貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜   作:大太一人

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第十話 けじめ

 

 夏の盛りを過ぎる頃には、里の景色が、すっかり変わっていた。

 

 病人を寝かせていた小屋は、汚れた敷きわらだけを裏で焼き、あとは何度も水を流して、戸を開け放したまま空にしてある。しばらくは、誰も使わない。

 

 生き延びた難民たちは、里のあちこちに散って、寝起きする場所を得ていた。空き家の繕い、崩れた納屋の建て直し。手の足りていなかったところへ、二十人からの手が入った。それだけで、里は見違えた。

 

 やせていた田の、さらに上の段。長らく手の回らず、やぶに還りかけていた一枚を、俺たちは新しく起こしていた。難民の中に、鍬の使い方を知る年寄りがいた。里の男衆と、流れてきた男衆が、同じむしろの上で、竹を割いている。

 

 女たちは、女たちで、畑を分け合っていた。里の若い女が力仕事を担い、難民の女がその後をついて、種の蒔き方を覚えていく。垣根は、日ごとに低くなっていた。

 

 あの、子を亡くした母親も、その中にいた。

 

 まだ、笑いはしない。だが、朝には起きて、水を汲み、あわを煮て、隣の女と二言、三言、言葉を交わすようになっていた。

 

 里は、生きていた。二十人を飲み込んで、なお、前より豊かに。

 

 俺の賭けは、当たったのだ。

 

 なのに、胸の底には、まだ、冷めた重さが残っていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その日、村長のお狛が、俺を訪ねてきた。

 

 珍しいことだった。腰の曲がったこの老婆が、里はずれまで足を運んでくることは、まずない。

 

 お狛は、あぜに腰を下ろすと、しばらく、実り始めた田を眺めていた。俺も、隣に座った。

 

「透殿は」

 

 やがて、お狛が言った。しわの奥の、深い隈のある目は、田に向いたままだった。

 

「よう、この里に、根を下ろしてくださった」

 

「……根、ですか」

 

「よそから来て、ここまでする者は、おらぬ。……もう、よそのお方とは、誰も思うておりませぬ」

 

 俺は、返す言葉に詰まった。

 

 お狛は、それから、少し間を置いて、言った。

 

「一つ、伺うても、よろしいか」

 

「はい」

 

「透殿は、これから――どう、なさるおつもりで」

 

 俺は、田に目を落とした。

 

 答えは、この一年、変わっていないはずだった。

 

「……帰る方法を、探したいんです」

 

 言った。

 

「元いた、遠い場所に。行き倒れて、ここへ流れ着く前の。……まだ、諦めていないんです」

 

 お狛は、田を見たまま、小さくうなずいた。

 

「村長」

 

「……なんでしょう」

 

「何か、言いかけませんでしたか」

 

 お狛は、初めて、俺の方を見た。しわだらけの顔が、少しだけ、笑ったように見えた。困ったような、寂しいような、笑い方だった。

 

「いいえ。……なんでも、ございませぬ」

 

 俺は、しばらく黙って、それから、口を開いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「村長。一つだけ、約束させてください」

 

 お狛が、俺を見た。

 

「俺は、いつか、この里を出ます。帰る道が見つかれば。……それは、変わりません」

 

「……はい」

 

「でも、すぐにじゃない」

 

 俺は、上の段の、新しく起こした田を見た。

 

「あの人たちを、ここへ連れてきたのは、俺です。置いてくれと頭を下げたのも、俺だ。……なら、あの人たちが、よそ者じゃなく、里の者になるまでは。──それを、見届けてから、行きます」

 

「それは……どのくらい」

 

「一年は、かかると思います」

 

 言ってから、俺は、少し笑った。

 

「一度、種を蒔いて、刈り取るまで。田が一巡りすれば、里の者も、あの人たちを、数に入れて暮らすようになる。……そこまでが、俺の始めたことの、けじめです」

 

 お狛は、長いこと、俺を見ていた。

 

 それから、深く、頭を下げた。腰の曲がった体が、さらに折れて、白髪の頭が、俺の膝の前まで下がった。

 

「村長、やめてください。年寄りに、そんな」

 

「……透殿は」

 

 頭を下げたまま、お狛は言った。声が、少し、湿っていた。

 

