BLACK LAGOON - ODDS - 作:たこ焼き 龍月
ロアナプラの朝は、朝という言葉が持つはずの意味を、ほとんど失っていた。
日は昇る。それは確かだった。だが昇ったところで、この街の人間の営みが清められるわけではない。前の晩に流れた血は、日が高くなる頃には路地の埃と混ざり合い、ただの染みに変わっている。玲はその街並みを、事務所へ向かう車の窓越しに眺めていた。
運転席のダッチは、何も話さなかった。玲もまた、話す必要を認めなかった。二人の間にあるのは契約であって、会話ではない。玲はそのことを心地よいとも不快とも思わなかった。ただ、無駄のない関係だと評価しただけだった。
車が止まったのは、埠頭からそう遠くない古い建物の前だった。壁の塗装は剥げ落ち、看板の文字はほとんど読めなくなっている。表向きは運送屋の事務所ということになっているが、この街でその肩書きを額面通りに受け取る者はいない。
玲がこの街に流れ着いてから、半年が過ぎていた。その間、玲は情報屋の真似事で糊口をしのいできた。契約前の相手の信用度を数値化し、値をつけて売る。それが玲の食い扶持だった。買い手の多くは、玲の数字を鼻で笑い、そして後になってその正しさを思い知った。
五本指を巡る抗争の最中、玲はまだどこの組織にも属さない部外者だった。その立場で、玲は一つの数字を口にした。ルマジュールの離反確率は六割を超えている、と。周囲はその数字を一蹴した。証拠も裏付けもない、部外者の戯言だと。だが数字は、収束した。ルマジュールは五本指を離れ、そしてラグーン商会の側についた。
その一件が、ダッチの耳に入った。
ダッチは、玲を探し当てた。勘だけで仕事を選んできたこの商会に、初めて数字という物差しを持ち込める人間がいる。ダッチはそう見積もった。玲のほうも、後ろ盾を持たない情報屋のままでいることの生存率を、正確に把握していた。この街で単独の査定屋を続ける確率と、商会の看板の下に入る確率を、玲は天秤にかけた。答えは早く出た。
こうして玲は、ラグーン商会の契約査定役として、この事務所の扉をくぐることになった。
ダッチが先に降り、玲は鞄を手に取ってから続いた。
建物の中は、外から想像するよりも整頓されていた。書類の束が壁際に積まれ、無線機と海図が並ぶ一角がある。奥のソファには、黒いタンクトップにショートパンツの女が足を組んで座っていた。
その女が、玲を上から下まで一瞥した。
「で、これが例の電卓女ってわけか」
レヴィの声には、歓迎の色も敵意の色もなかった。ただ、値踏みだけがあった。玲はその視線を、こちらの装備品を数える査定の目だと理解した。この女は自分を、戦力になるか、荷物になるか、その二択で分類しようとしている。
玲は鞄を床に置いてから、レヴィのほうを見た。
「白井玲です。契約査定を担当します」
「聞いてねえよ、名前なんか」
レヴィは煙草をくわえ、火をつけた。玲はその動作を、会話を打ち切るための儀式だと受け取った。相手が自分に興味を失ったのなら、こちらから言葉を足す理由はない。玲は沈黙で応じた。
その沈黙を、レヴィは値踏みの答えとして処理したようだった。煙を吐きながら、視線を天井へ逃がす。
ダッチが二人の間に立ち、短く言った。
「玲は今日からうちの査定を見る。仕事を受ける前に、こいつの数字を通す。それだけだ」
「電卓の言うことで仕事選ぶわけ? らしくねえな、ダッチ」
「勘だけで死ぬよりはマシだろう」
ダッチはそれ以上説明しなかった。玲もまた、自分の役割を弁解する必要を感じなかった。数字が有効かどうかは、これから実務の中で証明される。言葉で先に信用を買おうとすることを、玲はすでに一度、東京で捨てている。
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事務所の奥に、もう一つの気配があった。
玲がそちらへ視線を向けると、机の一つに小柄な人影が腰かけていた。黒髪を高い位置で二つに結い、左眼に眼帯を着けている。黒のパンツスーツにネクタイを締めた、年齢のわりにきっちりとした装いだった。だがその顔には、若さがまだはっきりと残っていた。
その少女が、玲を見ていた。
不貞腐れたような、あるいは値踏みするような表情だった。玲はその顔に見覚えがあった。正確には、その顔を見たことはない。だが、その名前を、玲は数字とともに記憶していた。
ルマジュール。
