BLACK LAGOON - ODDS -   作:たこ焼き 龍月

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第二話 初仕事・ベニーとレヴィ

 

加入の翌朝、玲は事務所に一番乗りで着いた。

 

まだ誰も出勤していない時間だった。玲は昨日拭き上げた机に鞄を置き、その日の仕事のために資料を並べ直した。この街の朝は、依頼が来るまで何も始まらない。だが玲にとって、依頼が来る前の時間こそが、査定の大半が終わっている時間だった。準備は、相手が現れる前に済ませておくものである。

 

しばらくして、事務所の扉が開いた。

 

入ってきたのは、眼鏡をかけた痩せた男だった。片手にノートパソコンを抱え、もう片方に配線の束を提げている。玲はその男を、資料の情報と照合した。

 

ベニー。ラグーン商会の技術屋であり、通信と情報処理を一手に引き受ける男だった。

 

「あ、君が新入りか」

 

ベニーは玲を見て、少し驚いたように足を止めた。玲がすでに机に着いていることが、意外だったらしい。

 

「白井玲です」

 

「ベニー。まあ、機械まわりは全部僕がやってる」

 

ベニーは自分の一角へ機材を運び込みながら、玲のほうをちらりと見た。玲の机の上に並んだ資料の量に、視線が留まったようだった。

 

「昨日入ったばっかりで、もうそんなに読み込んでるのか」

 

「読むべきものが、そこにあったからです」

 

玲は短く答えた。ベニーは配線を繋ぐ手を止めずに、小さく笑った。

 

「変わってるって、レヴィが言ってたけど」

 

「その評価は、正確です」

 

ベニーの手が、一瞬止まった。それから、また動き出した。玲の返答には、自己弁護も卑下も含まれていなかった。ただ、レヴィの評価が事実として正しいと認めただけだった。ベニーはその温度のなさに、かえって興味を引かれたようだった。

 

---

 

依頼人が事務所を訪れたのは、昼を過ぎてからだった。

 

ダッチが応対に出て、玲はその斜め後ろに座った。査定役としての初仕事だった。依頼人は東欧の訛りを残した中年の男で、ある積荷を指定の場所まで運んでほしいと言った。中身については多くを語らなかった。この街では、それが普通だった。

 

ダッチが報酬の額を聞き、条件を確認していく。玲はその間、依頼人の言葉ではなく、言葉の周辺を観察していた。視線の泳ぎ方、報酬を口にする時の間の取り方、条件を出す順序。それらはすべて、査定の材料だった。

 

依頼人が帰った後、ダッチが玲のほうを向いた。

 

「どう見た」

 

玲は手元のメモを一度確認してから、口を開いた。

 

「報酬は相場より二割高いです。相場より高い報酬には、必ず理由があります」

 

「危険が高いってことか」

 

「あるいは、依頼人がこちらに何かを隠している。そのどちらか、または両方です」

 

玲はメモの数字を指でなぞった。

 

「依頼人は積荷の中身を三度、言い換えました。最初は『機材』、次に『部品』、最後は『荷物』と。呼び方が定まらない積荷は、本人も正確に把握していないか、把握していて呼びたくないかのどちらかです」

 

ダッチは腕を組み、玲の言葉を聞いていた。

 

「回収不能リスクは、現時点で三割と見積もります。報酬の実質価値は、その三割を差し引いて計算し直すべきです。額面の報酬を、そのまま報酬として扱うのは危険です」

 

「額面通りに受け取るな、と」

 

「はい。額面と実質は、別の数字です」

 

ダッチは、しばらく黙っていた。それから、短くうなずいた。

 

「面白い見方だ」

 

その言葉に、称賛の響きはなかった。ただ、実利として使えるという判断だけがあった。玲はそのうなずきを、自分の数字が採用されたという記録として受け止めた。それ以上の意味を、そこに求めなかった。

 

---

 

ベニーが、二人のやり取りを机の向こうから聞いていた。

 

依頼人が去った事務所で、ベニーはノートパソコンの画面から顔を上げ、玲のほうへ椅子を回した。

 

「その依頼人のこと、もう少し調べられるかい」

 

「調べられます。名前と、口にした取引先の断片があれば、輪郭は描けます」

 

「じゃあ、こっちのデータと突き合わせてみないか。僕のほうに、この辺の運び屋の履歴がある」

 

玲は、その提案に少しだけ間を置いてから応じた。

 

「それは、有用です」

 

