貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜 作:大太一人
「今日は、わしが一度だけ手本を見せる」
翌朝の稽古で、婆様はそう言った。
「昨日は、何も感じんかったな。当たり前じゃ。生まれてこのかた漏れっぱなしでは、比べるものがない。──だから、一度だけ止めてやる」
「止める?」
「黙って座っておれ。それと──懐の札を出せ」
言われて、俺は胸元から例の紙切れを取り出した。二日前に渡された、漏れを塞ぐための札だ。
婆様はそれを受け取ると、俺の手の届かない、板間の隅へ置いた。
「今、お前は素のままじゃ。半端に塞いだ札もない。だだ漏れよ。──だが、どうせ分からんじゃろ」
分からなかった。目を閉じても、体は昨日と同じ、何も感じない。漏れているという実感が、そもそも湧かない。
「では、教えてやる」
次の瞬間、何かが変わった。
婆様の手が、そっと胸の前にかざされたのが、閉じた瞼の向こうに分かった。
うまく言えない。強いて言うなら、ずっと鳴っていた音が、急に止んだような感じだった。存在にすら気づいていなかった音だ。止まって初めて、それがあったと分かる。体の輪郭が、内側から静かになった。
そして、その静けさが、すっと抜けた。
抜けた瞬間の方が、はっきりと分かった。何かが、体のあちこちから染み出していく。指の隙間から水がこぼれるような、途切れることのない流出。
「……今、なんか」
「それがお前の漏れじゃ」
婆様は手を引いていた。
「わしが一瞬、蓋をした。止まった時と、また漏れ始めた時。その差を体で覚えよ。理屈で覚えるな、体で覚えよ。──次からは、自分でそれを探す」
止まっている状態を、一度だけ、体が覚えた。
昨日まで、手ぶらで暗闇を探っていた。今日は、消える寸前の残像を一つ、握っている。同じ暗闇でも、指先に触れたものが一度でもあるのと、ないのとでは、まるで違う。
「筋は悪うない」
婆様が、初めてそれらしいことを言った。
「悪うはない。ただ、器がでかすぎて、蓋がな。……まあよい。毎朝じゃ」
婆様は隅の札を拾い、俺の胸元へ放って寄越した。
「それまでは、これで凌げ。──日に日に薄うなるのを、忘れるな」
◆
その足で、俺は村へ下りた。
懐には、昨夜書き写した手帳がある。開けば、崩れた水路の直し方が、俺の下手な字で並んでいる。バッテリーと引き換えに紙へ移した知恵だ。もう画面を開かなくても、これさえあればいい。
石を積むには技がいる。積み上げた石は、次の雨で崩れる。だが、積まないやり方がある。竹で細長い籠を編み、その中に川石を詰めて、崩れた場所へ寝かせて並べる。籠が石をまとめて抱えるから、一つ一つを組む必要がない。水が来ても、籠ごと踏ん張る。
蛇籠、という名前らしかった。
理屈は分かった。問題は、ここからだった。
俺は石の積み方も、竹の編み方も知らない。そして俺は、この里の誰からも信用されていない、昨日来たばかりのよそ者だ。
いくら正しい方法を知っていても、手を動かすのは俺じゃない。里の人間だ。昨日会ったばかりの男が「こうすれば直る」と説いて回ったところで、誰が本気にする。
元の仕事でも、同じだった。正しいというだけで通った案は、一つもない。人は正しさでは動かず、動いているものを見て、初めて動く。
だから俺は、いつも最初に、小さく動くものを作った。
「お吉」
村の入り口で、案の定そこにいた子供を呼んだ。
「竹、どこで採れる」
「竹? 裏山にいっぱいあるよ。なんで」
「案内してくれ。あと──むしろを編むのが一番うまいのは、誰だ」
◆
むしろを編むのが一番うまいのは、留造という名の、年嵩の男だった。
六十は超えているだろう。腰は曲がっているが、指だけは若い者より確かに動く、とお吉が請け合った。庭先で黙々とむしろを編んでいたその男は、俺が来ると手を止め、警戒の目を向けた。当然だ。
「お狐様のところの、よそ者か」
「透といいます。……一つ、教わりたくて」
俺は、裏山で切ってきた竹を数本、地面に置いた。それから手帳を開き、書き写した図を見ながら、同じものを地面に描いた。細長い、網目の筒。
「これを、編めませんか。むしろみたいに、竹で。中に石を詰めるんです」
留造は絵を見て、それから俺を見た。
「……何に使う」
「水路の、崩れたところに寝かせます。石が流れないように」
しばらく、留造は黙っていた。
それから、置いてあった竹を一本手に取り、指でしならせて、具合を確かめた。俺の絵を、もう一度見た。
「筒に、編めというのか」
「はい」
「むしろしか編んだことはない」
「むしろが編めるなら」
「……編めるのとは、違う」
そう言いながら、留造の指は、もう竹を割き始めていた。
◆
最初の一本は、失敗した。
編み目が粗すぎて、詰めた石がこぼれた。留造は舌打ちをして、ほどいて、編み直した。二本目は、目を細かくしすぎて、途中で竹が足りなくなった。
俺にできることは、ほとんどなかった。石を運び、竹を運び、こぼれた石を拾い集める。留造の手が迷った時に、手帳を開いて読み上げる。目の詰め方、石の大きさの揃え方。俺は何一つ作れないが、賢い誰かが積み上げた知恵を、留造の手のところまで運ぶことはできた。
昼を過ぎる頃、三本目が編み上がった。
人の背丈ほどの、竹の筒。留造がそれを持ち上げ、しげしげと眺めた。
「妙な物を作らせる」
言葉とは裏腹に、その手つきは、悪い出来のものを扱うそれではなかった。
いつの間にか、庭先には人が増えていた。むしろを編んでいたはずの男衆が、二人、三人と手を止めて、遠巻きに見ている。力仕事に向かんと言われ、村の隅で手先の仕事をしていた男たちだ。その目に、うっすらと、別の色が混じり始めていた。
自分たちの指が、水路を直すかもしれない。
まだ、誰もそうとは口にしない。ただ、留造の編んだ竹の筒を、皆がじっと見ていた。
◆
その日の夕暮れ、俺たちは最初の一本を、崩れた水路まで運んだ。
石を詰めると、蛇籠は驚くほど重くなった。大人四人がかりで、崩れた石組みの一番低いところへ、そろそろと寝かせる。
水が、籠にぶつかって、脇へ逃げようとした。逃げて、それから、行き場を失って、少しだけ、本来の流れへ戻った。
ほんの少しだ。田一枚を潤すには、まるで足りない。
それでも、乾いていた溝の底が、うっすらと濡れた。
誰も、声を上げなかった。ただ、留造が、濡れた溝の底を長いこと見つめて、それから、鼻をすすった。
「……年寄りに、無駄な汗をかかせよる」
◆
その夜、婆様の家に戻ると、囲炉裏の前に座らされた。
「今日は村で、何をしておった」
「水路を、少し」
「ほう」
婆様は、俺の顔をじっと見た。あの、器を測る時の目だった。
「顔を見せてこいとは言うた。里を作り変えてこいとは、言うておらん」
しまった、と思った。
「たかが溝一本と侮るな、小僧。飢えた里で、一人だけ余計に飯を生ませる男がおる。それは、いずれ噂になる。噂は、山を越える」
婆様は、囲炉裏の火に薪を一本くべた。
「山の向こうには、その噂を、聞き逃さぬ耳がある」
俺は、その時はまだ、それがどういう意味か、深くは考えなかった。