朝の阿佐野店。
「おはようございます。」
「おはようニダ。」
いつも通りのはずだった。
だが、その“いつも通り”は、すぐに崩れ始める。
開店直後。
細井がふと違和感に気づく。
「……ねえ。」
「浜谷くん、今日ちょっと変じゃない?」
古坂も視線を向ける。
「確かに。いつもなら入荷見ただけで何か言うのに。」
その視線の先。
浜谷は黙々と景品を補充している。
無駄な動きがない。
無駄な言葉もない。
「はい。」
「ありがとうございます。」
それだけ。
必要最低限の音だけが、空気に落ちていく。
細井は小声で呟いた。
「……逆に怖いんだけど。」
その瞬間だった。
茂田が通りかかる。
「琉くん。」
「はい。」
「今日、静かすぎないニダ?」
一拍。
浜谷は微かに笑って答える。
「大丈夫です。」
茂田の目が細くなる。
「その“大丈夫です”が一番大丈夫じゃないやつ。」
空気が、わずかに沈む。
細井と古坂が顔を見合わせる。
「……なんかさ。」
「うん。事件前の空気だよね、これ。」
言葉にした瞬間、余計に現実味が増す。
“何かが起きる前の静けさ”。
誰もがそう感じ始めていた。
――昼前。
浜谷は休憩へ向かう。
その背中を見て、茂田が立ち上がる。
「ちょっと行ってくる。」
細井が思わず止める。
「え、行くんですか?」
「行くニダ。」
その言い切りが、逆に不安を煽った。
休憩室前。
廊下は妙に静かだった。
茂田は一度息を整え、声をかける。
「琉くん。」
「はい。」
浜谷が振り返る。
その顔は、いつもより少しだけ影が濃い。
「何かあったニダ?」
沈黙。
一拍。
二拍。
その“間”が、やけに長い。
そして浜谷は静かに口を開いた。
「実は……。」
茂田の背筋がわずかに伸びる。
(来るニダ……これは軽い話じゃないニダ……)
浜谷は続ける。
「虫歯が痛いんです。」
「……。」
世界が一瞬止まった。
茂田の表情が固まる。
そして――
「なんニダー!!!」
廊下に響く叫び。
「その空気でそれ!?国家レベルの機密かと思った!!」
浜谷は申し訳なさそうに頭を下げる。
「昨日からズキズキしてて……。」
「喋ると響くので、なるべく黙ってました。」
そこへ細井と古坂が合流する。
「何の話?」
茂田は振り返り、即答する。
「虫歯。」
「……は?」
細井は一瞬固まり――
次の瞬間、盛大に吹き出した。
「え、それであの重苦しい無口!?やばすぎでしょ!」
古坂も肩を震わせる。
「いや確かに深刻そうだったけどさ……方向性が違う!」
浜谷は気まずそうに笑う。
「すみません。喋ると響くので……。」
茂田は腕を組み、深く頷く。
「つまりこれは“戦略的沈黙”ニダ。」
「ただし理由は虫歯。」
細井は笑いながら言う。
「ギャップで風邪ひくレベルだよそれ。」
茂田は急に真顔に戻る。
「今日は絶対歯医者行くニダ。」
「これは放置したら危険ニダ。」
「はい。」
浜谷は素直に頷いた。
――午後。
店内はいつも通り回っていく。
だが、浜谷の静けさだけは変わらない。
「ありがとうございました。」
「またお越しください。」
その丁寧すぎる接客が、逆に不気味なほど整っている。
細井がぼそっと言う。
「普通に仕事できてるのが一番怖いんだけど。」
古坂も頷く。
「プロだよね、そこだけ異常に。」
閉店後。
浜谷は荷物をまとめながら言う。
「このまま歯医者行ってきます。」
細井は笑顔で手を振る。
「お大事に!」
茂田も力強く頷く。
「早く“沈黙の事件”終わらせるニダ!」
「事件じゃないです……。」
浜谷は苦笑しながら店を出ていった。
その背中が見えなくなったあと。
細井がぽつりと呟く。
「今日一番怖かったの、絶対“理由が虫歯だったこと”だよね。」
古坂も静かに頷く。
「うん。あの緊張感、返してほしいレベル。」
夜の阿佐野店。
一日を支配していた“沈黙の謎”は――
世界の危機でも、裏切りでも、事件でもなく。
ただひとつ。
ズキズキと痛む、小さな虫歯だった。