個性『何もない』 作:I love you
朝、世界が覚醒すると同時に、私は「私」を編み上げる。
洗面台の鏡に映っているのは、絵に描いたような美少女の姿だ。透き通るような白い肌、夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪、そして見る者を惹きつける大きな瞳。どこからどう見ても、一分の隙もない完璧な人間の少女。
だが、その内側は違う。
衣服の下、その皮膚の裏側にあるのは、骨でもなければ内臓でもない。赤黒く脈打つ、おぞましい肉の塊だ。総質量にして2メートルを超える巨躯。その這いまわる肉のあちこちには、光を反射して不規則に瞬きを繰り返す、無数の歪な目が埋め込まれている。
これが私の本体であり、本質だ。
4歳のあの日。世界中の子供たちが個性という名の輝かしい才能を開花させるその季節に、私に訪れたのは救いではなく、決定的な死だった。
個性が発現した瞬間、
戸籍上は生きていることになっている。しかし、私にはもう男としての機能も、女としての機能もない。個性発現の衝撃で脳の構造すら作り変えられ、性別という概念そのものが消失してしまった。
いま纏っているこの美少女の皮は、かつて人間だった頃の朧気な記憶と、周囲の人間を観察して作り上げた、ただの精密な擬態に過ぎない。
「……よし、異常なし」
鏡の中の美少女が、私の意思に従って完璧な笑顔を作る。声帯を震わせ、鈴を転がすような愛らしい声を響かせる。
人間でありたい。人間に混ざって、人間として生きていきたい。その強烈な執着だけが、私という怪物をこの社会に繋ぎ止めている唯一の楔だった。
今日から、私は雄英高校の生徒になる。
国への個性の届け出は『肉体変形』。自らの肉体を自在に変形させることができる、典型的な発動系の個性として登録してある。
本当は物理攻撃を一切受け付けないという理不尽な防御性能や、衣服を含めたあらゆる物体へ完璧に同化する擬態の能力もあるのだが、それらはすべて隠匿している。怪物は、目立ちすぎてはならない。人間に恐怖を与えた瞬間、私はヒーロー候補から駆除対象のヴィランへと反転してしまうからだ。
真新しい雄英高校の制服(これも、厳密には私の肉の一部を硬化・変色させて衣服の形に擬態させたものだ)の襟を正し、私は家を出た。
◇
雄英高校1年A組。
その教室の前に立ったとき、私はわずかに胸の奥の肉が騒ぐのを感じた。
巨大な扉を開けると、すでに車内さながらの熱気が室内に満ちていた。
「机に足を掛けるな! 雄英の先輩方や机を作ってくれた人に申し訳ないと思わないのか!?」
「思わねーよ。てめーどこの進学校だよ、クソ真面目野郎」
入学早々、一触即発の空気を放っているのは、眼鏡をかけた生真面目そうな少年と、いかにもガラの悪そうな爆発頭の少年だった。飯田天哉と、爆豪勝己。入試の際に見かけた、今年の有力株たちだ。
私が教室に一歩足を踏み入れた瞬間、それまで騒がしかった空間が、一瞬だけ奇妙な静寂に包まれた。
無理もない。彼らの目に見えているのは、誰もが振り返るような容姿端麗な美少女なのだから。男たちの視線が自然とこちらに集まり、何人かは露骨に頬を染めている。
「あ……おはようございます!」
飯田がカチカチとした動きでこちらに歩み寄ってくる。
「僕は私立聡明中学校出身の…」
「知っています、飯田くん。入試の時、とても熱心に受験生を統率しようとしていましたね。私は人皮被。よろしくね」
私は小首を傾げ、満面の笑みを浮かべてみせた。人間の男が最も好むであろう、可憐で無害な少女の仕草。飯田は「うむ!」と顔を赤くして一歩下がった。
その様子を、特等席のような窓際の席から、爆豪勝己が鋭い眼光で見下ろしている。彼の野生的な勘が、私の擬態を不審に思っているのかもしれない。だが、どれだけ睨もうと、私の皮膚の裏側にある無数の目と視線が合うことはない。
やがて、緑谷出久という気弱そうな少年がオロオロしながら教室に入ってき、それに続いて茶髪の明るい少女――麗日お茶子が話しかける。教室が再び賑やかさを取り戻したその時、扉の向こうから何かが這い出てきた。
黄色の寝袋に包まった、死人のような目をした男。
彼が寝袋から這い出し、教壇に立つ。
「静かになるまでに8秒かかりました。時間は有限、君たちは合理性に欠くね」
彼こそが、プロヒーロー・相澤消太。この1年A組の担任であり、視界に入れた者の個性を抹消する抹消ヒーロー:イレイザーヘッドだ。
(……抹消、か)