かつて玲が、まだラグーン商会の部外者だった頃、「裏切り確率六割」と査定した相手である。周囲がその数字を一蹴した中で、玲だけがその収束を予言し、そして的中させた。目の前の少女は、その予言の対象だった当人だった。
ルマジュールが机から降り、玲のほうへ数歩近づいた。
「あんたなんでしょ。わたしのこと、数字で品定めしたっていう変な女」
その口調には、警戒と、それを隠しきれない若さがあった。玲はその声の温度を、報告書を読み上げる時と同じ距離で受け止めた。
玲は少しだけ間を置いた。
「あなたの離反確率は、当時六割でした」
そう告げてから、玲はもう一拍置いた。
「結果として正しかった。それだけです」
ルマジュールの片眉が上がった。眼帯に覆われていないほうの眼が、玲の表情を探るように動いた。おそらく、そこに何かの感情を見つけようとしている。賞賛か、あるいは非難か。だが玲の顔には、そのどちらの手がかりもなかった。
「……礼を言えばいいのか、殴ればいいのか分からないんだけど」
「どちらでも構いません」
玲の声のトーンは、まったく変わらなかった。
「私の査定結果には影響しません」
ルマジュールが言葉に詰まった。眉を寄せ、口を開きかけ、そして閉じた。反応を返そうにも、返す先が見つからないという顔だった。玲の答えは、賞賛でも非難でもなく、ただの事実確認だった。感情の応酬を予期していた相手にとって、それは最も扱いにくい返し方だったはずである。
玲はその困惑を、想定内の反応として記録した。相手が予期していたのは、値踏みされたことへの弁明か、あるいは的中を誇る態度だった。そのどちらも玲は差し出さなかった。差し出す理由がなかったからだった。
ルマジュールが、少し声を尖らせた。
「あのさ、六割って中途半端じゃない? 当たったって言うなら、なんで十割にしなかったわけ」
「十割にできる根拠がなかったからです」
玲は即座に答えた。ここは数字の話であり、数字の話であれば、玲の口は淀まなかった。
「あなたには離反しない理由も、当時いくつかありました。忠誠の履歴、報酬の条件、逃走後の生存率。それらを差し引いた結果が六割です。四割の側に転ぶ可能性を、私は消していません」
「じゃあ、外れることもあったってこと?」
「六割とは、そういう意味です」
ルマジュールが黙った。今度は、少し長い沈黙だった。玲の数字は、当たったことを誇る性質のものではなかった。むしろ、外れる余地を最初から抱えたまま提示された数字だった。そのことが、ルマジュールの中で何かを揺らしたようだった。
だが玲は、その揺らぎに踏み込まなかった。踏み込む必要を認めなかったからだった。査定は査定であり、それ以上の意味を持たせることを、玲は自分に許していなかった。
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ソファのレヴィが、灰を落としながら口を挟んだ。
「おい電卓。あんた今、済んだ話を蒸し返してんの、分かってるか?」
玲はレヴィのほうを見た。
「蒸し返してはいません。事実を確認しただけです」
「同じことだろうが」
レヴィの声に、初めて棘が混じった。
「命懸けの話をな、後から答え合わせすんじゃねえよ。あの女がどっち転ぶかなんて、賭けてた奴にとっちゃ生きるか死ぬかだったんだ。それを終わってから六割でしたなんて、涼しい顔で言われてもな」
玲は、その言葉に反応しなかった。
正確には、反論を返さなかった。レヴィの苛立ちには、数字の誤りが含まれていない。数字が間違っているなら玲は言い返す。だが、レヴィが言っているのは、数字の正しさとは別の次元の話だった。答え合わせが不愉快だという感覚は、玲の計算式の外にある変数だった。
玲は、ただ黙っていた。
その無反応が、レヴィをさらに苛立たせた。灰皿に煙草を押しつけ、玲を睨む。だが玲は睨み返さなかった。睨み合いは何も生まない。玲はレヴィの短気を、あらかじめ織り込み済みの反応として扱っていた。相手の感情に感情で応じないことが、この場で最も損失の少ない選択だった。
「……っ、これだよ。これがムカつくんだ」
レヴィは舌打ちして、視線を外した。
その反応こそが、玲とレヴィの関係の輪郭を、この日ここで決定づけた。玲はレヴィに反論しない。反論しないから、レヴィはよけいに苛立つ。そして苛立ちの出口が見つからないまま、視線を逃がすしかなくなる。この構造は、これから何度でも繰り返されることになる。玲はそう見積もった。
ルマジュールが、その様子を横目で見ていた。
