BLACK LAGOON - ODDS -   作:たこ焼き 龍月

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三度目の正直 第三話「三度目」

 

 

商談は、拍子抜けするほど穏やかに始まった。

 

仲介人の音頭で、売り手と買い手それぞれの代表がグラスを掲げて型どおりの挨拶を交わす。握手が交わされ、乾いた笑い声がいくつか上がった。玲はその一連の儀礼を、卓の隅から静かに見守っていた。この種の場に付き物の建前の言葉に、大きな意味はない。査定すべき情報は、話し手の声の高さと視線の動きのほうに多く含まれている。

 

最初の三十分ほどは、玲が想定していた通りの展開で進んだ。世間話に近い当たり障りのない会話が続き、条件の細部に触れる者はまだいない。仲介人は満足げに酒を注いで回り、店内の空気は緩やかに温まっていった。

 

だが酒精というものは、緩んだ空気の中でこそ最も静かに毒を回す。

 

照明が落とされてから、すでに小一時間が経っていた。

 

卓を囲む男たちの声は、最初のうちこそ低く抑えられていた。だが酒の巡りが早い人間と遅い人間の差は、時間が経つほど輪郭をはっきりさせていく。玲は壁際に立ったまま、七つの卓に置かれたグラスの数と、その減り方を目の端で追っていた。減りの速い卓ほど、声のトーンが上がるのも早い。玲はその相関を、頭の中で静かに確かめていた。

 

対岸の壁際では、レヴィが煙草をくわえたまま、出入り口へ視線を配っている。二人のあいだに会話はなかった。ただ、それぞれの持ち場から、同じ空間を別の方法で見張っているだけだった。

 

七つの卓のうち、玲がとりわけ注意を払っていたのは三つだった。一つは仲介人がまとめようとしている本命の取引で、双方とも比較的落ち着いた飲み方をしている。残る二つは、脇の卓で進む小口の商談だった。グラスの空く速度が明らかに速く、笑い声の質もどこか粘つき始めている。玲はその二つの卓を、頭の中で監視優先度の高い側へ振り分けた。

 

窓の外では、ダッチの車が路肩に停まったままになっているはずだった。無線は通じる距離にあるが、店内の状況を逐一報告するほどの動きは、まだ何一つ起きていない。玲は懐の無線機の重さを一度だけ意識してから、また視線を卓へ戻した。

 

レヴィのほうは、手帳も無線も持たないまま、ただ肩の力を抜いて壁に寄りかかっていた。だがその姿勢は、決して油断を意味してはいなかった。煙草を持つ手とは逆の手が、両脇にあるカトラスの柄から、一度も離れていない。玲はその手の位置を目に留めて、レヴィなりの「監視優先度」がすでに定まっていることを読み取った。数字にすれば同じ結論に至る二人の見張り方が、言葉を交わさないまま、店の左右で静かに並び立っていた。

 

---

 

最初の小さな諍いは、開始から二十分ほどで起きた。

 

売り手側の卓の一つで、値の端数を巡って声が一段上がった。

 

「端数を切り捨てるって話は、最初から聞いてねえぞ」

 

「切り捨てじゃない。丸めただけの話だ」

 

言い合いはそれ以上大きくならないうちに、仲介人がすぐに割って入った。

 

「まあまあ、細かい話は後でゆっくり詰めましょう」

 

笑いを交えた口ぶりで場を収める。売り手側の男は、渋い顔をしながらもグラスに口をつけて、それ以上は言葉を続けなかった。玲はその一連の流れを、手帳を開かないまま記憶に留めた。声の上がり方、収まるまでの時間、仲介人の介入の速さ。数えるべき最初の一件だった。

 

二件目は、それから十分と経たずに起きた。今度は買い手側の卓だった。

 

「冗談も大概にしとけよ、その値じゃ話にならねえ」

 

誰かが冗談のつもりで口にした一言に、別の誰かが過剰に反応した。声を荒げた男の隣に座っていた仲間が、その肩を軽く叩きながら割って入る。

 

「おいおい、まだ酒も入ってねえのに気が早いだろ」

 

