わたしはエルフィンランドの女王自らの案内により、巨大な城の執務室へと足を踏み入れていた。
普通に考えればこんな得体の知れない存在を入れてはいけないはずだが、そのあたりの危機意識は彼女にはなかったらしい。
「ちょっと待っていなさい!え~っと、どこに隠したのかしら」
ガサガサと棚を漁るエルフィンの顔はわたしよりも高い位置にあり、少し見上げるような姿勢になってしまう。
街に来るまではエーリアスの住人と背を比べる機会が少なかったが、改めて考えるとわたしの背丈が気になってくる。人間よりもさらに背が低い妖精のエルフィン、それよりもさらに低いとなると、エーリアスの住人の中でも背が低い方に当たるはずだ。
試しに、エルフィンの執務用の椅子によじ登ってみると、やはりわたしのサイズが足りないのか、顔を机の上に出すのが精いっぱいになってしまった。
「あなた、何してるの?」
「ちょっと、座ってみたくて………」
エルフィンの質問に対するわたしの答えは嘘ではない。
一目見て、座ってみたかったのは本当だ。
『トリッカル』のガチャ演出の場所が、まさにこの机なのだ。
まあ、ガチャのキャラクター抽選に使われる本なんて置かれておらず、特に何のイベントも発生することなく、わたしはエルフィンに抱えられて、椅子から降ろされてしまった。
虹色の本とか、壁に張り付くブルミとかの演出があれば、また別だったのかもしれない。
悔しい、ガチャ引きたい、そういった欲求を抑えて、今は食事の確保に集中することにした。
「ほら、チョコミント味だけど、文句は言わないでよね」
エルフィンが差し出したのは、人によっては歯磨き粉の味と唾棄する、青いミント味のパンだった。人間世界と同様に、エルフィンランドでもその風潮はあるらしく、一部の奇特な妖精以外、口にしない代物らしい。
しかし、当然わたしには選択肢などなく、パンを受け取ると、すぐ口に運んだ。
………おいしい!
スーッとするような清涼感がしっかりとした噛み応えのあるパン生地の中から沸き立ち、口の中に広がっていく。
そういえば、エーリアスに来る前から、チョコミント味のアイスはわたしの好物の1つだった。
「うへぇ~。チョコミントのパンなんて良く食べられるわね~。まあ、私は要らないパンを押し付けられて、助かるけど」
目の前で引き出しを漁るエルフィンが、顔をしかめながら言った。
「はいこれも」
「………あ……ありがとうございます?」
だいぶ前から保管していたのだろう、少しカビの生えたパンが出てきて、わたしは少し困惑した。
しかし、次にパンが食べられるのはいつのことになるのか分からない。
覚悟を決めて、カビの生えた部分だけを取り除いて口に入れる。
「私くらい食い意地が張ってる子って初めて見たわ。そうね、あなた、私の秘密の召使いになりなさい!これから私が要らないものを全部分けてあげる!」
その申し出は渡りに舟だったので、わたしは喜んで受け入れた。
後になって思い返せば、『トリッカル』の原作知識から、その提案は意地でも受け入れるべきではなかったのだが、この時のわたしは直近の空腹生活の苦しさに負けて、正常な思考を失っていた。
エルフィンはこれから執務があるとのことで、わたしはこっそりと城の外に追い出されてしまった。