「なぜ、そうまで、してくださる。帰るお方が。ここに、何も、残さぬお方が」

 

 俺は、答えられなかった。

 

 うまく、言葉にならなかった。

 

 だから、俺は、何も答えず、ただ、お狛の下がった背に、そっと手を添えた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その一部始終を、あぜ道の先の木陰から、穂乃が見ていた。

 

 お狛が里へ戻っていくのを待って、その子は、ぶらりと近づいてきた。手には、いつぞやのように、赤い木の実。一つ口に放り、種を、ぺっ、と吐く。

 

「帰るんだろう、おまえは」

 

 いきなり、そう言った。

 

「……立ち聞きか」

 

「耳がいいんだ。生まれつきな」

 

 穂乃は、俺の隣、さっきまでお狛のいた場所に、どすりと座った。

 

「帰りたい、と言った。なのに、一年、残るんだと。連れてきた者のために」

 

「ああ」

 

「分からんな」

 

 穂乃は、実の汁のついた指を、上等な小袖の裾で拭いた。

 

「おまえは、この里から、何ももらっていない。名も、地位も、女も。田を直しても、病を止めても、おまえの手に残るものは、一つもない。そのうえ、死人まで三人背負って、まだ、一年、留まると言う。──何のためだ」

 

 俺は、実り始めた田を見た。

 

 何のため、と問われて、すぐには答えが出なかった。

 

「途中で、放り出せないんだ」

 

 やっと、それだけ言った。

 

「始めたのが、俺だから。……見てしまったものを、見なかったことには、できない。それだけだ。立派な話じゃない」

 

 穂乃は、しばらく、黙っていた。

 

 それから、ふう、と、子供らしくない息を吐いた。

 

「たちが悪いな、おまえは」

 

「……なんでだ」

 

「欲のある男は、手なずけやすい。地位が欲しい者には地位を、金が欲しい者には金を、くれてやればいい。……だが、おまえには、餌がない」

 

 穂乃は、膝を抱えて、田の向こうの、遠い峠を見ていた。

 

「何も欲しがらんくせに、放っておけない、というだけで動く。──そういう男は、餌で釣れん代わりに、一度こっちを向けば、どこまでも動く。いちばん、始末に負えなくて」

 

 その目が、すっと、細くなった。

 

「いちばん、欲しい」

 

 俺は、その横顔を見た。

 

 十いくつの子供が、そう言った。何度目かの違和感だった。だが、今度のそれは、これまでより、ずっと近く、ずっと熱かった。

 

「穂乃。おまえ――」

 

「まだだ」

 

 俺の問いを、穂乃は、先回りして遮った。

 

 立ち上がり、裾の泥を払う。いつもの、身をひるがえす仕草。

 

「まだ、教えてやらない。……だが、そう長くは、待たせないさ」

 

 振り返らずに、あぜ道を、来た方へ歩いていく。小さな背中。供の一人もいない。迷いのない足取り。

 

「次に会う時はな、透」

 

 その背中が、言った。

 

「おれは、まことの名を、名乗る」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その夜、俺は、久しぶりに、リュックの底から、ノートPCを引っぱり出した。

 

 使うためではない。残量を、確かめるためだった。

 

 あの夜――子供に飲ませる水のことを尋ねて以来、一度も、開いていない。残りは、ひと桁だった。もう、村のことで気軽に開ける代物ではない。本当の、最後の一問のために、取ってある。

 

 闇の中で、天板に手をかけた。

 

 その、開く前の指先に、ふと、違和感が触れた。

 

 温かい。

 

 ずっと使っていない、電源も入れていない機械が、ほのかに、温かかった。人肌ほどの熱を、内側から、持っている。

 

 気のせいか、と思った。

 

 だが、次の瞬間、俺は、はっきりと見た。

 

 閉じたままの天板の、隙間。そこから、青白い光が、細く、漏れていた。

 

 息を、呑んだ。

 

 電源は、切れている。こんなふうに、勝手に光るはずが、ない。

 

 過熱、放電、誤作動。この機械の中で起きうることを、頭が、慌てて並べた。

 

 だが、そのどれも、指先の、この生き物じみた温もりを、説明しなかった。

 

 光は、ゆっくりと、脈を打つように、明滅していた。

 

 まるで、内側で、何かが――寝息を、立てているように。

 

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