竜崎正の独白。
特別試験、ペーパーシャッフルの説明が行われてから数日経過した。
今日はペーパーシャッフルにも大きく関わっている小テストの前日だ。Aクラスの生徒達は、お互いに教え合いながら明日に向けて勉強を継続している。
「みんな、ちょっといいかな?」
朝のホームルームが開始する少し前。
一之瀬帆波は教卓前に立ち、柔らかい笑みを浮かべてそう発言した。
その隣に神崎隆二が立ち、静かに教室内を見渡す。そして私と目が合い、了承の意味を込めた相槌を送ると彼は口を開いた。
「明日行われる小テストについて、皆に伝えておかなければならないことがある。それは今回の特別試験で組むペアの法則についてだ。今からその大まかな予測を共有する」
周囲の生徒を落ち着いた態度で見つめながら、神崎隆二は淡々と話していく。
この話を聞く生徒たちに目を向ければ、かつての平和ボケした生徒たちの姿は無く、誰もが身を守るために真剣に耳を傾けていた。
どうやら、退学という取り返しのつかないペナルティがあれば、楽観的な人間も現実の厳しさに気付くらしい。現状の危機感を正しく理解している証拠であり、クラスが成長している何よりの証明だった。
「ペア決めの法則は非常にシンプルだ。『小テストの最高点と最低点の所持者から順番にペアを組む』という法則になっている可能性が高い。例を出すなら100点と0点、80点と20点がペアを組むと言った具合だな」
何故この結論に至ったのか、それは担任の教師の言葉が理由だ。
彼女は『毎年1組から2組の退学者が出ていて、大半がDクラスから』と言っていた。
それにより、この試験が残酷な選別ではなく、ある程度は赤点になりにくい救済の法則が組み込まれているということが確定した。
例えば、ペアの決め方が完全なランダムだとしよう。すると、運悪く成績上位者同士が、若しくは最下位付近の人間同士が組んでしまう事態が発生する。つまり、運の要素に左右される事になる。
だからこそ、ガウスの足し算のように両端の点数同士をペアとする法則だと仮定した。
「その法則が正しいという根拠はあるの、神崎くん?」
前方の席の生徒が手を挙げて質問する。以前ならされなかった行為でクラスの水準が確実に底上げされている証拠だった。なにより疑問や不安をそのまま放置しないその姿勢は、見ていて悪くなかった。
「今回の試験、事前情報での退学の危険性は少なかった。純粋な学力勝負であればもっと悲惨な結果になる筈だ。だがあらかじめペアの組み合わせが『上位と下位』で補完される仕組みになっていれば、筋は通る」
「つまり、一人で抱え込ませるんじゃなくて、お互いに得意不得意をカバーし合えるようなペアリングが最初から意図されているってことだね」
一之瀬帆波が要約し、皆の様子を暖かな表情で見回す。クラスのあちこちから「なるほど」「それなら安心かも」と納得の声が漏れた。
「という訳だ。そして本題はこの仕組みを利用して俺たちがどう動くかだ。竜崎、どうする」
神崎隆二がこちらを見ながら話を促す。流れるようにクラス全体の視線がこちらに向いた。
私はあらかじめ用意していた紙を机に置き、現状の分析と戦略を説明し始める。
「ここまでの説明で法則については理解出来ましたね?もし分からなければ一之瀬さんに聞いておいてください」
この試験は、まずペアの法則のカラクリを正確に理解するのが第一の関門だと言っても過言ではない。
そして、それを突破したのならば次に考えるべきは不測の事態。
このクラスから万が一にも退学者が出るなら、どういったケースが考えられるかだ。
「この法則で大事なのは、中間層。これが何故か分かりますか?」
私は無論の事、このクラスの成績上位者と組む人間は余程のイレギュラーが無い限り、総合点が赤点のラインを下回ることは無いだろう。本当に危ういのは、突出した才能もなく、かといって下位でもない人間、これといった特徴のない成績の者たちだ。