周囲がそれをなだめ、笑い声に変えて場を流していく。玲はその収束のさせ方を観察しながら、頭の中の数字を一つ進めた。

 

(今日、二件目)

 

レヴィは、その二件目のやり取りには特に反応を見せなかった。煙草の灰を静かに落としただけだった。だがその視線は、声を荒げた男の手元から一瞬も離れていなかった。

 

「あんたも見てたか」

 

しばらくして、レヴィが玲にだけ聞こえる声で言った。

 

「見ていました」

 

玲は答えた。

 

「二件とも、収まり方に共通点があります。仲介人か、隣の連れが即座に割って入っている。介入する人間がいる限り、揉め事は表面で止まる可能性が高いと見ています」

 

「そんなの、いつまでも続くとは限らねえけどな」

 

レヴィは、そう言ったきり口をつぐんだ。視線は、また店内の卓へと戻っていく。

 

---

 

三件目の兆しは、玲の位置からでも聞き取れる声色の変化として現れた。

 

「その値じゃ、こっちは仕入れ値割れだ。もう少し色をつけてもらわねえと」

 

「色をつけろって、さっきの端数の話と同じだろうが。何度言わせるつもりだ」

 

買い手側の一人と、売り手側の一人。値の切り方を巡るやり取りは、最初の二件と同じ種類のものだった。だが今回は、笑いに変わる気配がなかった。

 

「何度でも言うさ。こっちは慈善事業やってるわけじゃねえんだよ」

 

声は次第に低く、そして鋭くなっていく。仲介人が割って入ろうと腰を浮かせかけたが、その動きは一拍遅れていた。玲はその発端の言葉を正確に聞き取って、これが今日すでに三度目に該当する種類の揉め事であることを確認した。

 

三度目。玲はその数字を、静かに頭の中へ刻んだ。過去二件の収束の速さを踏まえれば、今回も同じ形で終わる確率は、決して低くない。だが声のトーンの変化幅は、これまでの二件とは明らかに異なっていた。玲はその違いを、無視していい誤差として処理することができなかった。

 

仲介人の腰の浮かせ方も、これまでの二件より遅い。介入の速度が遅れれば、収束にかかる時間もそのぶん延びる。延びた時間の分だけ、当事者の感情が言葉から行動へ移る確率は上がる。玲はその関係を、頭の中で素早く組み立て直した。結論として導かれたのは、これまでのように傍観していい局面ではない、という一点だった。

 

玲は視線だけを動かして、壁際のレヴィの位置を確かめた。すでに重心が卓のほうへわずかに傾いている。同じ結論に、レヴィもまた別の道筋から辿り着いているらしかった。

 

---

 

買い手側の男の手が、腰のあたりへ動いた。

 

その動きが完了するよりも先に、レヴィがすでに動いていた。壁際から一直線に卓へ近づいて、男の腕を得物に触れる前の位置でつかみ止める。動作に迷いはなく、体の重心を落としながら相手の腕を捻り上げていた。

 

「抜くのは、あたしが止めてからにしな」

 

レヴィが、男の耳元で低く言った。

 

男は、その一言と腕にかかった力に、動きを止めた。周囲の視線が一斉にその卓へ集まる。店内の空気が、それまでとは違う密度に変わった。

 

---

 

玲は、その瞬間にはすでに動いていた。

 

レヴィが動き出した刹那から、玲の視界は店内の位置関係を数え直していた。卓の間隔、出入り口までの距離、遮蔽物になりうる柱の位置。数えるべき変数はすでに二話の時点で頭に入っている。今この瞬間、それがどう変化したかだけを、玲は素早く上書きしていた。

 

「出口は二つ」

 

玲は、レヴィにだけ届く声量で言った。

 

「奥の一つは、すでに片方が塞いでいます」

 

レヴィの視線が、一瞬だけ玲のほうへ動いた。それ以上の言葉は要らなかった。塞いでいるのが誰の背中で、どちらへ動けば無駄がないか。その計算は、レヴィ自身がすでに同じ速度で終えているらしかった。

 

---

 

だが、店内の均衡はそこで止まらなかった。

 

