ようこそ未知を探求する教室へ   作:叙述トリッピー

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page.18 最後の平穏

 

一之瀬帆波の独白。

 

 

朝の澄み切った空の下。

生徒たちの喧騒とどこか浮ついた緩慢とした空気で満ちていた。

クラスのテントの下で私はハチマキを頭に巻きながら、クラスメイトたちに声をかけて回っていた。

 

「皆、おはよう! いよいよ始まるね。今日は怪我なく、全力で頑張っていこうね!」

 

私の明るい声に生徒たちが応える中、テントの最も日陰になっている隅っこ。

そこにポツンと丸い影がひとつ見えた。

 

赤組のハチマキを首にダラリと巻きつけ、外履きの踵を踏み潰した足で体育座りをしている竜崎くんだ。

朝の光が眩しそうに、親指の爪を噛みながらぼんやりとグラウンドを見つめている。

私はその様子に笑いながら、竜崎くんの前にとことこと歩み寄り顔を覗き込むように屈み込んだ。

 

「竜崎くん、おはよう! 体調はどう? 朝ごはんはちゃんと食べた?」

 

「一之瀬さん、おはようございます。朝食なら甘味を少々摂取しました」

 

「そ、そっか…、相変わらずのキミらしい朝ごはんだね」

 

私は苦笑いしながらも、どこか憂いを含んだ瞳でグラウンドを見渡した。

 

「いよいよ始まっちゃうね。……実はね、私ちょっと緊張してるんだ」

 

「そうなんですか?」

 

「今回はキミの代わりにみんなを引っ張っていかなきゃいけない。それに、総合優勝も狙いたい。絶対に失敗できないなって思ったら、なんだか胸がドキドキしてきちゃった」

 

私はその責任の重さからか、少し肩に力が入った。

その弱音に、彼は親指の爪を噛むのをやめると黒目で淀んだ瞳をゆっくりと私に向けた。

そしていつも通りの淡々とした、けれどどこか低い声で呟いた。

 

「そんな調子で臨んでは、通常時の85%になりますよ」

 

「えっ?」

 

「結果をやる前から思い悩むのはエネルギーの無駄遣いです」

 

竜崎くんはゆっくりと膝を抱えていた腕を解き、私の目線に合わせるため少しだけ顔を近づけた。

 

「……今日の私の目標を知っていますか?」

 

「え、竜崎くんの目標?必ず勝てとか」

 

私が首をかしげると、竜崎くんはほんのわずかに珍しい柔らかな口角の上がり方を見せた。

 

「いいえ。今日は楽しむことが目標です」

 

「え、竜崎くんが楽しむ…?」

 

「ええ。この体育祭は平凡なアトラクションに過ぎません」

 

竜崎くんはジャージの袖から長い指先を覗かせ、グラウンドに集まりだしてる生徒たちを指差した。

 

「勝っても負けても関係ありません。この学校は計略、欺瞞、策略が渦巻く場です。だから貴女はそんなに勝利に貪欲になっている」

 

「そうだね…」

 

この学校は普通とは違う。どうやって勝つかを皆が考え続ける異質な場所だった。

 

「しかしミスをしても死にはしません。なら、この体育祭というイベントを、純粋なエンターテインメントとして消費しない手はないでしょう」

 

そう区切るように言ったあと、竜崎くんは私をまっすぐに見つめた。

 

「あなたも同じです、一之瀬さん。その責任感で自分を縛る必要はありません」

 

「……」

 

「折角私が譲っているのです。今日はただ、楽しめばいい。それが、私から貴女へのアドバイスです」

 

「……竜崎くん」

 

私の胸の奥で張り詰めていた糸が、解けていくのが分かった。

『勝利』や『成果』ばかりを気にしていた心が少しだけ楽になった。

彼がくれたのはこの瞬間を楽しめばいいという、気楽な許可だった。

 

だからこそ彼は希望制で参加者を決める事にしたのだろう。

勝ちを捨てるという言葉はクラスの反感を買ったけど、皆で楽しむって意味だったらしい。

竜崎くん的には能力で決めるとクラスのモチベに関わるから避けたいって話なんだろうけど。

 

