BLACK LAGOON - ODDS - 作:たこ焼き 龍月
事務所に戻った頃には、日はすでに西へ大きく傾いていた。
窓から差し込む光は朝よりも赤みを帯び、埃の粒子を淡く照らしている。玲は入口で靴の汚れを軽く払ってから、いつもの机へ向かった。イエローフラッグでの騒ぎの余韻は、まだ耳の奥にわずかに残っている。だがそれを引きずる理由は、玲の中に存在しなかった。
騒ぎそのものは、すでに処理済みの事象だった。残っているのは、その事象を記録し、判断材料へ変換していく後段の作業だけである。玲にとって、現場と机上のあいだには明確な境界線が引かれていた。前者は反応の領域であり、後者は査定の領域だった。
鞄から手帳を取り出し、机の上に開く。今日の現場で起きた三件の揉め事について、その発端と発生時刻を順に思い返す。関与した人数、そして店の破損箇所についても、記憶が薄れないうちに書き留めておく必要があった。玲はその一つひとつを、几帳面な字で清書し直す作業に取りかかった。現場の緊張の中で書かれた走り書きは、線が乱れている。清書は、その乱れを整えるための、玲にとって欠かせない工程だった。
数字そのものは、現場で得た瞬間にはすでに存在している。だが乱れた字のまま放置すれば、いずれ読み取りの精度が落ちる。清書という作業は、いわば準備金の積み立てに似ていた。今すぐに必要なわけではないが、後になって必ず効いてくる種類の手間である。
東京の会社に勤めていた頃も、玲は同じ作業を繰り返していた。日中に集めた事故報告と査定資料を、夜のうちに清書し直し、翌日の判断へつなげる。場所も対象も変わったが、手順そのものは何一つ変わっていない。ロアナプラという街の名前が、かつての勤務先の名前に置き換わっただけのことだった。
ペン先が紙の上を滑る音だけが、静かな事務所に規則正しく響いていた。
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「まだ書いているのかい」
顔を上げずに手を動かしていると、ベニーが端末の前から声をかけてきた。
「今日の分だけじゃなさそうだけど」
玲はページをめくる手を止めた。手帳には、これまでに拾い集めた記録が、日付ごとに整然と並んでいる。
「イエローフラッグの破損記録です」
「破損記録?」
ベニーが椅子ごとこちらへ向き直った。
「イエローフラッグの破壊記録、そんなに溜まってるのか」
「バオの店の破損記録を、依頼のたびに拾ってきました」
玲は答えた。
「今日ので、記録上は七件目です」
ベニーは軽く口笛を吹きかけて、途中で止めた。感心と呆れの中間にあるような表情が、その顔に浮かんでいる。
「七件って、君がこの商会に来てからか」
「はい」
「そんなの、律儀に数えてる人間、初めて見た」
ベニーはそう言いながら、椅子を引きずって玲の机の近くまで寄ってきた。手帳の上に並んだ数字の列を、興味深そうに覗き込む。
「バオも知らないだろうな、こんなふうに数えられてるって」
「知る必要はありません」
玲は返した。
「これは彼に見せるための記録ではなく、私が判断するための記録です。対象に開示するかどうかは、また別の判断になります」
ベニーは、その言い方に小さく笑った。
「相変わらず、線引きがはっきりしてるな、君は」
「バオが見たら、機嫌を損ねるでしょうか」
玲が尋ねた。
「損ねるだろうな、間違いなく」
ベニーは笑いながら答えた。
「自分の店がそこまで細かく採点されてるなんて、思いたくもないだろうさ」
「採点ではありません」
玲は訂正した。
「観測と記録です」
「君にとっては同じことなんじゃないのかい、それ」
ベニーは、そう言って肩をすくめた。玲はその指摘に、あえて反論しなかった。厳密には違う概念だが、ベニーの言い分にも一定の妥当性がある。反論するだけの明確な根拠が、今すぐには見当たらなかった。
「曖昧な線引きは、後になって解釈の余地を生みます」
玲は続けた。
「解釈の余地は、判断の精度を下げます」
「君の世界には、グレーゾーンってものがないのかい」
ベニーが、からかうように尋ねた。
「グレーゾーンは存在します」
玲は答えた。
「ただし、それは未確定であるという状態を示すだけで、白と黒の中間にある固定値ではありません。データが増えれば、いずれどちらかに寄っていきます」
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一頻りのやり取りのあと、ベニーは手帳を借り受け、ページを一枚ずつめくり直した。