レヴィが一人の腕を押さえ込んでいるその隙に、別の卓に着いていたもう一人の男が、傍らに立てかけられていた得物へ手を伸ばした。角度としては、レヴィの死角にあたる位置だった。

 

玲は、その動きをすでに読んでいた。二件目の揉め事が起きた卓、その隣に座っていた男。声のトーンの変化と視線の運びから、玲はその男を三件目の潜在的な当事者候補として、頭の中の保留リストにすでに加えていた。

 

「右奥」

 

玲は、短く声を上げた。感情の起伏を伴わない、報告のような一言だった。

 

---

 

レヴィは、その二文字だけで反応した。

 

説明を求める間もなく、体が先に動いていた。片方の腕で最初の男を押さえたまま、もう一方の手で、右奥の男の得物にかかった手首を蹴り上げる。得物が床に落ち、乾いた音が店内に響いた。

 

間一髪だった。玲はその一連の動きを、視線を動かさずに見届けた。レヴィと自分のあいだに、言葉での打ち合わせはほとんどなかった。それでも、動きは噛み合っていた。玲はその事実を、驚きとしてではなく、確認された仮説として受け止めた。

 

玲の計算は、常に一手遅れて現場に届く。位置を数えて確率を弾く。その結果を報告の言葉にするまでには、わずかな時間が発生する。だがその一手を、レヴィの反射神経が埋めていた。玲が読み、レヴィが動く。役割の境界線は、誰かが決めたわけでもないのに、今日の現場で自然と形を成しつつあった。

 

(勘と計算は、対立する道具ではない。順番が違うだけだ)

 

玲は、その仮説を頭の中に書き加えた。結論を出すには、まだ材料が足りない。だが今日この瞬間だけは、その仮説を裏付ける方向に、事実が積み重なっていた。

 

---

 

それでも、乱闘は完全には防げなかった。

 

押さえ込まれた男の連れが、業を煮やして卓を蹴り上げる。卓は横倒しになり、載っていたグラスと灰皿が音を立てて床に散らばった。倒れた拍子に誰かの肩が壁にぶつかり、古い木材の継ぎ目がそのまま崩れ落ちる。埃と共に、壁の一部が剥がれ落ちた。

 

店内の空気は、一瞬で沸騰した。仲介人が悲鳴に近い声を上げ、周囲の客が椅子を蹴倒しながら卓の輪から離れていく。玲はその混乱の中でも、視界の中の人数と位置を数え続けていた。数えることをやめる理由は、この状況の中にも存在しなかった。

 

割れたグラスの一つが、逃げ惑う客の足に弾かれて宙を舞った。軌道の先には、腰の抜けた仲介人がまだしゃがみ込んだままでいる。玲はその軌道を一瞬で見積もって、仲介人の肩を後ろから軽く引いた。ガラスは直前まで男の頭があった空間を通り過ぎて、壁に当たって砕けた。

 

「……あ」

 

仲介人が、状況を飲み込めないまま、玲のほうを振り返った。玲はその視線に応えず、ただ短く言った。

 

「動かないでください。次を数えます」

 

その言葉に感情の起伏はなかった。命を助けたという実感も、恩に着せる気配も、玲の声には一切含まれていなかった。ただ、これから起こりうる次の損失を最小化するための、一つの処置に過ぎなかった。

 

その直後、押さえ込まれていた最初の男が、レヴィの拘束を振りほどこうと肩を強く回した。反動でレヴィの体が半歩よろめく。空いたわずかな隙を突くように、男の連れがもう一人、拳を振り上げて割り込んできた。玲の位置からは、レヴィの死角に入るその拳筋がはっきりと見えていた。

 

「後ろ」

 

短い声だった。レヴィは振り向かないまま、体をわずかに沈めて拳をかわす。流れた拳が、代わりに背後の柱を叩いた。鈍い音と共に、男が小さく呻いて手を押さえる。

 

「……あんた、目玉が後ろにもついてんのか」

 

レヴィが、息を整えながら低く呟いた。玲はそれには答えず、次の卓へ視線を移していた。数えるべき対象は、まだ一つでは終わっていなかった。

 

---

 

