BLACK LAGOON - ODDS - 作:たこ焼き 龍月
雨季でもないのに、その日のロアナプラは朝から湿った風が吹いていた。
埠頭のほうから流れてくる空気には、潮の匂いと錆の匂いが混ざっている。玲はその匂いを、事務所の窓を細く開けて確かめてから、また閉じた。天候が仕事に与える影響は、案件によって重み付けが変わる。今日の予定にその変数を組み込む必要があるかどうかを、玲はまだ判断していなかった。
事務所の中は、いつもと変わらない朝の様子だった。ベニーは端末の前で何かの数字を追いかけ、ルマジュールはソファの端に座って携行式のゲーム機を弄っている。画面から漏れる電子音が、時折り部屋の静けさに小さな傷をつけていた。レヴィの姿はまだなかった。玲は自分の机で、昨日のうちに整理し終えた依頼記録の束をもう一度見直していた。見直す必要は薄いと分かっていても、手を動かすことをやめる理由もなかった。
窓の外を、荷を積んだトラックが一台、緩慢な速度で通り過ぎていく。玲はその音を耳の端で拾いながら、書類のページを一枚めくった。この街の朝は、静かに見えて、決して穏やかではない。前夜の抗争の余韻が、まだ路地のどこかに残っている時間帯だった。
「今日はまだ何も入ってないみたいだ」
ベニーが、端末の画面から顔を上げずに言った。
「静かなうちに、機材の点検でもしとくかな」
玲は、その独り言に近い呟きに反応しなかった。答えを求めていない言葉には、答えを返す必要がない。玲はそう判断し、書類に視線を戻した。
---
ダッチが戻ってきたのは、昼に近い時間だった。
車の音が外で止まり、扉が開く。ダッチは無線機の音量を一段落とし、手にした一枚の紙をテーブルに置いた。埠頭で誰かと落ち合ってきたらしく、上着の肩のあたりに、潮風の湿り気がまだ残っていた。
「仕事が入った」
その声に、ベニーが顔を上げた。玲もまた、手元の書類を閉じてから顔を上げた。ルマジュールは、ゲーム機を膝の上に置いたまま、こちらの様子をうかがっている。
「イエローフラッグで、商談の護衛だ」
ダッチが続けた。
「依頼人は小口の仲介屋だ。あの店の中立ってやつを使って、話をまとめたいらしい」
「中立、というのは」
玲が尋ねた。
「イエローフラッグでは手を出さない、って不文律のことだ。守る側も守らせる側も、あの店の中でだけは休戦する。まあ、たいていは守られねえがな」
ダッチはそう言って、紙をもう一枚テーブルに広げた。細かい字で、依頼人の名前と、当日の予定人数、報酬の額が記されている。
「今日はその手の商談にしちゃ、卓の数が多い。売り手も買い手も、複数が同じ場に着く。仲介屋はそれを一気にまとめて片づけたいんだとよ」
「なぜ、一度にまとめる必要があるのですか」
玲が尋ねた。
「別々に交渉すりゃ、それだけ時間も手間もかかる。仲介屋にとっちゃ、手数料が入るまでの日数が延びるってことだ。あいつらは、待つのが嫌いだ」
「効率を優先した結果、監視すべき人数が増える。合理的ではありますが、危うい選択でもあります」
玲は、その一文を静かに口にした。
「人数が集まるほど、揉め事の発生率は上がります」
「そのぶん、護衛の目も要る」
ダッチが頷いた。
「今日は人手が足りねえ。普段なら別々に動かすところを、二人一組にする」
「二人一組」
「玲、お前とレヴィだ」
その名を聞いて、部屋の空気がわずかに変わった。ベニーが小さく口笛を吹きかけて、思い直したように止める。ルマジュールはゲーム機から顔を上げ、興味深そうに玲のほうを見た。何かが始まる予感を、その表情はうっすらと湛えていた。
玲自身は、特に表情を変えなかった。ダッチの言葉を、そのまま数字として受け取っただけだった。
「なぜ、その組み合わせなのですか」
玲は尋ねた。純粋な疑問だった。非難でも困惑でもない。
