BLACK LAGOON - ODDS -   作:たこ焼き 龍月

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二つの卓 第四話 事後・査定

 

ロックの交渉が成功した翌朝、事務所には、まだ前夜の余韻が残っていた。

 

空になった酒瓶がテーブルの端に寄せられ、灰皿には吸い殻が積もっている。ダッチは奥のデスクで帳簿らしきものを広げ、ベニーは機材の配線を巻き取りながら小さく鼻歌を漏らしていた。ルマジュールはソファの肘掛けに腰を預けて、まだ眠そうに目をこすっている。ロックの姿は、まだなかった。

 

玲は、いつも通りの時刻に事務所へ着いていた。

 

自分の机に着き、昨夜まとめた記録を、もう一度開いた。二派の兵力配置、指揮系統の分裂が起きた時刻、ロックの声が均衡を組み替えた瞬間。数字と記述が、几帳面な列をなして並んでいる。玲は、その列を上から順に追いながら、まだ埋まっていない一点を探していた。

 

なぜ、二割の事象が起きたのか。

 

昨夜の時点で、玲はその構造を、途中まで分解していた。双方の指揮官が同時に面子を保てる出口を、ロックが言葉で示した。互角の勢力が引けないのは、引いたほうが弱く見えるからだった。その一点を、ロックは崩した。だが、そこから先が、まだ数式に落ちなかった。ロックが「どうやって」双方に同時に引く決断をさせたのか。その最後の一手が、玲の記述の中で、まだ空欄のままだった。

 

玲は、その空欄を、指先で軽く叩いた。

 

---

 

ダッチが、帳簿から顔を上げた。

 

「玲」

 

玲は、顔を向けた。

 

「昨日の報酬、確定した。分配の計算、お前に任せていいか」

 

「承知しました」

 

玲は、記録を脇に寄せ、新しい紙を引き寄せた。ダッチが金額を告げ、玲がそれを書き取っていく。総額から、経費、弾薬の消耗、船の燃料、そして各人の取り分。玲の筆は、迷わずに数字を割り振っていった。

 

「ロックの取り分は」

 

ダッチが、腕を組んで聞いた。

 

「今回、あいつが一番、体を張った。少し色をつけるか」

 

玲は、少しだけ手を止めた。

 

「配分の基準を、確認させてください」

 

「基準?」

 

「危険度に応じて配分するのか。役割に応じて配分するのか。どちらを基準にするかで、金額が変わります」

 

ダッチは、その問いに、少し面白そうな顔をした。

 

「お前なら、どう割る」

 

「役割で割ります」

 

玲は、静かに答えた。

 

「ロックの交渉が、結果として成功したことは、事実です。ですが、成功した仕事に色をつけると、次に失敗した仕事の配分が、下がる理由になります。結果で報酬を変える基準は、長期的には、危険な仕事を引き受ける人間の取り分を、不安定にします」

 

ダッチは、その説明を、黙って聞いていた。

 

「今回のロックの取り分は、役割に応じた、通常の額とします。色は、つけません。ただし、記録には、彼が高い危険を負ったことを、残しておきます。次に配分の基準を見直す時、その記録が、判断材料になります」

 

「相変わらず、乾いてるな」

 

ダッチが、短く言った。

 

「乾いているほうが、揉めません」

 

玲は、そう答えて、筆を戻した。

 

---

 

その会話を、ソファのルマジュールが聞いていた。

 

ルマジュールは、肘掛けから体を起こして、玲の机のほうへ寄ってきた。眠気は、いつの間にか消えていた。

 

「ねえ」

 

ルマジュールが、少し尖った声で言った。

 

「ロック、あんなに頑張ったのに、色つけないの? ケチくさくない?」

 

「ケチではありません」

 

玲は、筆を止めずに答えた。

 

「配分の基準を、揺らさないだけです」

 

「でも、頑張った人が、多くもらうの、当たり前じゃん」

 

「頑張りは、測れません」

 

玲は、そこで筆を置いた。ルマジュールのほうへ、静かに顔を向ける。

 

「危険度なら、ある程度は測れます。何人の敵と、どれだけの距離で対峙したか。どれだけの時間、銃口の下にいたか。それは、記録できます。ですが、頑張りは、記録できません。頑張りを基準にすると、声の大きい人間や、目立つ働きをした人間ばかりが、多くもらうことになります」