「…ペアは成績下位者が成績上位者と自動的に組むようになっている。このお蔭で成績下位者は救われるが、中間はそれが出来ないのか」
「そう、この試験の唯一の欠陥。それが同じ実力同士が組んでしまった場合、後は天運に任せるしかないって事です」
運任せ、私らしくない表現だが事実だ。
何もしなければ言葉通り組み合わせは、神のみぞ知るものとなるだろう。
「ならどうする気だ、このままでは退学者が出てしまうぞ」
「…簡単ですよ。中間層の中でも苦手科目を補い合う組み合わせを作ればいいんです」
それを可能とする為に小テストの難易度は都合よく調整されている筈だ。
恐らく中学課程、それ以下の基礎的な難易度だろう。それならば学校側が想定するペアの法則を見抜き、対策を取ることが可能となる。
「小テスト自体は基礎的な内容と言われている。つまり狙ったペアを作る事は可能です」
「成程な。数学が出来る人間と苦手な中間層を組み合わせれば最悪の結果は減らせるか。だがどうやってペアを指定するんだ?テストの点数操作なんて芸当出来る訳が無いぞ」
確かに、無策で挑めば点数操作などという芸当ができるわけがない。全員が自分の実力通りの点数を取ってしまうのだから。
…成績をあらかじめ段階的に分けなければ、の話だが。
「成績下位10はテストを白紙提出、上位10人はいつも通り解くのはまず決定です」
この試験でペアを指定する際に問題なのは、実力に見合わない極端な点数を取ってしまうことだ。 例えば成績上位者が不振になり、中間層落ちされたらこの策は破綻する。
その逆もしかりで、下位者が上振れるのも避けたい。
「そして中間層、これに関しては点数調節します」
中間層の人間のみに点数調整を絞れば、万が一の場合でもテストの問題次第の勝負に持ち込める。
分の良い賭けだった。
「最初に言っておきますが、中間層は確実に答え分かる部分以外解かないでください」
「それは各々が正確な点数を認識する為か?」
「はい。テストが始まれば私はもう指示が出来ない。つまり各々が試験時間内で調整する事になります」
そして、その調整を具体的にどう実行するかだが、答えは『互いの弱点を完璧に補う組み合わせを作る』、これに尽きる。
「苦手科目が被っている同士をグルーピングし、取る点数を指定します。誤差は5点程度にしましょうか」
上位が大体下振れをしても70は下回らない事を考えると、10点から60点の間が安全に調整できる範囲だ。
例えば数学が出来ないグループは出来るグループと。それを全教科繰り返し、全員クリアを狙う。
仮に想定外の事態が起きれば点数をポイントで購入する事も視野に入れている。
今回の小テストで点数が購入できることは既に確認済みだ。
「相手クラスのテスト次第では、厳しい勝負になるかもしれませんが、それは各自頑張ってください」
ただ、ここまで頭を回そうと結局は本人次第だ。私には場を整えることが出来ても、それ以上は手の出しようがない。それに、ここからの精神的なケアや統率は一之瀬帆波の役割だった。彼女に任せるべきだろう。
「だってここまで手を尽くしてるんです。怠惰は許されるわけがない」
私の意図を汲み取ったのか、一之瀬帆波は軽く手を叩いてクラス全体の注目を集める。
「あのね竜崎くん。それはちょっと言い過ぎだよ」
「一之瀬さん、貴女は本当に甘いですね」
私が鞭を打ち、一之瀬帆波が飴を上げる。現状のAクラスはその役割分担を繰り返す事で奇跡的なバランスを保てていた。最終的には改善すべきだが、現段階の特別試験の内容ならば問題は無いだろう。
「うん。私は甘いよ。けど皆、竜崎くんの点数調節には協力して欲しいな。彼なりにクラスの事を一番に考えてくれてるんだから」