私は制服の袖の下で、そっと自分の手を握りしめる。
もし彼が私に個性を発動したら、どうなるのだろうか。私の「 何もない」という存在そのものが消えるのか、それとも擬態が解けて、あの2メートルのグロテスクな肉の塊が教室中にぶちまけられるのか。
冷や汗をかく機能はないはずなのに、背中の肉がゾワリと粟立つような感覚があった。いずれにせよ、彼の前で下手にボロを出すわけにはいかない。
「担任の相澤消太だ よろしくね」
抑揚のない声でそう言うと、相澤は寝袋から青い雄英の体操服を取り出した。
「早速だけどこれ着てグラウンドに出ろ」
◇
グラウンドに出た私たちは、相澤から「個性把握テスト」を行うという説明を受けた。
中学までの、個性の使用を禁じられた一律の体力テストではなく、己の力を最大限に発揮するための合理的な試練だという。
「入学式は!? ガイダンスは!?」
麗日お茶子が困惑したように声を上げるが、相澤は冷淡にそれをあしらう。
「ヒーローになりたいならそんなのんびりした行事に出てる暇はない。雄英は『自由』が校風 そしてそれは先生側もまた然りだ」
相澤は視線を爆豪勝己へと向けた。
「爆豪 中学の時ソフトボール投げ何メートルだった」
「67メートル」
「じゃあ個性使ってそれやってみろ 円の中から出なきゃ何してもいい 早よ。思いきりな」
爆豪が面倒くさそうに円に入り、肩を回す。
彼がボールを振りかぶった瞬間、手の平から凄まじい爆発が巻き起こった。
「死ねぇ!!」
どがぁん!! という鼓膜を揺らす爆音と爆風。ボールは文字通り大気をも切り裂くような推進力を得て、遥か大空へと消えていく。
相澤が掲げた計測器には『705.2メートル』という、規格外の数値が表示されていた。
「まずは自分の最大を知る それがヒーローの土台を築く最も合理的な手段」
これを見たクラスメイトたちが、一斉に歓声を上げる。
「すげえ! 700メートルってマジかよ!」
「個性を思いっきり使えるんだ! さすが雄英、楽しそう!」
「面白そうだなー!」
緊迫していた空気が、一気に華やいだものへと変わる。だが、そのお気楽な空気を、相澤の冷徹な一言がピシャリと切り裂いた。
「楽しそう……ね」
相澤の目が、前髪の隙間から不気味に光る。
「ヒーローになる為の3年間をそんなお気楽な気分で過ごすつもりか? よし 3年間でトータル成績最下位の者は見込み無しとして除籍処分にしよう」
「えええええええええええ!?」
グラウンドに絶望の悲鳴が響き渡る。麗日お茶子が「初日から理不尽すぎる!」と抗議するが、相澤の眼光はさらに鋭さを増した。
「自然災害 大事故 そして身勝手なヴィランたち いつどこから訪れるかわからぬ不条理 日本は理不尽に満ちている その理不尽を覆していくのがヒーロー お茶したけりゃ放課後マックでも行ってろ ここから3年間 雄英は全力で君らに苦難を与え続ける “Plus Ultra”さ 乗り越えて来い」
クラス中に戦慄が走り、特に緑谷出久にいたっては、今にも卒倒しそうなほど顔を青くしている。
だが、私にとっては除籍などという言葉よりも、このテストをどう人間らしく切り抜けるかの方が重要だった。目立ちすぎず、かと言って最下位になって目をつけられることもなく、届け出通りの肉体変形の範疇で見事な数値を残さなければならない。
第1種目:50メートル走。
私は4組目だった。スタートの合図とともに、私は自分の脚の構造を瞬時に変形させた。体操服の下で、大腿部とふくらはぎの肉を爆発的に増幅させ、人工的な高密度筋肉へと再構築する。
ドン、という風切り音とともに、私は地面を蹴った。
人間の限界を超える筋力。だが、見た目はただ足が速い美少女のままだ。
『5秒42』
「わあ、人皮さん速いね!」
隣のレーンを走っていた女子生徒が感嘆の声を漏らす。私は「ありがとうございます、必死でしたから」と、少し息を切らせる演技を交えて微笑んだ。実際には、呼吸をする必要などないのだけれど。
第2種目:握力。
私は計測器を右手で握る。
表向きには、私の個性肉体変形だ。だから、目に見える変化を起こしても問題はない。
私はふう、と小さく息を吐くと、右手の皮膚をあえて破るようにして、内側の肉を膨張させた。
ドクク、と嫌な音を立てて、私の右腕が通常の3倍ほどの大きさに肥大化する。赤黒い筋肉の繊維が剥き出しになり、周囲の生徒が「うわっ」と声を漏らした。これは私の基本技である通常攻撃(ただの肥大化した腕での打撃)と同じだ。
ミシリ、メキメキメキ……!
