BLACK LAGOON - ODDS - 作:たこ焼き 龍月
人質の一件から、三日が過ぎていた。
ロアナプラの時間は、事件を長く覚えていない。三日もあれば、あの倉庫の緊張も、街の記憶から薄れていく。血の染みが埃に変わるのと同じ速さで、危機の記憶も路地の色に溶けていく。玲は、その忘却の速さを悪いものだとは思わなかった。忘れられることは、次の仕事を始めるための空白でもある。
その夜、事務所には玲だけが残っていた。
ダッチは無線の点検を終えて先に帰った。ベニーは機材の更新のためにどこかへ出ていた。レヴィは昼過ぎから姿を見せず、ルマジュールもこの日は顔を出していなかった。玲は、その静けさを作業に適した環境として受け止めた。人がいなければ、余計な変数も入らない。数字だけが、机の上に残る。
玲は、この三日間で受けた仕事の査定書を、一件ずつ仕上げていた。
依頼人の信用度、報酬の実質価値、回収不能リスク。それぞれを数字に落とし込んで、記述を添えていく。この作業は、玲にとって呼吸に近いものだった。数えていないと、落ち着かない。数えている間だけ、この街の狂気から、わずかに距離を置いていられた。
窓の外で、ネオンの光が点滅していた。
その光を、玲は一度だけ見上げた。そして視線を、また手元へ戻した。光の色に意味を見出す習慣を、玲は持っていなかった。
---
事務所の扉が開いたのは、玲が三件目の査定書を閉じた時だった。
入ってきたのは、見覚えのない男だった。スーツをきちんと着込み、革の鞄を提げている。この街の人間にしては、あまりに整いすぎた身なりだった。玲は、その男を瞬時に査定の対象として見た。堅気を装った、堅気ではない人間。その種の人間を、玲は東京でも、この街でも、幾度となく見てきた。
「白井玲さんは、こちらに」
男が、静かに尋ねた。訛りのない、教科書のような言葉だった。
「私です」
玲は、机の向こうから答えた。立ち上がりもせず、警戒の色も見せなかった。男の立ち位置を数えた。鞄を持つ手の位置も数えた。扉からの距離だけを、頭の中に残した。
男は、事務所の中を一度見渡してから、玲のほうへ数歩近づいた。
「ホテル・モスクワの使いの者です」
その一言で、玲の頭の中の数字が、いくつか動いた。バラライカ。この街の頂点に立つ、元ソ連軍の女。玲がまだ部外者だった頃、五本指を巡る抗争の中で、その名前は幾度も数字とともに現れていた。だが玲は、バラライカとまだ一度も、直接顔を合わせていなかった。
「用件を、伺います」
玲は、静かに言った。
男は、鞄を開けようとはしなかった。ただ姿勢を正し、伝言を述べる者の口調で切り出した。
「あなたが、五本指の抗争の折に出した数字について。カピターンが、覚えておられます」
玲は、その言葉を静かに受け止めた。
「ルマジュールの、離反確率のことですか」
「そう聞いております。六割、と。部外者が証拠もなく口にした数字だと、周囲は一蹴した」
男は、そこで一度、言葉を切った。
「だが、収束した」
男の声には、感情がなかった。ただ、伝えるべきことを正確に伝える者の響きだけがあった。玲は、その温度のなさに、かえって相手の格を測った。この男は、伝言の中身に自分の解釈を混ぜない。混ぜることを許されていない立場だということだった。
「カピターンは、こう申しております」
男が、続けた。
「数字を読む人間は、この街に少ない。読めても、それを口にする度胸のある人間は、さらに少ない。あなたは、その両方を持っていた。覚えておく、と」
---
玲は、その伝言を、しばらく黙って受け止めていた。
賞賛ではなかった。少なくとも玲は、それを賞賛として処理しなかった。それは格付けだった。バラライカという人間が、玲という存在に一つの値をつけた。その値が、今、使者を通じて玲に通知されている。
「お答えは、必要ですか」
玲は、尋ねた。
「いいえ」
男が答えた。
「カピターンは、答えを求めておられません。ただ、伝えるようにと」
「では、承りました、とだけ」
「結構です」
男は、それだけを聞くと軽く頭を下げた。そして来た時と同じ、静かな足取りで事務所を出ていった。扉が閉まる音が、無人の事務所に短く響いた。
玲は、その閉じた扉を、しばらく見つめていた。
