長いこと、この仕事に就いていると、たまに嫌な客に会う。
まずは、嘘をつく客だ。
「このクレーンゲーム、もう五千円使ったんだけど」
「こんなに使ってるんだから、もっと取りやすくしてよ」
そう言ってくる客がいる。
だが、そんなものは大体分かる。
なぜなら、意外と店員はお客さんのことを見ているからだ。
さっき来たばかりなのか。ずっと同じ台で遊んでいるのか。何度も両替に行っているのか。
思っているより、見ている。
だから、明らかな嘘なら分かる。
ただ、たまに本当に使っている客もいる。これが厄介だ。
次に、人の物をパクる客。
メダルゲームで席を離れた隙に、他人のメダルを持っていく。荷物に手を出す。置き引き。
意外といる。
これに関しては、ただの迷惑行為じゃない。
窃盗だ。
許さない。
そして、高圧的な客。
「店員だろ?」
「客にそんな態度でいいの?」
「こっちは金払ってんだけど?」
お客様は神様だと思っているのか。ゲームセンターの店員を下に見ているのか。
なんにせよ、そんな奴には関わりたくない。
だけど、仕事だから関わらなければならない時もある。
だから俺は、そんな客を見つけると、とある部屋に案内する。
「こっちだ」
低い声でそう言うと、客は不満そうに鼻を鳴らした。
「なんだよ」
「説明しろよ」
「俺は何も悪くないだろ」
その声を背中に受けながら、俺は店の奥へ歩いていく。
営業中のフロアから離れるほど、ゲーム機の電子音が遠ざかっていく。代わりに、靴底が床を擦る音だけがやけに大きく響いた。
キュッ。
キュッ。
通路の照明はところどころ切れている。点いている明かりも、白くちらついていた。
壁には古いポスターが貼られている。景品の写真は色あせ、笑っているキャラクターの顔だけが暗がりの中で浮かんで見えた。
客が後ろから声を荒らげる。
「おい!」
「どこまで連れていくんだよ!」
「聞いてんのか!」
俺は振り返らない。
そのうち、客の声が小さくなる。
いや。
小さくなったんじゃない。
何かに、吸い込まれているようだった。
突き当たりで俺は立ち止まる。
そこには古びた扉がある。
取っ手には、黒ずんだ手形のような汚れがいくつも付いていた。
扉の向こうから、かすかな音が聞こえる。
コツ。
コツ。
何かが、内側から扉を叩いている。
「……なんだよ、これ」
客の声が震えた。
俺はゆっくりと取っ手に手をかける。
冷たい。
まるで、ずっと誰かが握っていたみたいに。
「こっちだ」
扉を開ける。
ギィィィィ……。
蝶番が、喉の奥で呻くような音を立てた。
薄暗い部屋。
明かりは天井から垂れ下がった裸電球が一つだけ。それも一定の間隔で明滅している。
俺は中へ入った。
客は入口で立ち止まっている。
「おい……」
「ここ、何なんだよ」
返事はしない。
部屋の奥から、声が聞こえてくる。
「すみませんでした……」
「もうしません……」
「許してください……」
「帰してください……」
声はあちらこちらから聞こえた。
右から。左から。頭上から。足元から。
近いものもあれば、壁の向こうから響いてくるようなものもある。
「誰だよ……」
客が呟く。
その瞬間、部屋の隅で何かがカタカタと揺れた。
棚の上に並んだ人形の一体が、ゆっくりと首を動かしていた。
ギギ。
ギギギ。
客が息を呑む。
「……人形?」
部屋の中には、大量の人形。
クレーンゲームの景品のように棚に並んでいる。床にも、壁際にも、天井近くまで。
人形。
人形。
人形。
どれも、こちらを向いている。
ガラス玉のような目が、薄暗い部屋の中で濡れたように光っていた。
ただ、普通の人形とは違う。
よく聞けば、声がする。
「ごめんなさい……」
「助けて……」
「もう嘘つきません……」
「人のメダルなんて取りません……」
「店員さんに怒鳴ったりしません……」
声を出しているのは、人形の口だった。
縫い付けられたはずの唇がわずかに開き、閉じるたび、乾いた音がする。
カチ。
カチ。
客が後ずさる。
「なあ……」
「これ、何なんだよ」
「俺を脅してるのか?」
強がっている。
けれど、声は震えていた。
俺は何も言わない。
