指名手配を掛けられた妖精王国から、川を下り流れ着いてから半日、わたしは川岸で丸くなったまま、全く動かずにいた。
灯りのない夜の間は視界が効かないため崖などから転落する確率が高くなり、さらには夜行性の動物やモンスターと遭遇するリスクも高い。故に夜は下手に歩き回らないのが望ましい、それをここ数日の経験でよく理解したからこその選択だった。
当然、朝日を待つ間にお腹は空いてきたものの、まったく動かないようにしていたお陰か、体力の消耗は大きく抑えられた気がする。
私の視線の先には、徐々に昇り始めた太陽に照らされた巨大な世界樹の姿があった。
エーリアスの中心、世界樹の足元に栄える妖精王国でやりたいことは色々あったが、もう戻ることはできない。それを前提として、文明化された社会で生きたいのであれば、もう選択肢はほとんどなかった。
遠くに見える世界樹から反対側に振り返ると、そこには異世界からの侵略者であるエルフ達が住処を構える都市、モナティアムのビル群がそびえ立っていた。彼女たちの技術力は人間のそれを上回っており、上手く馴染むことさえできれば、きっと地球に居た時よりも快適な生活が約束されるだろう。
幸いなことに、モナティアムへ続くと思われる道が遠くに見えていた。そのまま歩いていけば、どんなに時間が掛かっても、昼過ぎ、いや夜までにはたどり着けるはずだ。
空腹を紛らわすために川の水を両手で掬って飲み、わたしは次なる目的地、モナティアムに向かって歩き出すことにした。
道でクマに遭遇した時の対策を、知っているだろうか?
『走って逃げない』『目を逸らさないで後退する』『大声をかけない』
わたしが知っていたのはその3つだけ。
こんな知識を生かす機会はない、実生活では何の役にも立たないと思っていたが、現実はどうか。
目の前には巨大なクマが居て、こちらを無言で睨んでいた。
クマに威嚇されるわたしの手には、美味しそうな匂いを放つ肉の塊がある。これは、モナティアムへ向かい、道を歩き出してからすぐ、道端に見つけた奇妙な木から入手したものだ。
その木からは、加工済みとしか思えない骨付きの鶏肉が、まるで木の実か何かのように垂れさがっていた。
エーリアスでは肉は木や鉱山から取れる、という知識はあったが、実物を見ると、想定以上の違和感を覚えた。しかし、漂う香りに食欲が負け、木に生っている肉の1つへと思わず手が伸びる。そこで、わたしは背後からの息遣いを感じ、振り返った。
そして、現在に至る。
目の前のクマの口から涎が垂れて、地面に落ちた。
服のようなものを着ているので会話ができるかもと思ったが、濁った眼からは正気を感じ取れない。
そもそも、『トリッカル』の世界にクマ型のモンスターがいるのは知っていたが、実際に見た時のインパクトはゲームの画面で見るのとは比べものにならず、わたしは恐慌状態に陥っていた。
とにかく、デカい。
画面上では指先ほどの大きさだったものが、わたしよりも2倍以上高い位置から、見下ろしてきている。
『走って逃げない』『目を逸らさないで後退する』『大声をかけない』
頭の中をその鉄則がグルグルと回っていたが、足がガクガクと震えて、わたしは未だ一歩も後退できていなかった。
一歩、また一歩とクマがこちらに近づいてくる。
持ち上げられた手が私に振り下ろされようとした瞬間―――
「伏せてください!」
透き通るような声と共に、青い閃光が私の頭上を掠め、目の前のクマに直撃した。
伏せた私の頭の上を、さらに複数の光が通過していく。
これが魔法か、とわたしが超常現象に目を丸くする中、繰り返される攻撃に参ったのかクマが後ろを向いて逃げだした。
「大丈夫ですか?」
先ほどの修羅場を感じさせない声で、真っ白な服を着た少女が私の手を握って起こしてくれる。
帽子には目立つ青いバラの髪飾り、憂いを帯びた表情、真っ白で綺麗な肌、それらの見覚えのある特徴から、わたしはその少女が青薔薇の精霊、ブランセであると確信した。
「あっ……ありがとうござ―――」
お礼を言おうとするわたしの口を、ブランセの手が止めた。
「これは、不味いですね……」
その目の先には、クマが逃げていった道端の森から、こちらに向かって唸りながら近づいてくる10頭以上のクマの姿があった。
「逃げましょう」
ブランセは小さく呟くと、わたしの手を握って、道を外れ、反対側の森の奥へと駆け出した。
しばらく走ると、背後からのクマの気配は消えていた。
「ありがとうございます。助かりました」
ようやく息を整え、わたしは改めてお礼の言葉を伝えることができた。
「いえ……気にしないでください。あのままでは、私も襲われていたかもしれませんから」
ブランセは落ち着いた雰囲気で、ゆっくりと言葉を続ける。
「はじめまして。私はブランセです。あなたは?」
そう聞かれて、自分にはエーリアスでの名前がまだなかったことに気が付いた。
人間だった頃の名前を名乗ろうか、とも考えるも、先ほどの出来事で混乱しているのか、上手く言葉として頭の中で纏まらない。結果として、ブランセの名乗りに対して、黙り込んだわたしが返事を拒絶したかのような雰囲気になってしまった。
「あ、幽霊の方だったんですね……」
わたしの頭を見たブランセがポツリと呟く。
