貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜 作:大太一人
「おまえの話をしようぜ、流れ者」
子供はそう言って、あぜから立ち上がった。
その手には、どこで採ったのか、赤い木の実が一握り。喋りながら、それを一つ、口に放り込む。渋かったのか、器用に種だけを、ぺっ、と田の方へ吐き捨てた。汚れた指を、着ている上等な小袖の裾で、無造作に拭う。
どこの家の子か知らないが、行儀は、里の悪童と変わらなかった。
背は、俺の胸のあたりまでしかない。なのに、見下ろされている気がした。
「まず、名だ。おれは──」
子供の目が、実りかけた田を、ちらりと撫でた。
「穂乃。旅の、穂乃だ。で、おまえは透。里の田を生き返らせた、流れの男。……そこまでは、聞いた通りだ」
子供は、俺の周りをゆっくりと回り始めた。値踏みするというより、品定めだった。馬でも見るような目つきだ。
「けどな、聞いた話と、合わないところがある」
「……何がだ」
「田を直したなら、たいした知恵者だ。だが、おまえの手を見な」
言われて、思わず自分の手を見た。
「豆はある。だが、鍬を握り込んだ豆じゃない。指の腹の、妙なところにばかりできてる。ものを書く者の手だ。──土いじりの手じゃない」
背筋が、冷えた。
図星だった。この豆は、鍬が作ったものじゃない。
「知恵はある。手は、土のものじゃない。着物こそ里の者と同じ粗末な麻だが、着方がなってない。まるで、借り物みたいにな。ものの言いようも、妙だ。どこの里の言葉とも違うし、時々、聞いたこともない言い回しが混じる」
子供は、そこで足を止めた。試すような目で、俺を見た。
「一つ、聞かせろ。おまえ一人で、あの田を直したのか」
嘘をつく理由もなかった。
「いや。直したのは、村の連中だ。俺は、やり方を教えただけだ」
「ほう」
子供の眉が、片方だけ上がった。
「そのやり方は、どこで仕入れた」
「……昔、読んだんだ。いろんな書物を」
半分は、本当だった。手帳の中身の出どころを、正直に言うわけにはいかない。
「読んだことを、覚えていて、里の者にやらせた。……つまり、おまえ自身は、鍬も握れん、石も積めん。何一つ、自分の手では作れんわけだ」
言い方に、棘があった。
馬鹿にされたのかと思った。だが、子供の目は、違った。むしろ、身を乗り出していた。
「なのに、村は変わった。──なあ、それはつまり、こういうことだろう」
子供は、指を一本立てた。
「おまえは、何も作れん。だが、作れる者を、正しく動かせる。知恵と、人の手のあいだを、繋ぐことができる。……そういう男は、一人で百人力の職人より、よほど使い出がある」
子供は、俺の正面で足を止めた。
「おまえ、どこの生まれだ。──いや」
その目が、細くなった。
「どこの、生まれでもないんじゃないか?」
◆
答えられなかった。
肯定も、否定も、どちらも危ない気がした。この子は、あてずっぽうで言っている顔ではなかった。田を一目で読んだ時と、同じ目をしていた。
「黙るか。まあ、いい」
子供は、あっさり引いた。
「詮索する気はない。人には、言えない生まれの一つや二つ、ある。おれにもな」
そう言って、笑った。
その拍子に、風が、子供の前髪を持ち上げた。
額のあたりに、一瞬、何か硬いものがのぞいた気がした。髪の色と紛れる、小さな──だが、見えたのは本当に一瞬で、風がやむと、また前髪の下に隠れた。見間違いか、とも思った。
「なあ、透」
子供は、戻りかけた田を、もう一度眺めた。
「一つの村を、一季で生き返らせる。それだけの知恵がある男が、なんだって、こんな辺境の潰れ里で、狐婆の世話になってる」
「……行き倒れたところを、拾われたんだ」
「そうか。運がよかったな」
言葉は、ねぎらいだった。だが、目は違った。
「運のいい男は、好きだ。おれは、運を持ってる奴を、手元に置きたいたちでな」