バラライカは、玲に会わなかった。使者を寄越し、伝言だけを置いていった。玲は、その距離の取り方の意味を計算した。会わないことには、二つの解釈があった。一つは、直接会うほどの価値を、まだ玲に認めていないという解釈。もう一つは、逆だった。会わずとも伝言だけで届くと踏んだ。そして伝言だけで届く相手だと、玲を見積もっている。
玲は、後者の確率を高いと見た。
会わずに測る。それは、玲自身のやり方でもあった。玲は、依頼人の言葉ではなく、言葉の周辺を数える。バラライカもまた、玲に会わずに、玲の出した数字だけを測っていた。同じ種類の人間だった。人間を直接ではなく、その残した数字で測る種類の人間。玲は、そのことを静かに記録した。
一目置かれている。その事実に、心地よさも不安もなかった。ただ、この街での自分の座標が、一つ更新されたという認識だけが残った。バラライカという頂点から、玲は今、観測されている。観測される側になったということは、この街の力学の中に、自分が一つの変数として組み込まれたということだった。
玲は、その座標の変化を、査定書の隅に、小さく書き留めた。
---
翌朝、玲は再び、事務所に一番乗りで着いた。
昨夜の使者のことは、誰にも話していなかった。話す理由が、まだ見当たらなかったからだった。伝言は、玲個人への格付けであって、商会の仕事に直結する情報ではない。共有すべき変数と、そうでない変数を、玲は分けていた。
しばらくして、ダッチが出てきた。
ダッチは無言でコーヒーを淹れ、その一杯を玲の机にも置いた。玲は、そのカップを見て、それからダッチを見た。
「昨夜、ホテル・モスクワの使いが来ました」
玲は、そう切り出した。共有すべきかどうかを、一晩かけて計算し直した結果だった。バラライカが、この商会の査定役に接触した。その事実は、ダッチが把握しておくべき変数に分類された。
ダッチの手が、一瞬止まった。
「バラライカが、お前に何の用だ」
「用ではありません。伝言だけです。五本指の抗争の折の、私の数字について。覚えておく、と」
ダッチは、しばらく黙っていた。それから椅子に腰を下ろし、コーヒーを一口飲んだ。
「そいつは」
ダッチが、低く言った。
「良い話でも、悪い話でもねえな」
「私も、そう見積もっています」
玲は答えた。
「バラライカに覚えられることは、資産にも負債にもなります。どちらに転ぶかは、今後の私の数字次第です。今の段階では、値のつかない中立の記録です」
ダッチは、玲のその見方に短くうなずいた。
「お前は、褒められても浮かれねえな」
「褒められた、とは思っていません」
玲は、静かに言った。
「格付けされた、と思っています。褒美なら浮かれる余地もありますが、格付けは、次の観測が続く前提の評価です。浮かれる段階ではありません」
ダッチは、その返答に少しだけ口の端を動かした。笑いに近い動きだった。だが声には出さなかった。ダッチは、玲のこういう受け取り方を面白がっているようだった。そして、その底では玲の判断の正確さを、静かに確認しているようでもあった。
「勘の裏が取れるってのは」
ダッチが、コーヒーを置きながら言った。
「悪くない」
その一言は、称賛ではなかった。玲は、それを実利の言葉として受け取った。ダッチは、玲を有能だとは言わなかった。ただ、自分の勘に裏付けが取れることを、悪くないと言った。それは、玲の数字が、この商会の判断の中で一つの機能を果たし始めたという承認だった。
「裏が取れなかった場合の対応も」
玲は、静かに続けた。
「すでに三パターン、用意してあります」
ダッチは、それ以上、何も言わなかった。
玲は、その沈黙を正確に読み取った。ダッチが何も言わないのは、玲の言葉に付け足すべきものがないからだった。三パターンの用意があると聞いて、ダッチは、それで十分だと判断した。だから何も言わない。この街で、ダッチが誰かに何も言わないということは、その相手をいちいち確認する必要のない存在として扱い始めたということだった。それは、この商会において、最も静かな信頼の形だった。
玲は、そのことを記録の欄に加えた。ダッチとの間に、確認を省ける領域が一つ生まれた。それは、査定役として望ましい進展だった。
---
昼を過ぎて、事務所に人が集まり始めた。