彼女には事前に話を通している。不安を覚える生徒が必ず出てくるだろうから、勉強会を行えと指示していた。彼女自身も理解していたのか、特に反論はなかった。
「もし勉強に不安な人が居るんだったら、これから放課後は勉強会をしようよ。いつもやってるけど、今回は苦手科目を重点的に、ね?」
一之瀬帆波は彼女自身の持つ天性の人望と特技を駆使して、クラスをしっかりと束ね上げた。
その手際の良さは流石と言うほかない。彼女の人望の厚さとカリスマ性には、私も素直に感心させられるしかなかった。
「分かりました。其方はお任せします」
場が綺麗に纏まったのを確認し、もうここに私の用事はないと席を立とうとしたところで、私はふと、一点だけ言い忘れていた重要な事を思い出した。
「あ、一点言い忘れてました。」
「何かな、竜崎くん?」
「小テストを受けた日から数日間、私学校を休みますね」
「へぇー、そっかー。うん分かっ──え?」
彼女の口から出かけた返事が途中でピタリと詰まった。
まるで在り得ない事態が目の前で起こったかのような、信じられないものを見る目を向けられ、私は思わず首を傾げた。
事前に彼女には口頭で伝えてあった筈なのに、まるで記憶から綺麗に抜け落ちていたような反応だった。
「え、えっと。竜崎くん、もう一度言ってもらえるかな?」
「何か問題でも?休むって言いましたよ」
「…な、なんで!?」
安心感から一転して、今度は底知れない不安と驚愕へと表情がコロコロと変わっていく。
そんな彼女の様子はどこか非常に愉快なものだった。
これほどまでに感情が分かりやすい人間も珍しいだろう。
「期末テストの最終的な問題は私1人で作成します。そのための時間が欲しいんです」
その言葉を聞いて、やっと一之瀬帆波は納得したかのように息を深く吐いた。張り詰めていた糸が緩んだかのように、肩の力が抜けていく。
「あ、成程ね。え、でも良いの?私としては手伝う気満々だったけど」
「最終チェックだけお願いします。そもそも私が考えた作戦が上手く行くのかも不確定なので」
私はペーパーシャッフルのルールを聞いた時に一つの可能性を思いついていた。
それは、以前教師が何気なく口走っていた言葉を巧みに利用した、一種の難癖に近いものだ。
だが、万が一という例外もある。念のため、保険は張っておくことにした。
抜け目なく準備をしてこそ、勝利は常に安定するのだから。
「え、いったいどんな問題を作る気なの?」
「それは───」
そしてなにより
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職員室での用を終わらせた私は玄関の前に居た。
目的としては事前に作成していた問題が学校の規定やルールに抵触せず無事に通るかどうかの確認だ。
今日すべき用はもう済んだ。つまりこれからの時間は自由だ。私は荷物を持ち帰宅の途につく。ちらりと周囲の下駄箱を見れば、残っている生徒たちのいくらかの靴が残されていた。
どうやら一之瀬帆波は勉強会をしっかり実行したらしい。
私の役目はすでに終わったことだし、帰りにでもどこかで甘いドーナツでも買って自室で食べよう。そう考えて、ケヤキモールの方へ向かうために歩き始める。
しかし、その矢先に──
「こんにちは。この後の時間、少しだけ私にくれませんか?」
地面にカツンと鳴る物音、どこか艶めかしい声色で声が掛けられた。
その声の方に視線を向ければ、白い小柄な少女が静かに佇んでいた。
「いいえ、と言っても良いですか?」
その言葉が不服だったのか、彼女はゆっくりと距離を縮めてきた。
私が見下ろし、彼女が見上げる。雪のように真っ白な髪は、日の光を反射し揺れるたび儚げな色を纏っていた。
「そんなつれないことを言わないでください」
「……」
