貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜   作:大太一人

8 / 10
第八話 呼び水

 田に、人が並んでいた。

 

 あの秋から、季節が二つ巡っていた。冬が来て、雪の薄く積もる里で俺は初めての年を越し、そうして、田植えの季節が来た。

 

 去年のこの時期、俺は田に入れてもらえなかった。田植えは村人たちの手でなされる仕事だし、まして、素性の知れぬよそ者の男に、苗を任せる道理もない。俺はただ、あぜからそれを眺めていた。──今年は、田へ下りても、誰も止めなかった。それだけの月日が、里との間に積もっていた。

 

 水を張った棚田が、朝の空を映して光っている。その中に、里の者が横一列に並び、腰をかがめて、選りすぐった苗を一株ずつ、泥へ植えていく。去年、俺が桶の水で選り分けさせた種籾――その芽から育てた、詰まりのいい苗だ。

 

 植えているのは、女たちだった。腰を折ったまま、後ろへ後ろへと下がりながら、まるで機を織るように苗を差していく。俺もあぜから田へ入って、見よう見まねで手を動かしたが、三株植える間に、隣の女は十株を植えていた。しかも、俺の植えた苗は、二株に一株は傾いていた。

 

「透殿。それは、そのうち浮くよ」

 

 通りすがりに、若い女が笑って、俺の傾いだ苗を、片手でついと直していった。悪気はない。俺が畑仕事で何ひとつ様にならないのは、この一年、里の皆が見てきたことだった。

 

 俺は、泥のついた手を見た。

 

 鍬の豆はできない。土いじりの手にはならない。一年やって、それだけは、はっきりした。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「透ー! そっち、遅い!」

 

 声が、田の反対側から飛んできた。

 

 お吉だった。頭の丸い耳を機嫌よく立てて、俺の三倍の速さで苗を植えている。九つの子供の手は、大人の女ほどではないが、俺よりはよほど確かだった。

 

「透の苗、みんな傾いてる。へたくそ」

 

「知ってる」

 

「あたしなんか、目つぶってもまっすぐ植えられるもん」

 

 言い返す言葉を探しているうちに、お吉はもう一列、植え終わっていた。

 

 そのお吉の隣で、もう一人、子供が泥にまみれていた。

 

 背は、お吉より頭一つ高い。粗い麻の、丈の合っていない着物。裾をはしょり、すねまで泥に浸かって、黙々と苗を差している。その手つきは、お吉より速かった。速いだけでなく、一株ごとの間が、定規で引いたように揃っていた。

 

 穂乃だった。

 

 あの秋、旅の穂乃と名乗って去った子供は、それきり来ないかと思えば、冬に一度、春に二度、ふらりと里に現れた。いつも一人で。最初は誰もがいぶかしんだが、当人が我が物顔で里を歩き、子供らと遊び、留造の仕事を覗き、婆様の家の前まで来ては引き返す――そういうことを繰り返すうちに、里の者はいつしか、「あの旅の子」として半ば馴染ませてしまっていた。

 

 俺だけが、馴染めずにいた。

 

 あの日、婆様の、あの低い声。――お前は、いちばん見つかってはならぬ相手に、いちばん先に、見つかったのかもしれん。

 

 その相手が今、すねを泥に浸けて、お吉と苗の植え比べをしている。

 

「穂乃、植えるの速すぎ。ずるしてない?」

 

「ずるも何も、ただ植えてるだけだ」

 

「ぜったいずるだ。穂乃、背が高いんだもん。手が長いから、ずるい」

 

「背は関係ない。おまえが遅いだけだ」

 

 お吉が、むっと頬をふくらませた。

 

 この子は、穂乃が気に食わないらしかった。理由を聞いても、はっきりとは言わない。ただ、穂乃が里に現れるたび、お吉はどこか棘のある目でその背中を追う。ほかのよそ者――たとえば俺には、あれだけ懐いたくせに。

 

 泥田の隅で、二人の子供が、どちらが速く苗を植えるかで、本気で張り合っている。その時の俺は、ただ、この二人はどうにも馬が合わないらしい、と眺めていただけだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 異変に最初に気づいたのは、あぜで苗を配っていた留造だった。

 

「……なんじゃ、あれは」

 

