世界が滅びても、俺の安全とスローライフが最優先だ 作:最高司祭アドミニストレータ
夜の帳が下りた床主市を、赤色灯の不吉な光がひっきりなしに撫で回している。御別橋の入り口に構築された警察の封鎖ラインは、もはや防波堤としての限界を迎えつつあった。
分厚いジュラルミンの盾を構える機動隊員たちの顔には、疲労と極限の恐怖が色濃く張り付いている。バリケードの向こう側からは、脱出を求める市民たちの怒号と悲鳴。
そして、それらを背後から無慈悲に喰い殺していく「奴ら」の虚ろな呻き声が、途切れることなく押し寄せていた。
前線から下がった位置に停められたパトカーの陰で、年配のベテラン警官は額に滲む濃い脂汗を拭うことも忘れて無線機に怒鳴り込んでいた。
「自由にしなさいとはどういうことです! 本部からの応援は…!」
彼の掠れた声が、騒音に掻き消されそうになりながらも夜の空気に響く。三十年以上、市民の安全と法秩序を守り抜いてきたという自負。それが今、彼の足元から音を立てて崩れ去ろうとしていた。
無線機から返ってくるのは無機質なノイズと、遠くで響く悲鳴ばかりだ。本部の指揮系統が生きているのかすら、もう誰にも分からない。
数秒の沈黙ののち、無線機から完全にシグナルが途絶えたことを示す、耳障りな電子音が鳴った。
「通信が途絶? くそっ!!」
ベテラン警官は堪えきれず、手にしていた無線機をパトカーのボンネットに激しく叩きつけた。プラスチックの筐体が嫌な音を立てて跳ねる。
「班長! 本部は何と!?」
隣で血走った目を向けてきたのは、まだ配属されて数年と経たない若い警官だった。
ベテラン警官は奥歯を強く噛み締め、若い部下へ向けて事実を口にした。
「上から通達があった。治安を守るためなら、何をしてもいいとさ。本庁からきた最後の命令は、『できることをできるだけやれ』だそうだ」
警察組織としての死の宣告。
法を遵守し市民の盾となるべき自分たちに対し、上層部は「あらゆる責任を放棄した」のだ。武器の使用制限も人権の保護も、すべて現場に丸投げし見捨てた。
「そん、な、馬鹿、な…」
若い警官が絶望に顔を歪める中、ベテラン警官の視界の端に、一人の女性の姿が映った。
騒乱と狂気が渦巻くこの地獄の最前線において、彼女だけが異常なほどの静謐を保っていた。
紫色の艶やかな髪を夜風に揺らす婦警、神代だ。彼女の整った顔立ちには、周囲の男たちが浮かべているような恐怖の色は微塵もない。
ベテラン警官にとって、神代は数少ない精神的支柱だった。
いついかなる時でも取り乱さず、彼の指示を的確にこなす優秀な部下。もし彼女がいなければ、彼自身もとっくにプレッシャーで押し潰され、狂気に呑まれていたかもしれない。
彼女のその「凛とした美しさと、揺るぎない精神力」が、年老いた警察官にとって最後の理性を繋ぎ止める楔となっていたのだ。
そんな頼れる彼女を含めたとしても、圧倒的な人員不足はいかんともしがたい。
「会計科の連中まで引っ張って来たんだぞ? もう素人同然の者たちを前線に立たせるしかないのか…ッ」
ベテラン警官は、血を吐くような思いで呻いた。
普段は署の奥でデスクワークをしている職員たちにまで、拳銃を持たせて立たせている。
「…」
三十年間、市民を守るために身を粉にしてきた彼にとって見殺しにするという決断は、自身の魂を真っ二つに引き裂くことに等しい。
その重苦しい沈黙を破ったのは、傍らに控えていた神代だった。
「指示を、お出しください。私は…どう動けばよろしいでしょうか」
神代の声は、一切の動揺を感じさせない、硝子のように澄み切ったものだった。
彼女は、上司である彼の判断を待っている。どんな残酷な決断であろうと、彼が命じるならば、それに従うという絶対的な信頼。
彼女のその言葉と存在が、ベテラン警官に「現場の長としての責任」を無慈悲に突きつけてくる。
(彼女のような未来ある若者を、こんなところで死なせるわけにはいかない…!)