嫌いなものを食べてくれる秘密の召使いの存在は、側近であり、育て親でもあるネルには知られたくないらしく、逆にわたしは当初欲していたネルと顔を合わせる機会を失ってしまった。
まあ、いい。
今の私は衣食住のうち2つが揃っている状態で、野宿も考えれば3つが完璧に揃っていると言えなくもない。
いずれ、機会を見てネルと顔を合わせ、世界樹教団に入信すればいいのだ。
ペットボトル製の水筒から水を飲みつつ、わたしはエルフィンランドの市街へと歩き始める。
目的地は幾つかあったが、正直、土地勘がなく分からない。
遠くに見える巨大な野菜は、多分、世界樹教団の使徒、キャロットの農場だろう。
大通りの一等地にあるパン屋は、今朝追い出されたばかりのエシュールのパン屋。
その正面にあるのは、クロエの仕立て屋だろうか。
わたしの服は今、黒いヒラヒラのワンピースの一着しかなく、もう少し動きやすく、露出の少ないものに買い替えたいところではある。しかし、支払うお金がないので、どうしようもない。
仕立て屋の前で立ち止まりつつ、他に行きたいところを幾つか頭に浮かべてみることにした。
エーリアス世界の現状を知るためにも、劇場に行ってリニュアの存在は確認しておきたい。
裏路地にあるらしい、マヨの店にもぜひ行ってみたい。
適当に歩いていれば、配達中のシュパンと会えたりできないだろうか。
原作知識に基づいて、色々と将来のプランを立てていると、なんだか異世界転生した実感が湧いてきた。なるほど、これぞ原作知識あり異世界転生ライフの醍醐味か、などと考え深げに頷いていると、こちらを呼ぶ声が聞こえた気がした。
「ねえ、こっちに来なさい!私が呼んでいるのよ!」
再び、遠くから馴染み深い声が聞こえてくる。
それは先ほど別れたばかりのエルフィンの声だった。
「女王様!?あの……執務は?」
「私ほどの女王が、すぐに仕事を終わらせられないと思っていたのかしら?」
慌てるわたしに、不敵な笑みを浮かべながらエルフィンが近づいてきた。
確かに『トリッカル』本編では怠け癖があり、すぐ王宮を逃げ出すエルフィンではあったが、この世界では違うらしい。それにしても、ちょっと前に別れたばかりではあるが、それほど今日の仕事は少なかったのだろうか。
「おやつの時間よ。召使いのチビ精霊!美味しいお店で好きなだけ食べさせてあげるから喜びなさい!」
「はい、女王様!」
意気揚々と歩きだしたエルフィンは、10歩も歩かず、これまた馴染み深い店に突入した。
「おはよう!エシュール!今日のおやつを持ってきなさい!」
「げっ!女王様と今朝の行き倒れ精霊!?」
エルフィンとエシュールの会話を聞いて、わたしは既に、自分の選択が間違いだったと実感し始めていた。
「ねえ、あなた。今朝の恩があると思っているのなら、女王様が あ そ こ の 棚の廃棄パンだけ食べるように誘導して」
エシュールがわたしに顔を近づけて、必死な表情で訴えかけてきた。
「はい!……はい!」
正直、恩人なのは事実であるし、物語のキーキャラクターの機嫌を損ねたくもなくもないため、わたしも必死になってエルフィンを指定された棚に誘導する。
「あ……この棚のパン美味しいですよ~。やっぱりエシュールさんはパン作りの天才なんですね~」
冷えたパンを口に含むフリをして、エルフィン相手にアピールすると、何故かエシュールからの視線が険しくなった。
なんでぇ?