「ふふっ、そうだよね! 勝っても負けても誰も死なないもんね! 竜崎くんにそんなこと言われるなんて、なんだか面白いなぁ」

 

「私は至って大真面目です」

 

「うん、分かってる! ありがとう、竜崎くん。なんだか肩の力が抜けたよ」

 

私は立ち上がると、秋晴れの青空に向かって大きく深呼吸をした。そして、今日一番の

笑顔を竜崎くんに向けた。

 

「よし、じゃあ今日は勝敗なんて気にせず思いっきり楽しもうね! 竜崎くんもちゃんと競技に参加するんだよ?」

 

「……それは話が別です。私は日陰で応援に専念する方が——」

 

「ダメっ! 一緒に頑張るって約束したでしょ? ほら、最初の競技が始まるよ!」

 

「……貴女は私の予想通りには動いてくれませんね」

 

この体育祭では、全ての競技は一年生から順番に行い男子が先だ。

だから私はこれから競技に向かうクラスの男子たちに応援のエールを送る。

それにクラスの男子たちが元気よく返事してくれる。

その様子に竜崎くんは観念したように、席を立った。

 

「ねえ竜崎くんは大丈夫?」

 

「なにがですか?」

 

「100メートル走なんて、体力持つのかなーって思ってさ」

 

私は彼の様子に心配になり声をかけた。竜崎くんはチラリと私を見やりボソリと呟く。

 

「一之瀬さん。こんなものはただの重心移動の繰り返しに過ぎません。はっきり言って、欠伸が出ます」

 

「え、そうなの?普段全然動いてないのに?」

 

私は苦笑いしつつも、心の中では無理せず完走してくれればと思っていた。

 

なにせ普段の彼は、歩くことすら億劫そうにしているインドアの代表みたいな人だからだ。

私を含め、クラスの誰もがそう思っていた。

 

竜崎くんはその言葉に何も返さず、熱気あふれるグラウンドへ向かっていった。

その足取りは開演のファンファーレとは真逆で、どこまでも重かった。

 

「竜崎くんって運動できるのかな?」

 

「た、多分できないと思うな」

 

「千尋ちゃんもそう思う?」

 

「…うん、そう思うよ」

 

竜崎くんはお世辞にも健康そうじゃない。普段の印象も積極的に動くタイプには見えなかった。

でも運動が出来るできないに関わらず、私に出来るのは応援をすることだけだ。

それに竜崎くんが休まずに参加してくれるだけで御の字だった。

(さっきもやりたくないって言いつつ参加してくれたし。もしかしてツンデレなのかな?)

 

そして、スタートの笛が鳴った。

号砲が響いた瞬間、私の目は点になった。

 

「え……っ!?」

 

爆発的なスタートを切ったのは、竜崎くんだった。

低い姿勢のまま、文字通り地面を滑るような異様なフォーム。

その速さは会場中の度肝を抜いた。

 

「速っ、なにあのフォーム……!?」

 

周囲の生徒も思わず身を乗り出し、目を見開いた。

竜崎くんの走りは一般的に推奨されるやり方じゃない。でも周りを止まっているかのように置き去りにしていった。

 

さらに驚いたのは表情だ。

呼吸を一切乱すことなく、冷ややかな眼光で前方の空間だけを見つめている。

全力を尽くして苦悶の表情を浮かべる他クラスの走者たちとは対照的に、竜崎くんだけが恐ろしいほど余裕だった。

 

「嘘でしょ、全くバテてない…?」

 

周囲の騒めきに呼応するように、ゴール直前でさらに一伸びを見せた。

圧倒的な1位でゴールテープを駆け抜けた。

 

『ゴールイン! 1位は竜崎ーっ!! なんという爆脚!まったく息が乱れていないーっ!!』

 

実況の絶叫が響く中、竜崎くんはゴールを過ぎても倒れ込むことすらなく、歩調を緩めて立ち止まった。

服の乱れを気にする様子もなく、何事もなかったかのような顔でこっちに歩いてくる。

 