部屋の奥へ進む。
背後で、扉がゆっくり閉まった。
バタン。
その音に合わせるように、人形たちの声が一斉に止まる。
静寂。
耳鳴りがするほどの静けさ。
俺はソファーに腰を下ろした。
ギシィ……。
古いスプリングが嫌な音を立てる。
目の前には何十体もの人形。
まだ新しいものもあれば、布が擦り切れ、顔の塗装が剥がれたものもある。
どの人形も同じようにこちらを見ている。
そして、その隙間から客の顔が見えた。
青ざめている。
「出せよ……」
「ここから出せ!」
「俺は客だぞ!」
怒鳴り声が部屋の中で反響する。
だが、返ってきたのは人形たちの小さな笑い声だった。
クスクス。
クスクス。
一体。
また一体。
人形の首がゆっくりと客の方へ向いていく。
俺は静かに息を吐いた。
こいつらは、さっき挙げた三つのどれかに当てはまる客だ。
嘘をついた奴。
人の物を盗んだ奴。
店員を見下して、高圧的な態度を取った奴。
客が扉へ駆け寄る。
だが、取っ手を掴んだ瞬間。
「熱っ!」
手を離した。
扉の表面から、ジュウッ、と肉の焼けるような音がした。
「なんだよ……」
「なんで開かないんだよ……」
その背後で、人形たちが一斉に口を開く。
「嘘つき……」
「盗人……」
「嫌な客……」
「許してください……」
「もうしません……」
声が重なり、部屋全体が震えているように聞こえた。
俺はソファーの背もたれに体を預ける。
そんな人形たちを眺めるのが、この上なく楽しみだ。
「許してください……」
「もうしません……」
「ここから出してください……」
客の声が、少しずつ人形たちの声に混ざっていく。
「やめろ……」
「俺は……」
「俺は悪くない……」
その言葉が途中で途切れた。
喉の奥から、別の声が漏れる。
「……すみませんでした」
客の両手が不自然な角度に折れ曲がる。
指先が糸で引かれたように跳ねた。
肩が揺れる。
首が傾く。
顔の皮膚が、まるで布のようにゆっくりと引きつっていく。
「いやだ……」
「助けてくれ……」
「誰か……」
その声は、もう人間のものではなかった。
俺はただ、それを眺めていた。
やがて客の体が小さく縮んでいく。
服が床に落ちる。
その中から、新しい人形がころりと転がり出た。
床に落ちた人形はゆっくりと起き上がる。
そして、俺の方を向いた。
「……もう、嘘つきません」
俺は口元を歪めた。
「おぅ」
人形たちが一斉に笑った。
クスクスクスクス。
静かに息を吐く。
こいつらには、こういう末路がお似合いだ。
誰も知らない。
俺しか知らない。
秘密の部屋。
それが。
――おぅ人形の館。
俺はゆっくり笑った。
「おぅ」
そして、高らかに笑った。
笑い声が部屋の壁を這い、天井へ昇り、人形たちの口から何度も何度もこだました。
――――――
「ハッ!」
浜谷が目を覚ました。
「……夢?」
原町中央店。
休憩室。
浜谷は机に突っ伏して眠っていた。
蛍光灯がジジジ、と小さく唸っている。
壁時計の秒針が、
カチ。
カチ。
カチ。
やけに大きく聞こえた。
「なんや今の夢……」
顔を上げる。
心臓が妙に速い。
背中には冷たい汗が流れていた。
山神さんが、嫌な客を人形にして秘密の部屋へ集めていた。
「山神さんがそんなことするわけ……」
「おぅ」
「!?」
浜谷が振り返った。
椅子の脚が床を擦って、ギィ、と鳴る。
そこには山神が立っていた。
いつからそこにいたのか。
分からない。
休憩室の扉は閉まっている。
山神は浜谷を見る。
表情はいつもの穏やかなものだった。
だが、その目だけが妙に暗い。
「……」
「……」
蛍光灯が一度、大きく明滅した。
その瞬間。
山神の背後に、何かが見えた。
棚。
大量の人形。
こちらを向く、ガラス玉のような目。
浜谷が瞬きをする。
そこには、ただの壁しかなかった。
「夢……やんな?」
浜谷の声がかすれる。
山神はゆっくり首を傾けた。
「おぅ」
その声の奥で、誰かが小さく囁いた。
「すみませんでした……」
浜谷の顔から血の気が引く。
山神は浜谷を見たまま、もう一度低く呟いた。
「おぅ」
みなさん、店員さんには、優しくしましょうね。