体育祭が終わり、生徒たちが帰宅した時間。
それにより静寂が支配する図書室。
西日の差し込む窓際の最奥のテーブルには、異様な光景が広がっていた。
背中を丸め、椅子の上に両足を抱え込むようにして座る痩身の少年─竜崎正。
その指先は、小皿の上にタワー状に積み上げられた角砂糖の頂点に、最後の一粒を乗せようとしていた。
目の前に机の上には手付かずの心理学の洋書が積まれていた。
…そんな異様な光景を作る彼の傍で、衣擦れの音が響いた。
「あの、相席してもよろしいでしょうか?」
穏やかで、澄んだ声。
その声の方に竜崎が目を向ければ、抱えきれないほどの海外ミステリー小説を両腕に抱えた少女が小首を傾げて立っていた。
少女はどこか人に警戒させない柔らかな雰囲気を纏いつつ、柔らかな親しみを浮かべる表情をしていた。
そんな彼女は空席はいくらでもあるはずの図書室で、迷わずその異質な空間に囲まれた竜崎の前を選んでいた。
「……構いませんが。周囲には席が空いていますよ、椎名さん」
「私の名前を知っているんですか?」
「はい。それで返答は?」
「あ、そうですね。でも、ここが一番静かで。それにとても良い空気が流れている気がしました」
椎名はふわりと微笑み、竜崎の向かい側の席を引いた。抱えていた本を丁寧に机へ下ろすと、その中の一冊、エラリー・クイーンの『十日間の不思議』が竜崎の視界に入った。
「Cクラスの椎名さん。普段は派閥争いにも特別試験にも関与せず、一日の大半を読書で過ごす人物。そう記憶しています」
「ふふ、よくご存知ですね。私もあなたのことは存じ上げていますよ、竜崎くん。Bクラスの……いえ、今はAクラスでしたね。いつも気だるそうにしていて、けれど優れた観察眼を持つ不思議な方だと」
椎名は本を開きながら、探るような色を一切見せず、ただ純粋な興味の宿った瞳で竜崎を見つめた。
「その洋書、読まないんですか?」
「はい、興味が湧きませんでした」
「そうなんですね。あ、私はミステリーが好きなんですけど貴方も読みませんか?」
「読みません。フィクションの心理は簡単すぎます」
「簡単ですか?」
「はい、作者が都合よく配置した手掛かりを拾う作業でしかないです」
竜崎は角砂糖を一つ指で摘み、手の上でつまらなそうに転がした。
「現実の人間の方がよほど不合理で、矛盾に満ちていて難しい」
その言葉に、ページを捲ろうとしていた椎名の指先が止まった。彼女はそれに反論することなく、開いたページをそっと撫でた。
「そうですか。…なら今回の体育祭も解きがいがあって楽しかったですか?」
「……何のことでしょうか?」
突然の言葉、それに竜崎は少し瞬きの回数が増えた。
その惚けた態度に、椎名は微かに笑った。
「ふふっ、竜崎くんって裏切り者を作っていたりしますか?」
「ああ、船上試験の話ですか?」
「いいえ、この体育祭の話です。……あ、これは少し言い方が違いましたね」
「……」
「既に裏切り者は作っていた。そしてその人たちの情報の信用度を高める目的で動いていた……でしたね」
迷いない言葉、彼女の中で既に確定的な推論になっているのだろう。
それに竜崎は親指の爪先を前歯に当て、ボソリと呟いた。
「現時点で20%」
「え、何か間違えましたか?」
「いいえ、話を続けてください」
「はい、では続けますね。まず、二枚の参加表……これがずっと頭に引っ掛かっていました」
例年の体育祭には存在しなかったルール。
体調不良等に対する救済措置というのが“表”の理由であり、誰もが些細な違和感を覚えながらも深く追及せず受け入れていた。
「今回の体育祭において、本来なら必要のないルールでした。事実として、目立った救済として活かされた形跡もありません。なら何故、このルールが追加されたのか……それは堀北元生徒会長と竜崎くんとの会話にヒントがありました」
竜崎と堀北学の間で交わされた、最終リレーでの勝負の約束。それが椎名の中で疑惑のピースを繋ぎ合わせていく。
「竜崎くん、貴方は勝利に執着しても公の場で勝負を仕掛けるタイプではないはずです。ですがルールを追加させるための交換条件として、事前に堀北先輩と交渉していたのだとすれば筋が通ります」
体育祭のルールに介入するため、堀北学から持ちかけられたリレー対決の提案に乗った。