 留造が、手を止めて、谷の上のほうを見上げていた。

 

 里へ入る道は、東の峠から下ってくる。その峠の、木立の切れ間に、人影があった。

 

 一つではなかった。

 

 二つ、三つと数えるうちに、影は連なって、細い列になった。荷を負い、子を負い、杖をつき、よろめきながら、峠を下ってくる。遠目にも、その足取りが尋常でないのが分かった。歩いているというより、倒れるのを一歩ごとに先へ送っている、そういう歩き方だった。

 

 田にいた女たちが、次々と腰を伸ばした。

 

 列は、里へ近づくにつれ、人の形を取り戻していった。やせていた。皆、ひどくやせていた。頬がこけ、目だけが落ちくぼんだ穴のように大きい。着物は破れ、泥と、それから別の、黒く乾いた汚れがこびりついている。

 

 先頭の、杖をついた老爺が、里の入り口で膝を折った。

 

 崩れる、というより、ほどけるように座り込んだ。追いすがるように、後ろの者たちも、次々とそこへ倒れ込んでいく。

 

「水……水を、恵んでくだされ」

 

 かすれきった声だった。

 

 里の者は、誰も動かなかった。動けなかった、というほうが近い。突然、峠から下ってきた二十人からの人の群れを前に、皆、鍬を握ったまま、立ち尽くしていた。

 

 最初に動いたのは、お吉だった。

 

 子供の身の軽さで田を飛び出し、あぜに置いてあった竹筒を掴むと、老爺の口元へ運んだ。老爺は、震える手でそれにすがりつき、こぼしながら、喉を鳴らして飲んだ。

 

 それを見て、里の女たちも、ようやく動いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 村長の家の前に、難民たちは集められた。

 

 数えると、二十三人いた。老人と、女と、子供。若い女の姿は、ほとんどない。里と、同じだった。どこの里からも、若い女は戦に取られていく。

 

 白湯を配り、あわの粥を薄く延ばして椀に注ぐと、彼らは獣のようにそれをすすった。奪い合いこそしなかったが、椀を持つ手は、みな震えていた。

 

 落ち着くのを待って、村長のお狛が、老爺に尋ねた。

 

「どちらから、おいでなすった」

 

「……嶺の、国から」

 

 老爺の答えに、里の者がざわついた。

 

 嶺国。俺の頭の中の地図でも、そこだけは、はっきりと位置が付いている。この朽縄の里から峠一つ越えた、国境の向こうにある山国だ。誰が治めているのかまでは、俺は知らなかった。

 

「峠を、越えてきなすったか」

 

「越えるしか、なかったのじゃ」

 

 老爺は、椀を握りしめた。

 

「殿様が……嶺の、お館様が、討たれなさった」

 

 途切れ途切れに、老爺は語った。

 

 嶺国の守護であった御方が、ひと月ほど前、討たれたのだという。攻めてきた敵にではない。長年その下で仕えていた、家中の者の手によって。網代、という名の家だった。

 

「女郎蜘蛛、と……皆が、そう呼んでおりました。上の御方を、宴に招いて、酒を注いで、その席で……」

 

 騙し討ちだった。

 

 主を討った網代の女は、そのまま国を奪い取った。従わぬ者は狩られ、館は焼かれ、国は乱れた。折悪しく、その年は稲の実りが悪く、蔵という蔵は兵に押さえられた。残ったのは、飢えと、殺し合いだけだった。

 

「あの国には、もう、おられませぬ。田を捨て、家を捨て……食べるものの、まだいくらか残っておるという、こちらの国へ」

 

 老爺は、地に額をつけた。

 

「後生でございます。しばらくの間だけでも、この里の隅に……」

 

 里の者の顔に、ありありと困惑が浮かんでいた。

 

 無理もなかった。この里とて、去年ようやく、種籾に手をつけずに済んだばかりだ。二十三人の余所者を、養う余裕などありはしない。それは、ここにいる誰もが、口に出さずとも分かっていた。

 

「……これは、わし一人で、決められることではございませぬ」

 

 村長が、絞り出すように言った。里の行く末に関わる話だ。村長の一存で背負えるものではない。里の者を集めて、皆で決めるより、ほかにない。

 

