BLACK LAGOON - ODDS - 作:たこ焼き 龍月
三合会の店は通りから一本奥に引っ込んだ路地の突き当たりにあった。
昼と夜の境目の色の薄い時間だった。玲はその路地の入口で一度足を止めて店までの距離と両側に並ぶ扉の数を数えた。逃げるための道と逃げられなくなる場所をあらかじめ帳簿に置いておくのが玲の習慣だった。路地は片側にしか出口がなく突き当たりの店に入れば退路は来た道の一本だけになる。玲はその一本の道の長さを歩幅で見積もった。
隣をダッチが歩いていた。
ダッチは玲より半歩前をいつもの速度で進んでいた。ダッチはこの街の路地を逃げ道の数で測る人間ではない。彼は経験でどこが危険でどこが安全かを体で覚えている。玲は数えダッチは覚えている。二人の歩き方は違っていたが突き当たりの店を目指す点だけは同じだった。
「玲」
ダッチが前を向いたまま言った。
「張は噂を聞いてる。お前のことをだ」
「どの噂ですか」
「数字で人を裁く女、ってやつだ」
玲はその言い回しを頭の中で少し訂正した。玲は人を裁いたことがない。裁くのは確率が確定してからの話だ。玲がしているのはその手前の確率を見積もる作業だった。だが街の人間がそれを裁くと呼ぶのは玲の見積もりが外れないからだった。外れない見積もりは判決のように聞こえる。
「訂正しても通じない噂です」
玲が静かに答えた。
「なら訂正するな」
ダッチが言った。
「張は噂を確かめるためにお前を呼んでる。訂正されるより確かめさせたほうがこっちの得だ」
玲はその言葉に頷かなかった。頷く必要のない正しい計算だったからだ。
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店の扉は内側から開いた。
玲が触れるより先に扉が音もなく開いて中から一人の男が姿を見せた。仕立ての良いスーツを着た寡黙そうなアジア系の男だった。玲はその男の立ち方を一目で査定した。両手を体の前で軽く合わせているがその手の位置が上着の内側に一瞬で届く距離を保っている。無駄な動きが一つもない。護衛として極めて練度の高い立ち方だった。
「白と申します」
男が短く名乗った。
「頭が、お待ちです」
玲はその名前を帳簿に加えた。白。張の側近であり護衛。この男の練度は張という人間の格を測る一つの目盛りになる。頂点に立つ人間は自分の格に見合った護衛を置く。白の立ち方は張が二流の人間ではないことを言葉より確かに示していた。
「案内を」
ダッチが言った。
白は何も答えずに体を半分だけ引いて道を空けた。言葉ではなく動作で応じる男だった。玲はその省略された返答を白という人間の性質として記録した。無駄を削ぎ落とした人間は無駄のない主人に仕えることが多い。
玲とダッチは店の中へ入った。
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店の内側は外から見たよりも広かった。
薄暗い照明の下にいくつかの円卓が並んでいた。営業前の時間らしく客の姿はない。玲は店の奥へ進みながら卓と卓の間隔と天井の高さと窓の位置を数えた。窓は高い位置に一つだけあり外からの視線も内からの脱出もほぼ通さない造りだった。この店は飲食のための店であると同時に閉じ込めるための箱でもある。玲はその二つの用途を同じ空間の中に読み取った。
店の一番奥の卓に一人の男が座っていた。
その男は店の照明が最も届かない位置を選んで座っていた。サングラスをかけ仕立ての良いスーツの上にコートを羽織っている。口元には火の点いていない煙草があった。玲はその男を見た瞬間に写真や噂で知っていた輪郭と目の前の実物を照合した。ずれはほとんどなかった。
「張維新」
玲が静かに名前を呼んだ。
男はすぐには答えなかった。
代わりに煙草に火を点けた。ライターの炎がサングラスの奥の目を一瞬だけ照らしてまた暗がりに戻した。張は最初の一服を深く吸ってからゆっくりと煙を吐いた。その一連の動作に急ぐ気配は一つもなかった。玲はその所作の遅さを余裕の表示として読んだ。急がない人間は急ぐ必要のない立場にいる。
「白井玲、だったかな」
張がようやく口を開いた。
「噂の、オッズか」
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玲は卓の手前で足を止めた。