カウンターの奥から、バオが飛び出してきた。

 

グラスを片手に持ったまま、崩れた壁の一角を見て、その場に立ち尽くす。しばらくのあいだ、言葉にならない呻き声を漏らしていた。それから、両手で自分の頭を抱えるようにして声を上げた。

 

「今年に入って何回目だと思ってやがる!」

 

その声には、怒りと、それを通り越したような疲労が混じっていた。周囲の喧騒がわずかに静まる中で、バオの声だけが店内に響いていた。

 

玲は、崩れた壁の一角と、床に転がった卓の破片を一瞥した。それから、静かに答えた。

 

「三回目です」

 

バオは、グラスを持ったまま動きを止めた。しばらくのあいだ、玲の顔をまじまじと見返していた。

 

「……お前、数えてたのか」

 

「数えていました」

 

玲は、短く答えた。

 

「今日、この種類の揉め事が起きたのは三度目です。一度目と二度目は仲介人の介入で収まりましたが、三度目は収まりませんでした」

 

---

 

バオは、それ以上何も言わず、崩れた壁の前でしばらく立ち尽くしていた。

 

やがて諦めたように息を吐いて、カウンターの下から予備の木板を引っ張り出す。釘を口にくわえて、崩れた壁の輪郭に木板を当てがいながら、迷いのない動きで打ちつけていく。壁の応急処置に取りかかる手つきには、何度も繰り返してきた動作特有の慣れがあった。

 

玲はその手つきを見ながら、この店が破壊と修繕を何度繰り返してきたかを、あらためて頭の中で数え直した。木板の継ぎ目の数、色の濃淡、打ちつけられた釘の古さ。それらすべてが、この店の歴史を積み重ねた層のように、壁の表面に刻まれていた。

 

---

 

騒ぎ自体は、それ以上大きくならなかった。

 

押さえ込まれた男二人は、レヴィと玲によって早々に動きを封じられている。周囲の他の客は、巻き込まれることを避けるように距離を取っただけで、加勢する動きは見せなかった。仲介人が震える声で場を取りなし、双方の連れがそれぞれの男を引き取っていく。

 

「今日はここまでにしてもらおうか」

 

仲介人が、額の汗を拭いながら言った。

 

「話の続きは、頭を冷やしてからだ」

 

売り手側と買い手側は、それぞれ苦い顔をしたまま、店の出口へ向かって引き上げていった。押さえ込まれていた男の一人は、腕をさすりながらレヴィのほうを一度だけ睨みつけたが、それ以上は何も言わずに姿を消した。

 

一件目、二件目の当事者たちも、居心地悪そうに席を立ち始めていた。自分たちの声の応酬が、三件目の呼び水になったという自覚があるのかどうかは、玲の位置からは判別がつかなかった。ただ誰もが決まりが悪そうに視線を伏せながら、足早に出口へ向かっていく。その様子だけは、はっきりと見て取れた。

 

玲は、その一連の退場の様子も、静かに記憶へ留めた。原因と結果の連鎖を辿るには、当事者の去り際の態度もまた、無視できない材料の一つだった。

 

---

 

負傷者は、双方とも軽い擦り傷と打撲の範囲に収まっていた。

 

流血を伴うような深刻な怪我人は出ていない。玲はその結果を、事前に見積もっていた最悪のケースと照らし合わせた。乱闘が本格化していれば、負傷者の数も程度も、この場で収まる規模ではなかったはずだった。今回の結果は、その最悪のケースからは大きく外れていた。

 

(介入のタイミングが、結果を左右した)

 

玲は、その一文を頭の中に留めた。感傷ではなく、記録として。

 

---

 

仲介人が、乱れた襟元を直しながら、玲とレヴィのもとへ戻ってきた。

 

「助かった……いや、正直、今日はもう駄目かと思ったよ」

 

そう言って、額の汗を何度も拭う。

 

「あの二人組さえ抜きゃ、話自体はまとまりそうだったんだ。もう一度、日を改めて場を作れないか、そっちの商会に頼めるかい」

 

「その判断は、ダッチが行います」

 

玲は答えた。

 

