貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜 作:大太一人
田に、人が並んでいた。
あの秋から、季節が二つ巡っていた。冬が来て、雪の薄く積もる里で俺は初めての年を越し、そうして、田植えの季節が来た。
去年のこの時期、俺は田に入れてもらえなかった。田植えは村人たちの手でなされる仕事だし、まして、素性の知れぬよそ者の男に、苗を任せる道理もない。俺はただ、あぜからそれを眺めていた。──今年は、田へ下りても、誰も止めなかった。それだけの月日が、里との間に積もっていた。
水を張った棚田が、朝の空を映して光っている。その中に、里の者が横一列に並び、腰をかがめて、選りすぐった苗を一株ずつ、泥へ植えていく。去年、俺が桶の水で選り分けさせた種籾――その芽から育てた、詰まりのいい苗だ。
植えているのは、女たちだった。腰を折ったまま、後ろへ後ろへと下がりながら、まるで機を織るように苗を差していく。俺もあぜから田へ入って、見よう見まねで手を動かしたが、三株植える間に、隣の女は十株を植えていた。しかも、俺の植えた苗は、二株に一株は傾いていた。
「透殿。それは、そのうち浮くよ」
通りすがりに、若い女が笑って、俺の傾いだ苗を、片手でついと直していった。悪気はない。俺が畑仕事で何ひとつ様にならないのは、この一年、里の皆が見てきたことだった。
俺は、泥のついた手を見た。
鍬の豆はできない。土いじりの手にはならない。一年やって、それだけは、はっきりした。
◆
「透ー! そっち、遅い!」
声が、田の反対側から飛んできた。
お吉だった。頭の丸い耳を機嫌よく立てて、俺の三倍の速さで苗を植えている。九つの子供の手は、大人の女ほどではないが、俺よりはよほど確かだった。
「透の苗、みんな傾いてる。へたくそ」
「知ってる」
「あたしなんか、目つぶってもまっすぐ植えられるもん」
言い返す言葉を探しているうちに、お吉はもう一列、植え終わっていた。
そのお吉の隣で、もう一人、子供が泥にまみれていた。
背は、お吉より頭一つ高い。粗い麻の、丈の合っていない着物。裾をはしょり、すねまで泥に浸かって、黙々と苗を差している。その手つきは、お吉より速かった。速いだけでなく、一株ごとの間が、定規で引いたように揃っていた。
穂乃だった。
あの秋、旅の穂乃と名乗って去った子供は、それきり来ないかと思えば、冬に一度、春に二度、ふらりと里に現れた。いつも一人で。最初は誰もがいぶかしんだが、当人が我が物顔で里を歩き、子供らと遊び、留造の仕事を覗き、婆様の家の前まで来ては引き返す――そういうことを繰り返すうちに、里の者はいつしか、「あの旅の子」として半ば馴染ませてしまっていた。
俺だけが、馴染めずにいた。
あの日、婆様の、あの低い声。――お前は、いちばん見つかってはならぬ相手に、いちばん先に、見つかったのかもしれん。
その相手が今、すねを泥に浸けて、お吉と苗の植え比べをしている。
「穂乃、植えるの速すぎ。ずるしてない?」
「ずるも何も、ただ植えてるだけだ」
「ぜったいずるだ。穂乃、背が高いんだもん。手が長いから、ずるい」
「背は関係ない。おまえが遅いだけだ」
お吉が、むっと頬をふくらませた。
この子は、穂乃が気に食わないらしかった。理由を聞いても、はっきりとは言わない。ただ、穂乃が里に現れるたび、お吉はどこか棘のある目でその背中を追う。ほかのよそ者――たとえば俺には、あれだけ懐いたくせに。
泥田の隅で、二人の子供が、どちらが速く苗を植えるかで、本気で張り合っている。その時の俺は、ただ、この二人はどうにも馬が合わないらしい、と眺めていただけだった。
◆
異変に最初に気づいたのは、あぜで苗を配っていた留造だった。
