貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜 作:大太一人
「佐倉さんって、おいくつでしたっけ」
深夜二時のオフィスで、後輩の新田が唐突にそう聞いてきた。
「二十八」
「あー」
あー、とは何だ。
追及する気力もなかったので、俺は黙ってモニターに視線を戻した。画面の隅では、回し始めて六時間になるテストがまだ走っている。
佐倉透、二十八歳。AIエンジニア。
勤め先はできて三年目のAI企業で、社員は四十人ほど。半分が研究者、残りが俺のような開発担当だ。海の向こうの巨大企業と札束で殴り合っても勝ち目はないので、うちは逆を張っている。でかくて賢いモデルではなく、小さくて賢いモデルを作る。研究チームが論文ごと放ってよこす新手法を、現実に動く形まで落とし込むのが俺の仕事だった。
ここ数ヶ月のテーマは、削りに削ったモデルを、データセンター抜きで、手元の機械だけで走らせることだ。
「佐倉さん、さっきのビルド、ノートPCで回りましたよ」
「速度は」
「ぎりぎり実用です」
「ぎりぎりか」
俺は自分のノートPCのキーを叩いた。
Wi-Fiのアイコンには斜線が入っている。ケーブルも挿していない。それでも画面には文字が流れ出す。外の世界と何ひとつやり取りをせず、この一台の中だけで、そいつは考えて、答える。
我ながら、悪くない仕事だと思っていた。
まさかそれが、生きるか死ぬかの話になるとは思っていなかったが。
◇
ビルを出たのは三時過ぎだった。
五反田の駅前はとうに静まり返っていた。タクシーなら四千円、歩けば四十分。迷わず後者を選んだのは、三十の見えてきた男のささやかな健康意識と、あとは単純に財布の問題だ。
目黒川を渡り、住宅街の細い坂を上る。コンビニ、閉まったクリーニング屋、月極駐車場。何百回と通った道だ。
その途中に、名前も知らない小さな神社がある。石段と鳥居と賽銭箱、あとは木ばかりの、なんの変哲もない神社だ。境内を突っ切れば十分は短縮できるので、俺は勝手に近道と呼んでいた。
その夜だけ、空気が妙に濃かった。
濡れた土と青い葉、それから線香に似た匂い。息を吸うと、喉の奥にざらりと引っかかる。街灯の届かない場所に入ったせいだと、その時は思った。
鳥居をくぐった。
瞬間、足が地面を見失った。
踏み外したのでも、転んだのでもない。地面そのものが、そこに無かった。石畳が、木々が、頭上の空が、まとめて後ろへ滑っていく。落ちているのに、どちらが下なのか分からない。悲鳴を上げようとして、肺の中の空気がとっくに全部持っていかれていることに気づいた。
視界の端で、何かが光った。
裂け目のような、白い線。
それが静かに閉じるのを、俺は確かに見た。
◇
頬に、草の匂いがした。
目を開けると、木の根が見えた。太い。俺が両手を回しても届かないだろう幹が、視界の端から端まで並んでいる。
起き上がる。全身が痛むが、折れている場所はなさそうだった。リュックは背中にあった。ノートPCも、財布も、社員証も、飲みかけのペットボトルも、全部そのまま。世界がひっくり返っても、俺の荷物だけは律儀にそこにあった。
スマホを出す。
圏外。
時刻は三時二十二分。なのに、空は明るかった。木々の隙間から差す光は、どう見ても朝のそれだ。
「……は?」
立ち上がって、周囲を見回す。
森だった。名前の分からない、背の高い広葉樹ばかり。地面は落ち葉と苔に埋まり、人の踏んだ跡はどこにもない。
神社の裏、という可能性は三秒で捨てた。あの神社の裏にあるのは月極駐車場だ。だいたい、この規模の森は東京のどこにもない。
遠くで鳥が鳴いた。聞いたことのない声だった。
背筋が冷えた。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
リュックを背負い直し、光の差す方へ歩き出した。
◇
最初に気づいたのは匂いだった。
獣の臭いではない。もっと生臭い、腐りかけの水のような匂い。それが、風下から流れてきていた。
風下にいる何かが、俺の匂いを辿って近づいて来ている──そういうことだ。
振り返った。
木々の間に、黒いものが立っていた。
犬に似ていた。だが犬ではない。肩の高さが俺の胸ほどもある。四本の脚は関節の曲がる向きがどこか間違っていて、毛は濡れたように黒い。
そして、顔のあるべき場所に、目が六つあった。
六つ全部が、俺を見ていた。
叫ばなかったのは勇気があったからではない。声の出し方を、その一瞬だけ完全に忘れていたからだ。
そいつが跳んだ。