「日付、時間帯、破損の規模……こりゃまた細かいな」
ベニーが呟いた。
「これ、何のために取ってんだい」
「次の依頼を受けるかどうかを判断するときの材料です」
玲は端的に答えた。
「イエローフラッグでの護衛や取引に関わる依頼を受けるたび、店の破損確率と修繕費の期待値を、事前に見積もっておく必要があります」
「見積もっといて、どうすんだい」
「報酬額と危険度の釣り合いが取れているかを、判断できます」
玲は続けた。
「割に合わない依頼を、感覚だけで受けずに済みます」
「割に合わない依頼、ねえ」
ベニーが、腕を組みながら繰り返した。
「そういうの、前の仕事でもやってたのかい」
「保険の査定と、構造は同じです」
玲は答えた。
「事故が起きる確率と、支払う保険金の額を照らし合わせて、契約を結ぶかどうかを決めます。今やっているのは、対象が保険契約から依頼に変わっただけです」
「なるほどね」
ベニーは、口の端を上げた。
「イエローフラッグは、君にとっては契約対象の建物ってわけか」
「その表現は、おおむね正確です」
ベニーは、その説明にしばらく黙り込んだ。それから、感心したように小さく頷いた。
「君、そこまで見越して仕事選んでたのか」
「ダッチの判断材料の一つになれば、それで十分です」
玲は言った。
「私が最終的に決めるわけではありません」
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ベニーが端末に戻ってからも、玲は作業を続けた。
七件の記録を、日付順に並べ直す。曜日と発生時刻、関与した人数、そして商談の内容。項目を一つずつ書き出していくうちに、玲はある傾向に目を留めた。
まず目についたのは、曜日の偏りだった。七件のうち四件が、週の後半に集中している。給料日の直後にあたる時期と、おおむね重なっていた。懐に余裕がある時期ほど、卓に着く人間の気が大きくなる。その仮説自体は、さほど目新しいものではない。玲が手を止めたのは、その先だった。
七件のうち五件が、特定の種類の取引に関わっている。現金での一括払いではなく、分割払いの条件が含まれる取引だった。玲はその五件を丸で囲み、残る二件と見比べた。曜日による説明だけでは、この偏りの大きさを埋め切れない。何か別の変数が、背後に隠れている。
条件の異なる取引がどれだけの頻度で行われているか、正確な母数までは手帳から把握できない。だが今日までに立ち会った依頼の全体を思い返す限り、分割払いを含む取引の割合は、現金一括のそれより明らかに少ない。にもかかわらず、揉め事の発生件数では、分割払いの側が上回っている。単純な曜日要因よりも、こちらの相関のほうがはるかに強い。
玲はその数字を、頭の中でもう一度組み立て直した。曜日は補助的な変数に過ぎず、支払い条件こそが主たる要因である。そう結論づけるだけの根拠は、七件という限られたサンプルの中にも、すでに十分に表れていた。
もちろん、七件という数は、統計的に胸を張れる規模ではない。母数が小さいほど、偶然の偏りが大きく見えることもある。だがそれを差し引いても、二倍という数字は無視するには大きすぎた。玲はその危うさを承知の上で、仮説として書き留めることを選んだ。確定した結論ではなく、次の観測によって検証されるべき仮の値として扱う。それが、限られたデータを最大限に活かす、玲なりの誠実さの形だった。
(分割払いが絡む取引は、揉め事の発生率が単純な現金取引のおよそ二倍)
その一文を、玲は手帳の余白に静かに書き加えた。
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「なんの数字弾いてんだ、そんな真剣な顔して」
いつの間にか、レヴィが事務所の入口に立っていた。イエローフラッグでの一件を終えたばかりのはずだが、装備は解いていない。まだ現場の熱がどこかに残っているような足取りで、こちらへ歩いてくる。
肩に得物を引っかけたまま、煙草をくわえている。玲が振り返るより先に、レヴィはこちらへ歩み寄り、机の脇から手帳を覗き込んできた。
「分割払いの条件が絡む取引は、揉め事の発生率が単純な現金取引のおよそ二倍です」
玲は、手帳から視線を上げずに答えた。
レヴィは、その数字を一瞬だけ見つめた。それから、片方の眉を上げる。
「そんなの、あたしはとっくに知ってたけどな」
煙草の煙を吐き出しながら、レヴィは言った。
「分割の話が出た日は、なんか空気が悪いんだよ」
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玲は、ペンを止めた。
