわね」
最後に余計なことを言いながら、ヴィヴィは身を起こす。
「ほら、あなたもいつまでわたくしに抱き着いていますの?」
ヴィヴィに文句を言われ、ぼーっとしていたわたしは首の後ろを掴まれ、王宮の床に投げ出された。
「ヴィヴィーーっ!?どこにいるのーーっ?!」
遠くで、未だにヴィヴィを探しているのか、ダーヤの声がする。
「はぁ……まったく呑気なものね」
ヴィヴィは呆れたように呟きながら、それでも声の方向に向かって歩いて行った。
身体の調子が戻ってすぐ、皆の様子を心配しながら王宮の前まで戻ると、賑やかな声がわたしを出迎えた。
「あ!サヤじゃない!見てちょうだい!フリックルを今から吊るすところなのよ!」
エルフィンが楽しそうに言う向こう側では、既に吊るされているエレナに続いて、ぐったりとしたフリックルが腰で縛られて吊るされようとしていた。悪乗りしているのは、妖精と獣人、そして精霊たち。一方のエルフと魔女たちは、自身の種族の捕虜の開放など、戦後の交渉のため、奥の方でネルやディアナといった重鎮らと話し合いを始めていた。
「あらあら!フリックル!吊るされちゃってるじゃない!」
楽しそうに、周囲に浮かびながらシェィディがフリックルを煽っている。最後に見た時にはエルフ達に拘束されていたはずだが、どうにかして抜け出したのか。
「なんであなたが捕まっていないの!?どうして私だけ!?おかしいじゃない!」
フリックルが大きな声で叫んだ。世界樹の加護もある中、水銀に晒された時間が短かったおかげだろう、すぐに元気になったようで何よりだ。
「シェィディ!?」
ネルたちと話し合っていたリムが、逃げ出したシェイディを見つけて、慌てて飛び出した。追われたシェイディは空間を引き裂いてその向こうへ消えていく。
本当に騒がしい空間である。
「お疲れ様!あたちはちょっと席を外していたけど、無事に解決したようで安心したよ!」
ブルミがわたしのすぐ横に現われて言った。
「と~っても偉いお方に呼び出されちゃってて、そこで勝手にサヤに接触して色々話したことも怒られちゃった……」
しょんぼりとした様子で、ブルミが呟く。
「とりあえず、無事に解決したし、わたしが教主にならなくてもエーリアスは大丈夫ってことでいいよね?」
わたしが言うと、ブルミは何か思うところがありそうな顔をした。そして、わたしの正面に回り込んで、口を開く。
「今日はエーリアスのために頑張ってくれてありがとう!しばらくはサヤの好きにしていて大丈夫だよ!」
そう言うと、ブルミはわたしににっこりと笑いかけた。
こうして、わたしにとって、エーリアスで産まれてから一番長い日が終わりを迎えた。