張が向かいの椅子を目線だけで示した。玲はその椅子を引く前に卓を挟んで座ることの意味を一つ確認した。卓を挟んで正面に座るのは交渉の姿勢だ。斜めに座るのは対立を避ける姿勢。張が正面の椅子を示したことは張が玲を交渉の相手として認めていることを意味していた。それは悪くない前提だった。
玲は椅子を引いて腰を下ろした。
ダッチは座らなかった。ダッチは玲の斜め後ろに立って白と同じように店の全体を視界に収める位置を取った。この場の交渉を玲に任せ自分は場そのものを見張る。ダッチはそういう役割の分け方を言葉にせずに選んでいた。
「かけてくれ」
張がダッチにも椅子を勧めた。
「立ったままじゃ話が硬くなる」
「これでいい」
ダッチが短く答えた。
張はその返答に小さく笑った。笑いながら煙草の灰を灰皿に落とした。玲はその笑いを観察した。張の笑いは警戒を解いた笑いではない。相手が警戒を解かないことを面白がる笑いだった。張はダッチが立ったままでいることを無礼とは受け取っていない。むしろ正しい判断として楽しんでいる。玲はその反応を張という人間の余裕の証拠として記録した。
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「用件は聞いている」
張が煙草を指の間で回しながら言った。
「あんたのところに頼み事をした。ホテル・モスクワが港湾の使用権を本当に譲る気があるのか。その裏付けだ」
「依頼は承りました」
玲が答えた。
「ですがまだ裏付けは取れていません。今日はその前段の確認に伺いました」
「前段?」
「はい」
玲は卓の上に両手を軽く置いた。
「依頼を進める前に確認しておくべきことが二つあります。一つはあなたが私たちにどこまでの精度を求めているか。もう一つはあなたがこの依頼で本当は何を測ろうとしているか」
張の煙草が指の間で止まった。
サングラスの奥の視線が玲のほうへ向いた。玲はその視線の重さを感じたが視線に対して視線を返す習慣を持っていない。玲は卓の上の自分の手を見ていた。相手の目を見て圧を測るのはダッチの仕事で玲の仕事は言葉の背後にある勘定を読むことだった。
「面白いことを言うな」
張が言った。
「依頼の中身より依頼の裏を先に聞くのか」
「依頼の中身は封筒に書いてありました」
玲が答えた。
「封筒に書いていないことのほうが査定には必要です」
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張はしばらく黙って玲を眺めた。
その沈黙は値踏みの沈黙だった。玲は値踏みされることを不快とも快とも感じなかった。値踏みは取引を始める前の当然の手続きだ。むしろ値踏みなしに信用してくる相手のほうが玲にとっては危険だった。値踏みをする相手はこちらの精度を測ろうとしている。それは玲が最も得意とする土俵だった。
「あんたは」
張が口を開いた。
「情けは人のためならず、という言葉を知ってるか」
玲はその言葉を頭の中で一度受け止めた。
慣用句だった。相手が慣用句で来たとき玲がすることは決まっている。玲はその言葉が本来指し示している構造を統計と期待値の言葉に翻訳する。翻訳した上で感情を一切乗せずに返す。それが玲の応答の型だった。
「知っています」
玲が答えた。そして一拍の間を置いた。
「ですがそれは道徳の話ではありません。期待値の分散を長期で均す話をしているだけです」
張の口元がわずかに動いた。
「続けてくれ」
「人に情けをかけることは短期的には損失です。時間も金も労力もその場では戻ってこない。ですが情けをかけた相手がいつか自分に返す確率がある。その返礼を長い期間で平均すれば期待値はプラスに転じることがある。『情けは人のためならず』はその長期の期待値を道徳という言葉で包んだものです」
玲はそこで言葉を切った。
「包み方が上手いだけです」
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張が笑った。
今度の笑いはさっきの笑いとは質が違っていた。さっきは相手の警戒を面白がる笑いだったが今度は予想外のものを見つけた笑いだった。張は煙草を灰皿に置いて両手を卓の上で軽く組んだ。
「若いのに」
張が言った。
「面白い勘定をする」
玲はその言葉に何も返さなかった。