「その『空気が悪い』という感覚は」
一拍の間を置いて、玲は続けた。
「私の数字とほぼ一致しています」
レヴィの動きが止まった。
煙草を持つ手が、灰皿の縁で宙に浮いたまま動かない。しばらくのあいだ、レヴィは玲の横顔をまじまじと見ていた。
「……は?」
「あなたが言う『空気が悪い』という現象と、私が今出した『発生率が二倍』という数字は、同じ事象を指しています」
玲は続けた。
「観測している対象が同じであれば、方法が違っても、結論が近づくのは自然なことです」
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レヴィは、しばらく言葉を返さなかった。
灰が長く伸びた煙草を、ようやく灰皿に押しつける。その仕草には、いつもより一拍の遅れがあった。数字で説明されたことに対しては、素直に頷きたくない気持ちがある。それでいて、実際に一致していることへの妙な納得も、確かにレヴィの中に存在していた。
「勘と計算が同じとこに辿り着くとか」
やがて、レヴィが口を開いた。
「気持ち悪いこと言うな」
「気持ち悪いのではありません」
玲は、静かに答えた。
「同じ現象を、別の言葉で観測しているだけです」
レヴィは、その返答に舌打ちを一つ落とした。苛立ちとは違う質の舌打ちだった。反論の糸口を探して、見つからない。そういう間合いだった。
「あんたに言わせりゃ、『虫の知らせ』とかも数字なんだろうな」
レヴィが、皮肉交じりに言った。
「『虫の知らせ』は、過去の類似事例に基づく無意識のパターン認識です」
玲は返した。
「本人が根拠を言語化できていないだけで、実際には経験から抽出された相関を検知しています。神秘の話ではありません」
「はいはい、なんでも計算かよ」
レヴィは、それ以上取り合わずに視線を逸らした。だがその口調には、先ほどまでの尖りが、幾分か抜けていた。
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「じゃあ聞くけどよ」
レヴィが、椅子の背に肩を預けながら言った。
「なんで分割の話が出ると、揉め事が増えんだよ。あんたの数字、理由まで言えんの」
「一つの仮説はあります」
玲は答えた。
「分割払いを含む取引は、条件を詰めるための時間が長くなります。仲介人が細部を調整するあいだ、卓に着いた人間は、話が動かないまま酒を飲み続けることになります」
玲は続けた。
「三話目の現場で確認した通り、酒の減りが速い卓ほど、声のトーンが早く上がる傾向があります。分割払いの取引は、その滞留時間そのものを引き延ばします」
レヴィは、その説明にしばらく黙っていた。それから、腕を組んで小さく息を吐いた。
「言われてみりゃ、そうかもな」
レヴィが呟いた。
「今日の卓も、条件詰めてる連中だけ、やたらグラスの空きが速かった気がする」
「その観察は、私の仮説を補強します」
玲は静かに答えた。
「あなたが体感で覚えていた事象と、私が数字で導いた仮説が、また一致しました」
「回りくどい言い方すんな。要するに、待たされて苛立つってだけだろ」
「その通りです」
玲は頷いた。
「『待たされて苛立つ』という言葉だけでは、次にどの卓が危ないかまでは分かりません。数字にすれば、それが分かります」
「言葉と数字で、そんなに違うもんかね」
レヴィが、片眉を寄せて言った。
「言葉は、事後の説明には向いています。ですが事前の予測には、ほとんど向きません」
玲は答えた。
「『苛立つ』という言葉一つでは、次に苛立つのがどの卓かまでは示せません。数字であれば、条件を満たす卓を先に絞り込めます」
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「あんたのそういうとこ」
レヴィは、新しい煙草を取り出しながら言った。
「回りくどいくせに、妙に的射てんだよな」
「褒め言葉として受け取ります」
玲は返した。
「褒めてねえよ」
レヴィは、火をつけながら短く返した。だがその声には、先ほどまでの刺々しさが幾分か薄れていた。
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奥の部屋から、ダッチが姿を見せたのは、その少し後だった。
無線機を手にしたまま、二人のやり取りを聞いていたらしい。口元に、小さく笑みが浮かんでいる。
「面白い話をしてるな」
ダッチが言った。
「玲の数字と、レヴィの勘が、同じとこに辿り着いたって話か」