二人は、ベニーの一角に資料を持ち寄った。ベニーが画面を開き、玲がメモを広げる。ベニーが過去の運搬履歴を呼び出し、玲がそこに依頼人の言葉の断片を重ねていく。

 

「この会社名、聞いたことある。半年前にも似た依頼が来てる」

 

ベニーが画面の一点を指した。玲はその履歴を目で追った。

 

「その時の結果は」

 

「積荷が別物だった。運んでみたら、聞いてたのと中身が違ってて、受け渡し先でひと悶着あったらしい」

 

「では、今回も同じ型です」

 

玲は静かに言った。

 

「呼び方の定まらない積荷。相場より高い報酬。半年前の前例。三つが揃えば、これは偶然ではありません。同じ手口が、同じ相手から、もう一度来ています」

 

ベニーが、画面から顔を上げて玲を見た。

 

「君の数字、根拠のソースまで見せてもらっていいか」

 

「どうぞ」

 

玲は、自分のメモを迷いなくベニーのほうへ滑らせた。

 

「検証されない数字に、価値はありません」

 

ベニーは、そのメモを手に取り、目を通した。数字の一つひとつに、どの観察が対応しているかが、簡潔に記されていた。感情の入る余地のない、乾いた記録だった。ベニーは、その乾き方に、むしろ好感を持ったようだった。技術屋にとって、検証できる数字ほど信頼に足るものはない。

 

「……悪くないな、これ」

 

ベニーが呟いた。

 

「僕のデータと、君の見立ては、だいたい同じ結論を指してる」

 

「別々の道から同じ結論に着いたなら、その結論の確度は上がります」

 

「そういうことだ」

 

二人の間に、短い沈黙が落ちた。だがそれは、昨日ロックとの間にあった保留の沈黙とは、種類が違っていた。データを扱う者同士が、互いの手つきを確かめ合った後の、静かな了解の沈黙だった。玲は、その沈黙を悪くないものとして記録した。この街に来て初めて、言葉を足さずに通じる相手に会った。

 

---

 

その日の午後、ダッチは依頼を受けることを決めた。

 

玲の査定を踏まえた上での判断だった。報酬の実質価値は額面より低い。だが回収不能リスクを織り込んでもなお、受ける価値はある。玲はそう見積もり、ダッチはその見積もりを採用した。ただし、積荷が事前の説明と異なる可能性を前提に、受け渡しの手順を組み直すという条件つきだった。

 

「玲、お前も現場に来い」

 

ダッチが言った。玲は少しだけ意外に思った。

 

「私は戦闘員ではありません」

 

「戦えとは言ってねえ。お前の数字が、現場でどう転ぶか見ておきたい。査定と現場がずれるなら、そのずれも知っておく必要がある」

 

玲は、その理屈を検討した。数字が机の上でしか正しくないなら、その数字には限界がある。現場での挙動を観察することは、次の査定の精度を上げる。ダッチの言い分は、玲の計算式の中でも筋が通っていた。

 

「承知しました。ただし、私は損失を最小化する位置取りに徹します。それ以上の役割は担いません」

 

「それでいい」

 

ダッチはそう言って、話を切り上げた。

 

---

 

現場は、埠頭にほど近い倉庫だった。

 

日が傾き、倉庫の影が長く伸びる時刻に、ラグーン商会の一行はそこへ向かった。ダッチが指揮を執り、レヴィが前衛、ベニーが車で待機し、玲は倉庫の入り口近く、遮蔽物の陰に位置を取った。ルマジュールも同行していたが、その日は見学のような立場で、レヴィの少し後ろに控えていた。

 

積荷の受け渡しは、表向き、平穏に始まった。

 

相手方の運び屋が三人、指定の場所に現れた。ダッチが前に出て、荷の確認を求める。玲は遮蔽の陰から、その様子を観察していた。相手の三人の立ち位置、武器の隠し方、視線の配り方。それらを、玲は一つずつ数えていた。

 

玲の隣に、レヴィがいた。

 

レヴィは壁に背を預け、銃を下げたまま、現場の空気を読んでいた。その横で玲が身じろぎもせず数字を数えているのが、レヴィには気に食わなかったらしい。

 

「おい電卓」

 

レヴィが、声を落として言った。

 

「あんた、こんなとこで何数えてんだ」

 

「相手の三人のうち、二人が過剰に武装しています」

 

玲は視線を前に向けたまま答えた。

 

