「……はぁ。なるほど、これが噂に聞く『じぇーけー』の過酷な日常、というわけですか」
鏡に映る自分を見て、私は深くため息をつきました。ウェーブがかった綺麗な髪。おっとりとした上品な顔立ち。どこからどう見ても、現文明が絶頂期を迎えていた頃の、絵に描いたような美少女高校生――瀬名紫陽花、それが今の私の器です。調停官としての激務を終え、ようやくのんびりとお茶をすする隠居生活に入れるかと思いきや、気づけば私は見知らぬ学園の女子生徒になっていました。しかも、ただの学園ではありません。ここは、感情の起伏が激しすぎる思春期の乙女たちが、日々「恋」だの「愛」だのという不条理なエネルギーを激突させている、ある種、旧人類の衰退原因を煮詰めたような危険地帯だったのです。
「紫陽花さん! 大変だよぅ……!」
購買で買ってきた(現文明の技術で作られた、やたらと添加物の多い)メロンパンを齧ろうとした瞬間、部室のドアが勢いよく開きました。飛び込んできたのは、本日の主役、もといトラブルメーカーの甘織れな子さんです。彼女の髪はボサボサで、目はぐるぐると回っています。
「どうしました、れな子さん。そんなに慌てて。脳の毛細血管がブチ切れてしまいますよ? はい、まずはこれを飲んで落ち着きなさい」
私は懐(なぜか制服のポケットに常備されていた)から、妖精さん印の特製ハーブティーを差し出しました。飲むとほんのり多幸感に包まれ、IQが3くらいに低下する安全な飲み物です。
「あ、ありがとう紫陽花さん……って、うわぁ何これ美味しい!? 体の芯からドロドロに溶けちゃいそう……じゃなくて! 違うの! 真唯が、真唯がまた『私の恋人になれ』って迫ってくるの! でも紗月さんも『甘織は私のものよ』って睨んでくるし、もう私、どうしたらいいか分かんなくて……!」
れな子さんは私の膝に頭をうずめ、激しくジタバタとのたうち回ります。やれやれ。これがいわゆる「ガールズラブ」の三角関係、というやつですか。私のような、枯れ果てた元調停官から見れば、贅沢極まるエネルギーの無駄遣いにしか思えません。
「なるほど。つまり、れな子さんはそのお二人からの過剰なアプローチに、精神のキャパシティを超えてしまっている、と」
「そうなの! 私なんかただの陰キャなのに、あんな完璧超人たちに挟まれたら、ミンチ肉になっちゃうよぉ!」
彼女の言う「完璧超人」こと王塚真唯さんと琴紗月さんは、確かにこの文明の最先端を行くような、優れた遺伝子の結晶です。しかし、恋愛感情が絡むと、途端に現人類はIQが退化する性質を持っています。私はれな子さんの頭を撫でながら、そっと微笑みました。
「いいですか、れな子さん。人間、押されてダメなら、いっそ『システム』に頼るべきです」
「し、しすてむ……?」
「ええ。人間関係の衝突は、すべて配分の誤りから生じます。ならば、あなたという資源を公平に分配する、新しい社会構造を作ればいいのです」
私はポケットの奥で、カサカサと動く小さな気配を感じていました。いつの間にか私の影に隠れて付いてきていた、この世界の物理法則をゆるく無視する小さなお友達――妖精さんたちです。
『れなこ、にんきものー』『にんげんの、しゅらば、たのしい?』『おかし、くれたら、たすけるです』
帽子をかぶった小さくて白い彼らは、私の背後で楽しそうにちまちまと踊っています。
「紫陽花さん? さっきから、誰かと喋ってる……?」
「いいえ、ただの幻聴です。現代社会のストレスですね。それよりれな子さん、良いものがありますよ」
私は妖精さんからこっそり受け取った、怪しいピンク色のタブレットを取り出しました。