「たまたまです」
レヴィが、視線を逸らしながら言った。
「二倍っつっても、たった七件のデータだろうが。そんなんで法則みたいに言うなよ」
「サンプル数が少ないという指摘は、正当です」
玲は認めた。
「ただし、傾向が存在すること自体は否定できません。今後の記録が増えれば、この数字の精度は上がります」
「精度って、どれくらい増えりゃ上がるんだよ」
ダッチが尋ねた。
「大数の法則に従えば、観測数が増えるほど、数値は真の値に近づきます」
玲は答えた。
「七件と七十件では、同じ二倍という数字でも、信頼できる度合いがまったく異なります。今の段階では、あくまで仮説の域を出ません」
「気の長い話だな」
ダッチが、苦笑交じりに言った。
「気が長いのではありません」
玲は端的に答えた。
「急いで出した結論は、たいてい後で修正が必要になります。最初から精度を欲張らないことが、結果的に最短の道になります」
「仮説でも、聞いといて損はねえな」
ダッチは、そう言って口の端を上げた。
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「これ、次の仕事選びに使えるのか」
ダッチが、興味深そうに尋ねた。
「使い方によります」
玲は答えた。
「分割払いの絡む依頼を避けるべきだ、とは言いません。むしろ、そうした依頼ほど、仲介人が支払う報酬額は高くなる傾向にあります。危険度に見合った対価が、あらかじめ含まれている場合が多いということです」
「具体的には、どれくらい違うんだよ」
ダッチが尋ねた。
「これまでの記録では、分割払いを含む依頼の平均報酬は、現金一括の依頼よりおよそ三割高くなっています」
玲は返した。
「危険度の上昇分を、報酬の上昇分がおおむね吸収している計算です」
「じゃあ、何を見積もっとくんだよ」
「事前に、揉め事が起きる確率が高いと分かった上で、人員の配置と警戒の密度を調整することです」
玲は続けた。
「今日のように、後手に回ってから対処するのではなく」
ダッチは、その説明に頷いた。
「なるほどな。次に似たような依頼が来たら、最初から人数を厚くするか」
「その判断は、ダッチが行うことです」
玲は言った。
「私が提供できるのは、判断のための数字だけです」
「そういう線引き、お前は徹底してるよな」
ダッチが言った。
「口を出そうと思えば、いくらでも出せるだろうに」
「意見を述べることと、判断を代行することは、別の行為です」
玲は答えた。
「前者は業務の範囲内ですが、後者は越権です」
ダッチは、その返答に喉の奥で小さく笑った。それから、それ以上何も言わず、無線機のつまみを確かめながら奥の部屋へ戻っていった。その背に、まだ小さな笑みが残っていた。
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「なあ」
レヴィが、煙を吐き出しながら口を開いた。
「あんた、その数字がなかったら今日みたいな現場、どうやって動くつもりだったんだよ」
「数字がなければ、動きません」
玲は静かに答えた。
「動く前に、可能な限り数えます。それが私のやり方です」
「あたしは、数える前に動くけどな」
レヴィは、片方の口の端を上げた。
「それで、これまで死なずに済んできた」
「その実績は、有効なデータです」
玲は言った。
「反射で動く判断が、これまで平均以上の生存率を維持してきたという事実は、軽視すべきではありません」
レヴィは、その言い方に、片方の眉をわずかに上げた。皮肉なのか本気なのか、判別のつかない返答だった。
「死んだ奴の反射神経は、記録に残らねえもんな」
レヴィが、口の端を上げて言った。
「その指摘は的確です」
玲は答えた。
「生き延びた人間の判断だけを集計すれば、反射という手法そのものを過大評価する結果になります。生存者バイアスと呼ばれる誤りです」
「じゃあ、あたしの評価も、そのバイアスとやらのせいで甘くなってるってことか」
「可能性はあります」
玲は認めた。
「ただし、七件の現場すべてで機能してきたという事実自体は、バイアスを差し引いても十分に高い評価に値します」
レヴィは、鼻を鳴らした。呆れとも納得ともつかない、短い響きだった。
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「あたしと組んで、あんたの数字は変わったのかよ」
しばらくして、レヴィが尋ねた。
「変わりました」
玲は、迷わず答えた。