姐さんがあんなに苛ついてるのに、この女は瞬き一つ変えない。その落差を、ルマジュールは奇妙なものを見る目で観察していた。ロアナプラには狂人が多い。だが、狂気とは別の意味で、この電卓女は異物だった。狂っているのではなく、ただ何も乱れないのだ。
「ねえ」
ルマジュールが、玲に小声で尋ねた。
「あんた、姐さんに睨まれて怖くないの?」
玲はルマジュールのほうを見た。
「怖いかどうかは、私の行動を変えません」
「そういうこと聞いてるんじゃなくてさ……」
ルマジュールが口ごもった。玲の返答は、いつも質問の一段下を通り抜けていく。感情を尋ねると、行動の話に変換されて返ってくる。ルマジュールはその感覚に、まだ慣れなかった。
「レヴィが私に危害を加える確率は、現時点で低いと見ています」
玲は淡々と続けた。
「彼女は私を戦力の候補として測っている段階です。壊すには早い。壊した後の損失を、彼女は計算できる人間です。だから今、私は安全です」
「……姐さんが、損得で動く人だって言いたいの?」
「誰でもそうです。あなたも、私も」
ルマジュールが、また黙った。
反論したいのに、反論の糸口が掴めない。この女の言い方は、どこか正しいのに、どこか納得できない。ルマジュールはその居心地の悪さを持て余しながら、机の縁を指で叩いた。
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事務所の扉が開いたのは、その時だった。
入ってきたのは、スーツ姿の男だった。ネクタイを緩め、疲れた顔をしている。この街の人間にしては、あまりに堅気の匂いを残した男だった。玲はその男を見て、書類の情報と照合した。
ロック。
ラグーン商会の交渉役。かつては日本の商社の社員であり、今はこの街で言葉を武器にしている男。玲の中で、最も多くの行を割かれていた対象だった。ロックは玲の対比の核であり、そして玲がまだ一件も検証していない未知数だった。
ロックが玲に気づき、足を止めた。
「ああ、あなたが……」
「白井玲です」
玲は短く名乗った。名刺を差し出すような、事務的な淡白さだった。
「ダッチから聞いています。査定を見てくれるとか」
「そうです」
ロックは何か言葉を続けようとして、玲の表情を見て、その言葉を飲み込んだようだった。相手の感情の隙間に言葉を差し込むのが、この男の得意とするところだった。だが玲の表情には、差し込むべき隙間が見当たらなかった。
ロックは、少しだけ困ったように笑った。
「難しそうな人だ」
「難しくはありません。ただ、無駄が少ないだけです」
その返答に、ロックは一瞬、目を細めた。玲の言葉には皮肉の温度がなかった。皮肉であれば、そこに感情の熱がある。だが玲の言葉は、熱を持たないまま、ただ事実として置かれていた。ロックはその温度のなさに、かえって引っかかりを覚えたようだった。
「あなたの数字は、よく当たるらしいですね」
「当たるかどうかは、検証されるまで分かりません」
玲は答えた。
「私は当てているのではなく、外れる余地を数えているだけです。当たったと言われるのは、外れなかった時に限られます」
ロックが、しばらく玲を見つめた。その視線の中に、玲は初めて、ある種の関心を認めた。この男は、自分の言葉を単なる負け惜しみとして流さなかった。何かを聞き取ろうとしている。玲はその関心を、まだ分類できないまま記録に留めた。
だが玲は、そこから会話を広げなかった。広げる根拠がなかったからだった。ロックとの初対面は、名刺交換程度の淡白さで済ませる。それが玲の見積もりだった。二人の間にあるものは、まだ言葉にするには早すぎる。玲はそう判断し、視線を書類のほうへ戻した。
ロックもまた、それ以上踏み込まなかった。彼もまた、この場で無理に距離を詰めることの無益さを、感覚で理解している男だった。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
その沈黙は、敵意のものでも、和解のものでもなかった。ただ、互いの間合いを測りかねている者同士の、保留の沈黙だった。玲はその沈黙を、悪くない距離だと評価した。近すぎず、遠すぎず、査定を始めるにはちょうどいい間合いだった。
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ダッチが、話を切り上げるように手を打った。
「顔合わせはこんなもんでいい。玲、お前の机はそこだ。明日から仕事が入る。準備しとけ」
「承知しました」
