貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜 作:大太一人
夏の盛りを過ぎる頃には、里の景色が、すっかり変わっていた。
病人を寝かせていた小屋は、汚れた敷きわらだけを裏で焼き、あとは何度も水を流して、戸を開け放したまま空にしてある。しばらくは、誰も使わない。
生き延びた難民たちは、里のあちこちに散って、寝起きする場所を得ていた。空き家の繕い、崩れた納屋の建て直し。手の足りていなかったところへ、二十人からの手が入った。それだけで、里は見違えた。
やせていた田の、さらに上の段。長らく手の回らず、やぶに還りかけていた一枚を、俺たちは新しく起こしていた。難民の中に、鍬の使い方を知る年寄りがいた。里の男衆と、流れてきた男衆が、同じむしろの上で、竹を割いている。
女たちは、女たちで、畑を分け合っていた。里の若い女が力仕事を担い、難民の女がその後をついて、種の蒔き方を覚えていく。垣根は、日ごとに低くなっていた。
あの、子を亡くした母親も、その中にいた。
まだ、笑いはしない。だが、朝には起きて、水を汲み、あわを煮て、隣の女と二言、三言、言葉を交わすようになっていた。
里は、生きていた。二十人を飲み込んで、なお、前より豊かに。
俺の賭けは、当たったのだ。
なのに、胸の底には、まだ、冷めた重さが残っていた。
◆
その日、村長のお狛が、俺を訪ねてきた。
珍しいことだった。腰の曲がったこの老婆が、里はずれまで足を運んでくることは、まずない。
お狛は、あぜに腰を下ろすと、しばらく、実り始めた田を眺めていた。俺も、隣に座った。
「透殿は」
やがて、お狛が言った。しわの奥の、深い隈のある目は、田に向いたままだった。
「よう、この里に、根を下ろしてくださった」
「……根、ですか」
「よそから来て、ここまでする者は、おらぬ。……もう、よそのお方とは、誰も思うておりませぬ」
俺は、返す言葉に詰まった。
お狛は、それから、少し間を置いて、言った。
「一つ、伺うても、よろしいか」
「はい」
「透殿は、これから――どう、なさるおつもりで」
俺は、田に目を落とした。
答えは、この一年、変わっていないはずだった。
「……帰る方法を、探したいんです」
言った。
「元いた、遠い場所に。行き倒れて、ここへ流れ着く前の。……まだ、諦めていないんです」
お狛は、田を見たまま、小さくうなずいた。
「村長」
「……なんでしょう」
「何か、言いかけませんでしたか」
お狛は、初めて、俺の方を見た。しわだらけの顔が、少しだけ、笑ったように見えた。困ったような、寂しいような、笑い方だった。
「いいえ。……なんでも、ございませぬ」
俺は、しばらく黙って、それから、口を開いた。
◆
「村長。一つだけ、約束させてください」
お狛が、俺を見た。
「俺は、いつか、この里を出ます。帰る道が見つかれば。……それは、変わりません」
「……はい」
「でも、すぐにじゃない」
俺は、上の段の、新しく起こした田を見た。
「あの人たちを、ここへ連れてきたのは、俺です。置いてくれと頭を下げたのも、俺だ。……なら、あの人たちが、よそ者じゃなく、里の者になるまでは。──それを、見届けてから、行きます」
「それは……どのくらい」
「一年は、かかると思います」
言ってから、俺は、少し笑った。
「一度、種を蒔いて、刈り取るまで。田が一巡りすれば、里の者も、あの人たちを、数に入れて暮らすようになる。……そこまでが、俺の始めたことの、けじめです」
お狛は、長いこと、俺を見ていた。
それから、深く、頭を下げた。腰の曲がった体が、さらに折れて、白髪の頭が、俺の膝の前まで下がった。
「村長、やめてください。年寄りに、そんな」
「……透殿は」