褒め言葉として受け取ることも皮肉として受け取ることも玲はしなかった。張の言葉は玲の応答を勘定と呼んでいた。それは事実だった。事実に対して玲が付け加えることは何もない。玲はただ次の言葉を待った。
「なあ、白井玲」
張が玲の名を今度はフルネームで呼んだ。
「俺は長いことこの街で商売をしてきた。義理だの人情だのそういうものを看板に掲げてな。だがあんたの言う通りだ。あれは全部勘定なんだよ。ただ俺は勘定を義理という言葉で包む。あんたは義理を勘定という言葉で剥がす。やってることはそう遠くない」
玲はその言葉を注意深く聞いた。
張は自分と玲が近いと言った。だが玲はその近いを鵜呑みにしなかった。近いことと同じことは違う。張は義理を勘定で裏打ちしているが玲は勘定に義理を持たない。張の勘定にはこれまでの取引で積み上げた顔や借りが変数として組み込まれている。玲の勘定にはそれがない。玲はその差を静かに保留した。
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「ミスター・チャン」
玲が張の呼称を登録名に戻して呼んだ。
「一つ確認させてください。あなたは私を近いと言いました。ですがあなたの勘定と私の勘定は一点で異なります」
「どこがだ」
「あなたの勘定には過去があります」
玲が言った。
「あなたが誰に何を借りているか。誰に何を貸しているか。その履歴があなたの計算の前提に組み込まれている。私の計算にはそれがありません。私はこの街に来て半年です。誰にも借りがなく誰にも貸しがない。だから私の数字はあなたの数字より冷たく出ます」
張はその指摘にすぐには答えなかった。
彼は玲の言葉を吟味しているようだった。玲はその吟味の時間を待った。この時間は無駄な沈黙ではない。玲の言葉が張の勘定のどこに当たったかを張自身が確かめている時間だ。玲はその確かめが終わるまで卓の上の自分の手を見ていた。
「冷たく、か」
張が呟いた。
「それは欠点か。長所か」
「査定では長所です」
玲が答えた。
「借りのある相手を人は甘く見積もる。貸しのある相手を人は厳しく見積もる。その歪みが査定を狂わせます。私にはその歪みがない。だからあなたが求めているバラライカの本心をあなた自身よりも正確に見積もれる可能性があります」
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張はその言葉にふっと息を漏らした。
笑いともため息ともつかない息だった。張は煙草を取り直してもう一度火を点けた。二本目の煙草だった。玲はその二本目を張が会話を長く続ける意思の表れとして読んだ。値踏みだけなら一本で終わる。二本目に火を点けるのはこの会話に値踏み以上の価値を見出したときだ。
「あんた、バラライカに会ったことは」
張が尋ねた。
「ありません」
「なら聞いておけ」
張が煙を吐きながら言った。
「あの女もな。俺と同じでね。情に見えて実は全部勘定なんだ」
玲はその言葉を聞き逃さなかった。
情に見えて実は全部勘定。それは張が自分自身を評した言葉と同じ構造をしていた。張はバラライカを自分と同じ種類の人間だと見ている。だが玲はその評価をそのまま帳簿に写さなかった。張がバラライカを勘定の人間と見ていることとバラライカが実際に勘定の人間であることは別の事実だ。張の評価には張自身の願望が混じっているかもしれない。自分と同じであってほしいという願望が。
玲はその言葉を二つに分けて記録した。
一つ。張はバラライカを勘定の人間だと評価している。これは確定した事実だ。
もう一つ。バラライカが実際に勘定の人間かどうかは未確認だ。これはこれから査定する変数だ。
「記録しました」
玲が静かに言った。
「あなたがそう評価していることを」
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張の眉がサングラスの上でわずかに動いた。
「俺の評価を疑うのか」
「疑ってはいません」
玲が答えた。
「あなたの評価をあなたの評価として記録しただけです。バラライカが勘定の人間かどうかはあなたの言葉ではなく彼女の行動から測ります。あなたの言葉はその測定の一つの参照点になります。参照点は多いほど精度が上がる。ですからあなたの評価は有益です」
