「急速細胞分裂クローン・れな子」たちがドロドロのクズ餅のように溶けて消え去り、真唯さんと紗月さんが(精神的疲労から)お家に帰った後の、夕暮れの部室。ようやく訪れた静寂の中で、私は持参した携帯式湯沸かし器でお湯を沸かし、ゆっくりと紅茶を淹れていました。
「……はぁ。やっと、まともな人間(?)の空間に戻りましたね」
対面の席では、本物のれな子さんが、机に突っ伏したまま完全に干物と化しています。その頭頂部からは、先ほどの心労のせいか、薄っすらと半透明の魂のようなものが抜け出しかけていました。
「紫陽花さん……私、もうダメ。今日の出来事で、一生分のエネルギーを使い果たしちゃった……。真唯も紗月さんも、なんであんなに距離感がバグってるの? あと紫陽花さんも、なんで急に私を増やしたの……? 私、もう自分が本物かどうかも怪しいよぅ……」
「安心しなさい、れな子さん。あなたの一生分のエネルギーなど、現人類の消費量から見れば、豆電球を数秒灯す程度のものでしかありません」
私は上品にカップを持ち上げ、琥珀色の液体を口に含みます。うむ、良い出来です。
「それに、あなたが本物かどうかは些細な問題です。デ〇ルトも言いました。『我思う、ゆえに我あり』と。あなたが今、その安い添加物まみれの脳みそで『疲れた』と思っているなら、それだけで十分に本物ですよ」
「なんか、慰められてるのに、じわじわとディスられてる気がする!?」
れな子さんはガバッと顔を上げ、涙目で私を睨んできました。なるほど。彼女のこの「過剰なまでの自意識と、それに伴う過敏な反応」。これぞまさに、旧人類が滅びに向かう直前に見せた、自我の肥大化という病理そのものです。見ていて非常に興味深く、そして、ほんの少しだけ。ほんの少しだけ、観察対象として「可愛い」と思ってしまうのが、この私の悪い癖ですね。
「……どうしたの、紫陽花さん。私の顔に、何か付いてる?」
じっと見つめていたことに気づいたのか、れな子さんが居心地悪そうに身を縮めました。夕日の赤が、彼女の少し癖のある髪をオレンジ色に染めています。私はフッと目を細め、カップをソーサーに置きました。
「いえ。ただ、れな子さんはとても『省エネ』な生き物だな、と思いまして」
「え? 省エネ?」
「ええ。あなたは自分を陰キャだの、価値のない人間だのと卑下しますが、それは裏を返せば、他者と衝突して無駄なエネルギーを消費したくないという、非常に賢明な生存戦略です。過剰な生存競争の果てに自滅していった旧人類たちに、あなたのその『めんどくさい、引きこもりたい』という爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいですよ」
「褒め言葉の癖が強すぎるよぅ……!」
れな子さんは両手で顔を覆いました。しかし、その隙間から覗く耳の尖端が、ほんのりと赤くなっているのを私は見逃しません。
「でも、ね。紫陽花さん」
しばらくして、れな子さんは手を下ろし、今度は少し真面目な、どこか寂しげな瞳で私を見つめてきました。
「最近の紫陽花さん、なんだか遠くに行っちゃったみたいで、時々すごく不安になるんだ。前はもっと、私の話を『うん、うん』って優しく聞いてくれて、聖母様みたいだったのに……。今の紫陽花さんは、なんだか世界のすべてを諦めちゃったおばあちゃんみたいで……」
「おばあちゃん、ですか。手厳しいですね。一応、これでも現役のティーンエイジャーの皮を被っているのですが」
「あ、ご、ごめん! 悪口じゃないの! なんて言うか……前より、本音を言ってくれてる気がして、それは嬉しいんだけど……その、私を置いて、どこか遠くの、私の知らない世界に行っちゃいそうで、怖いなって……」
れな子さんの指先が、小刻みに震えています。彼女は、私の魂がこの「瀬名紫陽花」という器のオリジナルではないことに、本能的に気づいているのでしょう。人間関係に敏感な彼女だからこそ、私の内側にある「すべてを見届け、すべてを諦めた調停官」の冷ややかな気配を察知してしまった。これはいけませんね。現人類の情緒をこれ以上不安定にさせるのは、調停官の理念に反します。私は席を立ち、れな子さんの隣へと移動しました。そして、紫陽花さんの持つ、柔らかくて温かい、極上の香りがする両腕で、れな子さんの小さな体を背後からそっと包み込みました。
「ひゃ、ひゃわっ!? あ、紫陽花さん!?」
「静かに。バックハグというやつです。現人類の女子高生は、これをされると脳内からオキシトシンが分泌され、急速に精神が安定するとデータにあります」
「データって何!? 密着度高すぎて、逆に心臓がバクバクして破裂しそうなんだけど!?」
「バクバクしているのは生きている証拠です。いいですか、れな子さん」
私は彼女の耳元で、できるだけ「瀬名紫陽花」のトーンに近い、優しく穏やかな声を響かせました。
「私はどこにも行きませんよ。少なくとも、あなたがこの面倒くさい現世で、真唯さんや紗月さんに揉まれながら、ピーピーと悲鳴を上げているうちはね」
「紫陽花さん……」
「私は、不条理な人間を見るのが大好きなのです。そして、あなたほど見ていて飽きない不条理な人間は、私の長い……いえ、短い人生の中でも、そうそういませんから」
腕の中のれな子さんが、ふにゃ、と力を抜くのが分かりました。お湯の沸く音と、夕暮れの街の喧騒が、遠くでかすかに聞こえます。この世界は相変わらず騒がしく、エネルギーの無駄遣いに満ちていますが――。
「……うん。よく分かんないけど、紫陽花さんがいてくれるなら、私、もうちょっとだけ頑張れるかも」
「ええ、せいぜい頑張りなさい。あ、お礼に明日は、購買の焼きそばパンを私の分も買ってきてくださいね。炭水化物と炭水化物の悪魔の合体、一度食べてみたかったのです」
「うん、いいよ。……って、やっぱり今の紫陽花さん、なんかちょっと変食家になってない!?」
私たちは、オレンジ色に染まる部室の中で、いつまでもクスクスと笑い合うのでした。机の陰から、妖精さんたちが「らぶらぶー」「おあついですー」と冷やかしのダンスを踊っているのを、れな子さんに気づかれないように足で追い払いながら。