「竜崎くんっ!!」

 

私が興奮気味に駆け寄ると、竜崎くんはポケットから飴を一つ取り出し、ひょいと口に放り込んだ。

 

「すごい、 凄すぎるよ!! なんでそんなに余裕で速いの!?」

 

目を輝かせる私に対し、彼は飴をガリッと噛み砕きながら、淡々と答えた。

 

「言ったでしょう?余裕だと」

 

「汗ひとつかいてないのは凄すぎるけど……! でも本当に平気なの? 苦しくないの?」

 

その言葉に竜崎くんは少しだけ首を傾げ、私を見つめた。

 

「応援してくれていたあなたの方が、ずいぶんと息が上がっているようですが?」

 

「えっ。あの私興奮して……」

 

真っ赤になって照れる私を見て、彼はほんのわずかに笑みを浮かべた。

 

「そうなんですね、お大事にしてください」

「あ、うんありがとうね?」

 

勝利に浮つかず淡々と会話する姿に私は少し安心した。

本当に変わらない人だ。そう考えていると、ふと気がかりなことがあった。

 

「もしかして、普段わざとゆっくりしてる?」

 

「……」

 

いつもは饒舌に返すのにだんまりだった。

 

「…図星?」

 

「さぁどうでしょうね」

 

「ふふっ、なんだか、竜崎くんの知らないところを一つ見つけたみたい」

 

「そうなんですか?」

 

「うん!竜崎くんのことを少しずつ知っていけるのが、嬉しいんだ」

 

私のその言葉にも竜崎くんは何も反応は無かった。

 

 

 

***

 

 

ハードル走、棒倒し等の全員参加の競技が次々と終っていく中で、騎馬戦が始まりそうだった。

私は応援席から、出場する竜崎を見つける。

 

「竜崎くん、頑張って!」

 

竜崎は私の声に気づいたのか、ちらりとこちらを見る。

そしていつものように、軽く手を上げただけだった。

 

「……もう少し反応してくれてもいいのに」

 

体育祭の花形競技である騎馬戦。

その会場では独特の熱気が満ち満ちていた。

観客席の最前列で、私は祈るような心地でフィールドを見つめていた。 視線の先にあるのは、赤組総大将の騎手である竜崎くんだ。

 

「竜崎くん、本当に大丈夫なのかな…」

 

彼の下を支える土台の男子3人は運動能力の高い生徒たちだ。

その上で竜崎くんは親指の爪を噛みながらぼんやりと相手陣営を見つめていた。

その姿はどう見ても戦力外、あるいは絶好の標的にしか見えなかった。

 

開戦の声を合図に、相手の騎馬3機が猛然と竜崎くんの騎馬へ突進した。

 

「一気にハチマキ奪うぞ!!」

「あの態勢なら一発だ!」

 

襲い来る騎馬たち。私は思わず叫んだ。

 

「竜崎くん、危ないっ!!」

 

だが、当の本人は眉ひとつ動かさなかった。

 

「話にならないです」

 

彼がボソリと呟いた瞬間だった。

相手の手が頭上のハチマキに触れるかというその刹那、竜崎くんの身体が消えた。

 

「なっ……!?」

 

彼は騎馬の上で驚異的な体幹を見せ、体を真後ろへ水平近くまで倒す。

その独特な柔軟な動きと重心移動により、相手の攻撃は空を切った。

 

「くそっ、スカした!? 押し潰せ!」

 

相手の騎馬が体当たりを仕掛けようとした瞬間、竜崎くんは倒した体をバネのように起こし、素足で相手の土台の腕の隙間を小突いた。

力づくではない。相手の力の大きさを利用した、最小限の接触。

 

「うわああっ!?」

 

その後先考えない行動の反動により、重心を失った相手騎馬が崩れ落ちた。

崩壊していく隙を突き、竜崎くんの細長い指先がすれ違いざまに相手の頭からスッとハチマキを抜き取っていた。

 