「今日、動かせるのはお前ら二人だけだ。ロックは別件、ベニーは機材の面倒を見る番だ」
「なるほど」
玲は頷いた。
「消去法の結果ということですね」
「そう思っていい」
ダッチは、それ以上の説明を加えなかった。だがその短い返答の裏に、もう一つの計算があることを、玲はうっすらと感じ取っていた。単なる人手不足だけであれば、ダッチはこの組み合わせを、もう少し不安げに口にしたはずだった。だが、その声には、迷いよりも観察の色があった。
---
扉が開いたのは、その直後だった。
レヴィが入ってくる。片手に煙草を挟み、もう片方の手を腰のあたりに引っかけたまま、部屋の中の空気を一目で読んだらしい。テーブルに置かれた二枚の紙を交互に見て、それから顔をしかめた。
「今日の仕事、何」
「イエローフラッグの護衛だ。玲と組め」
ダッチが、前置きなしに答えた。
レヴィの動きが止まった。煙草を口から離し、灰皿に押しつける手つきが、いつもより一拍遅れる。
「なんであたしが電卓と組まなきゃいけねえんだよ」
その声には、隠すつもりのない苛立ちがあった。玲はその声のトーンを聞き取りながら、椅子の上で姿勢を変えなかった。
「今日は人数が足りねえ。文句は後で聞く」
ダッチの返事は短かった。取り合うつもりのない、業務としての言い切りだった。
「文句は後でって、こういうときのお前の『後で』は、いつも聞かれた試しがねえけどな」
レヴィは吐き捨てるように言うと、灰皿の縁に灰を落とした。
ダッチは、それには答えなかった。無線機のつまみをもう一度確かめる仕草だけが、レヴィの言葉への唯一の返答だった。
レヴィはそれ以上言い返さなかった。代わりに、玲のほうへ視線を寄越す。値踏みとも呼べない、確かめるだけの一瞥だった。玲はその視線を受け止めたが、何も返さなかった。返すべき言葉が、まだ見つからなかったからだった。
レヴィは煙を吐き出し、ソファの背に体を預けた。何かをこらえるように、天井を一度だけ睨む。その仕草の意味を、玲はまだ完全には読み切れていなかった。
「別に、あんたが下手ってわけじゃねえよ」
しばらくして、レヴィが付け加えるように言った。視線は天井に向けたままだった。
「ただ、現場で電卓弾く音を聞きながら動くのは、性に合わねえってだけだ」
「私は電卓を使いません」
玲は答えた。
「それは比喩でしょう。あなたが言いたいのは、数字で状況を語る人間と、現場で反射的に動きたいあなたとの相性の話だと理解しています」
レヴィは、その正確すぎる翻訳に、片方の眉を上げた。
「……嫌味なとこあるよな、あんた」
「嫌味のつもりはありません」
玲は、静かに言った。
「事実の確認です」
レヴィは、それ以上言葉を続けず、短く息を吐いた。反論する糸口を探しているようで、見つからない。そういう沈黙だった。
---
玲は、テーブルの上の依頼書を手元に引き寄せた。
紙に記された情報は、それほど多くなかった。依頼人の名、報酬の額、当日の見込み参加人数。だが、現場の構造に関する情報は、そこにほとんど含まれていない。
「イエローフラッグの店内図面はありますか」
玲は、ダッチのほうへ尋ねた。
「出入り口の数と、卓の配置を先に把握しておきたいのですが」
「図面なんかなくても、あの店なら目ぇ瞑ってても歩けるっつーの」
レヴィが、ソファから声を投げてよこした。
「あんたにとっちゃそうかもしれませんが」
玲は、レヴィのほうを見た。
「私にとっては、まだ数えていない場所です」
レヴィは、視線をわずかに逸らした。反論しようとして、言葉が見つからなかったのか、ただ舌打ちだけを残して黙る。玲はその沈黙を、了承ではなく保留として受け取った。
「そもそも図面なんて代物、あの店には存在しねえよ」
レヴィが、続けて言った。