俺は横に転がった。考えたわけではない。体が勝手に倒れた。直前まで俺の頭のあった空間を黒い塊が通過し、背後の木に激突する。太い幹が乾いた音を立てて裂けた。
走った。
リュックが背中で暴れる。落ち葉に足を取られる。息が上がる。森の斜面を駆け下りた。
背後で枝の折れる音が近づいてくる。速い。当たり前だ。向こうは四本脚で、こっちは二本しかない。
視界が開けた。斜面の途中に獣道めいた細い道。飛び出した瞬間、足が滑った。
受け身も取れず、肩から落ちる。
仰向けの視界の真上に、それが降ってきた。
六つの目。開いた口。歯が、多い。
ああ、と思った。妙に静かな頭の片隅で、俺はひとつだけ考えていた。
二十八年、そこそこ真面目に生きてきたのに。
「──動くな」
声がした。
女の声だ。若い。なのに、話し方だけが若くなかった。
視界の端を白い紙のようなものが舞った。何かの弾ける鋭い音。俺の上にあった質量が、横へ吹き飛んだ。
黒い獣は木の根元まで転がり、起き上がろうとして、途中で止まった。
そのまま崩れた。灰になるでもなく、もっと即物的に。支えを失った肉の袋のように、どさりと。
俺は寝転がったまま首だけ動かした。
道の上に、女が立っていた。
年の頃は二十歳そこそこ。細い体に、麻らしき粗い生地の着物。それだけなら時代劇の村娘で通る。
通らないのは、まず髪だった。根元から先まで、色の抜け落ちたような白。朝の光を受けて、銀に近く光っている。
そして、その髪の中から、耳が二つ突き出ていた。
人の耳ではない。先の尖った、獣の耳だ。同じ白い毛に覆われたそれが、俺の視線に気づいたように、ぴくりと角度を変えた。
彼女の背後では、腰のあたりから伸びた太い尾が、ゆっくりと左右に揺れていた。
頭のどこかが、静かに諦めるのが分かった。森も、六つ目の獣も、これも、全部同じ一つのことを言っている。ここは、俺の知っている世界ではない。
女は俺を見下ろすと、心底うんざりした様子で息を吐いた。
「……朝から騒々しい。何十年ぶりかで寝坊してやろうという日に限って、これじゃ」
外見と口調が、噛み合っていなかった。
彼女は俺の傍らにしゃがみ込み、遠慮を知らない手つきで顎を掴んで、顔を左右に向けさせた。抵抗する気力もなかった。
ふと、その手が止まる。
白い睫毛の下で、目が細くなった。
「──男か」
なぜ今それを確かめられたのかは、分からなかった。
俺が何か言うより早く、彼女は俺の胸の上に手をかざした。
触れてはいない。人差し指と中指だけを揃えた、妙に形式ばった手つきだった。指先が、見えない水面をなぞるようにゆっくり降りていく。目は閉じられ、唇だけが何かを数えるように動いていた。
その唇が、止まった。
「……嘘じゃろ」
目が開く。指先が、今度はさっきより速く俺の胸の上を往復する。
「測れん」
「え」
「わしが測りきれんと言うておる。──人の内にはな、力を溜める器がある。大小は生まれつきじゃが、まあ、たいていは似たり寄ったりのものでな」
彼女は指を引くと、自分の掌を一度まじまじと見て、それから俺を見た。品定めの目ではもうなかった。もっと悪い。信じられないものを見る目だった。
「お前のは、底が見えん」
「……はあ」
「小僧、どこから来た」
答えられなかった。
説明すべきことが多すぎたし、その全部を、俺自身がまるで理解していなかった。地面はまだ揺れている気がしたし、六つ目の獣の死骸はすぐそこに転がったままだった。
だから、答える代わりに聞いた。
「……ここは、どこですか」
女はしばらく俺を見下ろしていた。それから、聞き分けのない子供に付き合う顔で言った。
「穂積の外れ、朽縄の里じゃ」
ひとつも、聞いたことのない名前だった。
土地の名も、里の名も。頭の中の地図をどれだけ引っ繰り返しても、置ける場所がどこにもない。
女は立ち上がり、獣の死骸を一瞥して、俺に背を向けた。
「歩けるか。日が高くなる前に降りるぞ」
「……どこへ」
「わしの家じゃ。この辺りでお前を寝かせてやれる屋根は、あれしかない」
それから、思い出したように付け加えた。
「言うておくがな、小僧。その器、垂れ流しにするな。さっきの獣が寄ってきたのは、お前が匂うたからじゃ」
「……垂れ流し?」
「蓋の開いた酒壺を担いで山を歩いておるようなものじゃ。獣も寄る。人外も寄る」
彼女は振り返らずに坂を下り始めた。
「里の百姓には見えん。そこは案ずるな。──じゃが、見える者には見える。今のお前は、夜道で松明を掲げて歩いておるのと変わらん」
少し先で、白い尾が朝の光に揺れた。振り返らないまま、彼女は言った。
「男がそれだけ持っておると知れたらな、小僧。──真っ当な死に方は、できんぞ」