その思いが、彼の胸を激しく締め付けた。
若い警官が苦渋に満ちた表情で、言葉を絞り出す。
「今すぐ命令を! たとえ橋の上や対岸に無事な市民がいても! 大の虫を生かすためには、小の虫を生かすべきです!」
生き残るために、弱者を切り捨てる。その圧倒的な不条理と絶望がベテラン警官の心をギシリと軋ませ、限界まで張り詰めていた理性の糸をブチリと断ち切った。
「市民を守るのが我々の仕事なのに…くそぉっ!!」
彼は血の涙を流すような声で吠えた。自らの無力さ、組織の崩壊。すべてが混ざり合った激しい衝動のまま、彼はパトカーのダッシュボードを拳が砕けるほどの勢いで激しく叩きつけた。
「この騒ぎが始まってから、まだ二日も経っていないんだぞ!!」
彼の慟哭が夜の帳と死者の呻き声の中に、虚しく吸い込まれていく。
「…」
それを紫髪の婦警は、その悲痛な叫びを表情一つ変えずに受け止めながら、冷たい夜風の中で己の任務──この絶望の顛末を『上司』へと報告する準備──を遂行し続けていた。
■
皆さんどうもごきげんよう! 私は不良のアレックス。まあ親しみを込めて、美少女のアレックスちゃんとでも呼んでくれたまえ。
この荒廃した世界においても、私のビューティフルな輝きは一切陰ることはない。むしろ、この血生臭い空気こそが私のワイルドな魅力を引き立てているとさえ言えるだろうね。
そんな自画自賛はさておき。
今私は何をしているのかというと、静まり返った一軒の邸宅──静香先生の友達だっていう南リカとかいう女の家。その寝室に潜み、男どもの「泥棒家業」に付き合わされているところだ。
部屋の中にはひんやりとした空気が澱んでいる。テレビの電源は落とされ、外界から隔絶されたこの密室を満たしているのは、鉄と油が混ざり合った、無機質な「暴力の予感」だけだ。
「おい平野。もっと端を狙え。テコの原理だ。学校で習っただろ?」
「分かってる、分かってるよコムロ…よし、そこだ!」
部屋の中央、壁に埋め込まれた頑丈な金庫を前に、小室孝と平野コータがバールを手に汗を流している。
私は壁に背中を預け、肩に担いだ釘バットを軽く指先で叩きながら、その様子を退屈しのぎに眺めていた。こんな極限状態にあって、大人の秘密の小箱をこじ開けようとするなんて、まったく…不謹慎だけど嫌いじゃないよ、そういうガッツ。
ガコンッ!
重苦しい金属音が響き、ついに金庫の扉がその口を開いた。暗がりの奥を覗き込んだ瞬間、部屋の温度が一段階下がったような錯覚に陥る。
そこに鎮座していたのは鈍い光沢を放つ「本物」の銃火器と、山積みにされた弾薬箱だった。
その光景を目にした途端、デブちんコータの顔つきが熟練の職人のように鋭く切り替わった。
獲物を見据える瞳には、狂気と陶酔が入り混じった異様な光が宿っている。三人称視点だとそうなんだろうなァ、という妄想。正面から見てないから分かんないもん表情。
彼は震える手で一丁のライフルを抱え上げ、まるで恋人の肌を愛でるような手つきでそれを撫でた。
「スプリングフィールドM1Aスーパーマッチか…!」
その声は熱を帯び、どこか別の次元から響いているようだった。
「セミオートだけど、M14シリーズのフルオートなんて弾の無駄遣いにしかならない。マガジンは20発入る。日本じゃ違法だ違法だぜ…っ!」
チャキッと部品が噛み合う正確な音が響く。彼は早口で専門用語をまくし立て、次々と金庫の中から獲物を引きずり出していく。
「ナイツSR-25狙撃銃。いや、日本じゃこんなもの手に入らない。AR-10を徹底的に改造したのか!? こ、これはイサカM37! アメリカ人が作ったマジヤバな銃だ! ベトナム戦争でも活躍したっていう、くぅ、最高だぜヒャッハー!」
「平野…お前、楽しそうだな」
まったく、狂ってるのは世界だけじゃないね。目の前のオタク少年も、この地獄に完璧に適応してやがる。
やがて武器の検分が終わり、ベッドの上にはいくつもの弾薬箱が広げられた。鈍色の小さな弾丸が、シーツの上にバラバラと転がる。
「コムロも手伝ってよ。マガジンに弾を込めるのは、結構面倒なんだ」