 

ルマジュールが、口を開きかけて、止めた。

 

「今回、ロックは、確かに目立ちました」

 

玲は、続けた。

 

「ですが、ベニーの通信がなければ、ロックの位置は掴めませんでした。私の経路がなければ、崩れた時に、全員が死んでいたかもしれません。目立たない役割は、目立たないというだけで、価値が低いわけではありません。だから、役割で割ります。目立ったかどうかは、基準にしません」

 

ルマジュールは、その言葉に、しばらく黙った。

 

言い返そうとして、言い返せなかった。玲の言っていることは、どこか冷たいのに、筋が通っていた。ロックが目立ったのは事実だった。だが、ベニーの通信も、この女の経路も、確かにあった。ルマジュールは、その事実の並びの前で、うまく反論の言葉を見つけられずにいた。

 

「あんたって」

 

ルマジュールが、小さく呟いた。

 

「ほんと、情がないよね」

 

「情の有無は、配分の精度を、上げません」

 

玲は、そう答えて、筆を戻した。ルマジュールは、それ以上何も言わず、ソファへ引き返していった。

 

---

 

昼過ぎに、ロックが事務所に現れた。

 

スーツの上着は着ていなかった。シャツの袖をまくり、少し疲れの残る顔で、事務所の扉を押した。ダッチが軽く手を上げ、ベニーが「よう、英雄」と冗談を飛ばす。ロックは、それに苦笑を返しながら、いつもの一角へ歩いていった。

 

玲は、その姿を、机の上から確認した。

 

ロックの取り分の計算は、すでに終わっていた。玲は、その紙を、脇に置いてある。ロックが落ち着いたら、渡すつもりだった。だが、玲のほうから声をかけることは、しなかった。玲にとって、それは急ぐ用件ではなかった。

 

ロックのほうが、先に、玲の机へ近づいてきた。

 

「玲」

 

ロックが、静かに言った。

 

「昨日は、いろいろと、ありがとうございました」

 

玲は、顔を上げた。

 

「礼を言われる理由が、私にはありません」

 

「あなたの経路が、みんなの逃げ道を、用意していた。使わずに済んだけど、あれがなければ、僕は違う動き方をしていたかもしれない」

 

「経路は、使われませんでした」

 

玲は、静かに答えた。

 

「使われなかった備えに、礼は不要です。それは、最も望ましい形で、無駄になっただけです」

 

ロックが、少しだけ、笑った。

 

「無駄になったのが、望ましい、か」

 

「そうです。備えが使われたということは、状況が崩れたということです。使われなかったのは、崩れなかったからです。だから、望ましい無駄です」

 

ロックは、その言い回しを、しばらく噛みしめるように黙っていた。

 

---

 

「取り分の計算は、終わっています」

 

玲は、脇の紙を、ロックのほうへ差し出した。

 

「役割に応じた、通常の配分です。今回、色はつけていません」

 

ロックは、その紙を受け取り、金額に目を落とした。少しの間、その数字を見ていた。それから、静かに顔を上げた。

 

「色は、つけないんですね」

 

「つけません」

 

玲は、その理由を、ダッチとルマジュールに説明したのと同じように、ロックにも述べた。結果で報酬を変える基準は、次に失敗した仕事の配分を、下げる理由になる。危険な仕事を引き受ける人間の取り分が、不安定になる。だから、役割で割る。

 

ロックは、その説明を、最後まで聞いていた。

 

「なるほど」

 

ロックが、静かに言った。

 

「僕が昨日、命を賭けたことは、この金額には、反映されないわけだ」

 

「反映しません」

 

玲は答えた。

 

「命を賭けたかどうかは、あなたの選択です。私が配分するのは、役割に対する対価です。あなたが賭けた分は、金額ではなく、記録に残します。それが、次の判断材料になります」

 

ロックは、その言葉に、目を細めた。

 

反論の色ではなかった。ただ、この女の割り切り方を、もう一度確かめているような、そういう目だった。ロックは、玲が自分の命を金額に換算しなかったことを、責める気にはなれないようだった。むしろ、その一貫性に、どこか納得しているようでもあった。

 