 だが、俺は、別のことを見ていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 難民の群れの、後ろのほうに、若い女が一人、うずくまっていた。

 

 二十歳そこそこだろうか。やせた腕に、二つか三つの子を抱いている。その子が、いけなかった。

 

 だらりと母の腕に垂れて、動かない。粥を配られても、口を開けない。時折、荒い息だけが、ひゅう、ひゅうと漏れる。頬が、熱で不自然に赤かった。

 

 俺は、その子から、しばらく目が離せなかった。

 

「透」

 

 いつの間にか、隣に穂乃が立っていた。

 

 泥を落とし、いつもの子供の顔で、しかしその目だけは、俺と同じものを見ていた。あの、母子を。

 

「おまえも、あれが気になるか」

 

「……ああ」

 

「病だな」

 

 あっさりと、穂乃は言った。

 

「あれだけの数が、飢えて、寄り集まって、峠を越えてくる。道々で、弱った者から順に、何かをもらってくる。――ああいうのは、一人では終わらん」

 

 子供の言うことではなかった。

 

 俺が漠然と感じていただけの不安を、この子は、こともなげに言い当てた。それが何を招くのか、とうに知っている顔で。

 

「なあ、透」

 

 穂乃は、母子から目を離さずに言った。

 

「おまえなら、どうする」

 

 試すような響きは、なかった。むしろ、静かだった。

 

 俺は、答えなかった。

 

 代わりに、頭の中で、算盤を弾き始めていた。去年、村長の家で、里の窮状を勘定した時と同じだった。ただ、今度の算盤は、水路の勾配や、種籾の数ではない。人だった。生きた、二十三人の人間だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 その夜、俺は、婆様の家に戻らなかった。

 

 村長の家の板間を借りて、里の主だった者――村長、留造、それに田を多く持つ婆さんが二、三人――を集めた。集まってくれと頼んだのは、俺だ。よそ者の分際で、と、我ながら思う。だが、言わずにはいられなかった。

 

「あの人たちを、置いてやってほしい」

 

 誰も、すぐには何も言わなかった。

 

 やがて、田を持つ婆さんの一人が、疲れた声で言った。

 

「透殿。気持ちは分かる。分かるが、うちらも、食うや食わずじゃ。二十三人も抱えて、共倒れになったら、どうする」

 

「共倒れには、しません」

 

 俺は、言った。

 

「養うんじゃない。働いてもらうんです」

 

 板間が、静かになった。

 

「この里は、人手が足りない。去年、水路は直りました。田も戻った。でも、戻った田を、全部は使いきれていない。手が回らないからだ。――先の戦で、女衆が半分になったままだからです」

 

 村長の、皺の奥の目が、わずかに動いた。

 

「あの人たちの中には、まだ動ける者もいる。老人も、子供も、座ってできる仕事ならある。留造さんが、去年、蛇籠を編んだように」

 

 留造が、鼻を鳴らした。だが、否定はしなかった。

 

「やせた田は、まだいくらでもあります。人手さえあれば、開ける。夏のうちに手を入れれば、秋には、今より穫れる。二十三人が食べて、なお余るくらいには」

 

 これは、賭けだった。

 

 俺の見込みが外れれば、里は、余計な口を抱えて、本当に共倒れになる。分かっていた。分かっていて、俺は、それを口にしていた。

 

 ただ、あの、熱で赤い子供の顔が、頭から離れなかった。飢えた者を追い返すのは、算盤の答えとしては、正しいのかもしれない。だが、その正しさは、俺には、どうしても弾けなかった。

 

「ただし」

 

 俺は、続けた。ここからが、本当に言いたいことだった。

 

「病の出ている者と、そうでない者は、分けてください。寝起きする場所も、水を汲む場所も、かわやも、別にする。あの、子を抱えた女の人がいましたね。あの親子は、離れた小屋に。世話をする者も、決まった者だけにしてほしい」

 

「……なぜじゃ」

 

 村長が、いぶかしげに聞いた。

 

「病は、人から人へ、移ります。特に、弱った者へ。せっかく受け入れて、里じゅうに病が広がったら、元も子もない。……水と、汚れを、病を持つ者から遠ざける。それだけで、ずいぶん違うんです」

 

 半分は、去年、手帳に書き写した知恵だった。残り半分は、まだ、確かめていない。

 