張はその返答にまた笑った。
三度目の笑いだった。今度の笑いには感心とわずかな警戒が混じっていた。張は自分の言葉を額面通りに受け取らない相手を面白がると同時に油断できない相手として認識し始めていた。玲はその二つの感情の混合を張の笑いの質から読み取った。
「あんたは」
張が言った。
「俺の言葉すらそのままは信じないんだな」
「言葉は証拠になりません」
玲が答えた。
「言葉は意図です。意図は行動と一致することもあればしないこともある。私が査定するのは行動のほうです。あなたが私にバラライカを勘定の人間だと言ったこと。それ自体はあなたの意図です。その意図があなたの実際の判断と一致しているかどうかも私は別に測ります」
張はしばらく玲を見つめた。
そして煙草を灰皿に置いて両手を組み直した。玲はその所作の変化を見た。張はくだけた姿勢から少しだけ姿勢を正した。それは玲を遊びの相手から仕事の相手へと格上げした動作だった。玲はその格上げを感情ではなく座標の変化として受け取った。
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「白井玲」
張が姿勢を正したまま言った。
「あんたを呼んだのは噂を確かめるためだった。数字で人を裁く女、というのがどんな女か見ておきたかった」
「確かめは済みましたか」
「済んだ」
張が答えた。
「あんたは噂とは違う。噂はあんたを裁く女だと言っていた。だがあんたは裁いてない。あんたは測ってるだけだ。裁くのはその先の話だ。あんたはその先には踏み込まない」
玲はその言葉に初めてわずかな一致を感じた。
張は玲を正確に読んでいた。玲は裁かない。玲は測る。裁くのは測った結果を使う人間の仕事だ。玲はその境界をこれまで誰にも説明したことがなかった。だが張は説明されずにその境界を見抜いていた。玲はその読みの正確さを張という人間の勘の高さとして記録した。数式ではなく勘。玲の方法とは違うが到達点は近い。
「その通りです」
玲が認めた。
「私は測るだけです。測った数字をどう使うかは私の管轄ではありません」
「なら俺たちはうまくやれるかもしれん」
張が言った。
「俺は測るのが下手でな。勘でやってきた。あんたの数字が俺の勘の裏付けを取ってくれるなら悪い取引じゃない」
玲はその言葉を慎重に受け止めた。
「裏付けが取れることと勘が正しいことは別です」
玲が言った。
「私の数字があなたの勘を裏付けることもあれば否定することもあります。否定したときにあなたが数字を選ぶか勘を選ぶか。それはあなたの判断です。私はそこには関与しません」
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張はその言葉にしばらく黙った。
それから深く笑った。声を出しての初めての笑いだった。張は笑いながらコートの襟を少し直した。玲はその笑いを警戒を混ぜた感心の最も強い形として読んだ。張は玲が自分に媚びないことを面白がっていた。この街で張に媚びない人間は少ない。媚びる人間は張の勘定に組み込みやすい。媚びない人間は組み込みにくい。組み込みにくいものは危険であると同時に価値がある。
「あんた」
張が笑いを収めながら言った。
「本当に義理を持たないんだな」
「まだ持ちません」
玲が答えた。
「まだ?」
「義理は取引の履歴の上に後から積もるものです」
玲が言った。
「私はこの街に来て半年です。積もるだけの履歴がまだありません。時間が経てば私にも義理は生まれるでしょう。ですがそれはいま計算に入れる変数ではありません」
張はその答えにもう笑わなかった。
代わりに静かに頷いた。玲の答えは正直だった。義理を永遠に持たないと言い張るのではなくまだ持たないと言った。そのまだの中に張は玲が計算だけの機械ではなく時間の中で変わりうる人間であることを読み取ったようだった。玲はその読みを否定も肯定もしなかった。読みの当否は時間が測る。
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「話はこれで終わりだ」
張が立ち上がる気配を見せずに言った。
「あんたの仕事はバラライカの本心の裏付けを取ることだ。急がなくていい。急いだ数字は外れる。あんたもそう思うだろう」
「思いません」
玲が答えた。