「あなたは、昨日のことも」

 

ロックが、静かに切り出した。

 

「もう、査定し終えたんですか」

 

「途中です」

 

玲は答えた。

 

「配分の査定は、終わりました。ですが、昨日の事象そのものの査定は、まだ途中です。なぜ二割の事象が起きたのか。その最後の一点が、まだ埋まっていません」

 

「最後の一点」

 

「はい」

 

玲は、記録のほうへ、視線を移した。

 

「あなたが、双方の指揮官に、同時に引く決断をさせた。その構造は、途中まで分解できています。ですが、最後の一手が、まだ数式になりません。あなたが、あの瞬間、双方に何を言ったのか。それが、私の記述の中で、空欄のままです」

 

ロックは、その言葉を聞いて、少し黙った。

 

---

 

「玲」

 

ロックが、静かに言った。

 

「僕は、あの瞬間、何かを計算して喋ったわけじゃない」

 

玲は、顔を上げた。

 

「双方の言い分を、ずっと聞いていた。片方は、面子が潰れることを恐れていた。もう片方は、身内を失うことを恐れていた。二つの恐れは、別の形をしていたけど、根っこは、同じだった。どちらも、失うことを恐れていた」

 

ロックの声は、静かだった。何かを思い出しながら、言葉を選んでいるようだった。

 

「だから、僕は、失わない形を、探した。片方が面子を保ったまま、もう片方が身内を取り戻せる形。それが見つかった瞬間、二人は、同時に引いた。僕が引かせたんじゃない。二人が、自分で、引く理由を見つけたんです」

 

玲は、その言葉を、静かに聞いていた。

 

聞きながら、玲の頭の中で、空欄が一つ、埋まっていくのを感じていた。ロックは、双方の恐れの共通点を見つけ、それを同時に解消する出口を示した。それは、感情の話ではなかった。損失を恐れる二つの主体に、同時に損失を回避する道を提示する。それは、玲の言葉で言えば、双方の損失関数を、同時に最小化する解を見つけたということだった。

 

「分かりました」

 

玲は、静かに言った。

 

「あなたのやったことは、双方の損失を、同時に最小化する解を、提示したことです。片方だけが得をする形なら、もう片方は乗りません。両方が同時に損を避けられる形だから、双方が乗った。それが、二割の事象が起きた理由です」

 

ロックが、その言葉に、少し驚いたような顔をした。

 

「そんな、難しいことは、考えてなかったですよ」

 

「考えていなくても、やっていることの中身は、同じです」

 

玲は、静かに続けた。

 

「あなたは、それを直感でやりました。私は、それを数式で捉えます。入り口は違いますが、出口は、同じ場所です」

 

---

 

ロックは、その言葉を、しばらく黙って受け止めていた。

 

事務所の空気が、二人の周りだけ、また静かに張り詰めた。ルマジュールが、ソファから、二人の様子を見ている。ベニーも、配線を巻く手を止めていた。ダッチは、帳簿から顔を上げて、二人のほうを、横目で見ていた。

 

「玲」

 

ロックが、静かに言った。

 

「あなたは、昨日のことを、数式にできたんですね」

 

「できつつあります」

 

玲は答えた。

 

「完全ではありません。ですが、空欄の一つが、今、埋まりました。あなたが、双方の恐れの共通点を見つけたこと。それが、鍵でした。次に同じ状況が来た時、私は、その共通点を探すことを、査定の項目に加えます」

 

ロックが、そこで、少しだけ表情を動かした。

 

「あなたは、僕のやり方を、盗むんですか」

 

「盗む、という言葉は、正確ではありません」

 

玲は、静かに訂正した。

 

「私は、あなたのやり方を、観測して、記述しています。あなたが直感でやったことを、私は言葉と数式に置き換えます。それは、盗むこととは違います。あなたのやり方は、あなたのものです。私は、それを、私の式の中に、再現可能な形で、書き留めるだけです」

 

ロックは、その言葉に、少し複雑な表情を浮かべた。

 

自分が命を賭けてやったことが、この女の手で、乾いた数式に還元されていく。その事実を、ロックは、どう受け止めればいいのか、まだ決めかねているようだった。誇っていいのか、それとも、何か大切なものを、抜き取られているのか。その二つの間で、ロックの表情は、揺れていた。

