貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜   作:大太一人

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第四話 蛇籠

 

「今日は、わしが一度だけ手本を見せる」

 

 翌朝の稽古で、婆様はそう言った。

 

「昨日は、何も感じんかったな。当たり前じゃ。生まれてこのかた漏れっぱなしでは、比べるものがない。──だから、一度だけ止めてやる」

 

「止める?」

 

「黙って座っておれ。それと──懐の札を出せ」

 

 言われて、俺は胸元から例の紙切れを取り出した。二日前に渡された、漏れを塞ぐための札だ。

 

 婆様はそれを受け取ると、俺の手の届かない、板間の隅へ置いた。

 

「今、お前は素のままじゃ。半端に塞いだ札もない。だだ漏れよ。──だが、どうせ分からんじゃろ」

 

 分からなかった。目を閉じても、体は昨日と同じ、何も感じない。漏れているという実感が、そもそも湧かない。

 

「では、教えてやる」

 

 次の瞬間、何かが変わった。

 

 婆様の手が、そっと胸の前にかざされたのが、閉じた瞼の向こうに分かった。

 

 うまく言えない。強いて言うなら、ずっと鳴っていた音が、急に止んだような感じだった。存在にすら気づいていなかった音だ。止まって初めて、それがあったと分かる。体の輪郭が、内側から静かになった。

 

 そして、その静けさが、すっと抜けた。

 

 抜けた瞬間の方が、はっきりと分かった。何かが、体のあちこちから染み出していく。指の隙間から水がこぼれるような、途切れることのない流出。

 

「……今、なんか」

 

「それがお前の漏れじゃ」

 

 婆様は手を引いていた。

 

「わしが一瞬、蓋をした。止まった時と、また漏れ始めた時。その差を体で覚えよ。理屈で覚えるな、体で覚えよ。──次からは、自分でそれを探す」

 

 止まっている状態を、一度だけ、体が覚えた。

 

 昨日まで、手ぶらで暗闇を探っていた。今日は、消える寸前の残像を一つ、握っている。同じ暗闇でも、指先に触れたものが一度でもあるのと、ないのとでは、まるで違う。

 

「筋は悪うない」

 

 婆様が、初めてそれらしいことを言った。

 

「悪うはない。ただ、器がでかすぎて、蓋がな。……まあよい。毎朝じゃ」

 

 婆様は隅の札を拾い、俺の胸元へ放って寄越した。

 

「それまでは、これで凌げ。──日に日に薄うなるのを、忘れるな」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その足で、俺は村へ下りた。

 

 懐には、昨夜書き写した手帳がある。開けば、崩れた水路の直し方が、俺の下手な字で並んでいる。バッテリーと引き換えに紙へ移した知恵だ。もう画面を開かなくても、これさえあればいい。

 

 石を積むには技がいる。積み上げた石は、次の雨で崩れる。だが、積まないやり方がある。竹で細長い籠を編み、その中に川石を詰めて、崩れた場所へ寝かせて並べる。籠が石をまとめて抱えるから、一つ一つを組む必要がない。水が来ても、籠ごと踏ん張る。

 

 蛇籠、という名前らしかった。

 

 理屈は分かった。問題は、ここからだった。

 

 俺は石の積み方も、竹の編み方も知らない。そして俺は、この里の誰からも信用されていない、昨日来たばかりのよそ者だ。

 

 いくら正しい方法を知っていても、手を動かすのは俺じゃない。里の人間だ。昨日会ったばかりの男が「こうすれば直る」と説いて回ったところで、誰が本気にする。

 

 元の仕事でも、同じだった。正しいというだけで通った案は、一つもない。人は正しさでは動かず、動いているものを見て、初めて動く。

 

 だから俺は、いつも最初に、小さく動くものを作った。

 

「お吉」

 

 村の入り口で、案の定そこにいた子供を呼んだ。

 

「竹、どこで採れる」

 

「竹? 裏山にいっぱいあるよ。なんで」

 

「案内してくれ。あと──むしろを編むのが一番うまいのは、誰だ」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 むしろを編むのが一番うまいのは、留造という名の、年嵩の男だった。