「壊れちゃ直し、直しちゃ壊れの繰り返しだ。設計図通りの建物なんざ、とっくの昔に消えてる」
「では、現在の構造を反映した記録は、どこにもないということですか」
「記録?」
レヴィが、鼻で笑った。
「そんなもん、誰が取るんだよ。あの店の柱がどこにあるかなんて、体が覚えてるもんだろうが」
「体が覚えている情報は、他人と共有できません」
玲は、静かに指摘した。
「あなたの記憶は、あなたが現場にいるあいだしか機能しません。私が現場で正しく動くためには、別の形で情報を得る必要があります」
レヴィは、それに対して何も言い返さなかった。代わりに、煙草の灰をもう一度落とし、視線を窓の外へ逃がした。
---
ベニーが、端末の作業を中断してこちらに歩み寄ってきた。
「図面かあ。今どき、あそこのちゃんとした図面なんて誰も持ってないと思うよ」
そう苦笑しながら、手元の資料をめくる。
「昔の依頼のとき、僕が現場のメモを取ったことがあってさ。おおよその配置なら、これに残ってる」
ベニーは古い紙の束から一枚を抜き出し、玲に差し出した。手書きの線で、卓と柱の位置、出入り口が二つあることが記されている。玲はそれを両手で受け取り、しばらく目を通した。
「これはいつの記録ですか」
「半年くらい前かな。あの店、レヴィが暴れるたびに配置が少しずつ変わるから、あんまり当てにならないかもしれないけど」
「変わったとしても、変化の傾向を知る手がかりにはなります」
玲は言った。
「壊れやすい箇所と、修復のたびに補強される箇所が、この図面と現状を比較すれば見えてくるはずです」
「……君、そこまで考えて図面欲しがってたのか」
ベニーが、少し驚いたように言った。
「ただの下見のつもりだったんだけど」
「下見と査定は、私の中では同じ作業です」
玲は答えた。
「助かります」
玲は短く言うと、その紙を几帳面に折りたたんだ。角と角をきちんと合わせ、四つ折りにして、鞄の内側の仕切りに収める。その一連の動作には、無駄がなかった。
ベニーはその手つきを見て、少しだけ感心したような顔をした。
「君、そういうとこ律儀だよな」
「不正確に折られた紙は、次に開くときに時間を奪います」
玲が答えた。
「それだけの理由です」
「理由まで律儀だよ、君は」
ベニーは苦笑しながら、自分の端末のほうへ戻っていった。
---
ルマジュールが、ソファから身を乗り出した。
「ねえ、二人で大丈夫なわけ」
その声には、心配の色があった。玲はルマジュールのほうへ視線を移した。
「人数の問題ではありません」
玲は、静かに言った。
「組み合わせの問題です」
その言い方に、レヴィが小さく舌打ちした。
「なんだよ、その言い方」
「事実を述べただけです」
玲は、レヴィのほうを見ずに答えた。
「今日の現場に必要な人数は、二人で足ります。問題があるとすれば、その二人がどう動くかという一点だけです」
「じゃあその『どう動くか』ってやつ、あんたはもう答え出してんの」
レヴィが、皮肉を込めて尋ねた。
「まだです」
玲は、正直に答えた。
「現場を見ていない段階で、確度の高い答えは出せません。今、私が持っているのは、あなたの過去の行動記録と、この商会の依頼履歴から推測できる、限定的な仮説だけです」
「仮説、ね」
レヴィは、その言葉を鼻先で転がすように呟いた。
「あたしはあんたの仮説の中で、どういう扱いになってんの」
「反射速度が高く、状況判断に長けている一方で、事前の情報共有を好まない傾向がある人物、という扱いです」
玲は、淡々と答えた。
「今のところは」
レヴィは、それ以上言葉を続けなかった。代わりに、煙草をもう一本取り出し、火をつけないまま指のあいだで弄んだ。何か言いたいことがあって、それをどう言葉にするか決めかねている。そういう仕草だと、玲は見て取った。