プラスチックと金属でできた計測器が、私の圧倒的な質量と筋力によって、容易くひしゃげていく。完全に破壊する手前で力を緩め、数値を固定した。
『480キログラム』
「ひええ……あの見た目で、腕があんな風に……」
上鳴電気という金髪の少年が引いている。私はすぐに肥大化した腕の肉を縮小させ、破れた皮膚を編み直して、元の綺麗な白い腕へと戻した。「ちょっと不格好で見苦しいものをお見せしました」と恥づかしそうに微笑むと、少年たちは一斉に首を横に振ってフォローを入れてくれた。人間は本当に扱いやすい。
だが、テストが進むにつれて、私はある不穏な気配を察知していた。
担任の相澤消太の視線だ。
彼は、私の数値を記録しながら、その鋭い眼光を一切崩さない。私の肉体変形の挙動が、通常の発動系のそれとは異質なことに気づいているのかもしれない。
そして、運命の第5種目――ソフトボール投げがやってきた。
クラスメイトたちが次々と記録を出していく。麗日お茶子が無限を出した時は、流石に私の中に眠る怪物の本能も理不尽な能力だと驚嘆せざるを得なかった。
緑谷出久の番になり、彼は指一本を犠牲にして、凄まじい風圧とともに『705.3メートル』を叩き出した。爆豪がそれに激昂し、相澤が個性を消して圧力をかけるという一幕があったが、私の関心は別のところにあった。
「次、人皮」
相澤に名前を呼ばれ、私は円の中へと進み出た。
手渡されたボールは、人間の肌によく似た感触をしている。
(さて、どうするべきか)
普通に腕を太くして投げれば、300メートルや400メートルは固い。だが、相澤の疑り深い目を誤魔化すには、もっと個性らしい派手な技として見せた方が自然かもしれない。肉体を武器に変形させる――それこそ、私が国に申請しているプロファイルに最も合致する戦闘形態だ。
私はボールを左手に持ち替え、右腕を真っ直ぐ前に突き出した。
「おい、人皮の奴、今度は何をする気だ?」
ギャラリーの生徒たちが注目する。
私の右腕の肉が、内側から激しく蠢き始めた。皮膚が弾け、中から現れたのは、赤黒い筋組織が限界まで圧縮され、研ぎ澄まされた――巨大な、あまりにも巨大な刃だ。
それは人間の腕の形を完全に失っていた。長さは2メートル近くに達し、あらゆる物体を両断するためだけに最適化された、禍々しい肉の業物。衣服の袖が破れ、剥き出しになった肉の刃が、グラウンドの太陽光を浴びて鈍く光る。
これが私の最高力――『goodbye』。
ボールを空高く放り投げ、落下してくる軌道を見切る。私の全身の筋肉が、一斉に駆動を始める。
肉の刃を音速を超える速度で振り抜く、その寸前。私の口から、低く、冷徹なノイズが漏れ出た。
「…goodbye」
それは、かつて人間だった頃の私の声ではない。どこか機械的で、複数の人間の声を無理やり合成したかのような、ゾッとするほどの怪物のフレーズ。
ドガァッ!!!
