貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜 作:大太一人
夜明け前に叩き起こされた。
「水を汲め。竈の分と、洗いの分じゃ」
寝ぼけた頭のまま桶を持たされ、外に出た。川は家から少し下ったところにある。往復して、また往復して、三度目で腕が上がらなくなった。
桶というのは、水が入ると重い。
当たり前のことを、俺は二十八年、知らずに生きてきた。
「飯の分は働け。うちの決まりじゃ」
「決まりって、俺の他に誰か置いたことがあるんですか」
「おらん。今作った」
朝飯の後、婆様は俺を板間に座らせた。
「十日と言うたな。始めるぞ。──目を瞑れ」
言われた通りにする。
「お前の胸の内には壺がある。今は蓋が開けっ放しで、中身がこぼれ続けておる。まずは、こぼれておるのを感じてみよ」
意識を胸に向けた。しばらく待った。
何も感じなかった。あるのは水汲みで痛めた腰の張りと、板間の硬さだけだった。
「……何も」
「じゃろうな」
婆様はあっさり言った。
「生まれてこのかた漏れっぱなしの男じゃ。漏れておらん状態を知らんのだから、漏れておる状態も分からん」
理屈ではある。漏れていない状態を知らないのだから、比べようがない。
「初日はそんなものじゃ。毎朝やる。飯の前にな」
それから婆様は土間へ降り、小さな包みを持ってきて、俺に押し付けた。
「村長のところへ届けよ。薬じゃ」
「……俺がですか」
「お前がじゃ。よそ者が婆の家に住み着いた、と里はもう知っておる。顔も見せんうちは、ただの不気味なよそ者のままじゃぞ」
それから、釘を刺された。
「素性を聞かれたら、遠くから来て行き倒れた、で通せ。名は透。それだけじゃ。器の話は、間違ってもするな」
◆
川を渡ったところで、待ち伏せに遭った。
「透!」
声が上から降ってきた。見上げると、昨日の子供が木の枝に腰かけて、こちらを見下ろしていた。
「……なんで名前を知ってるんだ」
「今朝、水汲みを見てた。婆様が透、透って呼んでたもん」
子供はするすると幹を降りてきた。見ているこっちの手のひらに汗が滲む高さだったが、本人は地面に降り立つと、何でもない顔で膝の土を払った。頭の丸い耳が、機嫌よさそうに動いていた。
「あたし、お吉」
「透だ」
「知ってる。──透って、へんな名前」
昨日は着物で、今日は名前だった。変わっているのは名前どころか素性ごとなのだが、それは言えない。よく言われる、とだけ返しておいた。
村長の家までは、お吉が案内してくれることになった。というより、断る間もなく先に立って歩き出した。
「透、どっから来たの」
「遠くから」
「ふうん。男の一人歩きって、危ないんだよ」
九つかそこらの子供に、真顔で心配された。
里は、上から見るより、近くで見る方が痩せていた。
道端の家々は屋根の藁が薄く、土壁のひび割れがそのままになっている。田で鍬を振るっているのは女たちで、庭先で筵を編んでいるのは男たちだった。何かが妙な気がして、しばらく考えて、答えが出る前にお吉に袖を引かれた。
すれ違う誰もが、俺を見た。じろじろと見る者はいない。ただ、視線だけが後をついてくる。よそ者を見る目というものを、初めて浴びる側で知った。
「村長の家、あそこ」
お吉が指したのは、里の真ん中あたりの一軒だった。他より少しだけ大きい。少しだけ、だった。
◆
お狛、というのが村長の名だった。
腰の曲がった、小さな婆さんだった。白髪の間から垂れた耳が覗き、尻の後ろで太い尾がゆっくりと揺れている。目の下に、濃い隈があった。
婆様、と呼びたくなる見た目だったが、その呼び名はもう埋まっていた。
村長は俺を見上げ、皺の奥の目を細めた。