ルマジュールは、二人のあいだの空気を測りかねている様子で、ゲーム機の画面と玲の横顔を交互に見比べていた。
「なんかさ」
ルマジュールが、独り言のように呟いた。
「二人とも、全然違う喋り方してるのに、なんか似てる気がするんだけど」
「どこがだよ」
レヴィが、即座に反応した。
「いや、なんとなく」
ルマジュールは、それ以上うまく説明できないまま、視線をゲーム機の画面に戻した。玲は、その指摘に対して特に反論しなかった。似ているかどうかを判定する材料は、まだ揃っていなかったからだった。
---
ダッチが、話をまとめるように紙を叩いた。
「詳しい段取りは、現地入りの前にもう一度詰める。今日のところは、それぞれ準備をしとけ」
「承知しました」
玲が答えた。
「一つ、確認しておきたいことがあります」
玲は続けた。
「現地での指揮系統は、どちらが優先されますか」
ダッチは、少し考えるような間を置いた。
「決めてねえ。現場で決まる」
「それは、判断が遅れる要因になり得ます」
玲が指摘した。
「その通りだ」
ダッチは、意外にもあっさりと認めた。
「だからこそ、今回はお前ら二人でやらせる。どっちが正しいかは、この先何度も現場に出りゃ、勝手に分かってくる」
その言葉に、玲は短く沈黙した。ダッチの意図を、もう一段深く読み直す必要があった。単なる人手不足の穴埋めではない。ダッチはこの組み合わせを、一種の検証として設計している。玲はそう結論づけた。
レヴィは何も言わず、煙草に火をつけて立ち上がった。玄関のほうへ向かう足取りには、隠しきれない不機嫌さがにじんでいた。玲はその背中を目で追ったが、呼び止める理由を持たなかった。
扉が閉まる音がして、レヴィの気配が外へ消えた。
玲は、鞄の中の折りたたんだ紙を、指先でもう一度確かめた。イエローフラッグという店を、自分はまだ数えていない。出入り口の数、卓の配置、そこに集まる人間の視線の運び方。明日、その一つひとつを実際の目で確認することになる。玲にとって、それは未知数の多い現場だった。
---
その日の午後、玲は自分の机で、レヴィという変数について考えていた。
考える、という言葉は正確ではない。玲がしていたのは、これまでに得た断片的な情報を並べ、そこから今回の現場における振る舞いの傾向を見積もる作業だった。レヴィは反射的に動く。玲は事前に計算する。二つの方法が同じ現場でどう噛み合うのか、あるいは噛み合わないのか、その見通しはまだ立っていなかった。
玲は、今日一日でレヴィが見せた反応を、頭の中で並べ直した。
苛立ち、舌打ち、視線をそらす仕草。どれも感情の表出としては分かりやすい。だがその奥にある理由までは、玲はまだ読み取れていなかった。命懸けの現場を数字で語られることへの反発は、以前ルマジュールとのやり取りの中でも見た形だった。今回、それが自分自身へ向けられる番だということを、玲は淡々と受け止めていた。
不快には思わなかった。ただ、扱いにくい変数として記録しただけだった。
玲は、過去の依頼記録の束を、もう一度机の上に広げた。この商会がこれまでに受けた仕事の中から、レヴィが単独、あるいは他の誰かと組んで動いた案件を拾い出していく。記録に残る数字は少なかったが、それでも傾向は見えてくる。レヴィは、状況が悪化してから最も速く動く。だが、悪化する前の兆候を拾う作業には、あまり時間を割いてこなかった。少なくとも、記録に残っている限りでは。
(悪化の予兆を拾うのは、私の役目になる)
玲は、その仮説を頭の中に留めた。もしそれが正しければ、今回の現場における役割分担は、自然と定まってくるはずだった。レヴィが反応する。玲がその手前を読む。噛み合えば、悪くない組み合わせになる。噛み合わなければ、二人はただ同じ場所に立っているだけの、別々の個体に終わる。