「パクパクパクパク」
一方のエルフィンはわたしの誘導に従って、廃棄パンの棚に近づいて来てはくれたものの、周囲一帯の棚からランダムにパンを抜き出しており、わたしの働きがどの程度効果があったのかは分からない。
「これ、ミント味ね。ほら、あなたが食べなさい」
優しそうな声と共に、エルフィンから青色のパンを受け渡される。
そのパンの出所は、エシュールに示された廃棄パンの棚からではなかったように見えた。
ちらっとエシュールの顔を見ると、その目が「食べるな」と言っていた。
美味しそうなパンの匂いに、ぐーっと音を鳴らし始めていたお腹を無視して、わたしはそっとパンを棚に戻した。
それから、結局わたしが一切れのパンも食べられないまま、エルフィンのおやつタイムは終了した。
「今日は満足いくまで食べたわ。ねえ、あなたもお腹いっぱいでしょ!」
楽しそうにお腹を膨らませたエルフィンの一方、わたしのお腹は凹んだままだった。
「よぉし!それじゃあ次の店に出発よ~!召使い、あなたも遅れず、ついて来なさい!」
ガチャン、とエシュールの店の扉を開け放つと、エルフィンは外に飛び出していった。
「はい!………え?」
わたしも慌てて後を追うも、エシュールに手を握られて、店に引き戻されてしまった。
「ちょっと待って!これ、女王様が食べ残した廃棄パン」
無理やり渡されたのは、小さめの菓子パン1つだった。
「まあ、一応仕事はしてくれたものね。後で女王様に見つからないよう、こっそり食べなさい」
エシュールはパンをわたしに押し付け、店の奥に戻っていく。
「ねえ!早く!こっちよ!」
外から急かすエルフィンの声を聞き、わたしはパンをポケットの奥に突っ込んで、慌てて店を飛び出した。
太陽がちょうど真上に昇った頃、妖精王国の裏路地を走る小さな人影があった。
「どっちに逃げた!」
路地の入口から、武具が擦れる音と大勢の妖精が駆け回る音が聞こえている。
「こっちに行ったと証言が!」
「女王様は確保したぞ!」
「一緒に店を荒らしていた精霊を追え!女王様はネル司祭長の元へ!」
妖精王国の近衛兵が、慌ただしく働いているのを、住民の妖精たちはいつものことのようにのんびりと眺めている。
一方のわたしは、追われる側の身として、ゴミ箱の陰で身を縮めていた。
どうしてこうなった!
いや、いつかこうなるのは目に見えていた。
エルフィンはどうにも執務を投げ出して家出をしてきたようであったし、お店に入れば傍若無人に振舞うものだから、召使い扱いされていた自分まで、気が付けば指名手配の対象になってしまった。
とはいえ、半日も経つ前にこんなことになるとは、想定外だ。
曰く、女王を誑かしていた食い逃げ犯。
わたしは一口も手を付けていないのに!
王宮に連れ戻されて終わりのエルフィンと異なり、わたしは捕まった後、どんな目に合わされるかも分からず、小さい体をガタガタと震わせていた。
「ここにいたぞ!!」
上から影が掛かると、武装した妖精がわたしのことを見下ろしていた。
慌てて、ゴミ箱を倒し、こちらへの道を妨害すると、わたしは狭い路地の間を掛け出した。
あっさりわたしの隠れ場所を教えておとりにしたあげく、すぐに捕まったエルフィンが恨めしくないかと言えば、嘘になる。しかし、結局のところ、楽な生活に流されて、稚拙な提案に承諾し、秘密の召使いとやらになってしまった自分が悪いのだ。
よく考えてみれば、『トリッカル』のストーリーでも、気軽にエルフィンの部下となり、苦労をするキャラクターの話もあったはずだ。
「挟み撃ちにしろ!」
路地を抜けて道に出ると、左右のそれぞれから近衛兵がやってきているのが目に入った。
前は川、後ろは追手で、もはや逃げ道はないように見える。
「こいつ!川に!」
背後からの声を受けつつ、私は川に飛び込んだ。
どうせ、溺死はしない世界だ。
息を止めつつ、川底深くに沈むと、流れに沿って、下流へ、下流へと逃げていく。
酸素が足りなくなってきたのか、徐々に意識が遠のいていく。
貰ったエシュールのパンを食べ損ねてしまったな、と最後に考え、わたしは意識を手放した。
目が覚めると、そこはどこかの森の中の川辺だった。
時刻を知らせるものなど、手元にはなかったが、空の様子を見るに、気が付けばまた夜になっていた。
喉の渇きを感じて、手元を探るも、バターがくれた水筒は流される中でなくしてしまったらしい。
ポケットの中を漁ると、ベチャベチャに溶けたエシュールのパンの残りが、手にこびり付いた。
舌で舐めると、パンはドロの味がした。
あれ、おかしいな。
月明かりがあるはずなのに、視界が曇って前が見えなくなっている。
鼻の奥がツンとする感覚から、自分が子供みたいにボロボロと泣き出しているのだと分かった。
状況としては、エーリアスに来た当初と変わらないはずなのに、何故か涙を止めることができない。そこで、ようやくわたしは、一度得た希望や物を失う辛さを強く実感することになった。