 里の者は、顔を見合わせていた。得心したというより、この余所者がまた妙なことを言い出した、という顔だった。だが、村長のお狛だけは、じっと俺を見ていた。深い隈の奥の、あの静かな目で。

 

「……透殿」

 

 やがて、村長は言った。

 

「透殿は、いつも、里の先のことを、里の者より先に見なさる」

 

 それは、褒め言葉なのか、そうでないのか、俺には分からなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 話がまとまり、皆が散った後、俺は一人、板間に残った。

 

 膝の上に、ノートPCを引き寄せる。

 

 青白い光が、闇の中に灯った。数字が浮かぶ。本体、四十一パーセント。

 

 俺は、リュックから、モバイルバッテリーを取り出した。手のひらに、その重みを確かめる。もう、ずいぶん軽くなった気がした。気のせいではない。

 

 繋ぐと、本体の数字が、ゆっくりと満ちていく。

 

 これで、最後だ。

 

 持ち歩き用のこいつは、この一回で、空になる。あとに残るのは、本体に今、注いだ、その一杯きり。使い切れば、もう、どこにも継ぎ足す先はない。

 

 分かっていたことだった。この一年、俺はこれを、水路のことで一度、種籾のことで一度、指を折って数えられるほどしか開かなかった。開くたびに、まとめて聞いて、答えを紙へ移した。そうやって、命をつなぐように、少しずつ使ってきた。

 

 それでも、いつかは、この日が来る。

 

 俺は、入力欄に、打ち込んだ。

 

 カーソルが、瞬いた。

 

 文字が、流れ出す。水を分けろ。かわやを分けろ。手を洗わせろ。煮沸しろ。弱った者を、一つ所に集めるな――。

 

 俺は、それを、手帳に書き写していった。下手な字で、一行、また一行。画面の光が、俺の手元だけを、青白く照らしていた。

 

 書き終えて、画面を閉じる。

 

 闇が、戻ってきた。

 

 残り、半分に満たない。それが、この機械の――そして、俺が元の世界とつながっている、最後の細い糸の、残りの長さだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 翌朝、里の外れの空き小屋の前に、俺は立っていた。

 

 病の出ている者を、隔てるための小屋だ。ゆうべの話の通り、あの母子は、ここへ移された。

 

 その小屋の前で、水を運んでいる者がいた。

 

 穂乃だった。

 

 里の井戸から、この離れた小屋まで、桶を提げて、何度も往復している。病の出た者に近づくのを、里の者はみな嫌がった。当然だ。それを、この子は、一人で買って出ていた。

 

 袖をはしょり、細い腕で、子供の身には重すぎる桶を運ぶ。運んでは、小屋の中の母子に、椀で水を含ませてやる。慣れた手つきだった。どこで覚えたのか、病人の頭を持ち上げる手つきまで、心得ていた。

 

「穂乃」

 

 俺は、声をかけた。

 

「……なんで、おまえがそこまでする」

 

 旅の子供が、素性も知れない余所者の、そのまた病の出た者の世話を焼く。理由が、分からなかった。分からないから、聞いた。

 

 穂乃は、桶を置いて、こちらを見た。

 

 いつもの、悪童めいた顔ではなかった。かといって、あの、人を値踏みする目でもない。もっと、別のものだった。

 

「透。おまえ、ゆうべ、里の者に頭を下げたな。よそ者のくせに」

 

「……見てたのか」

 

「見てた。板間の外から、全部な」

 

 穂乃は、小屋の中へ、ちらりと目をやった。荒い息の、あの子供のほうへ。

 

「おれにはな、あの親子を、まるごと救うような力は、ない」

 

 ぽつりと、穂乃は言った。

 

 その一言の底に、俺には測りきれない重さがあった。子供の口にする「力がない」が、ただの謙遜には、聞こえなかった。

 

「だが、水を運ぶくらいは、できる。桶を提げて、井戸と小屋を往復するくらいはな。……おれ一人の、手のぶんだけは」

 

 穂乃は、また桶を持ち上げた。

 

 俺は、その背中を見送った。桶を提げ、病の小屋へ入っていく、小さな背中を。供の一人もいない、子供の背中を。

 

 その足取りに、迷いは、なかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。