引き絞られた肉の刃が、空気を完全に切り裂いた。
凄まじい衝撃波がグラウンドに吹き荒れ、強烈な砂煙が舞い上がる。刃の側面に叩きつけられたボールは、爆豪の爆発をも凌駕するような初速で、文字通り大気圏を突き抜けるかのような勢いでカッ飛んでいった。
キィィィィン……という耳鳴りのような風切り音が残るグラウンド。
私はゆっくりと右腕の刃をほどき、ドロドロとした肉の流れを経て、再び可憐な美少女の腕へと再構築していった。破れた制服の袖は、私の肉が繊維を模倣して一瞬で修復する。
相澤の持つ計測器が、ピピピと電子音を鳴らした。
画面に表示された数値は――『820.4メートル』。ボールを切断しないようにするにはこの程度までしか力を出せない。
「は、800超え……!?」
「あの細い体のどこにそんなパワーが……っていうか、今の腕、マジでヤバいだろ……」
クラス中が静まり返る中、爆豪勝己だけが、歯の根をガチガチと鳴らしながら私を睨みつけていた。自分の記録を塗り替えられたのだから、彼の自尊心はズタズタだろう。
だが、私は爆豪の視線などどうでもよかった。
問題は、相澤消太だ。
彼は、計測器を見つめたまま、しばらく動かなかった。画面に視線を落とした後、ゆっくりと顔を上げ、私の全身を値踏みするようにじろりと見つめてくる。
その目が、不気味に赤く光った。個性の発動だ。
(……!)
私の体内で、擬態を維持するための回路にわずかなノイズが走る。だが、私の擬態は個性の超常の力というよりは、アブノーマリティとしての生物的本能に近い。また異形系としての側面も持っていたのだろう。彼の『抹消』をもってしても、完全に肉の結合を解くことはできなかった。ただ、少しだけ肌の表面がピリピリとする。
相澤は私の様子を観察するようにしばらく睨みつけていたが、やがてフゥと息を吐き、個性を解いて髪を戻した。
「……次、轟」
それだけ言うと、相澤は淡々と次の生徒を呼び出した。その場での追及は何もなかった。だが、彼のあの冷徹な眼光は、私の肉体変形が持つ異質な質感と不自然さを、確実に記憶に刻み込んだはずだ。
すべてのテストが終わり、クラス全員に向けて、すべての結果がホログラムで提示される。私の順位は上から4番目。緑谷出久が最下位の数字を指していた。
静まり返る一同の前で、相澤は笑った。
「ちなみに除籍は嘘な」
その言葉に、緑谷や麗日たちが「ええええ!?」と大声を上げる。
「君たちの個性を最大限引き出す合理的虚偽」
相澤は背を向け、歩き出す。
「以上。終わりだ。教室にプリントあるから目通しとけ」
私はホッと胸をなでおろす演技をしながら、彼らの輪に混ざった。
◇
すべてのテストが終わり、放課後。
私は一人、校舎の裏手にある人気の無い手洗い場にいた。
「はぁ……」
誰もいないことを確認し、私は自分の顔の擬態を少しだけ緩めた。
バリバリ、と不快な音がして、美少女の顔の皮膚が縦に裂ける。その隙間から、ドロリとした赤黒い肉と、ギョロリとした3つの「目」が覗き、周囲の景色を不気味に探索する。
人間に擬態し続けるのは、想像以上にエネルギーを消費する。特に、雄英のようなプロの目が集まる場所では、一瞬の油断も許されない。
私は近くのコンクリートの壁に向けて、左手の先を小さく変形させた。硬化させた肉が、細い針の形状へと変わる。これが私のもう一つの技――『hello』だ。
技を放つ直前、私の裂けた口から、あの歪な合成音声が小さく漏れた。
「hello?」
シュッ!!
視認できない速度で放たれた肉の針が、コンクリートの壁に深々と突き刺さり、内部から肉の繊維が爆発するように広がって、壁に蜘蛛の巣状の亀裂を入れた。
私は再び顔の皮膚を閉じ、何事もなかったかのように完璧な美少女の姿へと戻る。
壁の傷跡を制服の袖で隠しながら、私は夕暮れの校舎を見上げた。
ヒーローアカデミア。
輝かしい光に満ちたこの場所で、私はいつまで人間のフリを続けられるだろうか。いつか人になれるのだろうか。
もし、この皮が完全に剥がれ落ちたその時――彼らは私を、ヒーローとして受け入れてくれるのだろうか。
それとも。
私は小さく笑い、カツ、カツ、とローファーの音を響かせながら、夕闇の迫る帰路へと歩き出した。私の背後には、夕日に照らされた影だけが、2メートルを超える巨大な怪物の形をして、不気味に揺れている。