ブラックハウリング   作:P-PEN

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Grudge

 

 

 

 「死に損ないの野良犬が、調子に乗るなァ!!」

 

 レイ・ワンの怒号とともに、タングステン製の巨大なガントレットが視界を埋め尽くした。メグは模倣したばかりの足さばきで間一髪、真横へステップを踏む。だが、相手は大陸の裏社会をのし上がってきた本物の達人だった。野生の勘による付け焼刃の踏み込みなど、とっくの昔に先読みされている。

 

 ガントレットの盾が、逃げ道を塞ぐように強烈な横薙ぎで迫った。咄嗟に黒不浄刀の腹で受け止めたものの、肉体硬化の呪詛を乗せた剛の質量は、メグの小柄な身体を容赦なく弾き飛ばす。

 

 「がはっ……、ぁ……ッ」

 

 激しく床を転がり、倉庫の壁に背中を打ち付けた。全身の骨が軋み、口内に鉄の味が広がる。必死に立ち上がろうとするメグだったが、両足が生まれたての小鹿のようにガタガタと震え、力がまったく入らなかった。そこへ、追い打ちをかけるようにフェイ・フェイの暗針が飛来する。

 

 (動け、動いてよ……ッ!)

 

 泥水をすすってでも生き残る。その強盗団仕込みの生存本能が、辛うじてメグの身体を這わせた。だが、飛んできた暗針は彼女の肉体ではなく、床に伸びた影へと突き刺さる。

 

 「――!」

 

 身体が、物理的に縫い付けられたようにピタリと硬直した。【刑部】の影縛りの呪詛。パニックを排した脳で、冷徹に死が迫るのをメグは感じていた。正面からは、残った改造兵士たちを引き連れたレイ・ワンが、彼女の頭部を今度こそ踏み潰そうと歩を進めてくる。

 

 美緒。ごめんなさい。私はここで、あの父親と同じように、無様に駆除される――。

 

「はぁ、見てられない。おチビ、必死なのはいいけど、泥臭すぎて美しくないよ」

 

 戦場に、あまりにも場違いな、退屈そうな溜め息が響いた。

 

 コツ、と靴音が一つ。

 いつの間にかメグの前に立っていたのは、髪の毛を退屈そうにいじるケリーであった。

 

 「どけ、小娘! まとめて肉片にしてやる!」

 

 レイ・ワンの鉄拳が、ケリーの顔面へ向けて音速を超えて突き出される。

 

 しかし、ケリーは《グレイプニル》のチェインすら使わなかった。ケリーは小さく微笑む。

 

 「へえ、それが大陸の『伝統』ね。――うん、ロジックは理解した」

 

 ゾッとするほど冷徹な、知性の閃き。ケリーは、レイ・ワンの拳が突き出されるまでのわずかコンマ数秒の間に、彼の筋肉の収縮、呼吸の周期、力の伝達効率のすべてを脳内で解体していた。

 

 「でも、それ非効率だよ。人類の運動力学的に、ここの骨格の連動、無駄があるもん」

 

 ケリーが、す、と右手を突き出す。その構えは、レイ・ワンが先ほど見せた洪家拳の構え――だが、何かが決定的に違っていた。彼女は敵の武術をただ真似たのではない。最高のデザイナーズベビーとして培われた合理的知性により、その構造的な欠陥を瞬時に修正。人類の解剖学・力学において最も効率的で洗練された、敵以上の完璧な武術へと、その場で進化させて使いこなしたのだ。

 

 「なっ――!?」

 

 レイ・ワンの剛拳が激突した瞬間、ケリーはほんのわずかな電磁反発を手の平に乗せ、彼の拳の軌道をミリ単位で受け流した。太極拳をも凌駕する精密な柔の捌き。体勢を崩したレイ・ワンの顎の下へ、ケリーの左拳が下から吸い込まれるように突き刺さる。

 

 ドカァン!!!

 

 低い筋力のはずなのに、完璧な点とタイミングで放たれ、練り上げた寸勁は、レイ・ワンの巨体を軽々と宙へと跳ね上げた。

 

 「レイ・ワン!?」

 

 フェイ・フェイが驚愕し、動揺のままに無数の暗針をケリーへ向けて乱射する。影を縫い、神経を焼く必殺の雨。だが、ケリーは視線すら向けない。

 

 「影を物理固定する波長ね。じゃあ、私の電磁誘導で『空間の塵を磁気固定して、あなたの針の軌道を1ミリだけズラす』方が、エネルギー効率が1/100で済むんだけど?」

 

 ケリーが指先を小さく振る。それだけで、飛来したすべての暗針が、まるで目に見えない壁に弾かれたように、ケリーの身体の数センチ手前で次々と床へ落ちていった。磁界を操る雷光の魔女に対し、金属の飛び道具は無謀に過ぎた。

 

「化け物、が……ッ!」

 

 フェイ・フェイの顔が恐怖に変わる。歴戦の彼女はこのからくりに気が付いた。いや、考えてみれば当たり前の事――ノーモーションで雷撃を使用できる相手に接近戦を行うなど!