「ただし、今日と同じ組み合わせの人間を同じ卓に着かせるのであれば、揉め事の再発率は下がらないと見ています。座席の配置を変えるだけでも、数字は変わるはずです」

 

仲介人は、その返答に一瞬言葉を失ってから、力なく笑った。

 

「……そこまで考えてくれるとは思わなかったよ。次も、あんたらに頼めるかい」

 

「それも、ダッチの判断です」

 

玲は繰り返した。

 

「私が言えるのは、今日の記録が、次回の見積もりの精度を上げるという事実だけです」

 

仲介人はそれ以上何も言わなかった。疲れた様子で頭を下げると、自分の荷物をまとめに戻っていった。玲はその背中を見送りながら、一つの事実をあらためて記録に加えた。考えるという行為そのものが、この街ではまだ珍しがられるものらしい。

 

---

 

店内が落ち着きを取り戻し始めた頃、レヴィは倒れた卓を一瞥してから、玲のほうへ歩み寄ってきた。

 

「あんたの『右奥』、あれ助かった」

 

レヴィが、煙草に火をつけながら言った。

 

「言われた瞬間、体が先に動いたわ」

 

「事前に候補を絞っていました」

 

玲は答えた。

 

「二件目の揉め事があった卓の隣に座っていた男です。声のトーンと視線の動きから、次に動く可能性が高いと見積もっていました」

 

レヴィは、その説明に片方の眉を上げた。

 

「見積もり、ね」

 

「はい」

 

「まあ、当たったんだから文句はねえけどよ」

 

レヴィは、そう言って煙を吐き出した。視線は、崩れた壁の修繕に取りかかっているバオのほうへ向いている。

 

「あんたと組んで、初めて役に立ったと思ったのは、多分今のだな」

 

その言い方には、素直な称賛ではなく、認めたくないものを認めるときの独特のぶっきらぼうさがあった。玲はその声の調子を聞き取ったが、特に指摘はしなかった。

 

---

 

「三回目だと分かっていたなら、もっと早く言えばよかったんじゃねえの」

 

レヴィが、灰を落としながら尋ねた。

 

「早く言っても、結果は変わらなかったと見ています」

 

玲は答えた。

 

「一件目と二件目は、収まる確率のほうが高い形で推移していました。介入すれば、かえって不要な緊張を生んだ可能性があります」

 

「三件目だけ違ったってことか」

 

「はい」

 

玲は頷いた。

 

「声のトーンの変化幅が、過去二件と明確に異なっていました。その一点だけを基準に、動くべき瞬間を待っていました」

 

レヴィは、しばらく黙って玲の横顔を見ていた。それから、小さく舌打ちをした。苛立ちのそれとは、明らかに質の違う舌打ちだった。

 

「あんたのそういうとこ、やっぱ気持ち悪いわ」

 

「気持ち悪いという評価は、今回の結果には影響しません」

 

玲は、静かに答えた。

 

レヴィは、それ以上何も言わず、短く笑って視線を逸らした。

 

---

 

バオが、壁の応急処置を終えて振り返った。

 

「今日の修繕代、後でしっかり請求書出すからな」

 

「承知しました」

 

玲が答えた。

 

「今回の破損規模であれば、前回までの平均よりやや低い範囲に収まると見積もっています」

 

「褒めてんのか、けなしてんのか分かんねえよ、お前は」

 

バオが、ぼやくように言った。

 

「どちらでもありません」

 

玲は答えた。

 

「これは報告です」

 

バオは、それ以上言葉を返さず、グラスを拭く手をまた動かし始めた。何度目かの諦めが、その仕草には滲んでいた。

 

---

 

店内の喧騒が、少しずつ元の質に戻っていく。

 

倒れた卓は誰かの手で起こされ、割れたグラスの破片は箒で隅に寄せられた。何事もなかったかのように、また誰かが酒を注文する声が上がる。この街にとって、乱闘の後始末もまた、日常の一部に過ぎなかった。

 

玲は、壁際の元の位置に戻り、手帳を静かに取り出した。今日の三件の揉め事、それぞれの発端と収束の形、破損の規模。一つずつ、几帳面な字で書き加えていく。レヴィは、少し離れた場所で煙草をふかしながら、その手つきを横目で眺めていた。