「あ、自己紹介がまだでしたね。私は坂柳有栖。どうぞ、親しみを込めて有栖とお呼びください?」
気づけば、私と彼女の物理的な距離はわずか数センチしか残っていなかった。。
その色素の薄い髪の隙間から覗くのは細められた双眸。その瞳の奥には底知れない知性と、圧倒的な自信の光を湛えていた。
病的なまでの白さと、気高いまでの気品。 あどけない少女の姿をしていながら、その佇まいには近寄りがたいほどの不遜な
「竜崎正です。お好きに呼んでください」
「フフ、そうですか。なら竜崎くんと呼ばせてもらいます」
「はい。では私は用があるので失──」
「いえ、まだ用は終わっていません。先程の提案に答えてください」
私の言葉を遮り、強引に言葉を割り込ませてきた。何故ここまで執着されているのか見当もつかなかったが、ここで下手に逃れても後日また同じように声を掛けられるだけだろう。根本を解決しなければ、いつまでも問題は無くならないのだから。
「いいですよ、少しなら」
私は予定を台無しにした彼女に対する僅かな苛立ちを心の奥底に押し隠しつつ、まるで神の気まぐれに付き合うかのように提案に乗る事にした。
「……ありがとうございます。なら落ち着ける場所にいきませんか?」
「この場で話せない、と?」
「フフ、どうでしょう?」
彼女は杖に軽く体重を乗せ、上目使いで私を見てくる。夕焼けで薄い朱色に染まっている自身の頬を、手で触って楽しそうに首を傾げた。
それは、私のような人間でなければ、うっかりその妖艶な雰囲気に流されてしまいそうなほど独特の魔力を纏っていた。
「分かりました。早く行きましょう、時間は有限です」
杖を突きつつゆっくりと進み始める彼女に会わせて、私も歩みを進める。
無駄な会話などする必要もない、私はそう考えていたが、彼女の方は違うらしい。
ふと、唐突に私に話しかけてきた。
「竜崎くんはチェスを嗜んでいますか?」
「そうですね。それが何か?」
その言葉を待ち望んでいたのか坂柳有栖はくるりと振り返り、今日の中で初めての本心を見せた。
「…私と一局、お願いできませんか?」
「それほどまでに自信があると?」
「ふふっ。神様が少しばかり私に知恵と才能を与えてくれただけの話ですよ」
今日は随分と神に縁がある日らしい。神の寵愛を謳う彼女の口から零れる言葉は、どこまでも諧謔的だった。ここまで奇妙な日は、本当に稀だった。
…その時、遠くの教会の鐘が鳴り響くかのように、頭の奥でカラカラと何かが乾いた音を立てて地面を転がるような、そんな幻聴が聞こえた気がした。
──それはほんの少しだけ、不愉快な空耳だった。
***
誰も居ない、静まり返った図書館の奥。
そこに漂う冷たい空気の中、二人の人間が対峙していた。静かな空間で駒を進める音が反響する。
私はいつもの癖で親指の爪を上の前歯でカチカチと噛みながら、目の前の少女を──『観測対象』として眺めていた。
「……で?何の用ですか」
「ただ、貴方と心ゆくまでチェスをやりたかっただけですよ」
「そんな分かりやすい嘘を吐くのは、私への挑戦ですか?」
「いいえ。ちょっとした冗談です」
クスクスと笑う彼女は、間違いなくこの静かな時間を心から満喫しているらしかった。
「少し聞きたい事があります。竜崎くん、貴方は才能についてどう思いますか」
「その質問の意図って何ですか?」
「私に言わせれば、人間にとって最も価値があるのは『生まれ持った血統と才能』です。DNAという絶対的な運命に祝福された人間こそが、真の意味で世界を統べる資格を持つ。――貴方は、どうお考えですか?」
いかにも優れた才に恵まれた人間にありがちな偏った思想だ。自分以外の他者との圧倒的な差に悩み苦しみ、その果てに、自分だけが特別に選ばれたのだと思い込むようになる。
彼女の場合は、自身の身体的な欠陥に対する劣等感もそれに混じっている気がするが、根源はそれだろう。