張の動きが止まった。
「急ぐことと外すことに直接の相関はありません」
玲が続けた。
「外れる数字は前提が間違っているから外れます。急いだから外れるのではない。ただ急ぐと前提を確かめる手数が減る。手数が減れば前提の誤りを見逃す確率が上がる。だから急いだ数字は外れやすい。ですが原因は速度ではなく確認の不足です」
張はその訂正を黙って聞いた。
そしてまた笑った。この日何度目かの笑いだった。だがこの笑いにはこれまでとは違う色があった。降参に近いしかし不快ではない色。張は自分のちょっとした慣用句すら玲が数字の言葉に翻訳し直すことをもはや面白がるしかないという顔をしていた。
「訂正、感謝する」
張が言った。
「あんたと話してると言葉が減っていくな。俺の言葉がいちいち数字に両替される」
「両替のレートは公正です」
玲が答えた。
その返しに張は声を立てて笑った。
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玲は椅子から立ち上がった。
立ち上がる前に玲は店の窓の位置と来た道の一本の退路をもう一度確認した。入る前に数えた通り退路は変わっていない。玲はその確認を済ませてから卓の張に向き直った。
「一つ聞いておきたいことがあります」
玲が言った。
「なんだ」
「今日あなたが私にバラライカを勘定の人間だと教えたこと。これは依頼の一部ですか。それとも依頼の外のあなたの好意ですか」
張はその問いに少しだけ間を置いた。
「どっちだと思う」
「わかりません」
玲が答えた。
「だから聞いています。もし依頼の一部なら私はそれをあなたが私に持たせたい前提として扱います。もし好意なら私はそれを参照点の一つとしてより慎重に扱います。扱い方が変わるので確認が必要です」
張はその問いの意味を正確に理解したようだった。
彼は煙草の煙をゆっくりと吐いた。玲はその煙が天井へ昇っていくのを見ながら答えを待った。この問いの答えは査定にとって重要だった。張が玲に持たせたい前提があるならそれは張の意図であり警戒すべきものだ。ただの好意なら警戒の度合いは下がる。
「好意だ」
張が答えた。
「と、言っておこう。だがあんたが今それを疑ったことも悪くない。好意ですら疑うならあんたの数字は俺の好意には汚されない。それは俺にとっても都合がいい」
玲はその答えを二重に記録した。
一つ。張は好意だと答えた。
もう一つ。張は玲がその好意を疑ったことを都合がいいと言った。つまり張は玲が自分の言葉に影響されないことを望んでいる。それは張が玲に正確な査定を期待しているという意味だ。同時にそれは張が自分の好意を玲を動かす手段として使う気がないという表明でもあった。玲はその二重の意味を帳簿の同じ行に並べて書き留めた。
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「では失礼します」
玲が言った。
ダッチが玲の斜め後ろで体の向きを変えた。店を出るための準備だった。白がいつの間にか扉の近くに立って退出の道を空けていた。玲は白の立ち位置の移動に入るときと同じ無駄のなさを見た。この男は会話の間じゅう一度も無駄な動きをしなかった。
「白井玲」
張が去ろうとする玲の背に声をかけた。
玲は足を止めて振り返った。
「あんたの数字がいつか俺の勘と食い違う日が来る」
張が煙草を灰皿に押し付けながら言った。
「そのときあんたは自分の数字を信じるか。それとも俺の勘を疑う余地として残すか」
玲はその問いに即答しなかった。
問いの構造を頭の中で組み立てた。張は玲の数字と張の勘が食い違う未来を想定している。そのとき玲がどちらを取るかを聞いている。だが玲にとってその問いには前提の誤りがあった。玲は数字と勘を対立するものとして扱っていない。
「食い違ったときは」
玲が答えた。
「あなたの勘を新しいデータとして私の計算に入れます。あなたの勘が私の数字と違うということは私が見ていない変数をあなたが見ている可能性がある。その可能性を私は無視しません。私はあなたの勘を疑うのではなくあなたの勘を査定の材料に加えます」
張はその答えにしばらく黙った。
それからサングラスの奥で目を細めたようだった。玲にはその表情の細部は見えなかった。だが張の沈黙の質がこれまでと違うことは感じ取れた。値踏みの沈黙でも面白がる沈黙でもない。何かもっと静かなものを確かめる沈黙だった。