「反射で動く人間の判断速度を、これまでより高く見積もり直しています。あなたの動きは、私が想定していたよりも、数字として優秀です」
「優秀って」
レヴィは、鼻で笑った。
「あんたに数字で褒められても、嬉しくもなんともねえよ」
「感想を求めていません」
玲は、静かに答えた。
「観測結果を、そのまま報告しただけです」
「じゃあ聞くけどよ。その見積もり、次からどう使うんだよ」
レヴィが、興味を隠しきれない様子で尋ねた。
「次に似た現場へ入る際、あなたの反応時間を織り込んだ配置を組めます」
玲は返した。
「これまでは、私が単独で動く前提の配置しか計算していませんでした。今後は、あなたが隣にいることを前提とした計算に切り替えます」
「隣にいること前提、ね」
レヴィは、その言葉を噛みしめるように繰り返した。それから、それ以上は続けず、短く息を吐いた。反論する気力を失ったような、それでいて不服そうな沈黙だった。
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その様子を、奥のソファでゲーム機を弄っていたルマジュールが、いつからか眺めていた。
「なんか、二人とも変な感じ」
ルマジュールが、画面から顔を上げずに呟いた。
「何がだよ」
レヴィが、視線を向けずに聞き返す。
「喧嘩してるわけでもないし、仲良くしてるわけでもないし」
ルマジュールは、続けた。
「でも、なんか今日、雰囲気違うじゃん」
「わたしにはよく分からないけど、なんか、そんな感じがするってだけ」
ルマジュールは、そう付け加えてから、興味を失ったようにまた画面に視線を戻した。
レヴィは、その指摘に答えなかった。代わりに、煙草の灰を灰皿に落とし、視線を窓の外へ逃がした。玲もまた、特に反論しなかった。雰囲気の違いを数値化する材料は、まだ玲の手元になかった。
「二人して黙るとこも、なんか変」
ルマジュールは、それだけ言うとまたゲーム機の画面に視線を戻した。追及する気配はない。指摘だけを置いて、それ以上踏み込まない距離の取り方は、ルマジュールなりの気の遣い方らしかった。
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夜が近づき、事務所の中の人影が、少しずつ減っていった。
ベニーは端末をしまい、帰り支度を始めている。手帳から顔を上げない玲の様子に、ベニーは肩をすくめた。
「今日はそこまでにしとけよ。数字は逃げないんだから」
「あと一件、確認したら閉じます」
玲は答えた。
「精度を落としたまま持ち越すと、明日の判断が鈍ります」
「相変わらずだな」
ベニーは苦笑しながら、鞄を肩にかけて扉のほうへ向かった。
「お疲れさん。また明日」
ルマジュールは、あくびを一つしてから、ゲーム機を鞄に押し込んだ。
「じゃ、わたし帰るね」
「気をつけて」
玲が、手帳から顔を上げずに言った。
「あんたも、あんまり根詰めすぎないようにね」
ルマジュールは、扉に手をかけたまま振り返って言った。
「数える手も、たまには休ませないと」
「検討します」
玲は答えた。それが検討に値する提案なのかどうかは、まだ判断していなかった。
ルマジュールは、少し足を止め、それから何も言わずに扉のほうへ向かった。玄関の扉が閉まる音が、静かな事務所にひとつ響いた。
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玲は、手帳の最後のページに、今日の記録をもう一度見直した。
七件の破損記録。そのうち五件が、分割払いを含む取引と重なっている。今日の一件を加えれば、記録の精度はまたわずかに上がる。曜日の偏りという最初の仮説は、支払い条件という、より強い変数の影に隠れて後退した。一つの数字が別の数字に道を譲る瞬間を、玲はこれまでにも何度か見てきた。今日のそれも、その一例に過ぎない。玲はその一文を書き加え、ペンを置いた。
「帰るのか」
顔を上げると、レヴィが得物を肩に引っかけ直しながら、こちらを見ていた。
「はい」
玲は頷き、鞄の留め金を確かめた。
「今日は」
レヴィが、煙草を新しい灰皿に押しつけながら言った。
「珍しく、あんたと帰る方向が同じだな」
「地理的な事実です」
玲は端的に答えた。
「感情の話ではありません」
「分かってるっつーの」
レヴィは、短く笑った。呆れの色が混じった笑い方だった。
「じゃあ、その地理的な事実とやらに付き合ってやるよ」
「感謝は求めません」
玲は答えた。
「ただし、記録には残します」
「記録すんな、そんなこと」