 

 メグは、影に縫い付けられたまま、その光景をただ呆然と見上げるしかなかった。全身に鳥肌が立ち、本能的な恐怖で歯の根が合わなくなる。

 

 自分が命を削り、泥に塗れ、血を吐きながら必死に盗んでいる技術を、この魔女は呼吸をするように完璧な形へと進化させて使いこなしている。生まれ持った知性と、合理的センスの、絶対的な格の違い。

 

 ケリーは首輪という弱さの檻の中にいる。全力を出せない不自由さを、むしろ楽しむように、《グレイプニル》すら途中からは使用せず、限定された力ですら達人たちを赤子のように蹂躙していく。

 

 「あはは! 楽しいなぁ、人間って本当に不自由で面白い!」

 

 狂気的な笑みを浮かべ、ケリーはさらに最適化された体捌きで、残った兵士たちを冷徹に、効率よく「お掃除」していく。その圧倒的な背中は、美緒のお伽噺よりも遥かに遠く、絶望的なほどに高かった。

 

 

 「あーあ、もう終わり? 大陸の『六部』ってのも、底が浅いなぁ。それとも、今回の任務には私の出力が高すぎたのかも知れないわね」

 

 ケリーの残念そうな声が、鉄錆の漂う倉庫内に響き渡った。床には、彼女の最適化された武術によって四肢の関節をあり得ない方向へへし折られた改造兵士たちが、物言わぬ肉塊となって転がっている。

 

 残された二人の幹部――【兵部】レイ・ワンと【刑部】フェイ・フェイは、完全に戦意を喪失していた。レイ・ワンの強固なタングステンのガントレットは粉々にひび割れ、フェイ・フェイは自らの暗針を電磁誘導で逆流させられ、両手を血に染めて激しく震えている。

 

 「――こんなところかしら。これなら平等(フェア)じゃない?」

 

 ケリーが、す、と後方を振り返る。その三日月のような瞳が、床に這いつくばるメグを捉えた。

 

 「ほら、おチビ。おいしいところは譲ってあげる。あなたの『お仕事』、これで終わりなんでしょ?」

 

 ――それは、耐え難い屈辱であった。メグにとって、死ぬほど悔しい瞬間だった。この魔女は、自分に情けをかけているわけではない。ただ、お遊びに満足し、飽きたから、遊戯盤を片付けろと言っているに過ぎないのだ。

 

 だが、メグの身体に突き刺さっていた影縛りの暗針は、フェイ・フェイの戦意喪失とともにすでに効力を失っていた。

 

 立てる。動ける。

 

 ここでプライドを優先して拒絶することも出来る。だが、その解は依頼失敗と直結していることくらいはメグにもわかっていた。

 

 (……生きる。私は、生き残って、美緒のところへ行くの……!)

 

 本能的な悔しさと情けなさに涙をボロボロと流しながら、メグは泥まみれの床を強く蹴った。引き裂かれ、剥がれ落ちた雅のメッキなど、もうどうでもいい。ただ獲物を屠るだけの獣として、メグは黒不浄刀を強く握りしめ、弾丸のような速度で滑り込んだ。

 

 「ひっ――」

 

 フェイ・フェイが短い悲鳴を上げる。その喉笛に向けて、メグは着物の袖から穢れの刃を突き出した。彼女が自ら編み出した必殺の可変技、秘剣「袖の下」である。容赦なく突き刺さった刃が、敵の体内に濃密な呪詛を流し込み、その命の灯火を瞬時に侵し尽くしていく。

 

 さらにメグは返す刀で、体勢を崩したまま身動きの取れないレイ・ワンの首筋へと、黒不浄刀を全力で横一文字に振り抜いた。

 

ドサリ、と重い肉体が床に崩れ落ちる音が、静まり返った倉庫に虚しく響く。

 

 「……ッ、……ッ」

 

 荒い呼吸の音だけが響く中、メグは刀を杖代わりにし、満身創痍の身体をかろうじて支えていた。任務と依頼は達成された。しかし、その胸にあるのは勝利の悦びなどではなく、泥を無理やり喉の奥へ押し付けられたような、昏く黒い感情だけだった。

 

 パタパタと、軽い足音が近づいてくる。立ち尽くすメグの前に、ケリーが歩み寄ってきた。彼女の首元のリミッターは、激しい戦闘の後だというのに、何事もなかったかのように鈍く光っている。解放された腋部とスカートから排熱風が吹き出し、魔女の裾を華麗に揺らした。

 

 

 ケリーは、返り血と泥で汚れたメグの顔を覗き込むと、髪をわずかに青白く発光させながら、彼女の顎を指先でクイと持ち上げた。

 

 「あは、いい顔。前よりは少しだけ、折りごたえのある牙になったじゃん」

 

 人を見下しきった、底知れない魔女の笑みだった。彼女の指先から伝わる微かな電条が、かつて受けた凄惨な拷問の恐怖をメグの全身に思い出させ、肌を粟立たせる。身体が本能的な恐怖でガタガタと震え出すのを、メグは止めることができなかった。

 

 「人間って本当に不自由で面白いよね。おチビのおかげで、今日も楽しい『学び』ができたわ……また遊ぼっか」

 

 ケリーは愛おしそうにメグの細首を指でなぞりながら、ふらりと背を向けた。そのまま、今回の「お掃除」に満足した子供のように、鼻歌交じりで飄々と去っていく。

 

 暗闇に消えていく、魔女の背中。その圧倒的な知性と合理性。そして、強すぎる力をあえて「檻」に閉じ込め、弱さを学んでいるという異常性。

 

 メグは恐怖に震え、屈辱の涙を拭うこともできずに、ただその背中を血走った目で睨みつけていた。

 

 (ケリー・F・ハウンド……!)

 

 言葉にならない呪詛が、喉の奥でドロドロと燃え盛る。いつか。いつか必ず、自分自身の手で強くなって、あの化け物の先を行く。そして、あの余裕ぶった仮面を、あの首輪ごと叩き割って、この手で絶対に殺してやる。

 

 

 引き裂かれた和装の袖を握りしめ、メグは闇の中で、狂気的な殺意と執念をその胸へ深く、深く刻みつけた。

 

 

 

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