倉庫の惨劇から数刻。血と埃の混じり合う静寂の中に、二つの重厚な足音が近づいてきた。
一つは、踏みしめる床を軋ませるほどの圧倒的な巨躯の足音。もう一つは、どこか軽快で、されどどこか不気味に底の厚いブーツを鳴らす足音。
引き裂かれた和装の袖を握りしめ、冷たいコンクリートの床でうずくまっていたメグが、薄っすらと目を持ち上げる。白煙の向こうから姿を現したのは、彼女が「有得教室」で背中を追いかける二人の男――主宰である
メグは声を出すことができない。ただ、ボロボロになった身体を持ち上げようとし、弱々しく二人の顔を見上げた。
「……おや」
205センチの巨躯を誇る満腹は、いつも通りの丁寧で穏やかな物腰でメグの傍らへと膝をつき、繊細な手つきでメグの身体を優しく抱き起こした。だが、その直後だった。
満腹の赤い瞳が、スッと細められた。彼の鼻腔を突いたのは、死んだ『六部』や改造兵士たちの返り血の臭いだけではない。メグの皮膚や髪、そして引き裂かれた着物に微かにこびりついている、青白いオゾンと電磁の狂暴な残り香――。
穏やかだった満腹の声の温度が、すうっと氷点下まで下がった。彼の頭裏によみがえるのは、過去にメグの身体と心へ凄惨な傷を刻みつけた悪名高き魔女の存在。
「メグさん。……これは、あの“ハウンド”の仕業ですね?」
満腹の巨躯から、ドロリとした凶悪な殺気が漏れ出した。彼にとって「純愛」や「純粋な執念」を抱く子供は、何よりも尊く、愛でるべき(そしていずれ最も美味しく食すための)至高の存在である。それをこのような無様な泥に塗れさせ、トラウマをほじくり返して弄んだという事実に、カニバリストとしての歪んだ愛憎が怒りとなって沸騰した。
「いけませんね……実に、不愉快だ。愛のない無機質な暴力で、あなたの健気な牙を傷つけるなど……。私が今からあの子を追いかけ、その綺麗な皮膚の首筋から骨まで、じっくりと噛み砕いてお仕置きして差し上げましょう」
巨躯を立ち上げ、即座にケリーの後を追おうとする満腹。その背中に、三編みの黒髪を揺らした有得流我が、軽々とした声で待ったをかけた。
「おいおい、やめとけって満腹。お前じゃ勝てねえよ」
黒い口紅を塗った唇から吐き出されたのは、あまりにも冷静で、身も蓋もない制止だった。満腹は足を止め、穏やかな仮面の下に凶悪な赤瞳を覗かせたまま有得を振り返る。
「……私の結界と肉体を、たかが魔女が破れるとおっしゃるのですか?有得様」
「破れるね。あっさりとな」
有得は鼻で笑うと、首の後ろをバリバリと掻いた。
「あの魔女の
身も蓋もない有得の分析に、満腹はピクりと眉を動かした。だが、主である有得の言葉だからか、あるいはそのロジックの正しさを察したのか、激しい殺気を徐々に内に秘めて溜め息をついた。
「……相性、ですか。実に不愉快極まりないですが……有得様がそうおっしゃるなら、今は引き下がりましょう」
「そうしろ……ったく、またリスポーンする羽目になるのは俺だけで十分だっつーの」
有得は呆れたように肩をすくめると、有得の緑色の瞳が、夜の闇の奥――ケリーが立ち去った方向へと向けられる。
(相性……なんてのは、ただの表向きの理由だけどな)
世間や境界対策課は、ケリーを出力を首輪で制限された元・脅威程度に甘く見ている。だが、有得だけは知っている。あの少女の本当の恐ろしさは、莫大な魔力でも電磁の攻撃力でもない。
――あの悪魔のような「邪悪な知性」だ。
(……あのガキの本当の邪悪さを知らねえのは、幸せなことだぜ)
一瞬だけ瞳に冷徹な闇を宿した有得だったが、すぐにいつもの軽薄でアホな面に巻き戻すと、ため息を散らしてしゃがみ込んだ。床に座り込むメグの前に視線を合わせる。そして、泥と血で汚れたメグの頭へ、乱暴だがどこかわだかまりのない手つきでポンと手を置いた。
「おい、メグ」
返事の声は返ってこない。メグは小さく唇を噛み締め、悔しそうに有得をじっと見つめ返した。
「ボロボロだな。まあ、あの魔女相手に命があっただけ上等だ。……で? メッキは剥がれたか」
有得の問いに、メグは静かに視線を落とした。自分の引き裂かれた着物と泥に塗れた手を見つめ、声を出せないもどかしさを抱えながら小さく首を縦に振った。
綺麗な和服も、戦い方も、全部ぐちゃぐちゃになってしまったことを、その落胆した表情だけで伝えてくる。
有得はそんなメグの頭を、ぐしゃぐしゃと力任せになで回して豪快に笑った。
「だーっはっは!いいじゃねえか! 泥まみれで、血反吐吐いて、みっともなく足掻いて生き残ったんだ。それがお前の本物の『力』』だろ。綺麗な人形ごっこなんてのはな、生き残った後でいくらでもやり直せばいいんだよ」
声の出ない喉の奥で、息が詰まる。雑で、けれど絶対にメグの生存を否定しないその言葉に、メグの瞳に宿る暗い火がふっと揺れた。彼女はぐっと奥歯を噛み締め、力強く頷いてみせた。
「ほら、帰るぞ。満腹、メグを担げ。今日は肉だ。たらふく食わせて、また鍛え直してやる」
「ええ、喜んで。メグさん、美味しいお肉(※動物の)をたくさん準備してありますからね」
満腹はメグを軽々とその太い腕の中に抱き上げた。巨体から伝わる暖かさと、どこか恐ろしいが確かな身内の匂いに、メグの張詰めていた緊張がようやく解けていく。
抱えられながら、メグは最後に一度だけ、ケリーが去っていった闇の奥を言葉もなく強く睨みつけた。
(……)
その姿は、二人の異形な師とともに、夜の街へと消えていった。