「これは『人類融和用・マイルド円満飴(試作品)』です。これを真唯さんと紗月さんに食べさせれば、あら不思議。お二人のあなたに対する執着心が、適度な『ご近所付き合いレベル』にまで減退します。ついでに二人がお互いに恋に落ちる可能性も微粒子レベルで存在します」
「ええっ!? そんな都合のいい薬あるの!?」
「ええ、ただし副作用として、一時的に言語能力が『はわわ』と『にょにょ』だけになり、頭頂部から謎のキノコが生える恐れがありますが、命に別状はありません」
「絶対にダメなやつじゃん!!」と、れな子さんは全力でツッコミを入れました。さすが、ツッコミの戦闘力だけは高い女の子です。その時、部室のドアが再び、今度は静かに、しかし圧倒的な威圧感を持って開かれました。「れな子、ここにいたんだね」金髪をなびかせた、神々しいまでの美少女――王塚真唯さんです。その後ろには、腕を組んで冷ややかな視線を送る琴紗月さんの姿もありました。
「ひゃぅあ!?」
れな子さんは私の後ろに完全に隠れ、ガタガタと震えだします。真唯さんは私を見て、ふっと美しく微笑みました。
「紫陽花。れな子を匿っているなら、返してもらいたいな。彼女と私は、これからの未来について大切な話し合いをする必要があるんだ」
「あら、真唯。れな子が嫌がっているのが見えないの? あなたのその傲慢な態度、本当に反吐が出るわ」
紗月さんがトゲのある声で応戦します。一触即発。空気の振動で部室のガラスが割れそうです。現人類の感情エネルギーの暴走。これは、非常に、面倒くさい。私は、手元に残ったメロンパンをそっと置き、上品に席を立ちました。
「お二人とも、そこまでになさいませ」
紫陽花さんの持つ「天使の包容力」に、私本来の「すべてを諦めたような冷徹な説得力」をブレンドした声を出します。その独特なオーラに、真唯さんも紗月さんも、一瞬気圧されたように足を止めました。
「恋愛とは、脳内物質の過剰分泌による一時的な錯覚に過ぎません。そんな不確実なもののために、貴重な高校生活のリソースを消費し、挙句に破滅的な関係を築くなど、衰退の極みです」
「え……? 紫陽花……?」
真唯さんが困惑したように目を瞬かせます。いつもの聖母のような紫陽花さんから、そんなディストピア的な単語が出ると思わなかったのでしょう。
「甘織れな子というパイは一つしかありません。奪い合えば血が流れます。ならば……」
私はパチン、と指を鳴らしました。すると、どうでしょう。私の机の上が光り輝き、そこには、全く同じ顔、同じ服を着た「甘織れな子」が、3人に増殖していました。
「「「えええええええええええっ!?!?!?」」」
真唯さん、紗月さん、そして本物のれな子さんが、揃って絶叫します。妖精さん特製『急速細胞分裂クローン・れな子(賞味期限:3時間)』の完成です。
『わーい、れなこがいっぱいー』『これで、けんか、おわりですー』
机の陰で、妖精さんたちが万歳三唱をしています。
「さあ、真唯さんには『王塚真唯を全肯定するれな子』を。紗月さんには『適度に罵倒してくれるツンデレれな子』を差し上げます。本物のれな子さんは、私とお茶を飲みましょう。これで全員が幸福になる、完璧な配分計画です」
私は満足げに頷き、紅茶を新しく淹れ直しました。増殖したれな子クローンたちに抱きつかれ、パニックになりながらも「あれ? これはこれで……?」という顔になりかけている真唯さんと紗月さんを眺めながら、私はお茶をすすります。
「ふぅ。やはり、文明的な解決が一番ですね」
「全然解決してないよ紫陽花さん!!っていうか私の偽物みんな目が死んでるよ!! 助けてぇーー!!」
本物のれな子さんの悲鳴が響き渡る中、私の新しい、そしてやっぱり面倒な学園生活は、こうして幕を開けたのでした。