「……なんじゃ、あれは」
留造が、手を止めて、谷の上のほうを見上げていた。
里へ入る道は、東の峠から下ってくる。その峠の、木立の切れ間に、人影があった。
一つではなかった。
二つ、三つと数えるうちに、影は連なって、細い列になった。荷を負い、子を負い、杖をつき、よろめきながら、峠を下ってくる。遠目にも、その足取りが尋常でないのが分かった。歩いているというより、倒れるのを一歩ごとに先へ送っている、そういう歩き方だった。
田にいた女たちが、次々と腰を伸ばした。
列は、里へ近づくにつれ、人の形を取り戻していった。やせていた。皆、ひどくやせていた。頬がこけ、目だけが落ちくぼんだ穴のように大きい。着物は破れ、泥と、それから別の、黒く乾いた汚れがこびりついている。
先頭の、杖をついた老爺が、里の入り口で膝を折った。
崩れる、というより、ほどけるように座り込んだ。追いすがるように、後ろの者たちも、次々とそこへ倒れ込んでいく。
「水……水を、恵んでくだされ」
かすれきった声だった。
里の者は、誰も動かなかった。動けなかった、というほうが近い。突然、峠から下ってきた二十人からの人の群れを前に、皆、鍬を握ったまま、立ち尽くしていた。
最初に動いたのは、お吉だった。
子供の身の軽さで田を飛び出し、あぜに置いてあった竹筒を掴むと、老爺の口元へ運んだ。老爺は、震える手でそれにすがりつき、こぼしながら、喉を鳴らして飲んだ。
それを見て、里の女たちも、ようやく動いた。
◆
村長の家の前に、難民たちは集められた。
数えると、二十三人いた。老人と、女と、子供。若い女の姿は、ほとんどない。里と、同じだった。どこの里からも、若い女は戦に取られていく。
白湯を配り、あわの粥を薄く延ばして椀に注ぐと、彼らは獣のようにそれをすすった。奪い合いこそしなかったが、椀を持つ手は、みな震えていた。
落ち着くのを待って、村長のお狛が、老爺に尋ねた。
「どちらから、おいでなすった」
「……嶺の、国から」
老爺の答えに、里の者がざわついた。
嶺国。俺の頭の中の地図でも、そこだけは、はっきりと位置が付いている。この朽縄の里から峠一つ越えた、国境の向こうにある山国だ。誰が治めているのかまでは、俺は知らなかった。
「峠を、越えてきなすったか」
「越えるしか、なかったのじゃ」
老爺は、椀を握りしめた。
「殿様が……嶺の、お館様が、討たれなさった」
途切れ途切れに、老爺は語った。
嶺国の守護であった御方が、ひと月ほど前、討たれたのだという。攻めてきた敵にではない。長年その下で仕えていた、家中の者の手によって。網代、という名の家だった。
「女郎蜘蛛、と……皆が、そう呼んでおりました。上の御方を、宴に招いて、酒を注いで、その席で……」
騙し討ちだった。
主を討った網代の女は、そのまま国を奪い取った。従わぬ者は狩られ、館は焼かれ、国は乱れた。折悪しく、その年は稲の実りが悪く、蔵という蔵は兵に押さえられた。残ったのは、飢えと、殺し合いだけだった。
「あの国には、もう、おられませぬ。田を捨て、家を捨て……食べるものの、まだいくらか残っておるという、こちらの国へ」
老爺は、地に額をつけた。
「後生でございます。しばらくの間だけでも、この里の隅に……」
里の者の顔に、ありありと困惑が浮かんでいた。
無理もなかった。この里とて、去年ようやく、種籾に手をつけずに済んだばかりだ。二十三人の余所者を、養う余裕などありはしない。それは、ここにいる誰もが、口に出さずとも分かっていた。
「……これは、わし一人で、決められることではございませぬ」
村長が、絞り出すように言った。里の行く末に関わる話だ。村長の一存で背負えるものではない。里の者を集めて、皆で決めるより、ほかにない。