『な、なんだ今のはーっ!?触れた瞬間に相手が勝手に倒れたーっ!! 1機撃破!!』

 

私は目を丸くして立ち尽くした。

 

「すご……! 全然力を入れてないのに、相手の動きを完璧に読んで避けてる…」

 

勢いに乗る残り2機の騎馬が、前後から挟み撃ちを仕掛ける。

 

「挟め! 逃げ場はないぞ!」

 

「……挟み撃ち、いい狙いです。しかしタイミングがずれています」

 

竜崎くんは土台に指示を出すでもなく、自らの体重移動だけで騎馬の軌道をズラした。

前方の騎馬の手が竜崎くんのハチマキの手前ギリギリを掠めつつも、回避。

それと同時に後方の騎馬が突っ込んできた勢いを利用し、両手の指先で同時に2つのハチマキを摘み上げた。

 

「え……?」

 

挟み撃ちを仕掛けた2機は、自分たちのハチマキがいつの間にかなくなっていることにすら気づかず、そのまま通り過ぎていく。

竜崎くんの手には、3本のハチマキが静かに握られていた。

そしてそれが最後の一騎だったらしく終了の笛が響いた。

 

『勝者、赤組!!』

 

そのアナウンスに歓声が響き渡る。

私は思わず両手を握りしめて叫んだ、周囲の声に負けないくらい嬉しそうな笑顔だった。

グラウンドが大歓声と困惑に包まれる中、竜崎くんの騎馬はゆっくりと陣営に戻ってきた。 私は弾かれたように駆け寄った。

 

「すごい、すごすぎるよ! 相手の動きが全部見えてたみたいだったよ」

 

瞳を輝かせて大興奮の私に対し、竜崎くんは馬の上から首を向けた。

 

「当然です」

 

汗ひとつかいていない。相変わらずのすまし顔で、竜崎くんは獲得した3本のハチマキを私に向かって差し出した。

 

「一之瀬さん。これ返しといてください」

 

「えっ、 私が?」

 

「ええ。持っていると邪魔ですから。それと、この後の競技の勝利もほどほどに頑張っておきます」

 

そう言って、竜崎くんはほんのわずかに不敵な笑みを浮かべた。

その笑みに見惚れた私は、受け取ったハチマキをギュッと抱きしめた。

 

「…ッ、頑張ってね! あ、でも次は私の番だから、応援してね?」

 

「見れたら見ますね」

 

「それ見ないやつでしょ?……まぁでも今日の竜崎くんは本当にかっこよかったし、許すよ?」

 

「……かっこいい、ですか。不合理ですね」

 

そう呟きながらも、竜崎くんはテントの中に戻っていった。

彼が見せた圧勝劇の余韻は、しばらくグラウンドを包み込んでいた。

 

 

***

 

 

そして長くも短い体育祭は、遂に最終種目となった。

最後の三学年合同リレーは、会場中が注目するほどの大勝負になっていた。

そして各チームのアンカーとしてバトンを待っていたのは、四人。

 

体育祭のフィナーレを飾る花形競技、クラス対抗リレーの最終走者――アンカーの招集所には、異様なまでの重圧と静寂が満ちていた。

 

各クラスの命運を背負うのは、名だたる怪物たちだった。

3年からは、伝説的な生徒会長として君臨した堀北学。

2年からは、圧倒的なカリスマ性を持つ南雲雅。

1年からは歴代最速でAクラスにまでのし上がった変人の竜崎正。

そして最後に、常に表情を変えない綾小路清隆。

 

「やっとこの時が来たな」

 

堀北学は静かに前を見据えていた。

その隣では南雲雅が余裕のある笑みを浮かべている。

 

「堀北先輩と最後に走れるなんて、ついてるな」

 

「余裕ぶっていられるのも今のうちだ」

 

「ははっ、怖いですね」

 

そんな緊張した空気が流れる2人から少し離れた位置に綾小路が居た。どうやら巻き込まれたらしい。

それに気がついた竜崎が声を掛けた。

 

「どうも綾小路くん、キミ参加してくれて嬉しいですよ」

 

