貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜   作:大太一人

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第二話 名を削る

 

 斜面を降りるのに、体感で三十分ほどかかった。

 

 女は俺の三歩前を、一度も振り返らずに歩いていた。草履のような履物で、濡れた落ち葉も木の根も意に介さない。俺は同じ道で二度転んだ。

 

 二度目は、足元のせいではなかった。前を歩く後ろ姿のせいだ。

 

 白い髪の間から突き出た獣の耳が、歩きながら、右、左、と別々の方向を向く。鳥が鳴けばそちらへ、枝が鳴ればそちらへ。着物の裾の後ろでは、太い尾がゆっくりと左右に揺れていた。

 

 作り物ではない。付け根から、生えている。

 

「……耳」

 

「視線がうるさいぞ、小僧」

 

 振り返りもせずに言われた。

 

 俺は慌てて目を逸らし、それから、逸らした自分に混乱した。何に対して気を遣っているんだ、俺は。夢なら醒めろと頬の内側を噛んでみたが、痛みは普通に痛みで、景色は何ひとつ変わらなかった。

 

「……現実、なんだよな。これ」

 

「うるさい」

 

 独り言まで拾われた。あの耳は伊達ではないらしい。

 

「あの、聞きたいことが山ほどあるんですが」

 

「歩きながら喋ると舌を噛む」

 

 やがて木立が途切れ、視界が開けた。

 

 谷だった。

 

 斜面に沿って、段々に削られた田が連なっている。その底を細い川が流れ、川沿いに二十軒ほどの家が身を寄せ合っていた。藁葺きの、背の低い家ばかりだ。

 

 煙が、二本だけ上がっていた。

 

 二十軒あって、二本。

 

 俺は足を止めた。

 

 景色に見とれたわけではない。目に入ったものが、片端から引っかかったからだ。

 

 段になった田の、下の方だけ色が違う。水が来ていない。

 

 目が、勝手に流れを遡っていた。水はどこから来て、どこで死んでいるのか。斜面を横切る、用水路らしき溝。その途中が崩れて、土で塞がっている。誰かが脇へ細い迂回路を掘った跡があるが、そちらもまた詰まっていた。

 

「何を見ておる」

 

 いつの間にか、女が振り返っていた。

 

「……いえ。水路が、崩れてるなと」

 

 彼女は少しだけ目を細めた。何か言いかけて、やめた。それから顎で先を示して、また歩き出した。

 

 里へ降りる細い道の途中、木の陰に子供が一人立っていた。

 

 小柄で、よく日に焼けている。頭の上に、丸い耳が二つ。じっとこちらを──正確には、俺を見ていた。

 

 目が合うと、逃げなかった。逃げるどころか、一歩前に出てきた。

 

「婆様、それ拾ったの」

 

「拾うたわけではない。転がっておった」

 

「どっちも一緒じゃない?」

 

 子供は俺を上から下まで眺めて、それからにっと笑った。前歯が一本欠けていた。

 

「変な着物」

 

 スーツのことだろう。何も言い返せなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 婆様──さっきの子供がそう呼んだので、俺の中でも呼び名がそれに決まった──の家は、里の外れにあった。

 

 外れ、という言葉でも足りない。里から川を一つ渡り、さらに木立を抜けた先に、ぽつんと一軒だけ建っている。板張りの、粗末な小屋だ。

 

 中は、外から見た印象より雑然としていた。

 

 壁一面に、細長い紙が貼ってある。墨で何か書かれた紙だ。天井からは束ねた草が幾つも吊るされ、乾いた匂いを落としている。隅には木箱が積まれ、その上に、紐で綴じた分厚い書物が無造作に重ねてあった。

 

 婆様は囲炉裏に火を入れると、鍋をかけ、しばらくしてから椀を二つ、板間に置いた。

 

 中身は、粥のようなものだった。米ではない。雑穀を煮た、薄い粥だ。

 

 匙を口に運んで、俺は初めて自分が空腹だったことに気づいた。味は、ほとんどしなかった。それでも、体の芯に熱が落ちていく感覚があった。

 

「名は」

 

 唐突に聞かれた。

 

「佐倉透です」

 

 婆様の匙が止まった。

 

「……佐倉」

 

「はい」

 