「……はみ出さないんだな、あんたは」
張が呟いた。
「はみ出す?」
「いや」
張が首を振った。
「こっちの話だ」
玲はそのこっちの話の中身を問わなかった。
問うても答えは返らないと見積もったからだ。張は何かを玲と玲でない誰かとを比べていた。玲はその比較の相手が誰なのかをいまは知らなかった。ただその比較が玲にとって不利にも有利にも働かないことだけは確かだった。玲はそのこっちの話を未回収の変数として帳簿の余白に小さく記した。
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店の扉がまた内側から開いた。
白が扉を押さえていた。玲はその扉をくぐる前にもう一度だけ店の奥の張を見た。張はもう玲のほうを見ていなかった。新しい煙草に火を点けて暗がりの中にまた余裕の輪郭を沈めていた。玲はその輪郭を今日の査定の総体として頭の中に収めた。
路地に出ると夕方の光が玲の目を一瞬だけ細めさせた。
ダッチが玲の隣に並んだ。
「どうだった」
ダッチが歩きながら尋ねた。
「値踏みは済みました」
玲が答えた。
「向こうもこっちも」
ダッチが笑いに近い息を吐いた。
「張がお前を気に入ったみたいだったな」
「気に入られたかどうかは査定していません」
玲が答えた。
「私が査定したのは張が私を使えると判断したかどうかです。使えると判断されました。気に入られることと使えると判断されることは別の変数です。前者は感情。後者は勘定。張が私に向けているのは後者です」
ダッチはその返しにまた息を吐いた。
「お前は本当にそこを分けるんだな」
「分けなければ査定が狂います」
玲が答えた。
「気に入られたと勘違いすれば私は張に必要以上の期待を持つ。期待は判断を甘くする。甘い判断は外れる。私は外れたくない。だから分けます」
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二人は路地を抜けて通りへ出た。
ロアナプラの夕方は昼の気だるさと夜の熱をどちらも半分ずつ抱えた時間だった。屋台の煙と遠くのクラクションと誰かの怒鳴り声が通りの空気に溶けていた。玲はその雑多な音の中を歩きながら頭の中で今日の会話を一つずつ整理していた。
張という人間はこれまで玲が観測してきたどの人物とも少し違っていた。
ロックは言葉を信じる人間だった。言葉が人の心を動かし世界を変える瞬間をロックは信じていた。玲はその瞬間を確率の低い側に転んだサンプルとして処理していた。
レヴィは勘と衝動で動く人間だった。計算より前に体が動く。玲はその衝動を査定の外にある変数として扱っていた。
だが張はそのどちらでもなかった。張は情を看板に掲げながらその裏で勘定をしていた。情と勘定が一人の人間の中に同居していた。玲はその同居をこれまで見たことがなかった。玲の中では情と勘定は対立するものだった。情は誤差で勘定は本体だ。だが張の中ではその二つが対立せずに共存しているように見えた。
「ダッチ」
玲が歩きながら言った。
「張について一つ記録に加えます」
「なんだ」
「張は情と勘定を分けていません」
玲が言った。
「私は分けます。ロックは情を上に置きます。レヴィは勘定を持ちません。ですが張は情と勘定を同じ場所に置いている。それが私の観測範囲の中で初めてのケースです。だから張の査定はこれまでの誰よりも時間がかかります」
ダッチはその言葉にしばらく黙って歩いた。
そして煙草を一本口にくわえた。火は点けなかった。
「玲」
ダッチがくわえた煙草を揺らしながら言った。
「お前もいつかそうなるのかもな」
「情と勘定を分けなくなるということですか」
「さあな」
ダッチが答えた。
「俺にはわからん。ただ張も昔はお前みたいだったのかもしれんと思っただけだ」
玲はその言葉を否定しなかった。
否定するだけの根拠が玲にはなかった。張が昔どうだったかを玲は知らない。知らないことについて玲は断定しない。玲はダッチの言葉を確認されていない仮説として帳簿の余白に加えた。張の情と勘定の同居が時間の中で形成されたものなのか最初からそうだったのか。それはこれから査定する変数だった。