「オレも巻き込まれてるのか?これ」

 

綾小路はその困惑を隠せなかった。

南雲、堀北、竜崎。この学校で優秀な生徒を集めましたと言わんばかりの一筋縄ではいくどころか、勝算など微塵もないような化け物たちが、目の前で一列に並んでいる。

これに参加すれば目立つことは避けられない。

 

「はい。折角ですからご一緒にどうぞ」

 

「へぇ、1年の綾小路か。お前も参加するのか?」

 

不敵な笑みを浮かべた南雲が、冷ややかな視線を綾小路に向ける。

 

「はい、そうらしいです」

 

「そうか、精々無様な姿を見せないように気をつけろよ?」

 

綾小路はそれに軽く頷く。その姿が気に食わなかったのか南雲はニヤついた顔をびくつかせた。

 

「今年の一年はどいつもこいつも生意気──」

 

その南雲の言葉は誰かの叫びで最後まで聞こえなかった。

もう各クラスの第3走者が近づいてきているらしい。

 

「じゃあ、よろしくお願いしますね」

 

竜崎が三人の姿を見つつそう呟くと同時にバトンが渡されていき、最後に綾小路のクラスのバトンが渡った。

 

「っ――!」

 

それを合図に4人が走り出す。

 

最初に飛び出したのは、やはり南雲だった。

爆発的な加速力で真っ先にトップに躍り出る。

それに続くのは堀北学だ。無駄のない美しいフォームで、一歩一歩確実に南雲との差を詰めていく。

少し遅れて、綾小路が淡々としたペースでありながらもしっかりと背中に食らいついていた。

 

竜崎は三人の背中を追いつつ、様子を窺っていた。

 

第2コーナーを回り、最後の直線に入る手前。 レースが動いた。

南雲がわずかにスピードを緩めた瞬間、外側から堀北学が驚異的なスパートをかけ、並びかけた。

さらにその内側から、綾小路が影のように忍び寄り、三つ巴のデッドヒートとなる。

先頭集団の圧倒的なスピードの余波、そして砂煙が竜崎の視界をかすめる。

常人であれば、その気迫だけで心が折れてしまうほどのプレッシャーだった。

 

しかし、竜崎に焦りはなかった。

これまで培ってきた知性と観察眼をフル回転させ、三人が作り出す空気抵抗の隙間、最もロスなく加速できる軌道を見極めていたからだ。

 

「ここですね」

 

竜崎の足が一瞬にしてギアを一段階引き上げる。 それはただの走力ではない。計算し尽くされたタイミングでの瞬間的な加速だった。

 

「なっ……!?」

 

南雲が驚愕の表情で振り返ろうとした時には、すでにその横を黒い影が通り過ぎていた。 並み居る強敵たちが、その驚異的な伸び脚に息を呑む。

堀北学が鋭い眼光で追撃を試み、綾小路が無表情のままさらに速度を上げようとするが、竜崎の脚力はそれを上回った。

 

風を切り裂き、意識が遠ざかるほどの負荷を筋肉が訴える。それでも竜崎は腕を振り続け、前へ、前へと足を叩きつけた。

 

ゴールテープの向こう側、クラスメイトたちが信じられないものを見るような目でこちらを見つめ、絶叫しているのが聞こえた。

一之瀬が涙を浮かべながら両手を広げている姿が視界の端に映る。

 

そして竜崎の胸が、誰よりも早くゴールテープを突き破った。

 

「面白かったですね」

 

その言葉で静まり返ったグラウンド。

 

──だが次の瞬間、耳を劈くような大歓声が爆発した。

 

「竜崎!?」

 

「勝った……!? 嘘だろ、南雲先輩たちに勝ったぞ!!」

 

Aクラスのテントから飛び出してきた仲間たちが、一之瀬を先頭にして竜崎の元へと雪崩れ込んでくる。

少し離れた場所で、南雲が悔しそうに舌打ちをし、堀北学は静かに息を整えながら竜崎の方へと一瞥をくれた。

綾小路は相変わらず無表情のまま、小さく視線を逸らしている。

 