先ほどのわたしの無礼に納得したようにブランセがうなずくと、ふたりの心の距離が少し離れたような気がした。
「あ、いや……これは違くて……名前がまだないというか……」
「…………………………」
必死に言い訳をするわたしに対して、ブランセの表情は変わらず、感情が読めない。
自分のコミュニケーション能力の低さが恨めしい。
そんな感じでわたしがごにょごにょと呟いていると、ブランセがようやく口を開いた。
「事情はだいたい分かりました。産まれたばかり、ということでしょうか?」
「はい!そうです!」
拙い説明ながらもなんとか理解されたようで、ようやく、2人の間に平穏な空気が戻ってきた。
「産まれたばかりであれば、幽霊の沼に案内してあげた方がいいのかも。でも……私はこれからモナティアムに行かないと……。どうしましょう……」
「あの、その『モナティアム』まで連れて行ってもらうことはできないでしょうか?」
1人で悩み始めたブランセを前に、わたしは提案をすることにした。
「あの大きなビルのところに行きたかったんです。そこまで送ってもらえば、後は自分でなんとかできますから!」
「そ、そうですね。それなら一緒に行きましょう」
わたしの提案を、ブランセはすぐに受け入れる。
そして、最後にポツリと呟いた。
「………いつもの道からかなり遠くまで来てしまいましたが、ここはどこでしょうか?」
もうあれからかなり歩いた気がする。
最初、わたし達は元の道へと戻るべく、モナティアムのビルとは別の方向に進んでいたが、川に道を阻まれて、引き返すことになってしまった。
そこからは、グダグダで、先導しているブランセの顔も普段より少し青ざめているように見える。
「ま、待って!」
わたしの歩幅はブランセよりも小さく、普通に歩かれると追い付けない。
「ごめんなさい。モナティアムに連れていくと話したのに、森で迷ってしまって……」
ブランセは申し訳なさそうに、こちらに頭を下げたが、わたしはそんなことをされる立場ではない。
「わたしが最初に巻き込んでしまったので……こちらこそすみません!」
声を張り上げると、先ほど食べた鶏肉だけでは足りなかったのか、わたしのお腹がぐーっと鳴った。
「そろそろ1回休みましょうか?」
ブランセに尋ねられ、体力の限界が近づきつつあったわたしは黙って首を縦に振った。
倒木の上にわたし達2人で並んで腰かけ、足を休めていると、ブランセはカバンから水筒を取り出し、中に入っていたお茶をカップに注ぎ、手渡してくれた。
「美味しい……」
臭くて不味い川の水なんてものとは比べ物にならない、爽やかな匂いと味がわたしの口の中に広がり、喉を潤す。
「その……これも一緒に食べませんか?」
次にブランセが取り出したのは、樹脂製のパッケージに入った何かだった。
「ありがとうございます。でも、これは……?」
軽い何かが、読めない文字の袋の中に入っている。
「モナティアムの宇宙食ですよ。ちゃんと味付きのものなので、美味しく食べられると思います」
ブランセの説明を受けて、その正体を理解し、袋を開けて口に運ぶ。
食感はゴムのように酷いものの、どこか懐かしい味がして、驚いた。
「これっ!何の味ですか!?」
「えっと……トンカツ味と書いてあります」
ブランセに教えられると、少し差異はあるものの、確かにトンカツソースに近い味がするように感じられた。
旨味成分もちゃんと入っているのか、とにかく美味しいということが舌から伝わってくる。
「文字も、勉強しておくと便利ですよ」
ブランセに優しく語り掛けられ、改めて自分が会話こそ通じるものの、エーリアスの文字が読めないことに気が付かされた。妖精王国でも、何か模様のようなものがたくさんあるな、とは思っていたが、そういえば、あれはゲームでも見ていたエーリアスの文字だったのだろう。ぼんやりとしていた過去の自分を叱りつつも、文字も読めない状態で、本当にモナティアムで生活していけるのだろうかと、少し不安になった。
「それにしても、幽霊はもっと厄介……変わった方ばかりと聞いていたのですが、貴方はとても素直な子ですね」
「そうですか?」
ブランセに褒められるも、わたしは素直にそれを受け取れない。
わたしは素直な性格ではないと思う。そもそも、まるで小さな子供を相手にするかのように話しかけられると、気恥ずかしくて素直に同意しがたい。とはいえ、エーリアスの精霊は長寿で、目の前のブランセも数百歳だったりする可能性もあるため、人間の頃のわたしでさえ、子ども扱いされてしかるべきなのかもしれないが……
「この性格だと、幽霊沼に行くと苦労しそうですし、モナティアムに行くのは良いと思います」
ブランセの発言にわたしは心の中で全力で同意した。『トリッカル』の幽霊の性格と、飲食の確保に苦労しそうな環境を考えると、幽霊沼はエーリアスで行きたくない場所の1つである。
「ごちそうさまでした。あの、そろそろ行きませんか?」
「そうですね」
ようやく食事を終えて、わたしが尋ねると、ブランセも静かに同意した。
遭難しているにも関わらず、その表情は穏やかなままで、わたしに安心感を与えてくれる。
まるで、道に迷っているわけではなく、ピクニックのランチを終えた直後であるかのように、落ち着いた足取りで2人揃って歩き出す。
その先には、木々の間にモナティアムの街並みが広がっていた。