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事務所の灯りが通りの先に見えてきた。
玲はその灯りに向かって歩きながら今日の会話の総体を頭の中で一つの記録にまとめていた。張は玲を使えると判断した。玲は張を情と勘定が同居する未査定の人間として記録した。バラライカについては張の評価を参照点の一つとして受け取った。依頼の本体であるバラライカの本心の裏付けはまだ手つかずだった。
玲はその手つかずの依頼を明日からの作業として帳簿の先頭に置いた。
事務所の扉を開けると中の空気は朝より少しだけ軽くなっていた。ベニーが端末の前で何かの通信記録を睨んでいた。レヴィはソファに寝転がって天井に向けて煙の輪を吐いていた。ロックは机の上に地図を広げて港湾の位置を確認していた。ルマジュールはその地図をロックの肩越しに覗き込んでいた。
「戻ったか」
ダッチが事務所に向かって言った。
「玲が張と会ってきた」
全員の視線が一瞬玲に集まった。
玲はその視線を報告を待つ視線として受け取った。玲は机の自分の定位置に着いて鞄から一枚の紙を取り出した。今日の会話を要点だけ書き留めた紙だった。
「報告します」
玲が言った。
「張は私を査定屋として使う意思を固めました。バラライカの本心の裏付けについては急がなくていいと言われました。それから一つ記録に加える情報があります」
玲はそこで一度言葉を切った。
「張はバラライカを情に見えて実は全部勘定の人間だと評価しています。この評価が依頼の前提になるか単なる好意の情報提供かを私は張に確認しました。張は好意だと答えました。ですがその好意すら査定の材料としては参照点の一つに過ぎません」
ロックが地図から顔を上げた。
「玲さん」
ロックが言った。
「張はどんな人だった?」
玲はその問いに一拍の間を置いた。
「話せば勘定の合う人間です」
玲が答えた。
「ですがその勘定の底に何があるかはまだ測れていません」
ロックはその答えに何かを言いたそうな顔をした。
だが口には出さなかった。ロックは玲がまだ測れていないと言ったことにわずかな引っかかりを覚えたようだった。玲が測れていないと言うのは珍しいことだった。ロックはその珍しさの意味をしばらく考えているようだった。玲はその考える横顔を査定の対象にはしなかった。
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窓の外でネオンがまた一つ灯った。
玲は机の上に今日の報告書を広げた。張との会話を要点ごとに数字と記号に置き換えて整理していく。張が玲を使えると判断した確度。バラライカの本心について張が持っている情報の信頼度。そして張という人間そのものの未査定の部分。玲はその一つひとつを帳簿の上に静かに書き込んでいった。
帳簿の余白に玲は今日二つの一行を加えた。
一つ。張は情と勘定を分けていない。これは玲の観測範囲で初めてのケースである。
もう一つ。張は去り際にはみ出さないんだなと呟いた。その比較の相手が誰かは未回収である。
玲はその二つの一行をしばらく見つめた。
どちらもいま解ける問いではなかった。時間と追加のデータが要る。玲はその二つを保留のまま帳簿に残すことに決めた。保留は放棄ではない。保留は後で回収するための印だった。玲はその印を几帳面に付け直してからペンを置いた。
事務所の中ではそれぞれがそれぞれの持ち場で動いていた。
ベニーは通信記録を睨み続けていた。レヴィはいつの間にか眠っていた。ロックは地図の上に細い線を書き加えていた。ルマジュールはその線を黙って見ていた。玲はその全員の動きを視界の端で捉えながら自分の帳簿だけを見ていた。
二つの卓の一つ目に玲は今日着いた。
もう一つの卓にはまだ着いていない。バラライカという張が勘定の人間と呼んだ女。その女の本心を玲はこれから測ることになる。張の評価が正しいのかそれとも張の願望が混じっているのか。玲はその判別を明日からの作業として帳簿の先頭に置き直した。
窓の外の夜はまだ始まったばかりだった。
玲は査定書の下の硬い板を几帳面に整え直した。湿気は朝よりは引いていた。それでも紙はわずかに波打っていた。玲はその波打ちを板の上で平らに均してからまた数え始めた。数えている間だけこの街の狂気からわずかに距離を置いていられた。
情けの勘定はまだ始まったばかりだった。