貞操逆転立志伝 〜種馬にされる前に、乱世を駆け上がる〜 作:大太一人
病は、三日目に、はっきりと形を現した。
最初の子だけではなかった。難民の中から、次々と、同じ症状の者が出た。腹を下し、水のような便を繰り返し、やがて立てなくなる。熱が出て、唇が乾き、目が落ちくぼむ。飢えて弱った体には、あまりに重い病だった。
俺は、手帳に書き写した通りに、里を動かした。
病の出た者は、里はずれの小屋へ隔てる。世話をするのは、決まった年寄り数人だけ。飲み水は、必ず一度煮る。汲み場と、かわやと、寝起きする場所を、きっちり離す。小屋に出入りした者は、そのたびに手を洗わせる。
理屈は、単純だった。病は、目に見えない何かが、水と汚れに乗って、人から人へ移っていく。ならば、その道を断てばいい。汚れを、健やかな者から遠ざける。それだけだ。
里の者は、俺の言うことを、半分は妙な迷信のように聞いていた。手を洗ったくらいで病が防げるものか、という顔だ。それでも、透殿がそう言うなら、と、渋々従った。この一年で積み上げた、それだけの信は、あった。
そして、道を断つのは、間に合った者には効いた。
隔てた小屋の外では、新しく倒れる者が、日ごとに減っていった。
◆
だが、すでに倒れた者には、何の役にも立たなかった。
小屋の中では、病がそのまま、進んでいた。
俺にできるのは、広がりを止めることだけだった。もう病んでいる体の中で起きていることに、俺の手帳は、何も書いていない。水を分けろとは書いてある。だが、下り続ける腹をどう止めるかは、書いていない。
婆様のところへ、走った。
「薬を、分けてくれないか。熱と、腹の下るのに効くやつを」
婆様は、囲炉裏の前で、しばらく俺を見ていた。それから、奥の棚から、乾いた草をいくつか取り出して、麻の布に包んだ。
「これで、熱は少し引く。……じゃが、小僧」
包みを差し出す手が、止まった。
「わしの草を全部煎じても、あれだけの数には、焼け石に水じゃ。腹の下る病は、薬で止めるものではない。──体から出ていく水に、追いつけるかどうか。それだけよ」
「水に、追いつく」
「下せば下すほど、体から水が抜ける。人は、病そのものよりも、水が尽きて死ぬ。……古い話じゃ。わしにできるのは、そこまでよ」
婆様の目は、静かだった。突き放しているのではない。長く生きた者の知る限界を、そのまま口にしているだけだった。
体から抜けていく水に、追いつく。
その一言が、頭の隅に、小さなとげのように刺さった。
◆
小屋の中は、すえた匂いで満ちていた。
病人に近づくのを、里の大人たちは、みな嫌がった。当然だ。世話役に立った年寄りでさえ、匂いと恐れに耐えかねて、じきに表へ出てしまう。
その小屋に、居続ける子供が、二人いた。
一人は、穂乃。煮た水を椀に汲み、病人の頭を持ち上げて含ませ、汚れた敷きわらを替え、桶を運び出す。手際は、そのへんの大人より、ずっと良かった。
もう一人は、お吉だった。
お吉は、穂乃のように器用ではない。桶は重くて半分こぼすし、病人の傍に寄るたび、こわごわと身を縮める。それでも、逃げなかった。熱にうなされる小さな子の手を、両手で握って、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、自分に言い聞かせるように繰り返していた。
「お吉。無理はするな。うつるかもしれない」
俺が言うと、お吉は、きっと顔を上げた。
「透が、やってるもん。あたしだけ逃げるの、やだ」
それだけ言って、また桶を持ち上げる。
穂乃が、顔も上げずに言った。
「熱の高いのが、奥に三人。いちばん奥の子が、まずい」
いちばん奥。あの、母親に抱かれていた子だった。
