BLACK LAGOON - ODDS - 作:たこ焼き 龍月
# 三度目の正直 第二話「観察と土地勘」
イエローフラッグは、まだ開店前の静けさの中にあった。
木製の扉には、営業中を示す札が裏返しのまま下がっている。玲はその扉の手前で一度足を止め、外壁の色を上から下まで見渡した。塗料の色味が、場所によってわずかに違う。扉の右側の柱には、新しい木材が継ぎ足された跡がはっきりと残っていた。玲はその継ぎ目の長さと幅を目で測りながら、頭の中で数字を組み立て始めた。
「突っ立ってないで、入りな」
レヴィが、先に扉を押し開けながら言った。
玲は短く応じ、その後に続いた。
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店内は、外から想像していたよりも広かった。
朝の光が高い位置の窓からいくつか差し込み、カウンターの奥まで薄く届いている。客のいない時間帯の酒場は、夜とは別の顔を持っていた。埃と酒の匂いが混じった空気の中で、玲はまず視線を天井へ向けた。梁の一部に、周囲より色の新しい木材が使われている。次に壁へ視線を移すと、右手の壁に四角い継ぎ接ぎがいくつも並んでいた。大きさも高さもまちまちで、修繕された時期が一様ではないことを示していた。
玲は鞄から手帳を取り出し、店の入口に近い場所に立ったまま、壁の継ぎ接ぎを数え始めた。
一つ、二つ、三つ。数えながら歩を進めると、カウンターに近い側の壁にはさらに数が増えた。床にも目を向ける。板の色が場所ごとに違っている。古い板と新しい板が、まだら模様のように入り混じっていた。玲はその境目を目で辿り、床全体のおよそ三割が張り替えられたものだと見積もった。
「あんた、入ってすぐそれか」
レヴィが、玲の手元を覗き込みながら言った。
「何の店を数えてる」
「破損の頻度を推定しています」
玲は手帳から顔を上げずに答えた。
「壁の継ぎ接ぎと床材の入れ替わりから、この店がこれまでにどの程度の規模の修繕を繰り返してきたか、おおよその見当がつきます」
レヴィは、その返答に片方の眉を上げた。呆れているのか感心しているのか、玲にはまだ判別がつかなかった。
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カウンターの奥から、バオが姿を見せた。
グラスを片手に持ったまま、二人のほうへ視線を寄越す。その顔には、あからさまな警戒の色があった。
「今日はレヴィが来るのか」
バオが、カウンターの中で低く言った。
「頼むから静かに飲んでけよ」
「今日は仕事だっつーの」
レヴィが、カウンターに片肘をつきながら答えた。
「あんたの店壊しに来たわけじゃねえよ」
「お前が壊す気で来たことなんざ、これまで一度もねえだろうが」
バオが、グラスを拭く手を止めずに言った。
「それでも壊れるんだよ、なぜだかな」
レヴィはその言葉に肩をすくめただけで、反論しなかった。過去の実績が、反論の余地を潰していることを、本人も理解しているらしかった。
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玲は、手帳から顔を上げてバオのほうを見た。
「この店は、一年でおよそ何回、同じ規模の修繕をしていますか」
バオは、拭いていたグラスを一度カウンターに置いた。玲の質問の意図を測りかねているらしく、しばらく無言のまま彼女を見返した。
「そんなの数えてどうすんだ」
「数えなければ、次に何が起きるかを見積もれません」
玲は静かに答えた。
「修繕の頻度と規模が分かれば、この店で発生する揉め事の発生率を、大まかに逆算できます。今日の依頼にとって、それは有用な数字です」
バオは、しばらく黙って玲を見つめていた。それから、グラスを拭く手をまた動かし始めた。
「さあな。数えたことねえよ、そんなもん」
「記録は残していませんか」
「修理代の請求書ならある。だが回数を数えたことはねえ。数えたら、頭がおかしくなる」
バオはそう言って、小さく息を吐いた。
「壊れちゃ直し、直しちゃ壊れの繰り返しだ。数字にしたところで、何も変わりゃしねえよ」