子供は、身をひるがえした。
「またな、流れ者」
そう言い残して、あぜ道を、来た方へ歩いていった。
小さな背中だった。
なのに、その足取りには、迷いというものが、まるでなかった。
俺は、その背中が木立に消えるまで、動けなかった。
◆
「白髪の狐に、流れ者。この里も、ずいぶん賑やかになったものよ」
木立を抜けたところで、その子供は、ぽつりと呟いた。
透に「穂乃」と名乗った子供である。むろん、まことの名ではない。あの田の稲穂から、とっさに借りただけの偽りの名だ。この子の、まことの名を──鬼頭焔という。
里からは見えない、雑木の陰。そこに、二頭の馬と、二人の供が控えていた。焔がお忍びで里へ入る間、遠巻きに気配を絶っていた者たちだ。
「姫様。……また、その辺りの物を、召し上がって」
供の一人が、焔の口の端の実の汁を見て、露骨に眉をひそめた。
「毒でも入っていたら、なんとなさいます」
「入ってなかった。げんに、生きてる」
焔は悪びれもせず、袖で口を拭った。供が、今度は袖の汚れに顔をしかめる。この主従の間では、見慣れた光景らしかった。
「それより。──面白い男だった」
焔は、馬の鼻面を撫でながら、短く言った。
「田の一枚で、村が変わっていた。あれは、まぐれや小手先じゃない。……それも、この国のやり方じゃない。どこにもない、別の理だ」
「では、噂は真で」
「噂より、ずっと質が悪い」
焔は、馬の鼻面から手を離した。
「あれは、稀人だ。この世ならぬところから、落ちてきた者よ」
供の一人が、息を呑んだ。
「稀人は、途方もない器に引かれて、この世に落ちる。器がなければ、裂け目はあれを選ばん。──つまり、田を直したあの手つきの下に、そこらの姫武者が束になっても敵わぬ器が、眠っておるということだ」
「まさか、あの、なりで」
「なりは、関係ない。むしろ、な」
焔の口の端が、吊り上がった。鋭い犬歯が、のぞいた。
「あれは、男だ。あの器を持って、男に生まれた。──母上が知れば、喉から手が出るぞ」
供の二人が、顔を見合わせた。
「どうなさいます。連れ帰りますか」
「まさか」
焔は、あっさり首を振った。
「今、手を出せば、種として囲われるだけだ。あれを畜生の役目に縛るのは、あまりに惜しい。──もう少し、泳がせる」
焔は、馬に飛び乗った。子供の体には大きすぎる馬を、危なげなく御して。
「あの男が、どこまでやれるか。見届けてからでも、遅くはない」
◆
その夜、俺は、昼間のことを婆様に話した。
話すべきか、迷った。だが、あの子供の目を思い出すたび、背中がざわついて、黙っていられなかった。
旅の子供に、素性を見抜かれかけたこと。運のいい男は手元に置きたい、と言われたこと。次に会う時は名乗る、と言い残して去ったこと。
婆様は、囲炉裏の火をいじる手を止めずに、聞いていた。
「その子供、歳は」
「十を、いくつか越えたくらいだと思う」
「一人か」
「ああ」
婆様の手が、止まった。
「身なりは。ものの言いようは」
「身なりは、いいものだった。旅装だけど、擦り切れてない。ものの言いようは……子供とは思えなかった。俺を上から下まで値踏みして、それが当たり前だって顔をしてた。人を畏まらせるのに、慣れてる感じだった」
しばらく、婆様は何も言わなかった。
火が、薪をなめる音だけが、家の中に響いた。
「透」
やがて、婆様は静かに言った。声が、いつもより低かった。
「良い身なりの子が、供も連れず、遠くの里を一人で歩く。そのうえ、大人を値踏みして、平気で畏まらせる。──そういう物腰は、生まれつき人の上に立つ者にしか、身につかん」
「……それって」
「そういう育ち方をする子は、この国に、そう多くはおらん」
婆様は、俺を見た。あの、器を測る時の目だった。
「お前は、いちばん見つかってはならぬ相手に、いちばん先に、見つかったのかもしれん」