そう仮定すれば、あの不自然な状況も説明がつく。
「次に、この体育祭の結果です。少しおかしいと思いませんか?」
「そうですか? 私は極めて妥当で、納得のいく結果だと思いますが」
「んー、竜崎くんはこの試験で何が一番求められていたと思いますか?」
「純粋な運動能力です」
「はい。ですが結果を振り返ると、総合的な運動能力が高いクラスほど下位でした。現に私のクラスは運動能力の優れた生徒が多いにもかかわらず、最下位です」
「……結局は運なのでは? 競技の組み合わせや参加表次第でいくらでも覆ります」
「本来なら私もそう考えました。ですが、あまりに不自然に私たちCクラスだけが的確に潰されていたのは事実です」
確かに表面上はAクラスの実力を考えない参加表にしていたが、Cクラスの強者に適切に弱者を当てていた。
「……竜崎くん、貴方は私たちの参加表の詳細を、事前に知っていたのではありませんか?」
夕暮れの光が長くなり、二人の影を濃く落とす。竜崎は無表情を崩し、椎名の言葉を待った。
それに応えるように椎名は淀みのない声で、自身の導き出した仮説を紡いだ。
「船上試験の時点で、裏切り者はいないと私は断言しました。それは正しかった。ですが、試験終了直後に初めて裏切り者を作る事は、誰も想定していなかった」
「……」
「相手がこちらの裏を突こうとして作る参加表。その動きを完全に封じる参加順を提出した」
竜崎が作成した参加表は『希望制』、そしてCクラスを封じる参加表の二種類。
最初からCクラス以外を見ていない。それはBクラスを侮っているからでは無かった。
葛城が堅実に挑むだけで勝てる試合にすれば、二度の特別試験での負けを取り戻せる。
坂柳ではなく葛城だからこその勝利だ、そう認識させれば十分だった。
「しかし、それだけでは戦力差で自分のクラスが最下位になりかねない。だから貴方は、好きでもない競技に多く出場して、クラス全体の順位を緻密に調整していた……違いますか?」
張り詰めた静寂が二人を包み込んだ。
普通の生徒であれば戦慄するか、あるいは突飛な戯言だと笑い飛ばすような推論。だが竜崎は、どこか楽しそうに細めた瞳を彼女に向けていた。
「偽りの真実で真の目的を隠す……これって、ミステリー小説でもよくある手法ですよね」
学年で一位という目先の勝利ではなく、Cクラスを徹底的に追い込む。
それこそが竜崎の狙いであり、負けを許容する良い訳でもあった。
「…素晴らしい推理ですね。非常に面白い話を聞かせてもらいました」
「あ、もしかして外れていましたか?」
「はい。……と言っても、貴女は私の否定を信じなさそうですが」
「んー、信じませんね。だって私の直感が、これが本当だと告げていますから」
竜崎と同じ程度の直観力と、観察眼。疑う心を持ちつつも俯瞰して盤面が見れる。
竜崎が正に求めていた人物だった。
「そうですか。貴女、なかなか筋が良いですね」
「そうでしょうか? 私はただ本を読むのが好きで、小説のプロットに当てはめて考えてみただけですから……」
「謙遜は不要です。現にあなたの言う通り、私の策で龍園くんはクラスの求心力を失い、失脚することになりました」
「ふぅ、スッキリしました。これでモヤモヤした気持ちも晴れます」
椎名は手元の本を静かに閉じ、机を滑らせて二冊の本を竜崎の前へと差し出した。
「もしよろしければ、この本を読んでみませんか? ドロシー・L・セイヤーズの『誰の死体?』と、綾辻行人の『十角館の殺人』です」
竜崎は差し出された本を無表情に見下ろし、それから椎名の顔を見据えた。そこには悪意も打算もなく、純粋な好奇心と親愛が宿っていた。
「…孤島での連続殺人、そして犯人が真実を海に流す事が共通してますね」
「ご存じだったのですか?」
「一度読んだことがあります」
竜崎は細長い指先で文庫本を引き寄せ、積み上げられた専門書の横へ無造作に置いた。
「推理小説を勧める事は咎めません。ですが一瞬でトリックと犯人を言い当ててしまっても、苦情は受け付けませんよ」
「ふふっ、望むところです。もし簡単に見破られてしまったら、次はもっと難解な本をお持ちしますね?」
夕陽が沈みかけ、窓辺に並ぶ角砂糖のピラミッドと積み上げられた本がひとつの長い影を結ぶ。
「一つ、確かめておきたい事がありました」
「なんでしょうか?」