「単純な運び屋なら、この人数にこの装備は要りません。過剰な武装は、荷を渡さない準備か、こちらを消す準備か、そのどちらかです」

 

レヴィが、玲の横顔をちらりと見た。

 

「そんなの、見りゃ分かる」

 

「見て分かることを、私は数字で確認しているだけです」

 

レヴィは、それ以上言い返さなかった。舌打ちを一つして、視線を前に戻した。玲の言っていることは、レヴィが感覚で掴んでいたことと、同じ結論を指していた。ただ、レヴィはそれを勘と呼び、玲はそれを数字と呼ぶ。その違いだけが、二人の間に横たわっていた。

 

---

 

受け渡しが、動き始めた。

 

相手方が積荷のコンテナを開いた。ダッチが中を検める。その瞬間、ダッチの肩がわずかにこわばったのを、玲は遮蔽の陰から見て取った。中身が、事前の説明と違う。玲の査定通りだった。

 

「話が違うな」

 

ダッチの声が、低く響いた。

 

相手方の運び屋の一人が、それに応じるように半歩下がった。その動きを、玲は見逃さなかった。半歩下がるのは、次の行動に移るための助走である。玲は、事態が言葉の段階を離れつつあることを、身体の動きから読み取った。

 

「後方の一人が、右手を腰の後ろに回しています」

 

玲は、隣のレヴィに向けて、静かに告げた。声のトーンは、報告書を読み上げる時と変わらなかった。

 

「距離は約八メートル。遮蔽はありません」

 

レヴィが、その一言を聞くと同時に動いた。

 

言葉のやり取りは、そこまでだった。相手方の一人が銃を抜きかけたその刹那、レヴィの銃口が先に火を噴いた。倉庫の中に、乾いた銃声が反響した。玲は、その音の中で瞬きを一つしただけだった。あらかじめ想定していた範囲の事象が、想定していた通りに起きた。それだけのことだった。

 

銃撃は、短く終わった。

 

レヴィの反応が、相手の助走を上回った。相手方の三人のうち二人が倒れ、残る一人が両手を上げた。ダッチが素早く場を制圧し、状況を収拾していく。玲は遮蔽の陰から動かなかった。動く必要のない位置に、最初から立っていたからだった。

 

---

 

制圧が済んだ後、レヴィが玲のほうへ歩いてきた。

 

その目には、まだ戦闘の余熱が残っていた。レヴィは玲の前に立ち、銃を腰に戻しながら、玲を見下ろした。

 

「あんた、弾が飛んでる時に、よくもまあ涼しい顔してられるな」

 

「涼しい顔をしているつもりは、ありません」

 

玲は答えた。

 

「私は、損失を最小化する位置取りをしていました。ここには弾が来ない。だから動じる理由が、私にはありませんでした」

 

「弾が飛んでる時に、電卓叩いてんじゃねえよ」

 

レヴィの声に、棘が混じった。玲は、その棘の性質を測った。これは、数字の誤りを指摘する棘ではない。玲のやり方そのものへの、生理的な反発だった。

 

「電卓は、叩いていません」

 

玲は静かに言った。

 

「私がしていたのは、相手の動きから次の挙動を予測する作業です。後方の一人が腰に手を回した時点で、あなたが撃つまでの時間を計算していました。あなたの弾道計算も、本質的には同じ作業のはずですが」

 

レヴィが、口を開きかけて、止まった。

 

同じ作業。その言葉が、レヴィの反論の出口を塞いだ。レヴィが感覚でやっていることを、玲は数字でやっている。やっていることの中身は、確かに大きくは違わない。相手の動きを読み、次を予測し、先んじて動く。レヴィにとって、それは身体に染み込んだ本能だった。だが玲は、その本能を分解して、数字の言葉に置き換えていた。

 

レヴィは、しばらく玲を睨んでいた。

 

だが、その睨みは、行き場を失っていた。反論しようにも、玲の言っていることが間違っていない。間違っていないことに、レヴィは苛立っていた。玲の数字は正しい。正しいから、余計に癪に障る。

 

「……っ、これだ」

 

レヴィは、短くそう吐き捨てて、視線を外した。

 

そして、それ以上何も言わずに、その場を離れていった。玲は、その背中を目で追わなかった。レヴィの苛立ちを、玲はあらかじめ織り込んでいた。反論せず、感情に感情で応じない。それが、この場で最も損失の少ない選択だった。玲はレヴィの反発を、想定の範囲内の変数として、淡々と処理した。