 

 六十は超えているだろう。腰は曲がっているが、指だけは若い者より確かに動く、とお吉が請け合った。庭先で黙々とむしろを編んでいたその男は、俺が来ると手を止め、警戒の目を向けた。当然だ。

 

「お狐様のところの、よそ者か」

 

「透といいます。……一つ、教わりたくて」

 

 俺は、裏山で切ってきた竹を数本、地面に置いた。それから手帳を開き、書き写した図を見ながら、同じものを地面に描いた。細長い、網目の筒。

 

「これを、編めませんか。むしろみたいに、竹で。中に石を詰めるんです」

 

 留造は絵を見て、それから俺を見た。

 

「……何に使う」

 

「水路の、崩れたところに寝かせます。石が流れないように」

 

 しばらく、留造は黙っていた。

 

 それから、置いてあった竹を一本手に取り、指でしならせて、具合を確かめた。俺の絵を、もう一度見た。

 

「筒に、編めというのか」

 

「はい」

 

「むしろしか編んだことはない」

 

「むしろが編めるなら」

 

「……編めるのとは、違う」

 

 そう言いながら、留造の指は、もう竹を割き始めていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 最初の一本は、失敗した。

 

 編み目が粗すぎて、詰めた石がこぼれた。留造は舌打ちをして、ほどいて、編み直した。二本目は、目を細かくしすぎて、途中で竹が足りなくなった。

 

 俺にできることは、ほとんどなかった。石を運び、竹を運び、こぼれた石を拾い集める。留造の手が迷った時に、手帳を開いて読み上げる。目の詰め方、石の大きさの揃え方。俺は何一つ作れないが、賢い誰かが積み上げた知恵を、留造の手のところまで運ぶことはできた。

 

 昼を過ぎる頃、三本目が編み上がった。

 

 人の背丈ほどの、竹の筒。留造がそれを持ち上げ、しげしげと眺めた。

 

「妙な物を作らせる」

 

 言葉とは裏腹に、その手つきは、悪い出来のものを扱うそれではなかった。

 

 いつの間にか、庭先には人が増えていた。むしろを編んでいたはずの男衆が、二人、三人と手を止めて、遠巻きに見ている。力仕事に向かんと言われ、村の隅で手先の仕事をしていた男たちだ。その目に、うっすらと、別の色が混じり始めていた。

 

 自分たちの指が、水路を直すかもしれない。

 

 まだ、誰もそうとは口にしない。ただ、留造の編んだ竹の筒を、皆がじっと見ていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その日の夕暮れ、俺たちは最初の一本を、崩れた水路まで運んだ。

 

 石を詰めると、蛇籠は驚くほど重くなった。大人四人がかりで、崩れた石組みの一番低いところへ、そろそろと寝かせる。

 

 水が、籠にぶつかって、脇へ逃げようとした。逃げて、それから、行き場を失って、少しだけ、本来の流れへ戻った。

 

 ほんの少しだ。田一枚を潤すには、まるで足りない。

 

 それでも、乾いていた溝の底が、うっすらと濡れた。

 

 誰も、声を上げなかった。ただ、留造が、濡れた溝の底を長いこと見つめて、それから、鼻をすすった。

 

「……年寄りに、無駄な汗をかかせよる」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その夜、婆様の家に戻ると、囲炉裏の前に座らされた。

 

「今日は村で、何をしておった」

 

「水路を、少し」

 

「ほう」

 

 婆様は、俺の顔をじっと見た。あの、器を測る時の目だった。

 

「顔を見せてこいとは言うた。里を作り変えてこいとは、言うておらん」

 

 しまった、と思った。

 

「たかが溝一本と侮るな、小僧。飢えた里で、一人だけ余計に飯を生ませる男がおる。それは、いずれ噂になる。噂は、山を越える」

 

 婆様は、囲炉裏の火に薪を一本くべた。

 

「山の向こうには、その噂を、聞き逃さぬ耳がある」

 

 俺は、その時はまだ、それがどういう意味か、深くは考えなかった。

 

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