「お狐様のところの、お客人で」
お狐様。誰のことか一拍考えたが、あの白い狐の他にいない。
「……透といいます。行き倒れていたところを、拾われました」
「それはそれは。お狐様に拾われるとは、運のええお方じゃ」
包みを渡すと、村長は両手で押し頂いた。
「里の年寄りに、咳の長引くのがおりましてな。お狐様には、頭が上がりませぬ。……今年も、お礼らしいお礼が、何も」
語尾が薄れて消えた。
板間に上げてもらい、白湯を出された。茶ではなく白湯なのだということに、少し遅れて気づいた。お吉は当たり前の顔でついて入り、土間の隅に収まっていた。
話は、自然と村のことになった。というより、俺が水を向けた。昨日、谷を見下ろした時から引っかかっていたことを、確かめたかった。
「上から見えたんですが、下の段の田に、水が入っていませんでしたね」
村長の尾が、止まった。
「……二年前の大水で、水路の石組みが崩れましてな。上の田はまだしも、下は雨頼みで。実りは、崩れる前の六分がところです」
「直せないんですか」
「……先の戦で、働き盛りの女衆が、みな駆り出されましてな」
戦。その一言が、この静かな谷の景色と、うまく重ならなかった。
「帰ってきたのは、半分もおりませぬ。いま里におるのは、わしらのような年寄りと、童と、力仕事に向かん男衆ばかり。皆で石を積んでも、次の雨で崩れる。二度やって、三度目をやる力は、残っておりませなんだ」
力仕事に向かない男衆、という言い回しが、また小さく引っかかった。引っかかったが、聞き流した。
脇に掘った迂回路が詰まっていたのを思い出した。三度目をやる力の代わりが、あの細い溝だったわけだ。
「実りが六分なら、年貢も六分に……は、ならないんですよね」
「なりませぬ」
村長は、初めて俺の目をまっすぐ見た。
「お上の帳面には、この里の実りは昔のままに書いてございます。取り立ては、帳面の通りに参ります。足りぬ分は蓄えを崩し、蓄えが尽きて──今年は、種籾に手をつけ申した」
「……種籾って、来年蒔く分ですよね」
「へえ」
「それを食べたり納めたりしたら、来年の実りは」
「へえ」
村長は、へえ、としか言わなかった。言わないのではなく、その先を言葉にする気力が、もう残っていないように見えた。
頭の中で、勝手に算盤が弾かれていく。
実りが六分に落ちて、取られる量がそのまま。不足は毎年積み上がる。蓄えで埋め、種籾で埋め、種籾を減らせば来年の実りはさらに落ちて、穴はさらに広がる。転がるほど膨らむ雪玉の、正反対だ。転がるたびに、削れて小さくなっていく。
その先に何があるかは、勘定するまでもなかった。
俺は口を閉じた。土間の隅で、お吉が膝を抱えて、こちらを見ていた。
顔を上げると、村長と目が合った。
深い隈の奥の目は、静かだった。驚きもなく、期待もない。俺がいまたどった道筋なら、この人はとうの昔に、何度も歩き終えている。そういう目だった。
帰り道、お吉は行きよりも静かだった。別れ際に一度だけ、「また来る?」と聞かれた。来る、と答えると、欠けた前歯を見せて笑った。
◆
その夜、俺はまた、闇の中でリュックを引き寄せた。
青白い光が灯る。バッテリー残量、八十四パーセント。
鞄には、モバイルバッテリーが一つ。フル充電に近い。これで本体を、あと二回か三回は満たせる。だが、それを使い切れば、後がない。
開く前に、聞くことを決めておく。開いたら、まとめて聞く。今夜から、そういう決まりにした。
俺は入力欄に打ち込んだ。
『崩れた石組みの用水路を、石積みの経験がない人間と少ない人手で直す方法を教えてくれ』
カーソルが瞬いて、文字が流れ出す。
流れてくる先から、俺はそれを手帳に書き写していった。