「竜崎くん……! すごいよ、勝ったんだよ……!」

 

一之瀬が満面の笑みと、止めどなく溢れる涙を浮かべながら駆け寄ってくる。

竜崎は湿った髪を拭いながら、それを手で制して一人の生徒へ顔を向ける。

 

「綾小路くん、あなたは最後の最後で私を抜けると思っていたでしょう」

 

「……そうだな」

 

「それが敗因です」

 

綾小路は慢心していた。竜崎に勝てると油断して、力を緩めてしまった。だからこそ負けたのだ。

 

「……なるほどな」 

 

最初のやる気のなさを感じさせない走りだった。彼自身言葉とは裏腹に心の中は火種が燃えていたのだろう。

冷たく熱を持たなかった身体が、今だけは燃えるような熱を帯びている。

 

「ですがまだ終わりではない。今回分かったのは私がリレーで一位だった事だけです」

 

だからこそ脳がピリつく感覚があった。負けることが少なくなっていた為、久しく忘れていた痛み。それが綾小路の頭を襲った。

それにより綾小路は口角が上がっているのに気がつかないまま、竜崎に宣言した。

 

「次は負けない」

 

竜崎は少しだけ目を細めた。綾小路が初めて負けを認めたからだ。

 

「その言葉を聞けて安心しました」

 

「そうなのか?」

 

「はい。次回は今日よりも面白い勝負になりそうですから」

 

「……本当に変な奴だな、お前」

 

綾小路は呆れたように息を吐く。

それに対して竜崎は走りきったばかりなのに余裕のある表情をしていた。

グラウンドには、まだ歓声が響いていた。

 

 

***

 

 

秋の心地よい風がグラウンドを吹き抜ける中。

高度育成高等学校の体育祭はすべての競技を終え、閉会式を迎えていた。

 

総合結果の発表が終わり、各クラスのテントからは歓喜の声や、悔し涙を呑む声が入り混じって響き渡る。Aクラスの最終順位は──「第3位」。

 

総合優勝は赤組だったからクラスポイントはマイナス50で済んだけど悔しい結果だった。

けど優勝を狙って一丸となって練習を重ねてきただけに、悔しさが全くないと言えば嘘になる。

クラスメイトたちの顔には、やり切った達成感と同時に悔しさが浮かんでいた。

 

クラスのテントの最前列で結果表を見つめながら、私はそっと息をついた。

優勝を逃したことへの申し訳なさや、もっとやれたのではないかという思いが胸をよぎる。

午前中の猛追や、竜崎くんの異次元の活躍、そして綱引きやリレーでの逆転劇もあっただけに、あと一歩で届かなかったやるせなさは大きかった。

 

「……ごめん、みんな。私の力不足のせいで、みんなを優勝させてあげられなかった」

 

私はクラスメイトたちの前で、必死に涙をこらえながら頭を下げていた。

神崎くんは唇を噛み締め、姫野さんも視線を落として気まずそうに爪先を見つめている。クラス全体に、重苦しい敗北感と不甲斐なさが広がっていた。

 

その時、テントの影からパイプ椅子を引きずる音が聞こえた。

赤組のハチマキを首にかけたままの竜崎くんが、いつもの猫背のまま私たちの目の前まで移動してきたのだ。

親指の爪を噛みながら暫くの間、私たちを見回した後ボソリと呟く。

 

「一之瀬さん。なぜあなたが謝る必要があるのですか。極めて不合理です」

 

「竜崎くん。だって、私……」

 

「今回の体育祭は戦術的にも個人のパフォーマンス的にも100点満点中94点という高得点です。謝罪など、全く的外れです」

 

竜崎くんは膝を抱えていた腕をゆっくりと解くと、膝の間に顔を埋めかけていた私の目線を遮るように、下から覗き込んだ。

 

「それに朝、私があなたに言った言葉を忘れたのですか?」

 

「え…?」

 

「今日は楽しむことが最優先事項であり、私があなたに提示した最適解のはずですよ」

 