 

---

 

「ロック」

 

玲が、静かに言った。

 

「あなたは、私が、あなたのやり方を数式にすることを、望んでいませんね」

 

ロックが、顔を上げた。

 

「どうして、そう思うんですか」

 

「あなたの表情が、少し、こわばりました」

 

玲は、淡々と述べた。

 

「あなたにとって、昨日のことは、奇跡であるべきものです。数式にされると、それは奇跡ではなく、再現可能な手順になります。あなたは、それを、望んでいません」

 

ロックは、その言葉に、少し目を伏せた。図星だったのだろう。玲は、その反応を、静かに記録した。

 

「でしたら」

 

玲は、続けた。

 

「私は、あなたに、それを見せません」

 

ロックが、顔を上げた。

 

「私は、私の式の中でだけ、あなたのやり方を分解します。それを、あなたに突きつけることは、しません。あなたにとって、昨日のことが奇跡であり続けるなら、それは、あなたの領分です。私は、そこを、侵しません」

 

ロックは、その言葉を、しばらく黙って聞いていた。

 

そして、静かに、笑った。その笑いには、安堵とも困惑ともつかない、複雑な色があった。

 

「あなたは、変わった人だ」

 

ロックが、静かに言った。

 

「僕のことを、数式にする。でも、その数式を、僕には見せない。僕の奇跡を、奇跡のまま、残してくれる。冷たいのか、優しいのか、分からない」

 

「どちらでも、ありません」

 

玲は答えた。

 

「私は、必要なことだけを、しています。あなたのやり方を記述することは、私の式の精度を上げるために、必要です。それをあなたに見せないことは、あなたの働き方を、乱さないために、必要です。どちらも、合理的な選択です。優しさでも、冷たさでも、ありません」

 

---

 

その会話を、ルマジュールが、最後まで聞いていた。

 

ロックが自分の一角へ戻った後、ルマジュールは、玲の机のそばに残っていた。何か言いたそうな顔で、机の縁を、指で叩いている。玲は、その気配に気づいたが、記録の手を止めなかった。

 

「ねえ」

 

ルマジュールが、ようやく口を開いた。

 

「あんた、ロックのこと、認めてるの? 認めてないの? どっち?」

 

「認める、という言葉の意味が、曖昧です」

 

玲は、筆を止めずに答えた。

 

「彼の交渉技術が、二割の事象を引き当てる程度に有効であることは、事実として認めます。ですが、彼のやり方が、常に正しいとは、認めていません。今回は、良い側に転びました。次も転ぶとは、限りません」

 

「じゃあ、認めてないんだ」

 

「そうとも、言えません」

 

玲は、そこで、少しだけ手を止めた。

 

「私は、彼のやり方を、私の式に組み込もうとしています。組み込む価値があると判断したから、そうしています。価値のないものを、私は組み込みません。だから、彼のやり方に価値があることは、認めています」

 

ルマジュールが、少し混乱した顔をした。

 

「なんか、あんたの言い方、ややこしいよ」

 

「正確に言おうとすると、そうなります」

 

玲は、静かに答えた。

 

「認める、認めない、という二択では、割り切れないものがあります。私は、彼の技術を、有効なサンプルとして認めます。ですが、彼の判断が常に正しいとは、認めません。二つは、両立します」

 

ルマジュールは、その言葉に、しばらく黙った。

 

この女は、ロックを、認めているようで、認めていない。認めていないようで、認めている。その曖昧さの中に、ルマジュールは、うまく足場を見つけられずにいた。だが、玲の言っていることは、どこか、正確だった。ロックは確かに人質を助けた。だが、次も助けられるとは、誰にも言えなかった。その二つの事実は、玲の言う通り、両立していた。

 

---

 

「ねえ」

 

ルマジュールが、少し声を落として言った。

 

「あんたと、ロックって、仲、悪いの?」

 

「悪くは、ありません」

 

玲は答えた。

 

「私とロックは、対立していません。ただ、別の物差しで、同じ出来事を測っているだけです。私は数字で測り、彼は言葉で測ります。物差しが違うことは、仲が悪いこととは、違います」

 

「でも、昨日、なんか、バチバチしてたよ」

 

