原町中央店。
「おはようございまーす」
浜谷が出勤してきた。
カウンターにいた高崎が振り返る。
「おはよー!」
そして、浜谷の顔を見て少し止まった。
「……あれ?」
「なんですか?」
「浜谷くん、今日メガネ?」
「はい」
今日の浜谷は珍しくメガネをかけていた。
普段はコンタクトレンズだが、今日は黒縁のメガネ姿。
「珍しいね」
「コンタクト切らしちゃって」
「買い忘れ?」
「完全に忘れてました」
そこへ山神がやってくる。
「おぅ」
「おはようございます」
山神も浜谷を見る。
「琉くん、今日はメガネか」
「そうなんですよ」
「似合ってるぞ」
「ありがとうございます」
準備を終え、浜谷は店内へ。
しばらくして、川原と一緒になった。
川原も浜谷を見るなり気づく。
「あれ、浜谷さん」
「ん?」
「今日メガネなんですね」
浜谷が立ち止まった。
「…………」
メガネの位置を直す。
「違います」
「え?」
「メガネじゃないです」
「いや、メガネですよね?」
浜谷は真顔で答えた。
「ハマタニ・アイです!」
「…………」
川原が黙った。
「ハマタニ・アイ?」
「そう」
「何それ」
「僕のメガネ」
「メガネでしょ?」
「ハマタニ・アイ」
「メガネ」
「ハマタニ・アイ!」
「なんでそこだけ譲らないんですか」
浜谷は満足そうにメガネを直した。
「今日はこれがないと何も見えないから」
「じゃあ大事なメガネじゃないですか」
「ハマタニ・アイですって」
「どっちでもいいです」
午前中。
浜谷がクレーンゲームコーナーを巡回していると、常連のお客さんに声をかけられた。
「あれ、店員さん」
「はい?」
「今日メガネなの?」
「あ、そうなんですよ」
やはり気づかれる。
「珍しいねぇ」
「コンタクト切らしちゃって」
「メガネも似合ってるよ」
「ありがとうございます」
浜谷は笑った。
そしてお客さんが離れてから、小さく呟く。
「……ハマタニ・アイですけどね」
近くにいた高崎が聞いていた。
「まだ言ってるの?」
「高崎さん!」
「何? ハマタニ・アイって」
「聞いてたんですか?」
「聞こえた」
高崎が笑う。
「なんか強そう」
「でしょう?」
「褒めてないけど」
「え?」
そして休憩時間。
浜谷は更衣室にいた。
「ふぅ……」
椅子に座り、メガネを外す。
一日かけていると、どうしてもレンズが汚れてくる。
浜谷はメガネ拭きを取り出した。
「結構汚れてんな」
レンズを丁寧に拭く。
右。
左。
もう一度確認。
「よし」
その時。
浜谷が時計を見る。
「あ、トイレ行っておこう」
立ち上がる。
そのまま更衣室を出ていった。
数分後。
浜谷が戻ってきた。
「さて……」
椅子へ座る。
「…………」
浜谷の手が止まった。
「ん?」
周囲を見る。
「…………あれ?」
机。
ロッカー。
椅子。
「ない」
浜谷が立ち上がった。
「メガネがあらへん!」
裸眼なので、周囲も若干ぼやけている。
「嘘やろ……」
机の上を見る。
ない。
荷物を見る。
ない。
ロッカーの中。
ない。
「どこいった!?」
浜谷は焦り始めた。
「ここに置いたよな……?」
記憶をたどる。
メガネを外した。
拭いた。
そしてトイレへ行った。
「絶対ここに置いたはずや……」
浜谷の表情が変わった。
「まさか……」
更衣室の扉を見る。
「盗まれた……?」
その瞬間。
浜谷の頭の中に、今朝自分でつけた名前が蘇る。
「ハマタニ・アイが……!」
勢いよく更衣室を飛び出した。
「高崎さん!」
「うわっ!」
近くにいた高崎が驚く。
「何!?」
「俺のハマタニ・アイ知りません!?」
「知らないよ!」
「なくなったんです!」
「メガネが?」
「ハマタニ・アイです!」
「今それどっちでもいいでしょ!」
騒ぎを聞きつけ、川原もやってきた。
「どうしたんですか?」
「川原さん!」
浜谷が振り返る。
「ハマタニ・アイが盗まれた!」
「メガネ?」
「ハマタニ・アイ!」
「はいはい」
川原は更衣室を見る。
「本当に置いたんですか?」
「置いた!」
「どこに?」
「確か……机の上」
「確か?」
「……多分」
「怪しくなってきた」
そこへ山神までやってきた。
「おぅ。どうした?」
「山神さん!」
浜谷が訴える。
「ハマタニ・アイが盗まれました!」
「ハマタニ……?」
高崎が説明する。
「メガネです」
「メガネか」
「ハマタニ・アイです!」
「ややこしくするな!」
高崎がツッコんだ。
四人で更衣室を探す。
机の下。
ロッカーの周辺。
荷物の隙間。
しかし見つからない。
「ないですね」
川原が言う。
浜谷は頭を抱えた。
「困ったな……これないと帰りも見えへんぞ」
山神が浜谷を見る。
「琉くん」
「はい?」
「本当にここに置いたのか?」
「置いたと思うんですけど……」
「トイレには?」
「あ!」
浜谷が顔を上げる。
「トイレに持っていった!?」
「見てきたら?」
「行ってきます!」
浜谷が更衣室を出ようとした。
その時。
高崎が何かに気づく。
「浜谷くん」
「はい?」
「ちょっと待って」
「なんですか?」
高崎が浜谷を指さす。
正確には――。
浜谷の制服の胸元。
「それ」
「え?」
「胸ポケット」
浜谷が自分の胸ポケットを見る。
「…………」
手を入れる。
何かに触れた。
ゆっくり取り出す。
黒縁のメガネ。
「…………」
高崎。
川原。
山神。
そして浜谷。
全員が黙った。
浜谷は手元のメガネを見る。
「…………ハマタニ・アイ」
川原が口を開く。
「あるじゃないですか」
「…………」
「盗まれてないじゃないですか」
「…………」
高崎も呆れる。
「自分で入れたんでしょ?」
浜谷は記憶をたどった。
メガネを拭いた。
立ち上がった。
トイレへ行こうとした。
その時――。
確かに無意識に胸ポケットへ入れた。
「……入れたわ」
「でしょうね!」
川原が笑った。
山神も笑う。
「見つかってよかったな」
「はい……」
浜谷はメガネをかけ直した。
視界が一気に鮮明になる。
「ハマタニ・アイ、装着」
高崎が即座に言った。
「没収しようか?」
「やめてください! 今度こそ本当に盗まれる!」
結局。
ハマタニ・アイは誰にも盗まれていなかった。
犯人もいない。
事件ですらない。
ただ浜谷が、自分の胸ポケットに入れたことを忘れていただけ。
盗まれたハマタニ・アイ。
正しくは――。
しまった場所を忘れたハマタニ・アイだった。