「佐倉、何じゃ。それは」

 

 質問の意味が分からなかった。

 

「苗字ですけど」

 

 婆様は俺をじっと見た。それから、深く息を吐いた。今日一番の、うんざりした息だった。

 

「よいか。この国で苗字を名乗れるのは、侍と、公家と、役人だけじゃ。里の者に苗字はない。さっきの子も、村長も、名しか持っておらん」

 

 匙を持つ手が止まった。

 

「お前が『佐倉』と名乗れば、里の者はこう思う。──こいつは何者じゃ、と」

 

 言われてみれば、当たり前の話だった。俺の生まれた国では、全員が苗字を持っていた。持っているのが当たり前すぎて、それが特権だという発想が、そもそもなかった。

 

「透。それだけにしておけ」

 

「……佐倉は」

 

「捨てい」

 

 たった二文字だ。

 

 二文字なのに、思ったより、抜けた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「……穂積の、朽縄の里」

 

 椀が空になってから、俺は昨日聞いた名前を、口の中で並べ直した。

 

「覚えたか」

 

「覚えましたけど、地名を覚えても、どこなのか分からないんですが」

 

「海に囲まれた地じゃ。島がいくつも連なっておる。都は中ほどにあってな、そこから離れるほど、貧しく、うるさくなくなる。ここは端も端じゃ」

 

 海に囲まれた島国。それだけ聞けば、日本と同じだった。

 

 だが、日本ではない。俺が寝ていた森も、目の前の耳も尾も、六つ目の獣も、全部がそれを否定している。

 

「俺は、どうしてここに」

 

「稀人じゃな」

 

 初めて聞く言葉だった。

 

「まれびと」

 

「外から落ちてくる者のことじゃ。百年に一人おるかどうか、という程度にはおる」

 

 婆様は椀を置いた。

 

「霊地というものがある。力の濃い土地じゃ。そこでは、時折その力が満ちすぎることがある。──満ちすぎると、破れる」

 

「破れる」

 

「世の境が、な。その破れ目は、器の大きい者を引く」

 

 俺の胸のあたりに、視線が落ちた。

 

「お前のようなのが近くにおれば、まあ、持っていかれるじゃろうな」

 

 あの神社だ、と思った。

 

 昼間は子供が虫を捕っている、なんの変哲もない神社。あの夜だけ、空気が濃かった。線香に似た匂いがして、喉の奥にざらついた。

 

 濃かったのだ。文字通り。

 

「帰る方法は」

 

 婆様は答えなかった。

 

 匙で椀の底をこすり、残ったものをすくって口に運び、それから、ようやく言った。

 

「わしの知る限り、帰った者はおらん」

 

「──いや」

 

 気づいたら、腰が浮いていた。

 

「待ってください。百年に一人は落ちてくるんですよね。なら帰った例だって、記録だって、探せばどこかに」

 

「小僧」

 

「無いと決まったわけじゃない。無いことの証明なんて、そもそも誰にも」

 

「透」

 

 名を呼ばれて、言葉が切れた。

 

 婆様は怒ってもいなければ、憐れんでもいなかった。ただ静かに、こちらを見ていた。

 

「わしは『知る限りおらん』と言うた。無い、とは言うておらん」

 

「……」

 

「座れ」

 

 俺はゆっくりと座り直した。椀はとうに空だったが、どちらも、それには触れなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 夜になると、家の中は驚くほど暗くなった。

 

 電気がない、というのは知識として分かっていたが、体験するのは別だった。囲炉裏の火を落としてしまえば、闇は本当に真っ暗で、自分の手も見えない。

 

 婆様は板間の奥で、とっくに寝息を立てていた。

 

 寝る前、彼女は俺に紙切れを一枚寄越していた。指の長さほどの紙に、墨で何か書いてある。

 

「懐に入れておけ。蓋じゃ」

 

「蓋」

 

「お前の漏れを塞ぐ。完全ではないが、獣が寄るほどではなくなる」

 

 そして、こう付け加えた。

 

「保って十日というところじゃな。それまでに、自分で閉じられるようになれ」

 

 十日。

 

 俺は闇の中で寝返りを打った。

 

 板の間は硬く、体のあちこちが痛んだ。眠れるはずがなかった。

 

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