世界が滅びても、俺の安全とスローライフが最優先だ 作:最高司祭アドミニストレータ
最高指導者の座である重厚な革張りのソファに深く身を沈め、タチバナ・ケイイチは手元のコーヒーカップから立ち上る芳醇な香りをゆっくりと吸い込んだ。
彼の眼前に広がる壁一面のマルチモニターには、ハッキングされた地上の通信網から拾い上げた無数の映像と音声が、とめどなく流れ込み続けている。
『──たとえ家族であっても、襲いかかってくる者からは離れなさい』
『負傷した者、他者に襲いかかる者は通さない!』
スピーカーから断続的に響くのは、防衛線を維持しようと足掻く警察のアナウンスだった。
かつては市民を守るための絶対的なルールであった「情」や「絆」を自ら否定し、ただ物理的なウイルスの侵攻を食い止めるためだけの冷酷なシステムへと成り下がった公権力。
その音声を聞き流しながら、タチバナは微かに目を細めた。
「マスター。偵察兵からの暗号通信をデコードしました」
コンソールに向かっていたオペレーターの一人──透き通るような肌と、タイトスカートに包まれた美しい脚線美を持つ彼女が、振り返らずに報告を上げる。
「麗たち一行が、目標地点である南リカの家に無事到着したとのことです」
「そうか。それはよかった」
タチバナは、心からの安堵と共に小さく息を吐き出した。
どうやら、あの無鉄砲な高校生たちは、無事に死者の群れを掻き分けて一時的な避難場所を確保したらしい。
南リカの家。それは、以前モニター越しに確認した、床主海上空港で紫電の如き狙撃を披露していたあのSAT隊員の自宅だ。
空港で活躍する南リカ。あの防弾ベストの上からでも隠しきれない圧倒的でナイスバディなプロポーションを思い出し、タチバナの口元が微かに緩む。
あのような美しく鍛え上げられた戦士の姿を、危険な現場に出向くことなく画面越しでしか見ることが出来ないのも、まあ安全圏から楽しむ極上のエンターテインメントとしては悪くない。
だが、そんなことはいいのだ。
タチバナはコーヒーカップをサイドテーブルにコトリと置き、視線をメインの大型モニターへと移した。
今は別に、気になることがある。
画面に映し出されていたのは、市街地を分断するように流れる川に架かる、巨大な『御別橋』のライブ映像だった。
赤色灯の光が激しく明滅し、分厚いジュラルミンの盾を構えた機動隊のバリケードが橋を完全に封鎖している。
そして、そのバリケードの向こう側には、避難を求める市民ではなく、明らかに異質な熱狂に浮かされた集団が詰め寄っていた。
『警察の暴挙を許すなーっ!』
『許すなーっ!!』
画面の向こうから、怒号のようなシュプレヒコールが響き渡る。
タチバナは、顎に手を当てて首を傾げた。
これはなんだろうか。LIVE御別橋で暴動? いや、プラカードを掲げ、ヘルメットを被って組織的に声を上げているこの様子は、暴動というより抗議活動という表現が正しいか。
『ただいま警察などによる橋の封鎖に対する、抗議を目的とした団体らしき人々がシュプレヒコールを叫び始めました』
画面の端に、蒼白な顔をした女性レポーターが映り込み、マイクを握りしめながら震える声で実況を始めた。彼女の背後では、抗議の熱波がさらに激しさを増していく。
『我々は! 日米政府の開発した生物兵器による! 殺人病の蔓延について!』
抗議集団の代表とおぼしき、白いヘルメットを被った男が唾を飛ばしながら叫び始めた。
「…は?」
タチバナは思わず間の抜けた声を漏らした。
こ、こいつは何を言っているのだ? 生物兵器だって?
そんなの、陰謀論映画の観すぎだろう。現実にそんな都合のいいウイルス兵器が存在するはずが……あり得な、い、とは言い切れないのか。
タチバナはふと、自分自身が『マインクラフター』という常識外の存在であることを思い出した。
自分が原因ではないと断言できるが、自分のようなイレギュラーな存在がこの世界に介入している以上、政府の秘密機関がウイルスを作ったという仮説も、あながち100パーセント間違いとは言い切れないのかもしれない。
「まあ、俺は何もしてないからどうでもいいのだが」
「マスター、現地の情報網から新しい報告を受信しました」
別のオペレーターが、冷静な声で状況のアップデートを告げる。
「御別橋の封鎖ライン付近で、警察官が『奴ら』に対して発砲した模様です。なお『奴ら』の群れの中には、親子連れが含まれていたとのことです」
その報告を聞き、タチバナの胸の奥で微かに苦いものが広がった。
(「撃たないで! 生きてるのよ! ほら、今動いて…ガァ!?」と叫んでいた、あの親子のことだろうか?)