ベニーが機材を抱えて戻り、レヴィが煙草をくわえて現れ、ルマジュールがその後ろから顔を出した。事務所は、いつもの騒がしさを取り戻していく。玲は、その中で自分の机に着いたまま、査定書を書き続けていた。
ルマジュールが、まっすぐ玲の机の近くへ来て、椅子を寄せた。
「ねえ、あんた」
ルマジュールが、頬杖をついて言った。
「昨日、なんで来なかったの。わたし、ここにいたのに」
「あなたが、ここにいたかどうかは」
「あー、はいはい。あんたの査定に影響しない、でしょ」
ルマジュールが、先回りして言った。玲は、少しだけ間を置いた。
「今回は、違います」
ルマジュールが、顔を上げた。
「あなたがここにいたかどうかは、私が昨日、何を観測できたかに影響します。あなたがいれば、あなたのデータが増えます。いなければ、増えません」
玲は、そこで言葉を切った。
「それだけの話です」
「それ、わたしのこと観測してるって、正直に言ってるだけじゃん」
「そうです。観測は、私の仕事です」
ルマジュールが、少し呆れたように笑った。だが、その笑いには、以前ほどの居心地の悪さはなかった。この女に観測されることを、ルマジュールは、いつの間にか受け入れ始めていた。見られることは、少なくとも、存在を認められていることだった。ルマジュールは、そのことを、うっすらと理解し始めていた。
「あのさ」
ルマジュールが、声を少し落とした。
「この前のロックの話。あんた、奇跡じゃないって言ってたよね。五回に一回だって」
「言いました」
「あれから、ずっと考えてたんだけどさ」
ルマジュールが、机の縁を指で叩いた。
「もし、あんたの言う通りだとしてもさ。その五回に一回を、ロックは引き当てたんだよね。それって、やっぱすごいことじゃないの」
玲は、査定書の手を止めた。そして、少しだけ考えるような間を置いた。
「すごいかどうかは、視点によります」
玲は、静かに言った。
「一度だけ引き当てたなら、それは運です。五回やって五回引き当てたなら、それは技術です。ロックが、どちらなのかは、まだ分かりません。私は、まだ一件しか、彼のデータを持っていません」
「じゃあ、もっとデータが集まったら、分かるの?」
「分かります」
玲は答えた。
「彼が、同じ状況で、何度、同じ結果を出せるか。それを数えれば、運か技術かは、いずれ収束します。私は、それを待っています」
ルマジュールは、その言葉に、少し黙った。
この女は、ロックを、まだ判定していなかった。すごいとも、すごくないとも、決めていない。ただ、データを待っている。その保留の仕方が冷たいのか、それとも、ある種の公平さなのか。ルマジュールには、やはり判断がつかなかった。だが、少なくとも、この女は、ロックを軽んじてはいなかった。軽んじる相手のデータを、わざわざ待ったりはしない。
---
その会話を、離れた席で、ロックが聞いていた。
ロックは、書類を片付ける手を止め、玲の机のほうへ、ゆっくりと歩いてきた。手には、いつものコーヒーのカップがあった。だが今日は、それを玲に差し出さなかった。ただ、机の傍らに立ち、静かに切り出した。
「僕のデータを、待っている、と」
ロックが、薄く笑った。
「聞かれて困る話では、ありません」
玲は、顔を上げた。
「あなたが、次に同じ状況で、同じ結果を出せるかどうか。私は、それを観測します。今の段階では、あなたは一件のサンプルです」
「一件のサンプル、か」
ロックが、その言葉を繰り返した。
「あなたにかかると、僕の交渉も、実験の観測対象になるんですね」
「なります」
玲は、静かに答えた。
「ですが、それは、軽んじているという意味ではありません。私は、価値のないものを観測しません。観測するのは、まだ説明のつかないものだけです。あなたは、私の式では、まだ説明がつかない。だから、観測しています」
ロックは、その言葉を、しばらく黙って受け止めていた。
玲の言い方は、相変わらず乾いていた。だが、その乾いた言葉の中に、ロックは一つのことを聞き取った。この女は、自分を切り捨てていない。奇跡ではないと言いながら、その奇跡を、まだ説明できないものとして抱え続けている。否定でも肯定でもなく、ただ観測を続けている。
「あなたは」
ロックが、ゆっくりと言った。
「僕のことを、いつか、数式にするつもりですか」
玲は、その問いに、一拍、間を置いた。
「できるなら、します」
玲は答えた。