「バチバチ、というのは」

 

「なんか、お互い、譲らない感じ」

 

玲は、その表現を、少し考えた。

 

「譲らないことと、対立することは、違います」

 

玲は、静かに言った。

 

「私は、私の物差しを、譲りません。彼は、彼の物差しを、譲りません。ですが、私たちは、相手の物差しを、壊そうとはしていません。私は、彼の言葉を否定しません。彼は、私の数字を否定しません。ただ、それぞれの物差しで、測り続けます。それは、対立ではなく、並行です」

 

ルマジュールは、その言葉を、少し考えるように、聞いていた。

 

「並行、って」

 

「交わらない、ということです」

 

玲は答えた。

 

「私と彼の物差しは、交わりません。ですが、交わらなくても、同じ方向を向くことはあります。昨日、彼の言葉が人質を助け、私の経路が全員の逃げ道を用意しました。二つは、交わらないまま、同じ結果に着きました。それで、十分です」

 

---

 

その時、ダッチが、二人のほうへ歩いてきた。

 

「話は、まとまったか」

 

ダッチが、玲とルマジュールを、交互に見て言った。

 

「配分の計算は、終わっています」

 

玲は、答えた。

 

「全員分の取り分を、確定しました。異論があれば、聞きます」

 

「異論はねえよ」

 

ダッチが、短く言った。

 

「お前の割り方は、いつも、揉めない。それでいい」

 

ダッチは、そう言って、玲の机の脇に立った。少しの間、玲の書いた記録を、横目で眺めていた。

 

「玲」

 

ダッチが、静かに言った。

 

「昨日のロックの件、お前、まだ引きずってるのか」

 

「引きずっては、いません」

 

玲は答えた。

 

「検証しているだけです。昨日、私の式では捉えきれない事象が、一つ起きました。その理由を、私は、今日、ほぼ掴みました。ロックが、双方の損失を同時に最小化する解を、直感で見つけた。それが、二割の事象が起きた理由です」

 

「そいつを、掴んで、どうする」

 

「次の査定に、組み込みます」

 

玲は、静かに続けた。

 

「次に同じ状況が来た時、私は、双方の恐れの共通点を探すことを、査定の項目に加えます。それがあれば、私の見積もる成功確率は、少しだけ、正確になります。昨日の二割が、次は、二割五分になるかもしれません」

 

ダッチは、その言葉に、少しだけ、間を置いた。

 

「お前は、ロックの奇跡を、確率の底上げに使うのか」

 

「使います」

 

玲は答えた。

 

「奇跡と呼ぶか、確率の底上げと呼ぶかは、呼び方の違いです。ロックは、それを奇跡と呼びます。私は、それを、式の改善と呼びます。同じ出来事を、別の言葉で記録しているだけです」

 

ダッチは、その答えに、短く笑った。

 

「お前とロックが組むと、面白ぇな」

 

ダッチが、静かに言った。

 

「あいつが、命がけで奇跡を引き当てる。お前が、その奇跡を、次の確率に変える。方向は逆だが、どっちも、生き延びる方向を向いてる」

 

「生き延びる方向を向いていることは」

 

玲は、静かに答えた。

 

「同意します」

 

ダッチは、それ以上何も言わず、玲の机を離れていった。

 

---

 

夕方になり、事務所の人影が、また減っていった。

 

ベニーは機材を片付け終え、ダッチは船の点検に出ていた。レヴィは、いつの間にか、どこかへ姿を消していた。ルマジュールは、ソファで、雑誌をめくりながら、時折、玲のほうを盗み見ていた。

 

玲は、一人、机に残って、記録の続きを書いていた。

 

配分の計算は、終わっていた。昨日の事象の分解も、ほぼ終わっていた。玲は、最後に、一つの欄を、記録に加えた。「ロックの交渉技術についての観測記録」。そこに、玲は、昨日から今日にかけて掴んだことを、書き留めていった。

 

双方の恐れの共通点を見つけること。両者が同時に損を避けられる出口を示すこと。片方だけが得をする形は、乗せられない。両方が同時に引ける形を作ること。玲は、それらを、一つずつ、数式に近い形で記述していった。

 

ロックは、これを直感でやった。

 