玲はその返答を、手帳の余白に書き留めた。数として得られなかった情報も、記録としては意味を持つ。数えることを放棄した人間の言葉もまた、この店の性質を示す一つの変数だった。
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レヴィは、カウンターに寄りかかったまま、二人のやり取りを聞いていた。
「あんたさ」
しばらくして、レヴィが口を開いた。
「そうやって、いちいち数えねえと気が済まないわけ」
「気が済むかどうかの問題ではありません」
玲は、手帳を閉じずに答えた。
「数えなければ、今日この場所で何が起きるかを予測する材料が足りません。予測できなければ、対応も遅れます」
「あたしはそんなの、数えなくても分かるけどな」
レヴィが、カウンターの一角を指差した。
「あの柱の陰、死角になってる。あそこに立たれると、こっちからは半分しか見えねえ。それから、あの奥の卓」
レヴィは、店の奥の一角へ視線を移した。
「あそこは揉め事が起きやすい。理由は知らねえけど、体で覚えてる」
玲は、レヴィの指差した位置を目で追った。柱の陰になる角度、奥の卓の配置。玲がこれから手帳に書き込もうとしていた情報と、ほぼ重なっていた。
「それは、感覚ですか」
玲が尋ねた。
「感覚っつーか、慣れだよ。何回もこの店で修羅場くぐってりゃ、嫌でも覚える」
「私はまだこの店を数えていません」
玲は言った。
「あなたは、数える代わりに体で覚えている。方法は違いますが、辿り着く結論は同じかもしれません」
レヴィは、その言い方に一瞬黙った。
「気持ち悪いこと言うなよ」
「気持ち悪いのではありません」
玲は静かに続けた。
「同じ現象を、別の方法で観測しているだけです」
レヴィは、それ以上言葉を返さなかった。代わりに、煙草を一本取り出して火をつける。紫煙を吐き出しながら、店の奥へ視線をやったままだった。玲はその横顔を一瞥し、手帳に短い一文を加えた。
(土地勘は、未記録の観測データである)
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しばらくして、玲は店内を一巡りすることにした。
入口から数えて、出入り口は二つ。奥の一つは、荷物の搬入用らしく、普段は使われていない様子だった。玲はその扉に近づき、鍵の状態を確かめた。閂がかかっているが、内側からであれば容易に外せる造りだった。玲はその情報を手帳に書き留めた。
卓の配置を数える。全部で七卓。入口に近い卓ほど、椅子の脚に傷が多かった。玲はその傷の分布から、揉め事が起きやすい位置の傾向を推測した。レヴィが指差した奥の卓は、確かに椅子の傷の密度が高い一角だった。
玲は、その一致を静かに記録に加えた。驚きはなかった。ただ、レヴィの体感と自分の観測は、同じ結論へ向かっていた。玲はそれを、事実として受け止めただけだった。
「そっちも数え終わったか」
レヴィが、カウンターから声をかけてきた。
「およそは」
玲は答えた。
「出口は二つ。奥の一つは、鍵が甘いです。今日、そちらから人が出入りするようであれば、注意が必要になります」
「それ、あたしも知ってる」
レヴィが、煙草の灰を落としながら言った。
「昔、その扉から逃げようとした間抜けを見たことがあるからな」
「その事例は、記録に加える価値があります」
玲は、手帳にその情報を書き足した。レヴィはその手つきを横目で見て、何か言おうとしたが、結局何も言わずに視線を戻した。
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昼が近づくにつれて、商談の関係者が一人、また一人と店に姿を見せ始めた。
最初に現れたのは、痩せた中年の男だった。仲介人らしき身なりで、店に入るなり店内を見渡し、椅子の位置を確認するように歩いた。玲はその男の視線の動きを注意深く観察した。視線が向かう先は、卓の配置よりも、むしろ壁際と出入り口に集中していた。
(依頼内容よりも、退路を先に確認している)
玲は、その傾向を手帳の隅に書き留めた。緊張の表れとしては自然な行動だが、程度がやや過剰だった。玲はその過剰さを、後で見直すべき変数として保留した。