玲は指し示された机へ向かった。ほかの三人の視線が、その背中を追っていた。
レヴィは、まだ苛立ちの残る目で。ルマジュールは、掴みかねる何かを探る目で。そしてロックは、分類の途中で保留にした関心の目で。三者三様の視線を、玲は背中で感じ取っていた。だが振り返らなかった。振り返る理由がなかったからだった。
机の上には、埃が薄く積もっていた。玲はハンカチを取り出し、几帳面にその埃を拭った。この街の乱雑さの中で、その動作だけが、東京のオフィスの続きのように整然としていた。
ルマジュールが、その様子を横目で見ていた。
「ねえ」
ルマジュールが、玲の背中に声をかけた。
「あんた、この街に来て、どのくらいになるの」
玲は手を止めずに答えた。
「数える意味を、まだ見出していません」
「それ、答えになってなくない?」
「なっています。あなたが知りたいのは、私がこの街に馴染んでいるかどうかでしょう。答えは、馴染む気がない、です」
ルマジュールが、少し口をとがらせた。
「馴染む気がないのに、なんでここにいるわけ」
「馴染むことと、生き延びることは別だからです」
玲は、埃を拭き終えたハンカチを畳んだ。
「私はここで、数字を使って生き延びるつもりです。馴染む必要はありません。あなたが姐さんに懐くのとは、違うやり方です」
ルマジュールの頬が、わずかに赤くなった。姐さんに懐いている、という部分を突かれたことに、少しばかり動揺したようだった。この電卓女は、こちらが隠しているつもりの部分まで、平然と数字の対象にしてくる。
「……なんで、それ知ってんの」
「あなたがレヴィを見る目です。ほかの誰を見る時とも違います。観察すれば分かります」
「勝手に人のこと観察しないでよ」
「観察は、私の仕事です」
玲は、そう言い切ってから、椅子を引いて腰を下ろした。
ルマジュールは何か言い返そうとして、また言葉に詰まった。この女相手には、どんな軽口も真正面から数字で受け止められてしまう。冗談が冗談として流れていかない。ルマジュールはその手応えのなさに、調子を狂わされていた。
だがその一方で、ルマジュールは奇妙な感覚も抱いていた。この女は、自分を子供扱いしなかった。姐さんに懐いていることを、からかいもしなかった。ただ、事実として指摘しただけだった。そこには軽蔑も憐れみもなかった。ルマジュールはその扱われ方に、これまで感じたことのない種類の落ち着かなさを覚えていた。
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その日の残りは、静かに過ぎた。
玲は自分の机で、これまでラグーン商会が受けてきた仕事の記録を読み込んでいた。過去の依頼、報酬の額、被害の規模。数字が並ぶそれらの記録を、玲は一枚ずつ検分していく。誰がこの商会に何を依頼し、その依頼がどのような結果をもたらしたのか。玲はその履歴から、この商会の癖と、この街の力学を読み取ろうとしていた。
読み進めるうちに、玲はいくつかのことを理解した。
この商会は、勘で動いてきた。ダッチの判断、レヴィの腕、ロックの舌。それらが個別に優れているからこそ、記録に残るような失敗を避けてきた。だが、その判断のどこにも、事前の定量的な根拠は存在しなかった。すべては経験と直感の産物であり、当たった結果だけが記録に残り、外れかけた瞬間は記録から抜け落ちていた。
玲は、その抜け落ちた部分を数えようとしていた。
彼らが「うまくいった」と記憶している仕事の中に、実際には運が良かっただけの案件がいくつあるのか。彼らが「当然の成功」と思っている結果の、本当の発生確率はいくつだったのか。玲の目には、この商会の履歴が、成功の記録ではなく、生存の記録に見えていた。生き延びたことと、正しく判断したことは、別の話である。玲は東京で学んだその区別を、この街の記録の上にも重ねていた。
ふと視線を上げると、ルマジュールがまだこちらを見ていた。
机に頬杖をつき、玲の作業を眺めている。何をしているのか分からない、という顔だった。玲はその視線に気づいたが、作業の手は止めなかった。
「何を数えてるの」
ルマジュールが尋ねた。
「この商会が、どれだけ運で生き延びてきたかを」
玲は顔を上げずに答えた。
「運?」
「あなたたちが実力だと思っている結果の、いくつかは運です。それを分けておかないと、次に同じ運が来なかった時に、対応できません」
ルマジュールが、少し身を乗り出した。
「……それ、姐さんの前で言わないほうがいいと思う」
「なぜ」