玲は、その一文を、記録の末尾に書き加えた。ロックの直感は、玲にとって、まだ完全には再現できないものだった。共通点を「見つける」ところが、まだ数式にならなかった。共通点があることは分かる。だが、それを、あの緊迫した現場で、瞬時に見つけ出す。その部分だけが、玲の式の外に、まだ残っていた。

 

玲は、その空欄を、そのまま残した。

 

埋められない空欄を、無理に埋めることは、しなかった。埋められないものは、埋められないものとして、記録に残す。それが、玲のやり方だった。いつか、その空欄が埋まる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらにせよ、玲は、その空欄を、正直に残しておく。

 

---

 

ルマジュールが、雑誌を置いて、玲の机のそばに来た。

 

「まだ、書いてるの?」

 

「書いています」

 

玲は、筆を止めずに答えた。

 

「昨日のことを、記録に残しています」

 

「あんた、ほんと、記録好きだよね」

 

「記録は、次の査定の材料になります」

 

玲は、そこで、少しだけ手を止めた。

 

「昨日、私は、私の式では捉えきれない事象を、一つ観測しました。それを、記録に残しておけば、次に同じ状況が来た時、参照できます。参照できる記録が多いほど、私の査定は、正確になります」

 

ルマジュールは、玲の記録を、覗き込んだ。几帳面な文字が、隙間なく並んでいる。数字と、記述と、いくつかの空欄。ルマジュールには、その内容は、よく分からなかった。だが、その几帳面さだけは、伝わってきた。

 

「ねえ」

 

ルマジュールが、少し声を落として言った。

 

「あんた、ここに来て、まだ、そんなに経ってないよね」

 

「三週間と、少しです」

 

玲は答えた。

 

「でも、なんか、もう、ずっといるみたいな顔してる」

 

ルマジュールが、少し不思議そうに言った。

 

「みんな、ここに来ると、だんだん、狂ってくるんだよ。この街に。でも、あんたは、狂ってこない。ずっと、同じ顔してる」

 

玲は、その言葉を、静かに聞いていた。

 

「狂う、というのは」

 

玲が、静かに尋ねた。

 

「なんか、うまく言えないけど。この街の空気に、飲まれる感じ。血を見ても、平気になったり、人が死んでも、なんとも思わなくなったり。そういうの」

 

「それは、狂うのではなく、慣れです」

 

玲は答えた。

 

「私は、慣れません。慣れると、判断が鈍ります。血を見て平気になれば、危険の見積もりが甘くなります。人が死んでなんとも思わなくなれば、損失の計算が、雑になります。私は、この街に、慣れないようにしています」

 

ルマジュールは、その言葉に、少し目を見開いた。

 

---

 

「慣れないって」

 

ルマジュールが、少し戸惑ったように言った。

 

「そんなの、できるの? この街に、慣れないなんて」

 

「できます」

 

玲は、静かに答えた。

 

「慣れないための、足場を、持っていればいいのです」

 

「足場?」

 

「はい」

 

玲は、机の上の道具を、指で軽く示した。査定の道具、記録の束、几帳面に整えられた筆記具。それらは、ロアナプラの荒んだ空気の中で、奇妙なほど、整然としていた。

 

「私は、東京で、貨物船の損害査定をしていました」

 

玲は、静かに続けた。

 

「その頃の習慣を、私は、崩していません。記録を取ること。数字を数えること。汗をかいたら拭くこと。それらは、意味のない習慣に見えるかもしれません。ですが、その習慣が、私を、この街の空気から、隔てています」

 

ルマジュールは、その言葉を、静かに聞いていた。

 

「私は、この街の狂気に、対抗しようとは思いません」

 

玲は、続けた。

 

「対抗すれば、飲まれます。私は、ただ、自分の習慣を、崩さないだけです。銃声が鳴っても、記録を取る。血が流れても、数字を数える。その習慣が、私の足場です。足場がある限り、私は、この街に飲まれません」

 

ルマジュールは、その言葉に、しばらく黙った。

 

この女は、慣れることを、拒んでいた。慣れることが、この街で生き延びる方法だと、ルマジュールは思っていた。だが、この女は、逆のことを言った。慣れないことが、生き延びる方法だと。慣れれば、判断が鈍る。判断が鈍れば、損失が増える。この女にとって、狂わないことは、感傷ではなく、生存戦略だった。