 

---

 

少し離れた場所で、ルマジュールがそのやり取りを見ていた。

 

ルマジュールは、レヴィの後ろに控えたまま、戦闘のあいだも、その後のやり取りのあいだも、玲から目を離さなかった。姐さんがあれだけ苛ついているのに、この電卓女は、瞬き一つ乱さなかった。銃声が鳴っても、位置を変えなかった。その落ち着きが、ルマジュールには不気味に映った。

 

「あんたさ」

 

ルマジュールが、玲のそばに寄って言った。

 

「怖くなかったの、今の」

 

「怖いかどうかは、私の位置取りを変えません」

 

玲は答えた。

 

「私は、弾が来ない場所にいました。怖がる理由が、そこにはありませんでした」

 

「でもさ、もし読みが外れてたら」

 

「外れる確率も、計算に入れています」

 

玲は、遮蔽にしていた壁の陰を、指で示した。

 

「もし相手が四人で、うち一人がこの角度から来ていたら、私はここではなく、もう二メートル奥に立っていました。私は、外れた場合の位置も、あらかじめ決めています」

 

ルマジュールが、口をつぐんだ。

 

この女は、当たった時の位置だけでなく、外れた時の位置まで、最初から用意している。ルマジュールは、フランスの部隊で戦術を仕込まれてきた。マニュアルに忠実に、無駄なく動く訓練を受けてきた。だが、この女のやっていることは、その訓練とも少し違った。マニュアルは、想定された状況への対応を教える。だが玲は、想定が外れた場合の想定まで、その場で数え上げていた。

 

「……あんた、うちの部隊にいたら、教官に気に入られてたと思う」

 

ルマジュールが、少し呆れたように言った。

 

「その評価の根拠を、聞いてもいいですか」

 

「え?」

 

「気に入られる、というのは主観的な評価です。何を基準にそう判断したのか、興味があります」

 

ルマジュールが、思わず吹き出した。

 

「そういうとこだよ、そういうとこ。褒めてんのに、根拠とか聞くなっつうの」

 

「褒め言葉は、根拠が分かると、次に活かせます」

 

「もう、いいよ」

 

ルマジュールは、笑いながら手を振った。この女は、褒め言葉さえも分析の対象にする。冗談が冗談として流れていかない。だが、その手応えのなさに、ルマジュールはもう、昨日ほどの居心地の悪さを感じなくなっていた。むしろ、この崩れなさを、少し面白がり始めている自分に、ルマジュールは気づいていた。

 

---

 

事務所への帰り道、車の中で、ベニーが口を開いた。

 

運転席にダッチ、助手席にレヴィ、後部座席に玲とベニーとルマジュールが並んでいた。ベニーは、膝の上のノートパソコンを閉じながら、玲のほうを見た。

 

「君の見立て、当たったな」

 

「当たったのではありません」

 

玲は、窓の外に視線を向けたまま答えた。

 

「外れる余地を数えていて、そのうち外れなかった側に収束しただけです」

 

「そう言い換えるとこ、律儀だな」

 

ベニーが、小さく笑った。

 

「でも、まあ、実際に役に立った。それは事実だ」

 

「役に立ったかどうかは、次の依頼で同じ型が来た時に、初めて確定します」

 

玲は静かに続けた。

 

「一度当たっただけでは、方法の有効性は証明されません。証明には、反復が必要です」

 

ベニーは、その言葉に、少し感心したような顔をした。技術屋の言葉だった。一度の成功を実力と呼ばず、反復による検証を待つ。ベニーは、そういう慎重さを、信頼できるものとして受け取った。

 

「君、こっちの世界に向いてるよ」

 

「向いているかどうかは」

 

「あー、分かった分かった。生存確率に影響しない、だろ」

 

ベニーが、先回りして言った。玲は、少しだけ間を置いた。

 

「その通りです」

 

ルマジュールが、後部座席で小さく吹き出した。ベニーもつられて笑った。車の中に、わずかに緩んだ空気が流れた。だが玲は、その空気に加わらなかった。加わる理由が、玲にはなかったからだった。ただ、この二人が自分の言い回しを覚え始めていることだけを、玲は記録の端に留めた。

 

助手席のレヴィだけが、その和んだ空気に加わらなかった。

 