「あなたの言葉が、なぜ人を動かすのか。その仕組みが分かれば、私の式は、少しだけ正確になります。ですが」
玲は、そこで言葉を切った。
「できないかもしれません。あなたのやり方が、最後まで数式に乗らない可能性も、私は残しています。乗らなければ、それはそれで、一つの結論です。すべてが数字になるとは、私は思っていません」
ロックが、その返答に、少しだけ目を細めた。
意外な答えだったのかもしれない。玲は、すべてを数字にできると信じているわけではなかった。数字にならないものが、あるかもしれない。その可能性を、玲は、自分の式の外に開いたまま残していた。ロックは、その一点に、この女の意外な誠実さを見たようだった。
「じゃあ」
ロックが、静かに言った。
「もし、僕が最後まで数式に乗らなかったら。あなたは、それを、どう処理するんですか」
「処理しません」
玲は答えた。
「乗らないものは、乗らないまま、記録に残します。説明できないという事実も、一つのデータです。私は、無理に式に押し込むより、説明できないことを正確に説明できないと記録するほうを選びます」
ロックは、その言葉に、少しだけ笑った。
その笑いには、勝ちも負けもなかった。ただ、目の前の女とは、これからも平行線を歩くのだという、静かな了解だけがあった。だが、その平行線は、以前ほど冷たいものではなくなっていた。二本の線は、交わらないまま、同じ方向へ並んで伸びていた。
「あなたと話すのは」
ロックが、コーヒーを一口飲んで言った。
「疲れます。でも、嫌いではない」
「疲れるかどうかは」
「あー、分かってます。僕の生存確率には影響しない、でしょう」
ロックが、先回りして言った。玲は、少しだけ間を置いた。
「その通りです」
ロックは、小さく笑って、自分の席へ戻っていった。玲は、その背中を目で追わなかった。ただ、ロックとの間に、また一つ記録すべきデータが増えた。玲は、それだけを記録の欄に留めた。ロックは、玲との対話を、嫌いではないと言った。それが、今後の力学にどう作用するかは、まだ分からない。分からないものを、玲は焦って名づけようとはしなかった。
---
夜が更け、事務所の人影が、また減っていった。
ダッチは無線の前に座り、ベニーは機材を片付け、レヴィはソファで煙草をふかしていた。ルマジュールは、玲の机の近くで、まだ椅子に座っていた。帰る気配を見せず、玲の作業を、ただ眺めていた。
「ねえ」
ルマジュールが、頬杖をついたまま言った。
「あんた、この街に来て、もう少し経つよね。どう、慣れた?」
「慣れる、という言葉の定義によります」
玲は、査定書の手を止めずに答えた。
「この街の力学は、把握し始めています。誰が、どういう時に、どう動くか。その確率の分布が、少しずつ見えてきました。それを慣れと呼ぶなら、慣れつつあります」
「そういうことじゃなくてさ」
ルマジュールが、少し口をとがらせた。
「もっとこう、居心地とか、そういうの」
「居心地は」
玲は、そこで、少しだけ手を止めた。
「悪くありません」
ルマジュールが、顔を上げた。この女が、居心地について、悪くないと答えたのは初めてだった。玲は、居心地を、普段は査定の対象にしない。それが、玲の生存確率に直接影響しないからだった。だが、今、玲は、悪くないと答えた。
「なんで、悪くないの」
ルマジュールが、尋ねた。
「ここには」
玲は、静かに言った。
「私の数字を、検証してくれる人間がいます。ベニーは、私のデータを突き合わせます。ダッチは、私の査定を判断に使います。あなたは、私の言い回しを覚え始めています。検証されない数字は、死んだ数字です。ここでは、私の数字が死なずに済んでいます。だから、悪くありません」
ルマジュールは、その言葉に、少し黙った。
この女の言う居心地は、感情の話ではなかった。自分の数字が機能する場所があること。それを、この女は居心地と呼んでいた。ルマジュールには、その感覚が、まだ完全には飲み込めなかった。だが、この女なりの言葉で、この場所を悪くないと言ったことだけは伝わってきた。
「あんたって」
ルマジュールが、小さく言った。
「本当に、いつも同じこと言うよね」
「同じ答えしか、持っていないだけです」
玲は、静かに言った。
「私は、この街の平均から外れた存在です。それは、最初から変わっていません」