 

「あんたって」

 

ルマジュールが、小さく呟いた。

 

「やっぱり、変な女だよね」

 

「その評価は、以前も、受けました」

 

玲は、静かに答えた。

 

「そして、私は、同意しました。今回も、同意します」

 

ルマジュールは、その答えに、小さく笑った。

 

---

 

その夜、事務所には、玲だけが残っていた。

 

ロックは、少し前に、帰っていった。帰り際、玲の机の前で、一度、足を止めた。何か言おうとして、言わずに、ただ、軽く手を上げて、出ていった。玲は、その手を、視線で見送っただけだった。言葉は、交わさなかった。交わす必要が、なかったからだった。

 

玲は、記録を閉じた。

 

その日の査定は、すべて終わっていた。配分の計算。昨日の事象の分解。ロックの交渉技術についての観測記録。埋まった欄と、埋まらなかった欄。すべてが、几帳面な列をなして、記録の中に収まっていた。

 

玲は、窓の外を、静かに眺めた。

 

ロアナプラの夜が、また始まっていた。ネオンが灯り、路地に人が流れ、そのどこかで、また誰かが、数字の外へこぼれ落ちていく。昨日、ロックは、こぼれ落ちなかった。五分の一の側に、留まった。そして今日、玲は、その五分の一の理由を、ほぼ掴んだ。

 

だが、玲は、そのことを、勝利とは思わなかった。

 

ロックの奇跡を、玲は、数式にしようとしている。だが、その数式は、まだ、完成していない。共通点を見つける瞬間の直感。その一点だけが、玲の式の外に、まだ残っていた。玲は、その空欄を、無理に埋めなかった。埋められないものを、正直に残した。

 

それは、玲にとって、敗北ではなかった。

 

ロックの言葉が、玲の数字を、超えたわけではなかった。玲の数字が、ロックの言葉を、切り捨てたわけでもなかった。二つは、交わらないまま、それぞれの場所に、留まっていた。ロックは、言葉で世界を測り続ける。玲は、数字で損失を測り続ける。二つの物差しは、和解しなかった。ただ、互いを、別の物差しとして、認めた。

 

---

 

玲は、鞄の中身を、もう一度、数え始めた。

 

査定の道具。記録の束。最低限の護身の備え。一つずつ、数え上げていく指先は、几帳面で、乱れがなかった。今日、玲は、ロックという未知数を、少しだけ、式の中に組み込んだ。完全ではない。だが、以前よりは、正確になった。

 

明日もまた、数字が続く。

 

そして、その数字の中で、玲は、ロックと、また別の物差しで、同じ出来事を測ることになるだろう。二人は、和解しない。ただ、互いの物差しを、認めたまま、平行線を歩く。ロックは、玲の乾いた計算を、冷たいと感じるだろう。玲は、ロックの熱い言葉を、再現性がないと記録するだろう。それでも、二人は、同じ方向を向いている。生き延びる、という方向を。

 

玲は、鞄を閉じた。

 

そして、最後に、記録の表紙に、今日の日付を書き入れた。ロアナプラに来て、三週間と、少し。玲は、まだ、この街に慣れていなかった。慣れないための足場を、几帳面に守り続けていた。その足場の上で、玲は、ロックという未知数を、静かに観測し続ける。

 

いつか、その未知数が、完全に式に収まる日が来るかもしれない。

 

来ないかもしれない。

 

どちらにせよ、玲は、その日まで、数字を数え続ける。それが、玲にとって、この街で生き延びるための、ただ一つの方法だった。ロックが言葉に賭けるように、玲は、数字に賭けていた。賭けている、という自覚すら、玲にはなかった。ただ、数えることが、玲の生き方だった。それだけが、確かなことだった。

 

窓の外では、ロアナプラの夜が、まだ続いていた。

 

玲は、その夜を、机の上から、静かに眺めていた。明日の査定のことを、少しだけ、考えていた。ロックの奇跡が、次はどんな形で、玲の式に、新しい空欄を作るのか。玲は、それを、恐れてはいなかった。むしろ、静かに、待っていた。埋めるべき空欄が、また一つ増える。それは、玲にとって、生きているということの、確かな証だった。

 

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