 

「まだ書くことあんのか」

 

「終わったことも、記録する価値があります」

 

玲は、手帳から顔を上げずに答えた。

 

「今日起きたことは、次に同じ形の揉め事が起きたとき、判断を速める材料になります」

 

レヴィは、それに対して何も言い返さなかった。代わりに、店の奥の暗がりへ視線をやったまま、しばらく動かなかった。

 

---

 

その視線の先、玲もまた別の方向から、同じ暗がりのあたりに目を留めていた。

 

騒ぎのあいだ、玲はずっとある一点を意識の隅に留めていた。二話の商談開始前、出入り口の数を気にするような視線の運びを見せていた買い手側の護衛。その男は今回の乱闘のあいだ一度も卓へ近づかず、得物にも手をかけなかった。ただ壁際に立ったまま、騒ぎの推移そのものを観察するような目をしていた。

 

玲は、その男の様子を手帳の隅に短く書き加えた。

 

(乱闘に加わらず、観察に徹していた。目的は、まだ不明)

 

書き終えて顔を上げたとき、その男の姿はすでに店内から消えていた。玲はその不在を、一つの変数として静かに記録に残した。

 

---

 

玲とレヴィは、初めて一つの現場を、大きな破綻なく乗り切ったことになる。

 

レヴィは、それを声高に喜ぶわけでもなく、かといって不満げに黙り込むわけでもなかった。ただ、いつもより幾分か長く、煙草の煙を吐き出しただけだった。玲は、その横顔を一度だけ見てから、手帳を静かに閉じた。

 

「帰るか」

 

レヴィが、煙草を灰皿に押しつけながら言った。

 

「はい」

 

玲は頷いて、鞄の留め金を確かめた。二人は言葉を交わさないまま、崩れた壁と、片付けの途中にあるバオの店を後にした。

 

店を出てすぐ、玲は懐から無線機を取り出して、周波数を確かめてから口元に近づけた。

 

「こちら玲。護衛任務、完了しました。負傷者は当方以外の関係者のみで、いずれも軽傷。店舗の損傷は軽微です」

 

無線の向こうで、ダッチの短い返答があった。

 

『了解。詳しい話は戻ってからでいい』

 

「承知しました」

 

玲は無線機を懐に戻した。レヴィは、その一連のやり取りを黙って聞いていたが、何も口を挟まなかった。報告という行為そのものに、異論を挟む理由が見当たらなかったのかもしれない。

 

昼の光が、店の中にいたときより急に強く感じられた。並んで歩き出した二人の足取りには、これといった会話はなかった。それでも、店に入る前とは何かが違っていた。玲はその違いを、まだ正確な言葉にできていなかった。ただ、隣を歩くレヴィの歩調と自分の歩調が、行きよりもわずかに揃っていることだけは確かに感じ取っていた。

 

---

 

歩きながら、レヴィは煙草をくわえ直した。

 

(「右奥」、か)

 

胸の内で、その一言をもう一度なぞる。命令でも助言でもない、ただの座標だった。それだけで体が動いたことが、レヴィ自身、まだうまく飲み込めていない。これまで組んできた誰の声も、あれほど迷いなく体を動かしたことはなかった。

 

数字で物を語る女。最初はそれだけで十分に苛立つ理由だった。だが今日、店の中で交わした言葉のやり取りには苛立ち以外の何かが確かに混ざっていた。それが何かを言葉にする気には、まだなれない。レヴィはその感覚を、いつものように舌打ち一つで胸の奥へ押し込んだ。

 

隣を歩く玲は、それに気づいた様子もなく、ただ前を向いて歩いている。レヴィはその横顔を一瞥してから、短く息を吐いた。

 

---

 

窓の外では、ロアナプラの昼が、いつも通りの喧騒を続けている。店の中だけが、束の間の静けさを取り戻していた。三度目の揉め事は、三度目にして初めて、収まりきらなかった。だがその結果すら、玲にとっては次の査定を待つ、一つの記録に過ぎなかった。

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