レヴィは窓の外を睨んだまま、煙草をくわえていた。玲が現場で見せた落ち着きが、まだレヴィの中で消化しきれずに残っていた。あの女は、正しかった。正しかったことが、レヴィには面白くなかった。だが、それを口にすることもまた、レヴィにはできなかった。口にすれば、玲の正しさを認めることになる。レヴィは、ただ煙を吐いて、その苛立ちを窓の外へ流した。

 

玲は、そのレヴィの横顔を、後部座席から静かに見ていた。

 

レヴィの苛立ちは、まだ続いている。だが、その苛立ちの中に、危害を加える兆候はなかった。レヴィは、玲を撃つことの損失を、正しく計算できる人間だった。だから今、玲は安全だった。玲は、そのレヴィの胆力と判断力を、認めざるを得ないものとして記録した。この女は、感情で動いているように見えて、その底には、崩れない計算がある。玲は、レヴィのその部分だけは、水と油の関係の中でも、評価に値すると見積もっていた。

 

---

 

事務所に戻った頃には、日はすっかり落ちていた。

 

玲は自分の机に着き、その日の現場の記録をまとめ始めた。相手方の武装の数、レヴィの反応速度、依頼人の嘘の型。すべてを数字と記述に落とし込み、次の査定のための参照値として保存していく。この作業を怠れば、今日の経験は、ただの記憶に終わる。記憶は、風化する。だが記録は、次の計算に使える。玲は、その区別を、東京で身につけていた。

 

ベニーが、隣の一角から声をかけてきた。

 

「玲。君がまとめたその記録、こっちのデータベースと繋いでいいか」

 

「構いません。むしろ、繋いだほうが精度は上がります」

 

「だよな。別々に持ってても、突き合わせられないと意味がない」

 

「その通りです」

 

二人は、それぞれの記録を持ち寄る仕組みを、短い言葉で決めていった。玲の査定と、ベニーのデータ。二つを繋げば、どちらか一方では見えない型が、浮かび上がるかもしれない。玲はその可能性を、悪くないものとして評価した。この街に来て、初めて、自分の数字を検証してくれる相手に会った。検証されない数字は、玲にとって、死んだ数字と同じだった。

 

作業のあいだ、ルマジュールは、また玲の机の近くに椅子を寄せていた。

 

「ねえ」

 

ルマジュールが、頬杖をついて言った。

 

「あんた、今日ずっと数字数えてたよね。疲れないの、そんなの」

 

「疲れは、集中の副産物です」

 

玲は、記録の手を止めずに答えた。

 

「数えないでいるほうが、私にとっては落ち着きません。数えていないと、見落としが起きます。見落としは、あとで損失に変わります」

 

「なんか、あんたって、ずっと働いてる機械みたい」

 

「機械は、感情を持ちません」

 

玲は、そこで一度、手を止めた。

 

「私は、感情を持っています。ただ、それを計算に入れないだけです。入れると、誤差が増えるからです」

 

ルマジュールが、少し意外そうな顔をした。この女が、自分に感情があると認めたのは、初めてだった。ただ、それを使わないと言っただけだった。感情を持たないのではなく、持った上で、使わないことを選んでいる。ルマジュールは、その違いを、うまく飲み込めないまま、机の縁を指で叩いた。

 

「それって、しんどくない?」

 

「しんどいかどうかは」

 

「あー、はいはい。生存確率に影響しない、でしょ」

 

ルマジュールが、先回りして言った。玲は、少しだけ間を置いた。

 

「今回は、違います」

 

ルマジュールが、顔を上げた。

 

「しんどいかどうかは、私の作業精度に影響します。しんどさが集中を削るなら、それは管理すべき変数です。ただ、今のところ、私はそれを管理できています」

 

ルマジュールは、その答えに、少しだけ黙った。

 

この女は、質問のたびに、少しずつ違う返し方をしてくる。同じ「生存確率に影響しない」でも、それが当てはまる時と、当てはまらない時を、この女はきちんと区別している。ルマジュールは、その律儀さに、いつの間にか付き合わされている自分に気づいていた。

 

---

 

夜が更け、事務所の人影が減っていった。

 

ダッチは無線の前に座り、ベニーは機材の片付けをしていた。レヴィは、昼の現場から戻って以来、玲とは口をきいていなかった。だが、それは険悪な沈黙ではなかった。ただ、話す用がないだけの沈黙だった。玲は、その距離を、悪くないものとして受け止めていた。近すぎず、遠すぎず、査定役としては、ちょうどいい間合いだった。

 