レヴィは、鞄を担ぎ直しながら先に扉へ向かった。その足取りには、いつもより急かす色がなかった。
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事務所を出ると、夜のロアナプラの空気が、二人を包んだ。
湿った潮の匂いに、遠くのネオンの光が滲んでいる。どこかの店から流れてくる音楽が、通りの喧騒に紛れて途切れ途切れに響いていた。玲は鞄を抱え直し、隣を歩くレヴィの足取りを、視界の端で追った。歩幅も、速さも、いつもと変わらない。ただその横顔には、事務所を出る前とは違う静けさがあった。玲はそれを、感情の変化としてではなく、単なる観測結果として記憶に留めた。
「あんたの数字とあたしの勘、今日は二回、同じとこに辿り着いたな」
レヴィが、煙草をくわえたまま言った。
「右奥の一件と、分割払いの一件です」
玲は答えた。
「二回という回数は、まだ法則と呼ぶには足りません」
「分かってるよ、そんくらい」
レヴィは、煙を吐き出しながら続けた。
「ただ、二回も続くと、さすがにたまたまとは思えねえってだけだ」
「その感覚は」
玲は、静かに言った。
「私の中の数字とも、そう遠くありません」
「三回目があったら、どうすんだよ」
レヴィが、横目でこちらを見ながら尋ねた。
「三回目が確認できれば、傾向として記録に残す価値が生まれます」
玲は答えた。
「ただし、それを『法則』と呼ぶかどうかは、また別の判断になります」
「その慎重さ、いい加減見習おうかね」
レヴィは、そう呟いてから、それ以上何も言わなかった。
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しばらく無言のまま、二人は歩いた。街灯の明かりが、一定の間隔で二人の影を伸ばしては縮める。玲はその影の伸縮を、意味もなく目で追いながら、隣のレヴィの横顔を一度だけ見た。沈黙は、いつもの気まずさとは質が違って感じられた。玲はその違いを言語化しようと試みたが、適切な変数がまだ見つからなかった。
無言のまま並んで歩くという行為そのものが、今日の現場で積み重ねた連携の延長線上にあるようにも思えた。言葉での確認を必要としない歩調の一致は、数字にはうまく現れない種類の記録として、玲の中にだけ残る。
いつもの刺々しさは、まだ完全には消えていない。だがその奥に、何か別のものがほんの少しだけ混ざっているように、玲には見えた。それを言葉にする材料は、まだ揃っていなかった。
(勘と統計は、対立する道具ではないのかもしれない)
玲は、その仮説を頭の中に留めた。結論を出すには、まだ早い。だが今日という一日は、その仮説を裏付ける方向に、確かに事実を積み重ねていた。分割払いの相関も右奥の一件も、そしてこの沈黙さえも、同じ帳簿の別々のページに記録される事象なのかもしれない。玲はまだその全体像を描き切れていないが、少なくとも断片は着実に増えている。
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二人は、それ以上言葉を交わさないまま、夜の街を並んで歩いた。
互いの方法を認め合うところまでは、まだ至っていない。数字を信じる女と勘を信じる女は、今日もまた別々の言葉で、同じ夜を眺めている。ただ、少なくともこの日、二人は初めて一つの事実だけを共有していた。
同じ答えに、別の道から辿り着くことがある。
その事実そのものは、どちらの手法が優れているかという問いに、答えを出さない。優劣を決める式は、少なくとも今夜の玲の手帳には存在しなかった。ただ、二つの異なる道が同じ地点に収束したという記録だけが、静かに残ることになる。
明日になれば、手帳のページはまた新しい数字で埋まっていく。今日という一日も、いずれは七件目の記録の隣に並ぶ、無数の観測結果の一つに過ぎなくなるだろう。それでも玲は、その一日を丁寧に清書し直す作業を、明日もまた繰り返すはずだった。積み重ねること自体に、意味があるかどうかを問う必要はない。積み重ねた先に何が見えるかは、積み重ねてからでなければ分からない。
隣を歩くレヴィの足音は、今日という一日を経ても、明日にはまた元の刺々しさに戻っているかもしれない。それもまた、確認するまでは分からない事象の一つだった。玲はその不確かさを不快なものとしてではなく、明日にならなければ埋まらない一行として、静かに手帳の余白に残しておくことにした。
その一点だけを胸に留めたまま、玲とレヴィの足音は、いつもよりわずかに揃った調子で夜のロアナプラに響いていった。