---
夕方、ベニーが玲の机に近づいてきた。
「明日、大丈夫そうかい」
「大丈夫かどうかは、明日にならないと分かりません」
玲は答えた。
「ただ、準備はできる範囲で済ませます」
「レヴィのことは、あんまり気にするなよ」
ベニーが、少し声を落として言った。
「あいつ、誰と組んでもああいう態度取るからさ。玲だからってわけじゃない」
「気にしてはいません」
玲は、手元の書類を整えながら答えた。
「彼女の態度は、彼女の判断材料です。私の判断材料ではありません」
「そりゃそうかもしれないけどさ」
ベニーは、少し困ったように笑った。
「あいつ、口は悪いけど、現場じゃちゃんと守るタイプだから。そこは信用していい」
「その情報は、有用です」
玲は言った。
「記録に加えておきます」
ベニーは、その返答に軽く笑った。
「相変わらずだな、君は」
そう言い残して、自分の机へ戻っていく。玲はその背中を見送ってから、また依頼書に視線を落とした。ベニーの言葉を、玲は評価として受け取っていた。感情の込もった保証ではなく、技術者としての観測報告として。
---
ルマジュールが、玲の近くまで椅子を寄せてきたのは、それからしばらく経ってからだった。
「ねえ、ほんとに平気なの」
「何がですか」
「姐さんと二人でしょ。あの人、気に入らない相手には容赦ないから」
「レヴィが私に危害を加える確率は、今回の任務中では低いと見ています」
玲は言った。
「任務中、彼女が優先するのは自分の身を守ることと、依頼を成立させることです。その二つの目的のために、私という道具を無駄に壊す理由がありません」
ルマジュールは、その言い方に少し眉をひそめた。
「道具って、あんた自分のことそう言うの」
「今回の現場において、私は査定と観察を担当する道具です」
玲は静かに続けた。
「レヴィにとっても、そう扱われたほうが分かりやすいはずです」
「……なんか、それ、ちょっと寂しくない?」
ルマジュールが、ぽつりと言った。
「寂しいという感覚は、今回の任務の成否に影響しません」
玲は答えた。
「感情は、後回しにできます」
ルマジュールは何か言い返そうとして、結局言葉を飲み込んだ。この女の言い分は、いつもどこか正しくて、どこか納得しきれない。その感触に、ルマジュールはまだ慣れていなかった。
「あんたさ」
しばらくして、ルマジュールが尋ねた。
「姐さんのこと、怖くないの」
「怖いという感情は、私の行動を変えません」
「それ、前も言ってたよね、その台詞」
「必要な回数だけ言います」
玲が答えた。
ルマジュールは、その返答に、今度は小さく笑った。呆れと、わずかな面白さが入り混じった笑いだった。
---
夜になり、事務所の人影が減っていく。
ダッチは無線の前に座ったまま動かず、ベニーは端末をしまって帰り支度を始めていた。ルマジュールも、あくびを一つしてから席を立つ。
「じゃ、わたし帰るね」
「気をつけて」
玲が、顔を上げずに言った。
ルマジュールは、少しだけ足を止めた。気をつけて、という言葉が、この女の口から出たことに、わずかな意外さを覚えたようだった。だが玲にとって、それは特別な言葉ではなかった。同僚が夜のロアナプラを歩く。その帰路の生存確率を、ほんの少しでも上げるための、合理的な一言に過ぎなかった。
ルマジュールは、何か言おうとして、結局何も言わずに扉のほうへ向かった。
玲は最後まで残り、鞄の中身をもう一度確認した。ベニーから受け取った手書きの図面、契約書の写し、そして最低限の護身具。一つずつ数え上げていく指先に、迷いはなかった。
明日、自分はレヴィという反射神経の塊と、一つの現場を共有することになる。玲はその事実を、期待とも不安とも呼ばなかった。ただ、これまで扱ったことのない組み合わせとして、静かに記録に留めただけだった。
