貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜 作:大太一人
秋が来て、朽縄の里は、久しぶりに米を余らせた。
余らせた、と言っても、蔵が満ちるような話ではない。年貢を納め、来年の種籾を取り分け、その上で、ほんの少しだけ、手元に残った。ただそれだけのことだ。だが、その「ほんの少し」を、里は何年も見ていなかった。
水路が戻ったのが、大きかった。下の段の田が息を吹き返し、実りが六分から八分まで戻った。
それだけではない。
この里に来てから、俺はいくつか、手帳の知恵を村へ移していた。
なかでも村が目を見張ったのは、種籾の選び方だった。
水を張った桶に、蒔く前の種籾を放つ。しばらくすると、底に沈むものと、水面に浮くものとに分かれる。浮いた籾は、中身の詰まっていない、やせた種だ。それをすくい捨て、沈んだものだけを蒔く。──たったそれだけで、芽の出そろい方が、まるで違った。
村も、穂の良し悪しで種を選ぶことは知っていた。だが、水に浮かせて分ける、という発想はなかったらしい。浜の里では塩を溶いた水でやる者もいる、とAIは言っていたが、この山で塩は貴重すぎる。だから代わりに、泥を溶いて水を重くした。
種籾に手をつけた村だ。残った一粒が、どれだけ重いか、皆が知っている。その一粒から出た芽が、田いっぱいに揃って立った時、留造は柄にもなく、しばらく何も言わなかった。
留造の手も、変わった。むしろを編むだけだったあの指が、蛇籠を覚えてからは、俺が手帳の絵を見せるたび、見たこともない道具を形にするようになった。魚を捕る仕掛けも、穀物をふるうざるも、頼めばたいてい編み上げてしまう。
「妙な物ばかり作らせよる」
口癖のように言いながら、その手は、いつも楽しそうだった。
◆
朝の稽古も、変わっていた。
あの日、婆様が一瞬だけ見せてくれた「止まった感覚」を、俺はようやく、自分の手で掴めるようになっていた。
毎朝、目を閉じて、胸の内の壺を探す。こぼれ続ける流れに、そっと蓋をする。最初は指先で栓をするようなおぼつかなさだったが、繰り返すうちに、体が覚えた。今では、目を開けたまま、歩きながらでも、漏れを抑えていられる。
婆様から貰った札は、もう懐に入っていない。
いらなくなったのだ。
「筋は、よいと言うたじゃろう」
その朝、稽古を終えた俺に、婆様は白湯を差し出しながら、珍しく機嫌がよさそうだった。
「二月かかると思うておった。ひと月半で、蓋をした。……器がでかいわりに、器用な男よ」
今だ、と思った。
「婆様。頼みがある」
俺は、湯呑みを両手で包んだまま、切り出した。ずっと、言おうと思っていたことだった。
「霊力の、使い方を教えてほしい」
婆様の手が、止まった。
「蓋をするだけじゃなくて。この、こぼれるほどあるものを、ちゃんと使えるようになりたいんだ。……帰る方法を、探したい。稀人のことも、裂け目のことも、調べるには力が要るはずだろう。あんたなら──」
「ならん」
言葉が、途中で断ち切られた。
さっきまでの機嫌のよさは、跡形もなかった。
「わしは、蓋の仕方を教えただけじゃ。それも、お前がこぼして獣を呼ばぬためよ。──術を教えるのとは、違う」
「でも」
俺は、食い下がった。
「符を書いて、妖魔を祓って、俺の器を指先ひとつで測る。……この国じゃ、そういう力を使う者を、陰陽師って呼ぶんだろう。あんた、そうなんじゃないのか」
婆様は、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。しばらくして、ぽつりと落とすように、言った。
「……昔の話じゃ」
声が、低かった。
「わしは、人に術を教えられるような者ではない。それだけの腕もない。……買いかぶるな」
嘘だ、と思った。
根拠はない。ただ、この人が毎朝、俺の器をひと撫でで測り、一瞬で蓋をしてみせる、あの精度を、俺は知っている。腕がない者の手つきではなかった。
だが、婆様の横顔は、それ以上の問答を拒んでいた。稀人のことを聞いた夜と、同じだった。触れられたくないものが、この人には、いくつもある。
「……悪かった」
俺が引くと、婆様はしばらく黙って、それから、ぽつりと言った。
「蓋の稽古は、続けよ。それだけは、教えてやる」
背を向けたその声が、少しだけ、かすれていた。
◆
その日、俺は一人で、里はずれの田まで出た。
といっても、遠出ではない。水路の様子を見に行くだけだ。蛇籠を沈めてから、水の通りに変わりはないか、時々こうして見て回っている。お吉は今日、留造の手伝いに駆り出されていて、いなかった。
一人歩きを咎める者も、この頃は減っていた。里の外れの、目の届く範囲でなら、俺が勝手をしても、皆が半分諦めている。
いちばん下の段の田のあぜに、先客がいた。
子供だった。
里の子ではない。それは、一目で分かった。着ているものが違う。粗い麻ではなく、藍で染めた、きちんとした織りの小袖。旅装だが、擦り切れていない。歳は、十をいくつか越えたくらいか。
その子は、あぜにしゃがみ込んで、戻りかけた田を、じっと眺めていた。
俺の足音に気づくと、振り返った。
物怖じしない目だった。子供のくせに、値踏みするような、妙に大人びた光がある。俺を上から下まで眺めると、その口の端が、ゆっくりと持ち上がった。
「──あんたが、透か」
足が、止まった。
名乗った覚えはない。この子とは、今、初めて会った。
「なんで、俺の名を」
「聞いたのさ。二つ隣の宿場で。この先の潰れかけた里に、けったいな流れ者が住み着いて、死んだ田を生き返らせてるってな」
その子は、悪びれもせず、田の方へ顎をしゃくった。
「だから、おれが見に来た。──で、来てみりゃ、これだ。水を引き直しただけじゃない。土の色が違う。やせてた田が、肥えてる。ひと夏やそこらで、こんなふうには戻らない。誰かが、丁寧に手を入れてる」
俺は、返事に詰まった。
噂は、山を越える。婆様の言葉が、頭をよぎった。まさか、こんな子供の耳にまで、とは思わなかったが。
そして、この子は、ただ噂を聞きつけて来ただけの子供ではなかった。田の一枚を見ただけで、そこで何がなされたかを、正しく言い当てている。里の年寄りでも、そうはいかない。
「おまえ、どこの子だ」
その子の目が、まっすぐ俺を捉えた。
値踏みは、もう終わっていた。まるで、探していたものを見つけた、とでも言いたげな目だった。
「それより、おまえの話をしようぜ。──流れ者」
悪童めいた笑みの奥で、その目だけは、笑っていなかった。