頭を下げたまま、お狛は言った。声が、少し、湿っていた。
「なぜ、そうまで、してくださる。帰るお方が。ここに、何も、残さぬお方が」
俺は、答えられなかった。
うまく、言葉にならなかった。
だから、俺は、何も答えず、ただ、お狛の下がった背に、そっと手を添えた。
◆
その一部始終を、あぜ道の先の木陰から、穂乃が見ていた。
お狛が里へ戻っていくのを待って、その子は、ぶらりと近づいてきた。手には、いつぞやのように、赤い木の実。一つ口に放り、種を、ぺっ、と吐く。
「帰るんだろう、おまえは」
いきなり、そう言った。
「……立ち聞きか」
「耳がいいんだ。生まれつきな」
穂乃は、俺の隣、さっきまでお狛のいた場所に、どすりと座った。
「帰りたい、と言った。なのに、一年、残るんだと。連れてきた者のために」
「ああ」
「分からんな」
穂乃は、実の汁のついた指を、上等な小袖の裾で拭いた。
「おまえは、この里から、何ももらっていない。名も、地位も、女も。田を直しても、病を止めても、おまえの手に残るものは、一つもない。そのうえ、死人まで三人背負って、まだ、一年、留まると言う。──何のためだ」
俺は、実り始めた田を見た。
何のため、と問われて、すぐには答えが出なかった。
「途中で、放り出せないんだ」
やっと、それだけ言った。
「始めたのが、俺だから。……見てしまったものを、見なかったことには、できない。それだけだ。立派な話じゃない」
穂乃は、しばらく、黙っていた。
それから、ふう、と、子供らしくない息を吐いた。
「たちが悪いな、おまえは」
「……なんでだ」
「欲のある男は、手なずけやすい。地位が欲しい者には地位を、金が欲しい者には金を、くれてやればいい。……だが、おまえには、餌がない」
穂乃は、膝を抱えて、田の向こうの、遠い峠を見ていた。
「何も欲しがらんくせに、放っておけない、というだけで動く。──そういう男は、餌で釣れん代わりに、一度こっちを向けば、どこまでも動く。いちばん、始末に負えなくて」
その目が、すっと、細くなった。
「いちばん、欲しい」
俺は、その横顔を見た。
十いくつの子供が、そう言った。何度目かの違和感だった。だが、今度のそれは、これまでより、ずっと近く、ずっと熱かった。
「穂乃。おまえ――」
「まだだ」
俺の問いを、穂乃は、先回りして遮った。
立ち上がり、裾の泥を払う。いつもの、身をひるがえす仕草。
「まだ、教えてやらない。……だが、そう長くは、待たせないさ」
振り返らずに、あぜ道を、来た方へ歩いていく。小さな背中。供の一人もいない。迷いのない足取り。
「次に会う時はな、透」
その背中が、言った。
「おれは、まことの名を、名乗る」
◆
その夜、俺は、久しぶりに、リュックの底から、ノートPCを引っぱり出した。
使うためではない。残量を、確かめるためだった。
あの夜――子供に飲ませる水のことを尋ねて以来、一度も、開いていない。残りは、ひと桁だった。もう、村のことで気軽に開ける代物ではない。本当の、最後の一問のために、取ってある。
闇の中で、天板に手をかけた。
その、開く前の指先に、ふと、違和感が触れた。
温かい。
ずっと使っていない、電源も入れていない機械が、ほのかに、温かかった。人肌ほどの熱を、内側から、持っている。
気のせいか、と思った。
だが、次の瞬間、俺は、はっきりと見た。
閉じたままの天板の、隙間。そこから、青白い光が、細く、漏れていた。
息を、呑んだ。
電源は、切れている。こんなふうに、勝手に光るはずが、ない。
過熱、放電、誤作動。この機械の中で起きうることを、頭が、慌てて並べた。
だが、そのどれも、指先の、この生き物じみた温もりを、説明しなかった。
光は、ゆっくりと、脈を打つように、明滅していた。
まるで、内側で、何かが――寝息を、立てているように。