貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜 作:大太一人
斜面を降りるのに、体感で三十分ほどかかった。
女は俺の三歩前を、一度も振り返らずに歩いていた。草履のような履物で、濡れた落ち葉も木の根も意に介さない。俺は同じ道で二度転んだ。
二度目は、足元のせいではなかった。前を歩く後ろ姿のせいだ。
白い髪の間から突き出た獣の耳が、歩きながら、右、左、と別々の方向を向く。鳥が鳴けばそちらへ、枝が鳴ればそちらへ。着物の裾の後ろでは、太い尾がゆっくりと左右に揺れていた。
作り物ではない。付け根から、生えている。
「……耳」
「視線がうるさいぞ、小僧」
振り返りもせずに言われた。
俺は慌てて目を逸らし、それから、逸らした自分に混乱した。何に対して気を遣っているんだ、俺は。夢なら醒めろと頬の内側を噛んでみたが、痛みは普通に痛みで、景色は何ひとつ変わらなかった。
「……現実、なんだよな。これ」
「うるさい」
独り言まで拾われた。あの耳は伊達ではないらしい。
「あの、聞きたいことが山ほどあるんですが」
「歩きながら喋ると舌を噛む」
やがて木立が途切れ、視界が開けた。
谷だった。
斜面に沿って、段々に削られた田が連なっている。その底を細い川が流れ、川沿いに二十軒ほどの家が身を寄せ合っていた。藁葺きの、背の低い家ばかりだ。
煙が、二本だけ上がっていた。
二十軒あって、二本。
俺は足を止めた。
景色に見とれたわけではない。目に入ったものが、片端から引っかかったからだ。
段になった田の、下の方だけ色が違う。水が来ていない。
目が、勝手に流れを遡っていた。水はどこから来て、どこで死んでいるのか。斜面を横切る、用水路らしき溝。その途中が崩れて、土で塞がっている。誰かが脇へ細い迂回路を掘った跡があるが、そちらもまた詰まっていた。
「何を見ておる」
いつの間にか、女が振り返っていた。
「……いえ。水路が、崩れてるなと」
彼女は少しだけ目を細めた。何か言いかけて、やめた。それから顎で先を示して、また歩き出した。
里へ降りる細い道の途中、木の陰に子供が一人立っていた。
小柄で、よく日に焼けている。頭の上に、丸い耳が二つ。じっとこちらを──正確には、俺を見ていた。
目が合うと、逃げなかった。逃げるどころか、一歩前に出てきた。
「婆様、それ拾ったの」
「拾うたわけではない。転がっておった」
「どっちも一緒じゃない?」
子供は俺を上から下まで眺めて、それからにっと笑った。前歯が一本欠けていた。
「変な着物」
スーツのことだろう。何も言い返せなかった。
◆
婆様──さっきの子供がそう呼んだので、俺の中でも呼び名がそれに決まった──の家は、里の外れにあった。
外れ、という言葉でも足りない。里から川を一つ渡り、さらに木立を抜けた先に、ぽつんと一軒だけ建っている。板張りの、粗末な小屋だ。
中は、外から見た印象より雑然としていた。
壁一面に、細長い紙が貼ってある。墨で何か書かれた紙だ。天井からは束ねた草が幾つも吊るされ、乾いた匂いを落としている。隅には木箱が積まれ、その上に、紐で綴じた分厚い書物が無造作に重ねてあった。
婆様は囲炉裏に火を入れると、鍋をかけ、しばらくしてから椀を二つ、板間に置いた。
中身は、粥のようなものだった。米ではない。雑穀を煮た、薄い粥だ。
匙を口に運んで、俺は初めて自分が空腹だったことに気づいた。味は、ほとんどしなかった。それでも、体の芯に熱が落ちていく感覚があった。
「名は」
唐突に聞かれた。
「佐倉透です」
婆様の匙が止まった。
「……佐倉」