ベッドに腰を下ろしたコータが、手際よく空のマガジンに弾を押し込みながら言った。
「しょうがない。アレックス、お前も手伝え。釘バットを振り回すだけじゃ、この先は持たないぞ」
孝が私に視線を向ける。
「分かってるよ。自分の身を守るためなら協力は惜しまないさ」
私は肩に担いでいた釘バットを、ベッドの脇にカランと置いた。
「これ、結構重いんだね。カチャカチャって変な音」
私はマガジンを一つ手に取り、コータの動きを真似て1発ずつ弾丸を押し込んでいく。
指先に伝わるのは、硬い真鍮の滑らかな質感と、バネが押し戻そうとする反発力。その1発1発を込めるたびに、自分たちがもはや「普通の高校生」のラインを越えつつあることを実感させられた。
「へぇ…アレックス、意外と飲み込みが早いね。指先が器用なんだ」
コータが眼鏡を光らせて私を褒める。
「不良を舐めないでほしいな。細かい細工には慣れてるんだよ」
作業に苦戦している孝が、ふとコータへ尋ねた。
「エアソフトガンで勉強したのか?」
コータはマガジンから目を離さず、平然と言い放った。
「まさか。実銃だよ」
その言葉に孝と、そして私の指先も一瞬だけ凍りついた。
「ホンモノ持ったことあるのかよ!?」
「アメリカに行った時ね。民間軍事会社ブラックウォーターに勤めていたインストラクターに、一ヶ月みっちり仕込まれたんだ。彼は元デルタフォースの曹長だったんだよ」
「まじかよ。ガチの英才教育じゃん」
このデブちん。ただの軍オタじゃなくて、本物の戦場を生き抜くための「殺しの技術」をその身に刻んでいたのか。
「お前って…そういう方面だけは本当に完璧なのな。味方でよかった。嫌われなくて本当によかったよ」
孝のその言葉は、私たちの共通の想いだった。
作業を再開し、私は黙々と弾丸を込め続ける。指先の皮が少し剥けそうになるほどの摩擦、金属同士が擦れる音。
「ねえ、コータ。これだけで、あいつらを止められると思う?」
私が尋ねると、コータはマガジンをカチリとセットし顔を上げた。
「止めなきゃいけない。アレックスさんがバットでやってきたのと同じようにね」
「あらやだ素敵おっふ」
「その顔…芸人でも目指してたの?」
「親愛なる隣人としてなら今でも目指してるよ」
「はは、何それ」
その時だった。
孝は手にしたイサカの重さを確かめたいのか、銃身を軽く持ち上げた。その不用意な動きによって、銃口がふらりとコータの方へと向いてしまう。
一瞬にして、部屋の空気が絶対零度まで冷え込んだ。
先ほどまで穏やかに喋っていたコータの顔から、一切の感情が剥げ落ちていた。眼鏡の奥の瞳が獲物を仕留める直前の捕食者のように、冷酷に孝を射抜いた。
「たとえシェルが入っていなくても、絶対に人へ銃口を向けるな! 向けていいのは──奴らだけだ」
「ご、ごめん」
その言葉の重みに、孝は弾かれたように銃口を下へと向けた。私も、息をすることを忘れるほどの緊張感に喉を鳴らした。
おもちゃじゃない。これは、他者の命を奪うための機能体だ。それを持つということは、その結果に全責任を負うということ。それをコータは、その一言で私たちの魂に刻み込みたいのだろう。
「奴らだけか…本当にそれですめばいいけど」
孝が、自嘲気味に呟く。
「無理だよ。もっとひどくなるんだから」
コータは手元のマガジンに最後の一発を押し込み、指先でそれを愛しげに弾いた。
「この戦争には和平交渉も、降伏もないんだよ…」
「ヴィランの笑みしないでもらえるか?」
「そ、そんなに?」
「うん」
戦争、か。
もう誰も助けには来ない。誰もこの狂ったルールを止めてはくれない。
ただこうして弾を込め引き金を引き続け、明日の朝をこの手で勝ち取るしかないのだ。
「ま、お喋りはこれくらいにしようか。弾丸の準備はできた。あとは…どれだけ奴らの頭をカチ割れるか、腕の見せ所ってわけだ」
私は、弾丸を込め終えたマガジンをベッドの上に置いた。
指先には、まだ鉛の冷たい感触が残っている。
次回はタチバナ視点。
さぁて、次回もサービスサービスゥ!