竜崎は山積みになっていた本の一番下を取り出し、椎名に見せる。
「このコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』は知っていますね?」
「ええ、世界で一番有名な名探偵のお話ですよね」
推理小説の代名詞とも言える有名な名探偵。
冷徹で論理的、事件が無い時期には情緒が不安定になる程の退屈嫌いな性格の人物。
それを知っていることを確認すると、記憶していたページを目指し、紙を捲る。
「その作中において、象徴的な二つの人間関係が挙げられます。一つは──?」
「ホームズと、宿敵であるモリアーティ教授の関係性ですね」
「はい。そしてもう一つは?」
「ホームズと、相棒であるワトスンの関係です」
「では、この学校において、他クラスの生徒である私たち二人はどちらの関係になると思いますか?」
ピタリと手を止めた竜崎は椎名に問いかける。彼女は少しだけ首を傾げ、指先を頬に当てた。
「あ…、私がモリアーティ教授なのでしょうか?」
「それは分かりません」
「分からない? 否定、ということでしょうか」
椎名は竜崎の意図を汲み取ろうと頭を回したが、分からなかった。
お手上げだと降参を示すと竜崎は気にした様子を見せず話を続けた。
「この学校では勝った方が正義です。貴女が勝てば私は悪役として処理され、私が勝てば貴女は物語の彩りとして散る。つまり、勝者こそがホームズを名乗る権利を得るということです」
「なるほど……確かに、とても素晴らしい解釈ですね」
納得したように微笑む椎名に対し、竜崎は冷徹な眼差しを崩さずに告げた。
「一つ宣言しておきましょう。これから先、各クラスから多くの退学者が出ることになります」
「……私にそれを話してしまっても良かったのですか?」
「宣戦布告、それが全てです」
「困りましたね……私、あまり争い事はしたくないのですが」
「そうですか。ではこの縁も今日までになりますね」
「……っ、そ、それは狡くありませんか?」
珍しく慌てたように眉を寄せる椎名を見て、竜崎は淡々と事実を並べた。
「今回の敗北で龍園くんは表舞台から退くことになります。なら、次は貴女がクラスを率いることになるでしょう」
「……いえ、うちのクラスには他にも動ける人がいるはずです」
「いいえ。
各クラス二人ずつ。この学校という巨大なチェス盤で、真に駒を動かす資格を持った役者が揃ったのだ。
竜崎は椅子からゆっくりと両足を下ろし、気だるそうに伸びをした。
「では、貴女がこの話に乗るのならば明日ケヤキモールの本屋へ行きましょう」
「えっ……本当ですか?」
「はい。あともう一人、連れて行っても構いませんか? 彼も読書が趣味らしいので」
「わぁ、嬉しいです! ぜひご一緒させてください」
その言葉に即座に了承するあたり、争いへの嫌悪よりも読書仲間が出来る事の方が優先だったのだろう。
夕暮れの図書室に、椎名ひよりのぽわぽわとした柔らかな笑顔が静かに咲いていた。
──
多くの教室が放課後の静けさに包まれる中。
教室の一角で、葛城康平は眉間に深い皺を刻んで腕を組んでいた。
その視線の先には、優雅に紅茶の湯気を眺めながら微笑む少女──坂柳有栖の姿がある。
「坂柳、先日の体育祭、そして直近のクラスポイントの推移の原因。お前も当然把握しているな」
葛城の重々しい声が、誰もいなくなった教室に低く響いた。
「ええ、もちろんです。Bクラスから瞬く間にAクラスへ昇格し、今やこの学年の全クラスを突き放しているあの人のことでしょう?」
坂柳はカップをソーサーに戻すと、楽しげに目を細めた。
「あの男の名は竜崎正だ」
葛城は忌々しげにその名を口にする。膝の上に置かれた拳には血が滲むような力が込められていた。
「当初は授業態度すら定かではない怠惰な問題児と見なされていた。だがこれまでの情報戦の手腕……ただの高校生の領域に収まるものではない」
葛城は拳を握り込み、警戒を露わにした。
「奴の危険性は、龍園のような暴力とも、一之瀬のような大衆を束ねるカリスマとも根本的に違う。奴は敵の心理、行動、そして試験のルールの盲点、想定外の角度から攻めてくる。予測不能な怪物は最も排除すべき最大のリスクだ」
「ふふっ、相変わらず手堅く、そして心配性ですね、葛城くん」