「…私は人より優れていると思う事はありますよ」
「では、貴方も私の考えに同意してくれると?」
坂柳は興味深そうに目を細め、紅茶を口に運びつつ優雅に笑う。
それを流し見しつつ、私は親指の爪を軽く噛みながら言い返した。
「いいえ。私はこの頭脳や才能をただの客観的な『事実』としか思っていません」
彼女の思想に同調することは決してしない。ここで適当に嘘をついて、彼女を欺くことも出来るがそれはしない。
それが気まぐれなのか、それとも別の理屈なのか。私の本心は私にも分からないが、嘘偽りのない真意をそのまま口にした。
「私は自分が選ばれた人間だというような選民思想を持ちえない。才能は私が優れた人間である事を証明する価値ではない」
「なら、貴方は凡人も自分と同等だと?」
「いいえ。私はただ、自分の方が彼らよりも客観的に能力が高いという事実を述べているだけです」
自分と他者の明確な能力差、それは神様が気まぐれで定めた奇跡などではなく、ただ単なる生物としての個体値の違いに過ぎない。現に、私が警察組織の裏で動かしている物事は、他者よりもその分野の処理能力が優れていたという事実に基づく結果でしかなかった。
「私にとって才能とは便利な道具です。この世に存在する難問を楽しむためのだけの」
私は自分の頭脳が常人離れしていると自覚している。
『世界一位の探偵』という肩書も神聖な天命ではなく、自分を満たせる役割だから利用してるだけだ。
それに気高さはない。この知性は優れた価値では無く、難事件という問題を解くための『道具』だ。
彼女のような生まれ落ちた血統に対する絶対的な信仰心を、私は持ち合わせていなかった。
「成程、私の考えとは違う。残念ながら決別しましたね」
心底から残念そうに、彼女は芝居がかった大きな溜息を吐いてみせる。それがあまりにも虚像めいていて、本当の真意を探りたくなった私は会話を続ける事を選んだ。
「しかし一点、類似点があります」
「…それは、いったいなんでしょうか?」
「それは『勝利への異常な執着心』です」
彼女は出会った最初の瞬間から、自信に満ち溢れていた。それは単に負ける事を微塵も考えない愚かさではなく、どのような手を使ってでも必ず自分が勝つという強烈な執着だった。
「過程は違いますが、私たちの着地点は同じですね」
彼女は私とは違う過去を生きている。それが一体どんなものだったのか、今の私にはどうでもよかった。今、私が知りたいのは現在の彼女が何を考えているのか、それだけだった。
「私はただ難解な状況を解きたいという知的好奇心が理由で」
坂柳有栖は私のその言葉を聞きながら、盤上の駒をコツンと一つ、優雅に進めた。
「そして私は自分の信じる思想を証明するため、という訳ですか」
チェスの勝負も対話も、既に佳境だった。
お互いの実力差はそこまで大きく離れていない。だからこそ、ここまで長く膠着状態が続いていたのだ。
だが、チェスというゲームの本質上。先行か後攻かというわずかな差が勝率に大きく直結する。
この意味を彼女はもう気が付いているだろう。
私が後攻で拮抗している状況に持ち込めているという事は、純粋なプレイヤーとしての実力が私の方が上であるという、厳然たる真実に。
だからこそ彼女の瞳には、盤上の駒を絡め取るその劇的な瞬間を心の底から待ちわびるかのような、静かな狂気を孕んだ熱い視線が宿っていた。
「ふふっ。面白いものですね。こうして間近でお会いしてみれば、貴方の完成されている才能が感じ取れます」
坂柳有栖は音を立てぬよう、そっと握りしめていた杖を机に立て掛けた。彼女の白い頬に、興奮による微かな熱が宿る。
「…………」
私は手元のカップに入った冷めた中身を、スプーンで掻き混ぜる。
彼女はその様子をじっと眺めながら、暫くの間沈黙し…やがてふっと声を上げて微笑んだ。