次に現れたのは、売り手側の二人組だった。革のジャケットを着た大柄な男と、その連れの若い男。大柄な男は、店に入るなり真っ先にカウンターへ向かい、酒を注文した。若い男のほうは、落ち着かない様子で片方の足を小刻みに揺らしていた。
レヴィは、その二人の腰のあたりへ視線を向けていた。
「あの大柄なほう、右腰に得物を仕込んでる」
レヴィが、玲にだけ聞こえる声で言った。
「利き手は右。抜く時は、椅子から半分腰を浮かせる動きが先に来るタイプだ」
「観察が早いですね」
玲が言った。
「得物の位置と利き手を見りゃ、動く前に分かる。あんたの数字と同じだよ、多分」
レヴィは、そう言ってから小さく舌打ちをした。自分の口から出た言葉に、少し不服そうな顔をしている。玲はその表情の変化を見たが、特に触れなかった。
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買い手側の一団が店に入ってきたのは、それからしばらく後だった。
先頭に立つ男は、仕立ての整った服を着て、落ち着いた足取りで店の奥へ進んだ。後ろに続く二人は、その男の護衛らしく、周囲へ絶えず視線を配っている。玲は、先頭の男の歩き方を観察した。歩幅が一定で、視線の動きにも無駄がない。この場に慣れた人間の歩き方だった。
だが、後ろに続く護衛のうちの一人が、玲の注意を引いた。
その男は、卓の配置よりも、明らかに出入り口の数を数えるような視線の運びを見せていた。玲は、その視線が入口の扉と奥の搬入口のあいだを二、三度往復するのを確認した。商談の中身に対する関心よりも、店の構造そのものへの関心のほうが強いように見えた。
玲は、その動きを手帳に書き加えた。
(買い手側の護衛の一人、出入り口を確認する視線の頻度が他の同席者より高い)
一つの偶然として処理するには、動きの質がやや異なっていた。玲はその違和感を保留のまま、手帳のページを閉じずに残した。
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商談の卓が整い始める頃、レヴィが玲の隣まで歩いてきた。
「あんたのほうは、何か引っかかってんのか」
レヴィが、煙草をくわえたまま尋ねた。
「一つ」
玲は答えた。
「買い手側の護衛の一人が、商談の中身よりも出入り口の数を気にしています。頻度がやや高い」
「ふうん」
レヴィは、その男のほうへ視線を投げた。しばらく観察してから、小さく頷いた。
「言われてみりゃ、そうかもな。動きが商談慣れしたやつと違う」
「あなたにも、そう見えますか」
「見えるっつーか、匂いがする」
レヴィは、そう言って肩をすくめた。
「まあ、今んとこは様子見だ。動くまでは動かねえ」
「同感です」
玲は、静かに答えた。
二人の言葉は、方法も語彙もまったく違っていた。だが、辿り着いた結論の形だけは、驚くほど重なっていた。玲はその一致を、特別なものとしては扱わなかった。ただ、今日この現場において、二つの異なる観測手段は同じ一点を指し示していた。その事実だけを、静かに手帳へ書き加えた。
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商談が始まる直前、店内の照明が一段落とされた。
卓に着いた売り手と買い手が、それぞれの立場で言葉を交わし始める。玲はその輪の外側、壁際の位置に立ち、卓全体を視界に収める場所を選んだ。レヴィは、玲とは反対側の壁際に立ち、出入り口と得物の位置を見渡せる角度を取っていた。
言葉を交わすことなく、二人はそれぞれの持ち場についていた。
玲は手帳を静かに閉じ、鞄の内側にしまった。数えるべきものは、ひとまず数え終えている。あとは、その数字が現場でどう機能するかを見届ける段階だった。
窓の外では、昼のロアナプラの喧騒がいつも通りに続いていた。店の中だけが、開店前の静けさから緊張を孕んだ静けさへと、静かに移り変わろうとしていた。
玲は、出入り口を気にしていたあの護衛の背中を、もう一度だけ視線で捉えた。男は卓の傍らに立ち、商談の会話には加わらず、ただ店内の構造を確かめるような視線を繰り返している。
玲はその視線の意味を、まだ数値化できていなかった。だが数値化できないことは、放置していい理由にはならない。玲はその一点を、次の査定を待つ変数として、静かに記録の中に留め置いた。