坂柳は杖の先端で床を小さく叩く。
「ですが、あなたの分析は極めて的確です。無人島、船上試験。彼の打つ手は定石から外れているように見えて、最後には最も合理的な最短ルートで相手を追い込んでいる。この学校における特異点と言っても過言ではないでしょう」
そう。体育祭で龍園から渡された参加表、あれを使わず愚直に挑んだお蔭でBクラスは一位になったのだ。
つまり攻撃的に攻めれば詰まされる、そんな戦略を取られた。
葛城の地位が上がり、坂柳優位だったクラスは再び均衡を取り戻してしまったのだ。
坂柳からすれば煮え湯を飲まされた気分だった。
「ならば尚更だ。奴を野放しにしておけば手が付けられなくなる。今のうちに全力を挙げて叩く算段をつけるべきではないのか?」
葛城の切迫した問いかけに、坂柳は静かに首を横に振った。
「いいえ。竜崎くんのような人間は、正面から策を弄して囲い込もうとすればするほど、こちらの布陣の綻びを見つけ出し抉ってきます。安易に手を出すことこそが、彼にとっての好餌になりかねません」
坂柳はくすくすと笑ってみせた。だがその声音にはいつもの余裕が欠落していることを、葛城は見逃さなかった。
「……坂柳?」
その問いにはすぐには答えなかった。
葛城は違和感に気が付き口を開こうと思ったが、トントンと小刻みに床を叩く音にそれを辞めた。坂柳が無意識のうちにする、苛立ちの兆候が聞こえたからだ。
「何より看過できないのは私の『計画』を狂わせ始めていることです」
坂柳は目を瞑り、自らの奥から湧き出る激情から耐えるように唇を噛んだ。
「彼が動けば、私の獲物が横取りされる。かといって竜崎くんに迂闊に罠を仕掛ければ、こちらが致命傷を負わされかねない。手詰まりな状況ですね」
「…ならばどうする気だ?」
葛城の切迫した問いに坂柳は息を整え、いつもの冷徹な仮面を被り直した。
「貴方の言う通り叩き潰すしかないでしょう。私を狂わせるノイズも、宿敵も、すべて私の手で負かさなければ気が済まない」
坂柳は紅潮した顔を窓の外へ向け、夕陽を睨みつけるように口角を歪めた。
「彼がいくら世界最高峰の頭脳を持っていようと、最後に勝つのは私です。あの怪物を盤外へ叩き落としてみせます」
その瞳には焦燥と、それ以上の勝利への渇望が宿っていた。
──
深夜の学生寮。
カーテンを完全に閉め切った薄暗い部屋で、複数の大型モニターが青白い光を放ち、竜崎正の無機質な輪郭を浮かび上がらせていた。
床には高度育成高等学校の全生徒データが無秩序に散らばっている。
竜崎は椅子の上に両足を抱え込む独特の姿勢でしゃがみ込み、親指の爪先を前歯に当ててカチカチと小気味よいリズムを刻んでいた。
画面の中央には、自クラスの生徒全員のアイコン。その頭上には「生存率:100%」のシミュレーション結果が点滅している。
「味方の損害ゼロで完全勝利。この条件ならば学生生活をより面白く過ごせる」
竜崎は細い指先でショートケーキのフィルムを剥がし、そのまま一口で放り込んだ。その糖分が脳に沁みわたり、脳内の演算回路が一段上がる。
「この学校は出来るだけ多くの退学者を出させようとしている。だが定石通りに誰かを切り捨てて勝つなんて凡庸すぎる。そんなものは何の刺激にもならない」
キーボードを叩くと、モニターにはBクラス、Cクラスの残党、そしてDクラスのデータがチェスの駒のように配置された。
「他クラスはこちらの『誰も見捨てない甘さ』を絶好のカモだと思って突いてくるはず。彼らがどうやって追い込むのか、どんな小細工を仕掛けてくるか……考えるだけで退屈しない」
竜崎は口角をわずかに吊り上げ、瞳の奥に無邪気な感情を宿らせた。
「防御に徹するフリをして責め立てれば、既に撒いておいた裏切り者という毒が相手を蝕む。そんな状況になっている現状を認識しているのか?」
摘まむように持ったスプーンで目の前のグラスの中身をかき混ぜ、氷の音を室内に響かせる。
「そして目標も決まった。自クラスの被害はゼロ、そしてAクラスで卒業する。これなら難易度で飽きる事もない」
竜崎は細い指先でスプーンを転がし、冷め切った砂糖水を一口含んだ。
窓の外に広がる闇の向こうで自分を討とうと牙を研ぐ者たちに思いを馳せながら目を瞑った。
やっと下準備が終わった。これからクラス同士の頭脳戦が書ける。嬉しいね