だが、俺は、別のことを見ていた。
◆
難民の群れの、後ろのほうに、若い女が一人、うずくまっていた。
二十歳そこそこだろうか。やせた腕に、二つか三つの子を抱いている。その子が、いけなかった。
だらりと母の腕に垂れて、動かない。粥を配られても、口を開けない。時折、荒い息だけが、ひゅう、ひゅうと漏れる。頬が、熱で不自然に赤かった。
俺は、その子から、しばらく目が離せなかった。
「透」
いつの間にか、隣に穂乃が立っていた。
泥を落とし、いつもの子供の顔で、しかしその目だけは、俺と同じものを見ていた。あの、母子を。
「おまえも、あれが気になるか」
「……ああ」
「病だな」
あっさりと、穂乃は言った。
「あれだけの数が、飢えて、寄り集まって、峠を越えてくる。道々で、弱った者から順に、何かをもらってくる。――ああいうのは、一人では終わらん」
子供の言うことではなかった。
俺が漠然と感じていただけの不安を、この子は、こともなげに言い当てた。それが何を招くのか、とうに知っている顔で。
「なあ、透」
穂乃は、母子から目を離さずに言った。
「おまえなら、どうする」
試すような響きは、なかった。むしろ、静かだった。
俺は、答えなかった。
代わりに、頭の中で、算盤を弾き始めていた。去年、村長の家で、里の窮状を勘定した時と同じだった。ただ、今度の算盤は、水路の勾配や、種籾の数ではない。人だった。生きた、二十三人の人間だった。
◆
その夜、俺は、婆様の家に戻らなかった。
村長の家の板間を借りて、里の主だった者――村長、留造、それに田を多く持つ婆さんが二、三人――を集めた。集まってくれと頼んだのは、俺だ。よそ者の分際で、と、我ながら思う。だが、言わずにはいられなかった。
「あの人たちを、置いてやってほしい」
誰も、すぐには何も言わなかった。
やがて、田を持つ婆さんの一人が、疲れた声で言った。
「透殿。気持ちは分かる。分かるが、うちらも、食うや食わずじゃ。二十三人も抱えて、共倒れになったら、どうする」
「共倒れには、しません」
俺は、言った。
「養うんじゃない。働いてもらうんです」
板間が、静かになった。
「この里は、人手が足りない。去年、水路は直りました。田も戻った。でも、戻った田を、全部は使いきれていない。手が回らないからだ。――先の戦で、女衆が半分になったままだからです」
村長の、皺の奥の目が、わずかに動いた。
「あの人たちの中には、まだ動ける者もいる。老人も、子供も、座ってできる仕事ならある。留造さんが、去年、蛇籠を編んだように」
留造が、鼻を鳴らした。だが、否定はしなかった。
「やせた田は、まだいくらでもあります。人手さえあれば、開ける。夏のうちに手を入れれば、秋には、今より穫れる。二十三人が食べて、なお余るくらいには」
これは、賭けだった。
俺の見込みが外れれば、里は、余計な口を抱えて、本当に共倒れになる。分かっていた。分かっていて、俺は、それを口にしていた。
ただ、あの、熱で赤い子供の顔が、頭から離れなかった。飢えた者を追い返すのは、算盤の答えとしては、正しいのかもしれない。だが、その正しさは、俺には、どうしても弾けなかった。
「ただし」
俺は、続けた。ここからが、本当に言いたいことだった。
「病の出ている者と、そうでない者は、分けてください。寝起きする場所も、水を汲む場所も、かわやも、別にする。あの、子を抱えた女の人がいましたね。あの親子は、離れた小屋に。世話をする者も、決まった者だけにしてほしい」
「……なぜじゃ」
村長が、いぶかしげに聞いた。
「病は、人から人へ、移ります。特に、弱った者へ。せっかく受け入れて、里じゅうに病が広がったら、元も子もない。……水と、汚れを、病を持つ者から遠ざける。それだけで、ずいぶん違うんです」
