古坂が原町中央店で働く最後の日。
いつもと変わらない朝。
茂田の元気なあいさつで一日が始まる。
「おつかれさまぁ〜ず!」
みんなもいつも通り返事をする。
だが、その声はどこか揃わず、わずかに間が空いた。
誰も「今日が最後」という言葉を口にしなかった。
口にしてしまった瞬間、胸の奥に押し込めていた現実が一気にあふれ出してしまいそうで、誰もが無意識にそれを避けていた。
浜谷は軽く息を吸い込むが、うまく吐き出せないまま、視線を床に落とした。
⸻
営業が始まる。
古坂はいつも通り景品を補充し、お客様へ笑顔で接客する。
困っている子どもを見つければ優しく声をかけ、高齢のお客様には景品の場所を案内する。
その動きはいつもと変わらないはずなのに、浜谷の目には一つひとつがやけに鮮明に映った。
浜谷は何度も古坂の背中を目で追ってしまう。
(今日で最後なんだ。)
そう思うたびに、胸の奥がじわりと締めつけられ、呼吸が浅くなる。
無意識に唇を噛み、視線を逸らすが、またすぐに古坂を探してしまう。
「浜谷くん。」
古坂が笑顔で声をかける。
浜谷は一瞬肩をびくりと震わせた。
「ぼーっとしてるよ?」
「あ、すみません!」
声が少し上ずる。
「ふふっ。」
古坂は柔らかく笑う。
「最後までいつも通りだよ。」
その言葉に、浜谷は一瞬言葉を失い、ゆっくりとうなずいた。
「はい。」
喉の奥が少し詰まるような感覚を覚えながら、無理に笑みを作る。
⸻
昼休み。
休憩室には浜谷と古坂だけだった。
時計の秒針の音がやけに大きく響く。
しばらく沈黙が流れる。
浜谷は膝の上で手を握りしめ、何度も開いては閉じる。
呼吸を整えようとするが、うまくいかない。
やがて、意を決したように口を開く。
「古坂さん。」
「はい?」
「……さみしいですね。」
言葉を出した瞬間、胸の奥に溜まっていたものが少しだけほどける。
古坂は一瞬目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
「私も。」
その声はいつもより少しだけ柔らかく、静かだった。
「でもね。」
「阿佐野店って隣のお店だから。」
「もう会えないわけじゃないよ。」
浜谷はうなずこうとするが、うまく動かない。
「それでも……。」
言葉が続かず、視線を落とす。
古坂は少し懐かしそうに目を細めた。
「浜谷くんが入った頃、覚えてる?」
「もちろんです。」
浜谷は小さく息を吐く。
「景品の名前も全然分からなくて。」
「インカムも緊張して。」
「毎日必死でした。」
その頃の自分を思い出し、少しだけ肩の力が抜ける。
古坂はくすっと笑う。
「でも今は。」
「安心して仕事を任せられる。」
「ちゃんと成長したね。」
その言葉に、浜谷の胸がじんわりと熱くなる。
視界が少し滲み、慌てて瞬きをする。
「古坂さんたちが教えてくれたからです。」
声がわずかに震える。
「ありがとう。」
⸻
夕方。
閉店まであと少し。
石村がインカムで呼びかける。
「みんな、少し事務所へ。」
全員が集まる。
机の上には小さな花束が置かれていた。
その色がやけに鮮やかで、浜谷は思わず目を細める。
武藤が口を開く。
「古坂さん。」
「今までありがとう。」
相馬も笑顔で続けるが、その目は少し潤んでいる。
「阿佐野店へ行っても、その優しさを忘れないでね。」
高崎は言葉を選ぶように一度息を吸い、ゆっくりと話す。
「困ったらいつでも帰ってきて。」
山神は短く言った。
「おぅ。」
「頑張れ。」
その一言に、重みがあった。
石村は笑いながら花束を渡すが、その手はわずかに力がこもっている。
「原町中央店を代表して。」
「ありがとうございました。」
古坂は花束を受け取り、深く頭を下げた。
そのまましばらく顔を上げず、呼吸を整える。
「こちらこそ、本当にありがとうございました。」
「このお店で働けて幸せでした。」
声が少しだけ震えていた。
そして最後に浜谷を見る。
その視線を受けた瞬間、浜谷の心臓が強く打つ。
「浜谷くん。」
「はい。」
「二年目なんだから。」
「自信を持ってね。」
「きっと大丈夫。」
浜谷は目頭が熱くなるのを感じ、ぐっと奥歯を噛みしめる。
涙がこぼれないように必死にこらえながら、ゆっくりとうなずいた。
「はい。」
「ありがとうございました。」
⸻
閉店後。
古坂は制服姿のまま、店の入口で振り返った。
そこには原町中央店のみんなが並んでいた。
誰もが少しだけ背筋を伸ばし、言葉を探しているようだった。
茂田が笑顔で言う。
「阿佐野店でも、よろしくね。」
その声は明るいが、どこかかすかに震えている。
「うん!」
古坂は大きくうなずく。
「皆さん、本当にお世話になりました!」
深く一礼する。
頭を下げたまま、ほんの一瞬だけ動かない。
拍手が響く。
浜谷も精一杯拍手を送るが、手のひらがじんと痛むほど強く叩いていた。
古坂は笑顔のまま歩き出す。
その背中が少しずつ遠ざかっていく。
浜谷は息を止めたまま、その姿を見つめ続ける。
視界がぼやける。
瞬きをしても、にじみは消えない。
古坂の姿が見えなくなるまで、足が動かなかった。
山神が静かにつぶやく。
「さみしいな。」
石村もうなずく。
「でも、新しいスタートだからな。」
浜谷は誰もいなくなった入口を見つめながら、小さくつぶやいた。
喉が乾き、声がかすれる。
「また会えますよね。」
茂田は優しく微笑んだ。
「もちろん。」
「だって、隣のお店なんだから。」
その言葉に、浜谷はゆっくりと息を吐いた。
胸の奥の重さは消えないまま、それでも少しだけ軽くなる。
寂しさは消えない。
それでも、また会える。
そう信じながら、浜谷はもう一度入口を見つめた。
静かな店内に、自分の呼吸の音だけが残っていた。