「ふふっ……なるほど。お説教としてはなかなか聞き応えがありました」
「説教のつもりはありません。ただの事実の羅列です」
「ですが、私たちは決定的に相容れないようですね。あなたは才を『道具』と称し、私は才を『神からの恵み』として愛している」
坂柳は立ち上がり、ゆっくりと私へと歩み寄る。その足音は、静寂の空間に心地よく響いた。
「だからこそどちらの思想が本物か、証明してみたくはなりませんか?」
私は、その言葉こそが今日の彼女の本当の目的だったのだと深く理解した。
最初から彼女は感づいていたのだ。私が自身の才能に欠片ほどの興味もない事に。
そして、彼女自身の心もまた、どこか深くで渇ききっているのだろう。自らを完全で満たしてくれる存在、いや、対等に渡り合える唯一の人間をずっと求めていたのだ。
…今の彼女は私にその役割を求めてはいない。
彼女の心は既に別の人間に向いている、そんな予感がした。
だが、退屈な日常の暇つぶしとしては悪くない。その隠された意図に気が付いた私は、強い興味が湧いてくるのを抑えられなかった。
「それは、私への挑戦ですか?」
「ええ。もし勝負に乗るというなら……貴方の描く『完璧な未来』を泥まみれにしてあげる用意はあります」
「そうですか。なら乗りますよ」
期待はしていない。
きっと今回の特別試験で彼女は負けるだろう。
だがこれを活かし、自らの成長の機会と変えれるのなら……
それは
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一方その頃、場所は変わってBクラスの教室。
そこには数人の主要な生徒たちが、窓際に小さな円を描くように集まっていた。
その集団の中心で、周囲を威圧するかのように腕を組んだ葛城康平は、低く落ち着いた声で自らの作戦を語り始めた。
「裏切り者が居るの?」
集まった生徒の一人が、隠しきれない疑念の色を浮かべながら問いかける。
「そうだ。そのお蔭で俺たちのクラスは体育祭で一位になれた」
葛城は動じることなく静かに頷いた。
過去の勝利の裏側に隠されていた真実を彼は隠すことなく肯定する。
「龍園からも参加表を渡すと言われたが、あの男といつまでも繋がりを持っているのは危険と判断した」
「それでお前が今、そいつと直接内通しているってわけか?」
その人物は周囲の視線を受けながら、重々しく、しかし一切の迷いのない足取りで一歩前に出ると、コクンと小さく首を縦に振った。その顔にあるのは現状を打破するという
「それで今回はどうする気なんだ」
「このままでは駄目だと思い、坂柳に協力を願ったんだが断られた」
その言葉に、周囲の生徒たちの間にわずかな動揺とざわめきが走る。絶対的な権力と支持を持つ坂柳有栖との決定的な亀裂は、このクラスにとって決して小さくない溝を生むからだ。
「ここにAクラスの問題がある。これを俺たちの派閥だけで独占して使う」
「本当に大丈夫なのか葛城。そんな事をしたら、より一層クラスの対立が深まるぞ」
「…分かっている。俺も何度も頼み込んだが坂柳は話を聞く気が無かった」
葛城は悔しそうに苦々しく歯噛みした。絶対的な独裁を好む坂柳との埋まらない溝は、もはや修復不可能なところまで来ていた。
だが、ここで彼らが立ち止まれば、クラス全体の敗北へと直結する。
「手は尽くしたのか…。すまん、余計な口を挟んだな」
「…いいんだ。全ては俺の力不足が招いた結果だ」
葛城は自らの不甲斐なさを飲み込むように、硬く拳を握り締めた。
「今回のこの失敗を機に流石の坂柳も折れてくれるはずだ。今はそれに期待するしかない」
「そうだな…」
誰かが小さくぼやいたその言葉は、重く澱んだBクラスの教室の冷たい空気に溶け込み、どこかへ虚しく霧散していった。
井戸端のサマリア人(ヨハネによる福音書 第4章)