竜崎くんは私の足元を指差した。そこには、一日中グラウンドを駆け回り、砂ぼこりだらけになったスニーカーがあった。

 

「あなたは今日、誰よりも声を張り上げ、誰よりも笑い、仲間と共に駆け抜けました。胸を張って()()()()()と言えないのですか?」

 

「……っ」

 

私の瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。けれど、それは悔し涙ではなく、胸の奥から温かいものが溢れ出してきた涙だった。

 

「楽しかった。 すごく、すごーく楽しかったよ……! 竜崎くんの100メートル走で驚かされたのも、みんなで力を合わせたのも、全部、すっごく楽しかった……!!」

 

私が涙を拭いながら笑顔を取り戻すと、周りのクラスメイトたちの表情も一気に和らいでいった。

 

「そうだよ、一之瀬! 楽しかったよ!」

「竜崎の言う通りだ、俺たち最高の体育祭だったよな!」

 

「あはは、竜崎に慰められるなんて、なんか負けた気がするけど楽しかったのは本当だしね!」

 

神崎くんも肩の力を抜き、姫野さんも小さく微笑んで私の背中を叩いた。どんよりとしていたクラスの空気が、一瞬で温かな達成感へと塗り替わっていく。

 

竜崎くんはポケットから角砂糖を一つ取り出し、口に放り込んでカリッと噛み砕いた。

 

「……順位などというものは、他者が勝手に決めた記号に過ぎません。ですが楽しかったという体験価値は、誰にも奪えない不変の事実です。3位で結構ではないですか?」

 

そう言って、竜崎くんはほんのわずかに、満足気な笑みを口元に浮かべた。

 

「竜崎くん、本当にありがとう!」

 

私は涙目のまま、今日一番の輝かしい笑顔を竜崎くんに向けた。

 

「ふふ、やっぱり竜崎くんは、世界一優しくて頼もしい相棒だね!」

 

「……相棒、ですか。また随分と感情的で、計算しにくい定義を持ち出しますね」

 

私は両手を胸の前で軽く握りしめ、グラウンドの空を見上げた。その瞳には、充実感に満ちた輝きが宿っている。

 

「みんなで朝早く集まって作戦を立てたり、練習の合間に差し入れを分け合ったりした。今日の競技だって、みんなが怪我をしないように声を掛け合って、最後まで諦めずに走り抜けたよね?」

 

クラスの皆は私の話を静かに聞いてくれている。私は感慨深い気持ちになりながらも瞳から溢れる雫を服で拭った。

 

「順位は3位だったかもしれないけど、私たちが流した汗や、みんなで見せた笑顔は、間違いなく一番だったと思うんだ」

 

まっすぐで温かい言葉に、周囲で聞いていたクラスメイトたちの表情も、次第に柔らかく、そして誇らしいものへと変わっていった。

 

「そうだな……一之瀬の言う通りだ。負けたのは悔しいが、収穫も多かった」

 

神崎くんも、どこか肩の力が抜けたように小さく微笑む。

 

「うんっ! だから、気持ちの半分は悔しさにして、残りの半分は最高に楽しかった思い出にしよう! みんな、本当にお疲れ様!」

 

そう元気いっぱいに声を張り上げると、クラスのテントからパァッと明るい笑い声と拍手が沸き起こった。 悔しさも、疲れも、すべて彼女の太陽のような笑顔が包み込んでいく。

 

「さあ、打ち上げの計画を立てないとね! どこがいいかな、ケヤキモール?」

 

「また一之瀬の奢りか?」

 

「もう、しょうがないなぁ。今日くらい大盤振る舞いしちゃうよ!」

 

秋の夕暮れが近づくグラウンドに、Aクラスの賑やかな笑い声がいつまでも響き渡っていた。

 

「…彼らは本当に面白いですね」

 

誰かが呟いた言葉が聞こえた気がしたが、私は空耳だと思って気にしないことにした。

 




なんだこの青春ラブコメは?本当によう実か?
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総合評価:1946/評価:7.83/連載:7話/更新日時:2026年05月27日(水) 00:02 小説情報


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