「姐さん、自分の腕を運って言われたら、多分あんたを撃つよ」
玲は、そこで初めて手を止めた。ルマジュールのほうを見て、少しだけ考えるような間を置いた。
「それは、有用な情報です」
「え?」
「レヴィが撃つ確率が上がる条件を、一つ知れました。回避に使えます」
ルマジュールが、思わず吹き出しかけて、こらえた。この女は、忠告さえも数字の材料に変えてしまう。心配して言ったつもりの言葉が、危険回避のデータとして淡々と処理されていく。ルマジュールはその手応えのなさに、もう半ば呆れていた。
だがその呆れの中に、ほんのわずか、面白がるような色が混じり始めていた。
この電卓女は、何を言っても崩れない。崩れないから、こちらは軽口を叩き続けても、傷つけることも傷つけられることもない。ルマジュールは、その安全さのようなものを、うっすらと感じ取り始めていた。
「変な女」
ルマジュールが、そう呟いた。
「同意します」
玲が答えた。
「私は、この街の平均から外れた存在です。それは自覚しています」
ルマジュールは、今度は本当に、小さく笑った。
その笑いを、玲は特に分析しなかった。分析するほどの意味を、その笑いに見出さなかったからだった。ただ、この少女が自分に向ける警戒の色が、わずかに薄まったことだけを、玲は端の記録に留めた。それが今後の力学にどう作用するかは、まだ分からない。分からないものは、分からないまま、次の査定に持ち越すだけだった。
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夕方近く、ロックが玲の机の傍らに立った。
手にはコーヒーのカップが二つあった。片方を、ロックは玲の机に置いた。
「飲みますか。この街のは、あまり美味くはないですが」
玲はカップを見て、それからロックを見た。
「なぜ、私に」
「同僚になるからです。それ以上の理由はいりますか」
玲は少し考えた。この行為の意図を測ろうとした。だが、そこに読み取るべき裏の意図は、見当たらなかった。ただ、同僚に飲み物を渡すという、それだけの動作だった。玲にとって、意図のない親切は、扱いに困る変数だった。
「いただきます」
玲はカップを受け取った。受け取ることが、この場で最も摩擦の少ない選択だと判断したからだった。
ロックは、玲の隣の机に軽く腰をもたせかけた。
「あなたの数字の話、さっきのやり取りを聞いていました」
ロックが、静かに切り出した。
「運と実力を分ける、という話です」
「聞かれて困る話ではありません」
「困りはしないでしょうね、あなたは」
ロックが、薄く笑った。
「ただ、一つだけ聞きたいことがあって。あなたは、人の判断を運と実力に分ける。じゃあ、その判断をした人間の気持ちは、あなたの計算のどこに入るんですか」
玲は、コーヒーを一口飲んでから答えた。
「入りません」
「入らない」
「気持ちは、結果を変えません。判断の質を測るのは結果であって、その時どう感じていたかではない。感情は、計算に入れると誤差を生むだけです」
ロックは、しばらく黙っていた。その沈黙は、反論を探しているというより、玲の言葉の輪郭を確かめているような沈黙だった。
「あなたは、たぶん正しいんでしょうね」
ロックが、ゆっくりと言った。
「数字の上では」
「数字の上でしか、私は正しさを主張しません」
「でも」
ロックが、玲のほうを見た。
「人は、あなたの式からはみ出す時がある。気持ちで動いて、確率を裏切って、それでも生き延びる時がある。あなたはそれを、運で処理するんでしょうけど」
玲は、その言葉を、静かに受け止めた。
反論はしなかった。ロックの言っていることは、数字の誤りではなかった。それは、数字とは別の場所に立った人間の、別の信念だった。玲はその信念を、まだ検証していない。検証していないものを、玲は否定も肯定もしない。ただ、記録するだけだった。
「はみ出した分は」
玲が、静かに答えた。
「次の査定に反映します」
ロックが、その返答に、少しだけ表情を動かした。予期していなかった答えだったのかもしれない。玲は、はみ出す人間を否定しなかった。ただ、はみ出した事実を、次のデータとして飲み込むと言った。それは、拒絶とも受容とも違う、第三の態度だった。
「……そうですか」
ロックは、それ以上何も言わなかった。
彼もまた、この短いやり取りで、目の前の女の輪郭をおおよそ掴んだようだった。この女とは、いずれ本気でぶつかることになる。ロックはそう予感した。だが今日ではない。今日は、ただ互いの立ち位置を確認しただけの日だった。
