「おチビの頭、今ので少しは冷えた?」
冷たいコンクリートの床に這いつくばるメグの頭上から、ケリーの愉しげな声が降ってくる。
悔しさと恐ろしさで呼吸がうまく繋がらない。床に散らばった黒不浄刀に手を伸ばそうとするが、指先が屈辱と恐怖で凍りついたように動かなかった。親友である美緒に誇れる自分でありたいと願うのに、この魔女の前に引きずり出されるたび、メグはただの無力な子供にまで巻き戻されてしまう。
だが――世界は、彼女たちの私闘が終るのを待ってはくれなかった。
――ズ、ドォォォォン!!!
鼓膜を鋭く引き裂くような大爆音とともに、倉庫の分厚い外壁が内側へと激しく爆散した。猛烈な爆風とコンクリートの破片が吹き荒れ、メグは本能的に顔を覆って床を転がった。
「――おっと、派手なお客さんだね」
ケリーがわずかに声を弾ませる。
立ち込める白煙の向こうから、地響きのような無数の足音が近づいてきた。姿を現したのは、二十人を超える男たちの群れである。彼らの瞳は一様に濁り、口元からは独特の呪呪麻薬の残臭を帯びた毒気が漏れ出ていた。『黒曜九頭竜』がアジア全域からかき集めて改造した、痛覚を持たない生ける兵器たちだ。
そして、その中央から、ただならぬ圧迫感を放つ二人の影が歩み出てくる。
高級な中華服の袖を捲り上げ、タングステン製の巨大なガントレットを嵌めた大男。大陸の剛拳である洪家拳を操る『六部』の一人――【兵部】レイ・ワン。
その背後で、指の隙間に無数の暗針を挟み、妖しい笑みを浮かべる女――【刑部】フェイ・フェイ。
「日本のネズミが二匹……ここでまとめて薬の肥やしにしてくれよう」
レイ・ワンの低く轟くような声とともに、最悪の波乱が幕を開けた。
「殺せ」
短い命令とともに、改造兵士たちが一斉に地を蹴った。脳に直接焼き付けられた中国武術による、極めて鋭く精密な踏み込み。
ケリーがチッと舌打ちし、手首の《グレイプニル》で足を払いながら電撃を放つ。青白い火花が兵士たちの肉体を焼き、皮膚を焦がしていく。だが、彼らは麻薬によって痛覚を完全に遮断されていた。肉体が焦げる煙を上げながらも、その突撃の速度は一ミリも衰えない。アクション映画の俳優の如く、受け身を取り大地に転がる事を避けきった。
「全く、本当に燃費の悪いゾンビどもね。うっとうしいなぁ」
ケリーが迎撃に回る中、メグの元へも数人の兵士、そして――あの二人の幹部が立ちふさがった。
「そこのお淑やかなお嬢ちゃん。まずはその綺麗な着物を、ズタズタに染めてあげるわ!」
フェイ・フェイが妖しく囁き、その手から無数の暗器が放たれる。メグは咄嗟に床の黒不浄刀を掴み、飛び退いて刃で叩き落とそうとした。だが、放たれたのはただの針ではなかった。
――パシィィィィン!!!
空中で暗器が炸裂し、倉庫内を強烈なストロボ・フラッシュの閃光と、鼓膜を圧迫する超高音の音響兵器が満たした。
「ッ――!!!?」
メグの脳裏に、人生で最も忌むべき最悪の光景がよみがえる。カメラのフラッシュ。自分と母親を死に追いやるまで追い回したマスコミの怒号。世間の耳を劈くような悪意の声。極限のストレスと恐怖が、一瞬にして彼女の身体の自由を奪った。息が詰まる。声が出ない。視界が真っ白に染まり、耳鳴りが頭の中を狂わせる。
「う、あ……あ……ッ」
形振りを構っていられなかった。メグは頭を抱え、床を無様に転がりながら悲鳴を殺した。
美緒の語ってくれたお伽噺が消えていく。有得の師匠から教わった、美しい着付けの帯が緩み、自慢の和装が床の泥と埃に塗れて引き裂かれていく。必死に維持していた「令嬢」としてのメッキが、暴力的な光と音によって、ペリペリと音を立てて剥がれ落ちていく。
「隙だらけだ、小娘!!」
閃光の隙を突いて、頭上から絶望的な圧力が降り注ぐ。【兵部】レイ・ワンの巨大なガントレットが、メグの脳天を叩き潰さんと振り下ろされた。
(あ――死ぬ)
本能がそう告げた瞬間。彼女の中で、何かが完全に破断した。
美しくありたかった。
お淑やかでありたかった。
でも、死んだら、美緒に会いに行けない。家族になれない。
だったら、――こんな綺麗な仮面など、クソ喰らえだ。
「――――――ッッッ!!!!!」
喉の奥から、言葉にならない、獣のような、あるいは狂った殺人鬼のような咆哮が肉壁を突き破って飛び出した。
メグの瞳が、濁った凶暴な光を帯びて見開かれる。連続殺人鬼【霧鎌カズオ】の血。少女強盗団で泥水をすすりながら、他者を殺して生き延びてきた野生の本性。それが、一瞬にして彼女の肉体を完全にジャックした。
ガントレットが迫る直前、メグは野生の勘だけで身体を真横に投げ出した。ドゴォン!! と彼女の頭があった床が文字通り爆砕し、コンクリートの破片が頬を切り裂く。だが、痛みなど感じない。
床を四足歩行の獣のように這いながら、メグは猛然と立ち上がる兵士たちの群れへと突っ込んだ。
「あ?」
兵士の一人が驚愕の声を上げる。メグの動きは、もう美しい剣術ではなかった。ただひたすらに、敵を効率よく解体するためだけの、泥臭く狂暴な野生の乱舞。
黒不浄刀を逆手に持ち替え、狂ったような速度で兵士の懐へ滑り込む。相手の突き出してきた拳の軌道、その身体操作を、メグの脳は恐怖を忘れたことで完璧に捉えていた。
(これだ。この足の踏み込み、この重心の乗せ方――!)
被弾することを恐れず、むしろ敵の放った中国武術の勁力の伝達効率を、彼女はその場で強引に模倣した。
小柄な肉体では、本来なら大男たちを力で圧倒することなどできない。だが、彼ら自身の技術を、泥臭い執念で我が物とする。
「ガ、アアアッ!!」
模倣した猛烈な踏み込みとともに、黒不浄刀の柄頭を兵士の顎へと突き上げる。骨が粉々に砕ける感触が手に伝わる。間髪入れず、返り血で顔を真っ赤に染めながら、メグは狂ったように刀を振り回した。
肉を断ち、骨を削り、穢れの刃で敵の体内を内側から腐食させていく。
「な、何よあのガキ……急に化け物みたいに……!」
後方でフェイ・フェイが戦術の狂いに戦慄した声を上げる。
引き裂かれ、泥と血に塗れた着物を翻し、獣の様に、次々と改造兵士たちを「解体」していく少女。
その姿は、かつて世間を震撼させた連続通り魔の姿そのものだった。美緒が見たら、きっと悲鳴を上げて逃げ出すような、醜悪で、狂暴な、泥中の獣。
返り血を浴びて狂気的に笑うメグの視線の先で、【兵部】レイ・ワンがその巨大な盾を構え、忌々しげに彼女を睨みつけていた。