窓の外では、ロアナプラの夜がいつも通りに始まろうとしていた。ネオンの明かりが路地を照らし、遠くで誰かの笑い声と、それに重なるように短い怒鳴り声が響く。玲はその音を、特に意味づけせずに聞き流した。
鞄を閉じ、玲は椅子から立ち上がった。
明日のイエローフラッグで、何が起きるか。玲にはまだ、その全貌を数え切ることができていない。だがそれは、恐れる理由にはならなかった。数えられないものは、明日、現場でひとつずつ数えればいい。玲にとって、それだけが確かな段取りだった。
---
一方その頃、レヴィは行きつけの酒場のカウンターで、一人グラスを傾けていた。
「なんであたしが電卓なんかと」
誰にともなく呟いた言葉は、店の喧騒に紛れて消えていく。苛立ちの理由を、レヴィ自身、うまく言葉にできていなかった。数字で物を語る女が嫌いなのか、それとも別の何かが引っかかっているのか。その区別すらつかないまま、レヴィはグラスの中身を一息に呷った。
(あいつの言い方、なんかムカつくんだよな)
レヴィは、そう胸のうちで呟いた。腹が立つのは、玲の言葉が間違っているからではない。むしろ、その逆だった。間違っていないから、返す言葉に困る。反論しようとしても、指先が空を切るような感覚だけが残る。その手応えのなさが、レヴィにとって一番苛立たしい部分だった。
以前、似たような相棒と組んだことがあった。数字ではなく、余計な言葉で場をなだめようとする男だった。その男は、最後の瞬間に判断を誤り、レヴィの目の前で命を落とした。レヴィはその記憶を、普段はできるだけ思い出さないようにしている。だが今夜は、電卓女と組まされるという知らせのせいで、その記憶が不意に顔を出していた。
(言葉で誤魔化すやつも、数字で割り切るやつも、結局は同じだ)
レヴィは、そう結論づけようとして、途中でやめた。玲がどちらの側の人間なのか、まだ判断がつかなかったからだった。少なくとも、これまで組んできた誰とも違う。それだけは確かだった。
明日の現場のことを、レヴィは考えないようにしていた。だが考えないようにするということ自体が、すでにその現場を意識している証だった。レヴィはその矛盾に気づかないまま、もう一杯を注文した。
---
二人一組。
その組み合わせを、二人はそれぞれの理由で歓迎していなかった。だが依頼はすでに受けられ、明日は確実にやってくる。
夜が更け、事務所の明かりも、酒場の喧騒も、それぞれの時間の中でゆっくりと減っていく。玲は自室で最後にもう一度、明日の段取りを頭の中でなぞった。レヴィは酒場の隅で、思い出したくない記憶に蓋をしながら、グラスの底を見つめていた。
水と油のまま、二人は同じ現場へ向かうことになる。
翌朝、事務所に最初に姿を見せたのは、玲だった。鞄を机の脇に置き、昨夜確認した段取りをもう一度、頭の中で反芻する。窓の外はまだ薄暗く、ロアナプラの喧騒も、朝の眠りの中にある時間帯だった。
しばらくして、レヴィが欠伸を噛み殺しながら入ってきた。目の下にわずかな隈があるのは、昨夜の酒のせいか、あるいは別の理由かは、玲には判別できなかった。
「……早えな、あんた」
「準備には時間がかかります」
玲は答えた。
レヴィは、それ以上何も言わず、壁に立てかけてあった得物を確かめ始めた。二人のあいだに会話はなかったが、それぞれの支度を進める気配だけが、静かな事務所の中で重なっていた。
やがて、ダッチの車が外に到着する音がした。玲は鞄を手に取り、椅子から立ち上がった。レヴィも、煙草を一本くわえたまま、扉のほうへ歩き出す。
気の乗らないレヴィと、いつもと変わらない玲。二人はそれぞれの理由で、この組み合わせを歓迎していないまま、イエローフラッグへ向かう車に乗り込んだ。