ルマジュールは、そこで初めて、声を立てずに笑った。同じ言葉を、もう何度も聞かされている。それなのに、聞かされるたびに、少しだけ、違う響きに聞こえる。ルマジュールは、その理由を、うまく言葉にできなかった。
そして、椅子から立ち上がった。
「じゃ、わたし帰るね」
「気をつけて」
玲が、顔を上げずに言った。ルマジュールが、少しだけ足を止めた。
「あんた、それ、もう何回目だろうね」
「数えていません」
玲は、査定書を閉じながら答えた。
「ですが、あなたが夜のロアナプラを歩く生存確率を、ほんの少しでも上げるためです。理由は、初日から変わっていません」
ルマジュールは、その返答を聞いて、少しのあいだ玲を見ていた。
数パーセント。この女は、いつも、そう言って気遣いを包む。心配しているとは、決して言わない。だが、ルマジュールは、もう分かり始めていた。この女が、数字で包んでいるものの中身が、まったくの無関心ではないことを。無関心でいられる相手には、この女は、こんな一言さえ口にしない。
「ありがと」
ルマジュールが、そう言った。以前より、少しだけ、素直な声だった。
玲は、その礼に、特に反応しなかった。ただ、ルマジュールが、初めて素直に礼を言ったことを、記録の端に留めた。それが、二人の力学の、一つの変化を示していた。分からないものを、玲は焦って名づけない。だが、変化そのものは、正確に記録する。
ルマジュールが、扉のほうへ向かった。その背中を、玲は目で追わなかった。扉が閉まる音を、背中で聞いた。
---
やがて、レヴィも立ち上がった。
レヴィは、煙草を灰皿に押しつけ、玲の机の前を通りかかった。そこで、一度、足を止めた。
「おい、電卓」
レヴィが、玲を見下ろして言った。玲は、顔を上げた。
「バラライカの使いが来たんだってな。ダッチから聞いた」
「来ました」
「あの女に覚えられんのは」
レヴィが、視線を外しながら言った。
「厄介事の始まりだぜ。あたしは、そう思うね」
「その可能性も、計算に入れています」
玲は、静かに答えた。
「バラライカに覚えられることは、資産にも負債にもなります。今は、どちらとも言えません。ですが、あなたの言う通り、負債に転ぶ確率も、ゼロではありません」
レヴィが、玲の横顔を、ちらりと見た。
「あんた、それでも、平気な顔してんな」
「平気ではありません」
玲は答えた。
「ただ、動揺しても、状況は変わりません。負債に転ぶ確率があるなら、その時の対応を、今から用意しておくだけです。動揺は、用意を遅らせる雑音です」
レヴィは、しばらく玲を見ていた。
その視線には、以前のような苛立ちは、もうなかった。何かを値踏みし直しているような視線だった。この電卓女は、バラライカに覚えられても、瞬き一つ変えない。厄介事の予感の前でも、ただ淡々と対応を数え始める。レヴィは、その崩れなさを気に食わないと思っていた。だが、その底では、認めざるを得ないものとして見ていた。
「あんたの数字は」
レヴィが、扉のほうへ歩きながら言った。
「相変わらず、癪に障る」
そして、少し間を置いて、続けた。
「けど、この街で長生きすんのは、あんたみたいなタイプかもな」
その一言を残して、レヴィは事務所を出ていった。
玲は、その背中を目で追わなかった。だが、レヴィの言葉を記録の欄に加えた。レヴィは、玲の数字を、癪に障ると言った。同時に、この街で長生きするタイプだとも言った。その二つは、矛盾していない。レヴィは、玲のやり方が気に入らない。だが、玲の生存能力は認めている。水と油。それは変わらない。だが、その油は、水の生存能力を見誤るほど鈍くはなかった。
玲は、レヴィのその胆力と判断力を、あらためて記録に留めた。
---
事務所には、また、玲だけが残った。
ダッチも、ベニーも、いつの間にか帰っていた。無人の事務所に、無線の低い唸りだけが静かに満ちていた。玲は、その静けさの中で、最後の査定書を書き上げていく。この三日間で得たデータを、一つずつ記録の中に収めていった。
バラライカからの、格付け。ダッチとの間に生まれた、確認を省ける領域。ルマジュールの、初めての素直な礼。レヴィの、癪に障ると認めるの同居。そして、ロックとの、平行線の対話。
玲は、それらを感情の言葉では処理しなかった。