のぞき込むと、子供は、もう水を飲めなくなっていた。含ませても、口の端からこぼれるだけだ。ひゅう、ひゅう、と、浅い息が、乾いた喉を鳴らしている。母親が、その傍らで、身じろぎもせずに座っていた。
穂乃が、椀を置いた。俺にというより、自分に言うような声で、ぽつりと言った。
「手が、二本しかないな。おれには」
「……手?」
「どれだけ急いでも、一度に運べる水は、桶ひとつだ。頭を支えてやれるのも、一人ずつ。……もどかしいものだな」
穂乃は、いちばん奥の子を、じっと見ていた。それきり口をつぐんで、また椀を取り上げた。
◆
その夜、俺は、板間に一人で座っていた。
膝の上に、ノートPC。
青白い光が灯る。数字が浮かぶ。もう、モバイルバッテリーはない。あるのは、この本体の、最後の一杯きりだ。開くたびに、その一杯が、目に見えて減っていく。
見当は、ついていた。
水だけでは駄目で、塩と、糖分が要る。。
だが、それがどういう割合なのかまでは、知らない。濃すぎれば、かえって水を奪う。薄すぎれば、追いつかない。うろ覚えで作って、それが外れていたら――。
俺は、天板に手をかけたまま、動けずにいた。
水路の時も、種籾の時も、迷わなかった。里の暮らしを、少しよくするための問いだった。使うだけの値打ちが、はっきりとあった。
だが、今度は違う。残りの全部を使い切るかもしれない。それで助かる保証は、どこにもない。
婆様の声が、耳の奥で鳴った。
体から出ていく水に、追いつけるかどうか。
この一回で、たぶん、終わる。
それでも、俺は、開いた。
カーソルが、瞬いた。
文字が、流れ出した。
煮て冷ました水に、ひとつまみの塩を溶く。甘みがあれば、なお良い――穀物を煮た、そのとろりとした汁でもいい。それを、匙で、幾度も、少しずつ。一度に飲ませず、絶やさず。塩と、甘みと、水。その三つを、抜けていく先から、注ぎ足し続ける。
俺は、それを、手帳に書き写した。最後の一行まで書き終えて、画面を閉じる。
残量が、ひと桁に、落ちていた。
闇が戻る。俺の手の中で、機械は、もう、ほとんど冷たかった。
俺は、それを、しばらく握っていた。それから、立ち上がった。かまどに、火をおこすためだ。
◆
夜通しかけて、俺は、それを作った。
水を煮立てて、冷ます。里に残っていた塩を、惜しみながら、ひとつまみ。それに、あわを長いこと煮て、とろりとした上澄みを取り、混ぜ合わせる。
舐めてみて、俺は、手を止めた。
薄い、生ぬるい、しょっぱさの奥の、かすかな甘み。
夜が明けきる前に、俺はその桶を提げて、小屋へ走った。
匙で、少しずつ。穂乃が頭を支え、俺が含ませる。一度にたくさんは飲ませない。絶やさず、幾度も。手帳の一行を、そのまま手でなぞるように。
飲めなくなっていた者の幾人かが、それを、こくり、と喉に落とした。
効いた者がいた。
朝までに、奥から二番目の子の目に、光が戻った。乾ききっていた唇が、湿った。三番目の年寄りも、便の回数が減り、荒い息が、少し深くなった。
薬ですらない、ただの塩湯が、抜けていく命に、追いついていく。
俺は、確かに、追いついた。
――いちばん奥の、あの子を除いては。
◆
その子は、明け方に、逝った。
匙を運んでも、もう、飲み下す力が残っていなかった。ひゅう、ひゅう、と鳴っていた息が、だんだんと、間遠になった。そして、次の息が、来なかった。
それだけだった。
母親は、声を上げなかった。ただ、動かなくなった子を、抱き上げて、額を、その小さな額に、押し当てた。それきり、動かなかった。
俺は、匙を持ったまま、立っていた。
目の前で、人が死ぬのを見たのは、初めてだった。
二十八年、俺は、死からずいぶん遠いところで生きてきた。人が死ぬのは、報せで知るものだった。画面の向こうの、遠い数字だった。たった今まで息をしていた小さな体が、目の前で、ただ静かなものに変わる――その瞬間に立ち会ったことは、一度も、なかった。