ロックはカップを持ち上げ、自分の席へ戻っていった。
玲は、その背中を目で追わなかった。ただ、手元のコーヒーを、もう一口飲んだ。この街のコーヒーは、確かに美味くはなかった。だが玲は、その味に不満を持たなかった。美味いか不味いかは、玲の作業精度に影響しない変数だった。
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夜が近づき、事務所の人影が減っていった。
ダッチは無線の前に座り、レヴィはどこかへ出ていき、ロックは書類を片付けていた。ルマジュールは、いつの間にか玲の机の近くに椅子を寄せていた。
「ねえ」
ルマジュールが、頬杖をついたまま言った。
「あんた、明日から仕事だって言われてたよね。緊張しないの?」
「緊張は、準備の不足から生まれます」
玲は答えた。
「私は準備を済ませています。だから、緊張する余地がありません」
「準備って、その書類読んでたやつ?」
「そうです。この商会の癖を把握しました。明日、依頼人が来た時、その依頼が過去のどの型に近いかを、私はもう分類できます」
ルマジュールが、少し感心したような顔をした。
「……なんか、あんたって、つまんない生き方してるよね」
「面白いかどうかは」
玲が、静かに言った。
「私の生存確率に、影響しません」
ルマジュールは、その返答に、今度は声を立てて笑った。
「出た、それ。あんた、それ何回言うの」
「必要な回数だけ言います」
玲は、書類を閉じ、机の上を整えた。ペンを揃え、紙の角を合わせる。その几帳面な動作を、ルマジュールは飽きもせず眺めていた。
この女が、明日どんなふうに仕事をするのか。ルマジュールは、少しだけそれを見てみたいと思っていた。姐さんの言う電卓女が、この街の実際の現場で、どこまで通用するのか。あるいは、どこで崩れるのか。ルマジュールにとって、それは新しい見世物のようなものだった。
だがその見世物への興味の底には、別の何かも、わずかに芽生えていた。
この女は、自分の裏切りを最初に見抜いた相手だった。誰も信じてくれなかった段階で、この女だけが、数字で自分を言い当てた。それは不快なはずだった。だが不思議と、ルマジュールはその事実を、不快とばかりも思えなくなっていた。見抜かれることは、少なくとも、見られていたということだった。
玲は、そんなルマジュールの内面を、詳しくは読まなかった。
読めるほどのデータが、まだ揃っていなかったからだった。ただ、この少女が自分に向ける態度が、朝の警戒から、夕方には少し違うものに変わったことだけを、玲は淡々と記録に加えた。それが信頼と呼べるものかどうかは、まだ分からない。分からないものを、玲は焦って名づけようとはしなかった。
窓の外では、ロアナプラの夜が始まろうとしていた。
ネオンが灯り、路地に人が流れ出す。この街の本当の顔が、日が落ちてから現れる。玲はその光景を、机の上から静かに眺めていた。明日、自分はこの街の中へ、査定という道具を一つ携えて踏み出すことになる。その道具がどこまで通用するかは、明日の結果が教えてくれる。
玲は、コーヒーの最後の一口を飲み干した。
そして、明日の仕事のために、鞄の中身をもう一度確認し始めた。パスポート、査定の道具、そして最低限の護身の備え。一つずつ数え上げていくその指先は、几帳面で、乱れがなかった。この街の狂気の中で、その几帳面さだけが、玲という存在の輪郭を、静かに保っていた。
ルマジュールは、その指先を、しばらく黙って見ていた。
そして、小さく息を吐いてから、椅子から立ち上がった。
「じゃ、わたし帰るね」
「気をつけて」
玲が、顔を上げずに言った。
その一言に、ルマジュールが少しだけ足を止めた。気をつけて、という言葉が、この女の口から出たことに、わずかな意外さを覚えたようだった。だが玲にとって、それは特別な言葉ではなかった。同僚が夜のロアナプラを歩く。その帰路の生存確率を、ほんの少しでも上げるための、合理的な一言に過ぎなかった。
ルマジュールは、何か言おうとして、結局何も言わずに扉のほうへ向かった。
扉が閉まる音を、玲は背中で聞いた。そして再び、鞄の中身を数える作業に戻った。この街での初日が、静かに終わろうとしていた。玲は、その一日を、感慨とともに振り返ることはしなかった。ただ、いくつかの新しいデータを得た日として、記録の欄に収めただけだった。
明日もまた、数字が続く。
玲にとって、それだけが確かなことだった。