11月下旬。
朝礼が終わろうとした時だった。
茂田が少し表情を引き締めて口を開く。
「みんなにお知らせがあります。」
その声のトーンに、ただ事ではない空気を感じ取り、事務所が静まり返る。
「武藤さんが、今月いっぱいで退職します。」
一瞬、時間が止まったようだった。
誰もすぐには言葉を発せない。
「えっ……。」
浜谷は思わず声を漏らす。胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
高崎も目を見開き、信じられないという表情を浮かべる。
「邦美さん、本当なの?」
武藤は少し照れくさそうに笑うが、その笑顔の奥にはどこか寂しさが滲んでいた。
「うん。」
「家庭の事情もあってね。」
「このタイミングで一区切りつけることにしたの。」
その言葉は穏やかだったが、長くここで働いてきた時間の重みが感じられた。
相馬は静かにうなずく。
「寂しくなるねぇ。」
その一言に、言葉にしきれない思いが込められている。
山神も短く言う。
「おぅ。」
ぶっきらぼうな返事の中にも、確かな寂しさが滲んでいた。
浜谷は何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚だけが残った。
⸻
営業が始まると、武藤はいつもと変わらずイベントコーナーを歩き回る。
その姿は普段通りなのに、浜谷にはどこか遠く感じられた。
「浜谷くん。」
「この景品、もう少し前に出した方が見やすいよ。」
「はい!」
「ありがとうございます。」
いつも通りのやり取りなのに、これがあと何回できるのだろうと思うと、胸が締め付けられる。
武藤は笑う。
「最初は本当に心配だったけど。」
「今は安心して任せられるね。」
その言葉に、浜谷の胸がじんわりと熱くなる。
認めてもらえた嬉しさと、もう教えてもらえなくなる寂しさが入り混じる。
「まだまだ勉強中です。」
声が少しだけ震えた。
「その気持ちがあれば大丈夫。」
武藤は優しくうなずく。その眼差しは、どこか母親のように温かかった。
⸻
休憩時間。
浜谷は武藤と並んでコーヒーを飲んでいた。
いつもと同じはずの時間が、今日はやけに特別に感じられる。
「邦美さん。」
「はい?」
「入社した頃、たくさん助けてもらいました。」
言葉にしながら、当時の自分の不安や緊張が蘇る。
「細井さんの教育もしていましたよね。」
「そうだったね。」
武藤は懐かしそうに笑う。その笑顔を見ていると、ここで過ごした時間の一つ一つが思い出として浮かび上がってくる。
「人に教えるのって難しいけど、成長していく姿を見るのは嬉しいんだよ。」
「浜谷くんも、最初はすごく緊張してたもんね。」
「覚えてますか?」
少し照れながら聞く。
「もちろん。」
「インカムを持つだけでも緊張してたじゃない。」
その言葉に、浜谷は思わず苦笑する。
「あの頃は、本当に余裕なかったです。」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑いの中に、言葉にしなくても伝わる感謝と寂しさが混ざっていた。
⸻
閉店後。
事務所にはスタッフ全員が集まっていた。
いつもより少しだけ静かな空気が流れている。
茂田が花束を手渡す。
「邦美さん。」
「今まで本当にありがとうございました!」
その声には、店長としてだけでなく、一人の仲間としての感謝が込められていた。
武藤は花束を受け取り、少しだけ目を細める。
「こちらこそ。」
「みんなと働けて楽しかったよ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に込み上げてくるものを感じる者もいた。
高崎は目を潤ませながら笑う。
「またご飯行こうね。」
声が少し震えている。
「もちろん!」
武藤も明るく返すが、その笑顔の奥にある寂しさを隠しきれていない。
相馬も優しく武藤の手を握る。
「体に気を付けてね。」
その手の温もりに、これまでの時間が詰まっているようだった。
「ありがとう。」
石村は静かに頭を下げた。
「長い間、お疲れさまでした。」
その言葉には、同じ現場で働いてきた者同士の敬意が込められている。
日村も小さく頭を下げる。
「アリガトゴザイマス。」
大沼も笑顔で言うが、その笑顔はどこか寂しげだった。
「また遊びに来てください!」
「うん、絶対来るね。」
武藤のその言葉に、少しだけ安心する空気が流れる。
最後に浜谷が前へ出た。
胸の鼓動が早くなる。言いたいことはたくさんあるのに、うまくまとまらない。
「邦美さん。」
「短い間でしたけど、本当にありがとうございました。」
言葉を絞り出すように続ける。
「仕事だけじゃなくて、たくさん励ましてもらいました。」
思い出が一気に押し寄せ、声が少し詰まる。
武藤は優しく微笑む。
「琉くん。」
その呼び方に、胸が熱くなる。
「もう立派な原町中央店のスタッフだよ。」
「自信を持ってね。」
その言葉は、背中をそっと押してくれるようだった。
「……はい!」
浜谷は力強くうなずく。目の奥が熱くなるのを必死にこらえながら。
武藤は最後に事務所を見渡す。
毎日のように笑い合った仲間。
忙しいお盆も、イベントも、一緒に乗り越えてきた仲間。
その一人一人の顔を、心に刻むように見つめる。
「みんな。」
「本当にありがとう。」
声がわずかに震える。
深く一礼する。
その姿に、誰もが胸を打たれた。
大きな拍手が事務所に響く。
その拍手は、武藤の新しい門出を祝うと同時に、一緒に過ごした日々への感謝と、別れの寂しさを包み込むようだった。
浜谷はその背中を見送りながら思う。
胸の奥に残る温かさと、少しの寂しさ。
出会いがあれば、別れもある。
でも、一緒に過ごした時間は、確かにここに残っている。
そしてそれは、これから先も自分を支えてくれる。