膝から、力が抜けた。悲しみ、と呼ぶには、まだ遠かった。ただ、さっきまで確かにそこにあった小さな息が、ふつりと消えて、あとには、埋めようのない穴だけが、ぽっかりと空いている。
手の中には、まだ、塩湯の椀があった。温かかった。間に合った命に、注ぐはずの水だ。それが、行き場を失って、俺の手の中で、ゆっくりと冷めていく。
順番は、正しかったはずだった。道を断ち、水に追いつく。手帳の通りに、婆様の言う通りに、一つずつ、正しい順で、打てるだけのことは打った。
なのに、この子は、死んだ。
俺は、動けなかった。肩の上に、途方もなく重いものが、音もなく乗っていた。
◆
「透」
声がした。
穂乃だった。
いつのまにか、俺の正面に立っていた。汚れた顔で、まっすぐに、俺を見上げていた。
「もう、その子は、いい」
「……」
「おまえの椀は、そっちじゃない。奥から二番目の子が、また汗をかいてる。飲ませてやれ」
俺は、その子を見た。それから、手の中の椀を見た。
「死んだ者に、水はいらん。生きてるほうが、待ってる」
子供の声だった。だが、その言葉に、迷いはなかった。死を、幾度も見てきた者の言い方だった。
俺は、ゆっくりと、椀を持ち直した。
冷めかけた塩湯を、かまどでもう一度、温め直す。それを、奥から二番目の子の口元へ運ぶ。匙を、傾ける。子供が、こくり、と飲んだ。
俺の手は、震えていた。それでも、動いた。
穂乃は、それを、しばらく見ていた。
あの、人を値踏みする目でも、悪童の目でもなかった。
◆
病は、峠を越えた。
あの塩湯は、間に合った者を、次々と生かした。道を断つ手立ては、新しく倒れる者を、ほとんど止めていた。十日もすると、小屋から表へ出てこられる者が、一人、また一人と、増えていった。
死んだのは、あの子と、もともと弱っていた年寄りが、二人。二十三人のうちの、三人。
三人も、死なせた。
三人で、済んだ。
どちらの言い方も、正しかった。そして、どちらも、俺の胸の中で、うまく折り合わなかった。
里の男衆が、快復した難民に、座ってできる仕事を教え始めていた。あわを煮る女たちの中に、あの、子を亡くした母親の姿も、あった。
里は、二十人からの人手を、飲み込んで、生き延びた。
俺の賭けは、当たった。当たったのだ。
◆
俺は一人、里はずれの丘まで上った。
東の峠が、よく見える場所だった。難民たちが、下ってきた道だ。
あのやせた列が、あそこを越えてきた。二十三人。そのうちの三人を、俺は見送った。残りの二十人は、今、里であわを煮ている。
その二つの数を、俺は、丘の上で、何度も数え直していた。
いつのまにか、隣に、穂乃が立っていた。
この子は、いつも、こうだ。気づくと、そこにいる。
「三人だ」
俺は、ぽつりと言った。「二十人を、生かした。……三人を、死なせた」
「二十人を、生かした」
穂乃が、静かに言い直した。「おれの知る大人なら、そう数える。二十人生かして、三人で済んだ。上出来だ、とな。──祝いの酒でも、飲むだろうよ」
俺は、答えなかった。
「なのに、おまえは、こんな丘の上で、三人のほうを数えてる」
穂乃は、峠から目を離して、俺を見上げた。
「透。それは、上に立つ者には、向かない数え方だ」
子供が、上に立つ者、と言う。まるで、自分がそちら側の人間であるかのような口ぶりだった。
「向かないが……」
穂乃は、また峠のほうへ、目を戻した。
「おれは、そういう数え方をするやつは嫌いではない」
それきり、穂乃は、何も言わなかった。
しばらくして、いつものように、ふらりと丘を下りていった。
俺は、一人、残った。
眼下では、里が、細い煙を、幾筋も上げていた。生き延びた者たちの、煮炊きの煙だった。