玲が記録をまとめ終えた頃、レヴィが事務所を出ようとして、玲の机の前を通りかかった。

 

そこで、レヴィは一度、足を止めた。

 

「おい」

 

レヴィが、玲を見下ろして言った。玲は顔を上げた。

 

「昼の、後方の一人の話な」

 

レヴィの声から、昼間の棘が少し抜けていた。

 

「あんたが言うのと、あたしが撃つのが、ほぼ同時だった。あんた、いつ気づいてた」

 

「相手が半歩下がった時です」

 

玲は答えた。

 

「半歩下がるのは、次の動作に移るための助走です。あの一歩で、私は次に何が来るかを、およそ絞りました」

 

「……ふうん」

 

レヴィは、それだけ言うと、視線を外した。だが、その視線の外し方は、昼のような苛立ちのものではなかった。何かを、値踏みし直しているような外し方だった。

 

「あんたの数字、癪に障る」

 

レヴィが、扉のほうへ歩きながら言った。

 

「けど、今日のは、間違ってなかった」

 

その一言を残して、レヴィは事務所を出ていった。

 

玲は、その背中を目で追わなかった。だが、レヴィの言葉を、記録の欄に加えた。レヴィは、玲の数字を癪に障ると言った。同時に、間違っていなかったとも言った。その二つは、矛盾していない。レヴィは、玲のやり方が気に入らない。だが、玲の数字が正しいことは、認めている。玲は、その二つが同居できる相手として、レヴィを分類し直した。

 

水と油。それは変わらない。だが、その油は、水の正しさを見誤るほど、鈍くはなかった。玲は、レヴィのその胆力を、認めざるを得ないものとして、あらためて記録に留めた。

 

---

 

ルマジュールが、椅子から立ち上がった。

 

「じゃ、わたしも帰るね」

 

「気をつけて」

 

玲が、顔を上げずに言った。ルマジュールが、少しだけ足を止めた。

 

「あんた、昨日もそれ言ったよね」

 

「言いました」

 

「なんで、毎回それ言うの」

 

「あなたが夜のロアナプラを歩く生存確率を、ほんの少しでも上げるためです」

 

玲は、記録を閉じながら答えた。

 

「気をつけろと言われた人間は、言われなかった人間より、わずかに注意深くなります。その差が、生存確率を数パーセント押し上げます。それだけの理由です」

 

ルマジュールが、少しのあいだ、玲を見ていた。

 

数パーセント。この女は、気遣いさえも、数字で説明する。心配しているとは、決して言わない。ただ、生存確率を上げるための合理的な一言だと言い張る。だが、ルマジュールは、その言い張り方の裏に、何かを感じ始めていた。数字で包んでいても、その中身が、まったくの無関心ではないことを。

 

「変な女」

 

ルマジュールが、そう呟いた。だが、その声には、昨日ほどの警戒はなかった。

 

「同意します」

 

玲が答えた。ルマジュールは、小さく笑って、扉のほうへ向かった。

 

扉が閉まる音を、玲は背中で聞いた。そして、まとめ終えた記録を、鞄にしまった。この街での二日目が、静かに終わろうとしていた。玲は、その一日を、いくつかの新しいデータを得た日として、記録の欄に収めた。

 

初仕事は、査定通りに終わった。だが玲は、それを「防いだ」とは考えなかった。防いだのではない。ただ、起こりうることを、あらかじめ織り込んでいただけだった。相手が裏切ったのも、レヴィが撃ったのも、すべて想定の範囲内だった。玲は、想定の外で英雄になることを、自分に許していなかった。想定の中で、損失を最小化する。それが、玲の仕事のすべてだった。

 

窓の外では、ロアナプラの夜が、まだ続いていた。

 

ネオンが灯り、路地に人が流れ、そのどこかで、また誰かが数字の外へこぼれ落ちていく。玲は、その光景を、机の上から静かに眺めていた。この街で、自分の数字がどこまで通用するか。今日、その一つの答えが出た。だが、それは反復のうちの、まだ一度目に過ぎなかった。

 

玲は、鞄の中身を、もう一度数え始めた。

 

査定の道具、記録の束、最低限の護身の備え。一つずつ数え上げていくその指先は、几帳面で、乱れがなかった。この街の狂気の中で、その几帳面さだけが、玲という存在の輪郭を、静かに保っていた。

 

明日もまた、数字が続く。

 

玲にとって、それだけが、確かなことだった。

 

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