「はい」
「佐倉、何じゃ。それは」
質問の意味が分からなかった。
「苗字ですけど」
婆様は俺をじっと見た。それから、深く息を吐いた。今日一番の、うんざりした息だった。
「よいか。この国で苗字を名乗れるのは、侍と、公家と、役人だけじゃ。里の者に苗字はない。さっきの子も、村長も、名しか持っておらん」
匙を持つ手が止まった。
「お前が『佐倉』と名乗れば、里の者はこう思う。──こいつは何者じゃ、と」
言われてみれば、当たり前の話だった。俺の生まれた国では、全員が苗字を持っていた。持っているのが当たり前すぎて、それが特権だという発想が、そもそもなかった。
「透。それだけにしておけ」
「……佐倉は」
「捨てい」
たった二文字だ。
二文字なのに、思ったより、抜けた。
◆
「……穂積の、朽縄の里」
椀が空になってから、俺は昨日聞いた名前を、口の中で並べ直した。
「覚えたか」
「覚えましたけど、地名を覚えても、どこなのか分からないんですが」
「海に囲まれた地じゃ。島がいくつも連なっておる。都は中ほどにあってな、そこから離れるほど、貧しく、うるさくなくなる。ここは端も端じゃ」
海に囲まれた島国。それだけ聞けば、日本と同じだった。
だが、日本ではない。俺が寝ていた森も、目の前の耳も尾も、六つ目の獣も、全部がそれを否定している。
「俺は、どうしてここに」
「稀人じゃな」
初めて聞く言葉だった。
「まれびと」
「外から落ちてくる者のことじゃ。百年に一人おるかどうか、という程度にはおる」
婆様は椀を置いた。
「霊地というものがある。力の濃い土地じゃ。そこでは、時折その力が満ちすぎることがある。──満ちすぎると、破れる」
「破れる」
「世の境が、な。その破れ目は、器の大きい者を引く」
俺の胸のあたりに、視線が落ちた。
「お前のようなのが近くにおれば、まあ、持っていかれるじゃろうな」
あの神社だ、と思った。
昼間は子供が虫を捕っている、なんの変哲もない神社。あの夜だけ、空気が濃かった。線香に似た匂いがして、喉の奥にざらついた。
濃かったのだ。文字通り。
「帰る方法は」
婆様は答えなかった。
匙で椀の底をこすり、残ったものをすくって口に運び、それから、ようやく言った。
「わしの知る限り、帰った者はおらん」
「──いや」
気づいたら、腰が浮いていた。
「待ってください。百年に一人は落ちてくるんですよね。なら帰った例だって、記録だって、探せばどこかに」
「小僧」
「無いと決まったわけじゃない。無いことの証明なんて、そもそも誰にも」
「透」
名を呼ばれて、言葉が切れた。
婆様は怒ってもいなければ、憐れんでもいなかった。ただ静かに、こちらを見ていた。
「わしは『知る限りおらん』と言うた。無い、とは言うておらん」
「……」
「座れ」
俺はゆっくりと座り直した。椀はとうに空だったが、どちらも、それには触れなかった。
◆
夜になると、家の中は驚くほど暗くなった。
電気がない、というのは知識として分かっていたが、体験するのは別だった。囲炉裏の火を落としてしまえば、闇は本当に真っ暗で、自分の手も見えない。
婆様は板間の奥で、とっくに寝息を立てていた。
寝る前、彼女は俺に紙切れを一枚寄越していた。指の長さほどの紙に、墨で何か書いてある。
「懐に入れておけ。蓋じゃ」
「蓋」
「お前の漏れを塞ぐ。完全ではないが、獣が寄るほどではなくなる」
そして、こう付け加えた。
「保って十日というところじゃな。それまでに、自分で閉じられるようになれ」
十日。
俺は闇の中で寝返りを打った。
板の間は硬く、体のあちこちが痛んだ。眠れるはずがなかった。