半分は、去年、手帳に書き写した知恵だった。残り半分は、まだ、確かめていない。
里の者は、顔を見合わせていた。得心したというより、この余所者がまた妙なことを言い出した、という顔だった。だが、村長のお狛だけは、じっと俺を見ていた。深い隈の奥の、あの静かな目で。
「……透殿」
やがて、村長は言った。
「透殿は、いつも、里の先のことを、里の者より先に見なさる」
それは、褒め言葉なのか、そうでないのか、俺には分からなかった。
◆
話がまとまり、皆が散った後、俺は一人、板間に残った。
膝の上に、ノートPCを引き寄せる。
青白い光が、闇の中に灯った。数字が浮かぶ。本体、四十一パーセント。
俺は、リュックから、モバイルバッテリーを取り出した。手のひらに、その重みを確かめる。もう、ずいぶん軽くなった気がした。気のせいではない。
繋ぐと、本体の数字が、ゆっくりと満ちていく。
これで、最後だ。
持ち歩き用のこいつは、この一回で、空になる。あとに残るのは、本体に今、注いだ、その一杯きり。使い切れば、もう、どこにも継ぎ足す先はない。
分かっていたことだった。この一年、俺はこれを、水路のことで一度、種籾のことで一度、指を折って数えられるほどしか開かなかった。開くたびに、まとめて聞いて、答えを紙へ移した。そうやって、命をつなぐように、少しずつ使ってきた。
それでも、いつかは、この日が来る。
俺は、入力欄に、打ち込んだ。
カーソルが、瞬いた。
文字が、流れ出す。水を分けろ。かわやを分けろ。手を洗わせろ。煮沸しろ。弱った者を、一つ所に集めるな――。
俺は、それを、手帳に書き写していった。下手な字で、一行、また一行。画面の光が、俺の手元だけを、青白く照らしていた。
書き終えて、画面を閉じる。
闇が、戻ってきた。
残り、半分に満たない。それが、この機械の――そして、俺が元の世界とつながっている、最後の細い糸の、残りの長さだった。
◆
翌朝、里の外れの空き小屋の前に、俺は立っていた。
病の出ている者を、隔てるための小屋だ。ゆうべの話の通り、あの母子は、ここへ移された。
その小屋の前で、水を運んでいる者がいた。
穂乃だった。
里の井戸から、この離れた小屋まで、桶を提げて、何度も往復している。病の出た者に近づくのを、里の者はみな嫌がった。当然だ。それを、この子は、一人で買って出ていた。
袖をはしょり、細い腕で、子供の身には重すぎる桶を運ぶ。運んでは、小屋の中の母子に、椀で水を含ませてやる。慣れた手つきだった。どこで覚えたのか、病人の頭を持ち上げる手つきまで、心得ていた。
「穂乃」
俺は、声をかけた。
「……なんで、おまえがそこまでする」
旅の子供が、素性も知れない余所者の、そのまた病の出た者の世話を焼く。理由が、分からなかった。分からないから、聞いた。
穂乃は、桶を置いて、こちらを見た。
いつもの、悪童めいた顔ではなかった。かといって、あの、人を値踏みする目でもない。もっと、別のものだった。
「透。おまえ、ゆうべ、里の者に頭を下げたな。よそ者のくせに」
「……見てたのか」
「見てた。板間の外から、全部な」
穂乃は、小屋の中へ、ちらりと目をやった。荒い息の、あの子供のほうへ。
「おれにはな、あの親子を、まるごと救うような力は、ない」
ぽつりと、穂乃は言った。
その一言の底に、俺には測りきれない重さがあった。子供の口にする「力がない」が、ただの謙遜には、聞こえなかった。
「だが、水を運ぶくらいは、できる。桶を提げて、井戸と小屋を往復するくらいはな。……おれ一人の、手のぶんだけは」
穂乃は、また桶を持ち上げた。
俺は、その背中を見送った。桶を提げ、病の小屋へ入っていく、小さな背中を。供の一人もいない、子供の背中を。
その足取りに、迷いは、なかった。