代わりに、一つずつ記録の項目として並べていった。この街に来て、自分の座標がどう変わったか。誰との間に、どういう力学が生まれたか。玲は、それを査定書と同じ要領で、淡々と数え上げた。数え終えても、合計は出さなかった。合計は、玲を立ち止まらせるだけの数字だった。
査定書の最後の一枚を閉じる前に、玲は余白に一行だけ書き加えた。
ロックについての、一行だった。
玲は、ペンを持ったまま、しばらくその余白を見つめていた。何を書くべきか、迷っていたのではない。書くべきことは、決まっていた。ただ、それをどの言葉で記録するかを、玲は計算していた。
そして、玲は書いた。
「彼の言葉を、まだ一件も、再現性のあるサンプルとして登録できていない」
それだけを、玲は書いた。
賞賛でもなく、否定でもない。ただ、現時点での査定の保留を示す一行だった。ロックの言葉が、なぜ効くのか。それを、玲はまだ数式にできていない。できていないから、登録できない。登録できないものは、保留する。玲は、その保留を正確な言葉で記録に残した。
ペンを置き、玲は査定書を閉じた。
---
窓の外では、ロアナプラの夜が、まだ続いていた。
ネオンが灯り、路地に人が流れ、そのどこかで、また誰かが数字の外へこぼれ落ちていく。玲は、その光景を、机の上から静かに眺めていた。この三日間で、玲は、この街の中に少しずつ、自分の座標を刻んでいた。
バラライカに覚えられた。
ダッチに信頼され、ルマジュールに懐かれ始めた。
レヴィには認められかけ、ロックとは平行線を歩き始めていた。
だが、玲は、それを成功とは呼ばなかった。
呼ぶには、まだ早すぎた。この街での自分の位置は、まだ一つの査定の途中に過ぎない。バラライカの格付けが、資産に転ぶか負債に転ぶかは、これからの数字が決める。ロックとの対話が、いつか対立になるか、それとも別の何かになるかも、まだ分からない。すべては、収束の途中だった。
玲は、その途中を、途中のまま受け止めた。
和解でも、決別でもない。ただ、互いを査定対象として、保留し続ける。それが、この街での、玲の関係の定点だった。誰とも、深く交わらない。だが、誰のことも正確に観測し続ける。その距離は、玲にとって最も損失の少ない間合いだった。そして、最も長く生きられる間合いでもあった。
玲は、鞄の中身を、もう一度数え始めた。
査定の道具。記録の束。最低限の護身の備え。一つずつ数え上げていく指先は、几帳面で、乱れがなかった。この街の狂気の中で、その几帳面さだけが、玲という存在の輪郭を静かに保っていた。
数え終えて、玲は椅子から立ち上がった。
事務所の明かりを落とし、扉に手をかける。その一瞬、玲は、暗くなった事務所を一度だけ振り返った。そこには、見送る者も、引き止める者もいなかった。当然の光景だった。玲は、その光景を確認しただけで、再び前を向いた。確認とは、期待の裏返しではない。ただ、事実がどうなっているかを見届ける習慣に過ぎなかった。
だが、以前と、一つだけ違っていた。
この事務所には、明日、また人が集まる。ダッチが無線の前に座り、ベニーが機材を運び込む。レヴィが煙草をくわえ、ルマジュールが顔を出す。そして、ロックがコーヒーを淹れる。玲もまた、この机に着く。無人の事務所は、無人のまま終わるのではなく、明日への空白として、そこにあった。
玲は、その空白の意味を、深く分析しなかった。
分析するほどのデータが、まだ揃っていなかったからだった。ただ、この場所が、明日も自分の座標であり続けることだけを、玲は静かに確認した。それが、この街での、玲の新しい定点だった。
玲は、扉を開けて、外へ出た。
ロアナプラの夜気が、頬に触れた。その温度を、玲は特に評価しなかった。ただ、いつも通り、乱れた髪を指先で整え、コートの襟を正した。周囲の誰も、この女が、この街の頂点から覚えられた存在だとは、気づかないだろう。玲は、そう装ったのではなく、ただ普段通りに振る舞っただけだった。
明日もまた、数字が続く。
そしていつか、玲はその数字の中に、ロックという未知数を正しく組み込むことになる。バラライカという頂点との距離も、少しずつ数字で測っていくことになる。使者が置いていった一つの値は、まだ資産にも負債にも、確定していない。すべては、まだその途中だった。
玲にとって、それだけが確かなことだった。