「それにしても、貴女なかなか可愛いですね」
耳元で、クスリと楽しそうな吐息が跳ねました。
「ひゃ、ひゃあぁっ!?」
れな子さんは、まるで高電圧の電流を流されたかのように、背筋をピンと伸ばして奇声を上げました。その顔は、夕日よりも真っ赤に染まっています。
「あ、紫陽花さん!? い、いま何て、なんて言いました……っ!?」
「おや、聞こえませんでしたか? 貴女の耳は、過剰な自意識のせいで中耳炎でも起こしているのですか? 仕方ありませんね、もう一度言って差し上げます。――貴女、なかなか可愛いですね」
私はわざと顔を近づけ、瀬名紫陽花さんの持つ「国宝級の美貌」を至近距離でこれでもかと見せつけました。れな子さんは完全にキャパシティをオーバーしたようで、目がぐるぐると回り、口を金魚のようにパクパクと開閉させています。
「な、ななな、何言ってるの、紫陽花さん! からかわないでよぅ! 私なんか、髪はボサボサだし、目つきは悪いし、中身はただのド陰キャで、真唯や紗月さんみたいな輝きなんて微塵もなくて――」
「ええ、知っていますよ。データを見るまでもなく、貴女は一級品のポンコツです」
私はあっさりと首を縦に振りました。
「ですが、人間、完璧すぎると見ていて飽きるのですよ。真唯さんや紗月さんのような、遺伝子の最先端を行くような美少女たちは、確かに素晴らしい。しかし、それは鑑賞用の完璧な彫刻のようなものです。それに比べて、貴女はどうでしょう」
私は、れな子さんの赤くなった頬を、人差し指でツンと突つきました。
「からかえば、期待通りの奇声を上げて飛び上がる。少し褒めれば、耳まで真っ赤にして自滅する。その、現人類の『不条理な感情のバグ』をギュッと煮詰めて、可愛い女の子の形にパッケージングしたような佇まい……。私のような観察者からすれば、これほど知的好奇心を刺激される、
「ううぅ……やっぱり褒め言葉の中に、大量の毒が仕込まれてる気がする……!」
れな子さんは机に両手を突き、がっくりと項垂れました。しかし、その態度とは裏腹に、彼女の心臓は小刻みなドラムのように激しく鼓動を刻んでいます。本当に、分かりやすくて、愛らしい器です。
『れなこ、ちょろいー』『すぐ、まっかになるですー』
机の陰から、小さな白い妖精さんたちが、顔を真っ赤にするジェスチャーをしながらケタケタと笑っています。私はそれを、れな子さんにバレないよう、ローファーの先でそっと机の奥へと押し込みました。
「ほら、そんなに赤くなって突っ伏していないで、お茶が冷めますよ。可愛いれな子さん?」
「もう、紫陽花さんのいじわる……! 明日はもう、紫陽花さんに焼きそばパン買ってきてもらうからね! 2個も!」
涙目で精一杯の反撃(※ただの食いしん坊の要求)をしてくるれな子さんを見つめながら、私は本日何度目かの上品な笑みを浮かべるのでした。
◇
「――あれ?」
夕暮れの部室。瀬名紫陽花は、自分が淹れたはずの紅茶を前にして、小さく首を傾げました。目の前には、なぜか涙目で顔を真っ赤にし、机に突っ伏してガタガタと震えている親友・甘織れな子の姿があります。
「もう、紫陽花さんのいじわる……! 明日はもう、紫陽花さんに焼きそばパン買ってきてもらうからね! 2個も!」
「……ええと、れなちゃん? 私、何か変なことを言っちゃったかしら……?」
紫陽花は戸惑いました。つい数秒前まで、自分の意識がどこか遠く、それこそ「人類がすっかり衰退してしまった未来」のような奇妙な場所で、のんびりとお茶をすすっていたような、ひどく曖昧な感覚があったのです。それまでの数日間の記憶が、まるで他人の書いた報告書を読んだあとのように、実感を伴わずに霧の向こうに隠れていました。
(私、れなちゃんに意地悪なんてしたかしら……? いつものように、お悩みを聞いていたはずなのに……)
記憶のミッシングリンクに困惑しつつも、紫陽花はいつもの聖母のような笑みを浮かべ、れな子の頭を優しく撫でようと手を伸ばしました。しかし。
「――ふふ。でも、れなちゃん。そういう不条理で非効率的なところ、現人類としては100点満点だと思いますよ?」
「……えっ?」
れな子が、弾かれたように顔を上げました。紫陽花自身も、自分の口から出た言葉の滑らかさに、思わず目を丸くします。
「あ、紫陽花さん……? いま、なんて……?」
「え? あ、ごめんなさい、私ったら何を……。『現人類』だなんて、変な言葉を使っちゃったね。ちょっと頭がぼんやりしていて……」
紫陽花は慌てて自分の口を手で押さえました。いつもなら、こんな冷ややかで、どこか突き放したような、それでいて妙に理知的な言い回しは絶対にしないはずです。けれど、胸の奥から、じんわりと湧き上がってくる不思議な感情がありました。それは、目の前でパニックになっているれな子を「可哀想に」と労わる気持ちとは少し違う――もっと乾いていて、それでいて強烈な、「この愛すべきポンコツな生き物を、もっとつついて観察してみたい」という、新種のいたずら心。
「紫陽花さん……やっぱり、まだちょっと、いつもの紫陽花さんと違う……?」
れな子が不安そうに、上目遣いで紫陽花を見つめます。その瞬間、紫陽花は自分でも驚くほど自然に、ふっと目を細めて、少しだけ意地悪に口角を上げました。
「どうかしら。でも、もし今の私がいつもと違うのだとしたら……それは全部、れなちゃんが可愛すぎるせい、ということにしておいてくれないかな?」
「ひゃ、ひゃうあぁっ!?!? また言った!!」
れな子は椅子ごと後ろにひっくり返りそうな勢いで仰け反りました。いつもの「聖母」の紫陽花なら、こんな風にストレートかつ茶化すような口説き文句は言いません。上品で、おっとりしていて、包み込むような優しさ。それが瀬名紫陽花だったはずです。なのに、今の紫陽花の微笑みには、どこか「すべてを諦めた調停官」のような、底知れない大人の余裕が混ざっていました。
「ふふ、焼きそばパン2個ね。いいですよ、明日、私が作ってきて差し上げます。その代わり――」
紫陽花は紅茶のカップを口元に運び、エレガントに微笑みます。
「お調味に、少しだけ変わったスパイスを入れさせてもらうかもしれませんけど」
「スパイス!? 何!? 毒!? キノコ生えるやつ!?」
「あら、どうしてキノコなんて単語が出てくるのかしら。おかしなれなちゃん」
からからと上品に笑う紫陽花の背後。夕日の差し込む部室の隅で、れな子には見えないはずの、小さな白い影たちが、嬉しそうにちまちまと万歳三唱のダンスを踊っていました。憑依していた「わたしちゃん」の魂は、すでに本来の管轄へと帰還していましたが、彼女が残した「毒気」と「お茶目な観察眼」は、聖母・瀬名紫陽花の精神に、消えないフレーバーとして、ほんの少しだけブレンドされてしまったようです。