先ほど別のカメラ映像の端で、バリケードの手前で「奴ら」に飲み込まれていった痛ましい親子の姿を思い出す。
であるならば、あの必死に子供を守ろうとしていた母親も、その娘も、今はもう「奴ら」と化してしまったということだ。
…おいたわしや、おいたわしや。
『ねえ、あの人撮って』
画面の中で、女性レポーターがカメラマンに指示を出した。映像がブレながらズームされ、バリケードの最前線が鮮明に映し出される。
そこにいたのは、タチバナが見覚えのある年配のベテラン警官だった。彼の顔には極限の疲労と苦悩が深く刻み込まれており、その対面には、拡声器を下ろして息巻く抗議代表のヘルメットおじさんが立っている。
二人の背景では、相変わらず抗議市民が「許すなーっ!」と叫び続けている。
(…よくあんな大声で叫び続けられるな。疲れないのかな)
タチバナは完全に冷めきった傍観者の視点で、モニターの中の狂騒を見つめていた。
『忌むべき関係はついに! 市民に対して、無差別の反動的暴力を…!!』
抗議代表の男が自身の言葉に酔いしれるように、芝居がかった身振りで吠える。
『やめなさい。ここにいては、あなたたちも危険だ』
年配のベテラン警官が警告の声を向けた。
(うんうん、その通り。だからさっさと離れなさい)
タチバナは、画面のこちら側で深く頷いた。警察は市民を守るために、物理的な壁となって死者の群れを食い止めているのだ。これ以上あそこに留まれば、背後から迫る「奴ら」の餌食になるのは火を見るより明らかである。
だが、極限のパニックと自らの正義に酔いしれた男には、その当然の理屈すら届かなかった。
『詭弁だ! お前たちは政府とアメリカの陰謀を隠すために!』
抗議代表は、顔を真っ赤にして警官に食ってかかる。
(ダメだこりゃ)
タチバナは、深いため息をついた。
知性と理性をどこに置いて来たのだろうか。自分たちを守ろうとしている盾に向かって「帰れ帰れ」と騒ぎ立てるその姿は、あまりにも滑稽で救いようがなかった。
『我々は治安維持のために必要な、すべての手段を執れと命じられている』
年配のベテラン警官の声が、夜の空気を凍らせるような冷徹さで響いた。
その手には黒光りするリボルバーが握られ、銃口は正確に抗議代表の男に向けられていた。
「へ?」
画面の向こうで抗議代表が自分の置かれた状況を理解できず、間抜けな声を漏らした。それが、彼の最期の言葉となった。
ダァンッ!!
乾いた銃声が響き、抗議代表の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「どうもありがとうございました。御冥福を申し上げます」
直後、画面の向こう側は完全なパニックに陥った。
悲鳴、怒号。そして群衆が逃げ惑うノイズが爆発したかと思うと、LIVE御別橋の映像はブツリと途絶え、不快な砂嵐へと切り替わった。
コマンドセンターに、再び深い静寂が戻る。
タチバナは砂嵐の映るモニターからゆっくりと視線を外し、姿勢を正した。地上の人間たちは、自らの手で秩序を完全に破壊し尽くした。もはや、あそこに守るべき社会は存在しない。
「…さて」
タチバナは冷静沈着な最高指導者としての仮面を被り直し、オペレーターたちへ向けて低く、よく通る声で命じた。
「オペレーターの言う通り、そろそろ行動に移そう。部隊を動かすのだ!」
オペレーターたちが一斉にコンソールに向かい、淀みない手つきでコマンドを入力していく。
タチバナは、自らの築き上げた絶対的なシステムの稼働を確認すると、誰にともなく、静かに、そして絶対の自信を込めて言い放った。
「所定の位置へ」
■
赤色灯の不吉な明滅が、御別橋のアスファルトを血のような色で撫で回していた。
封鎖線を突破しようとする「奴ら」の群れと、逃げ場を失いパニックに陥った市民たちの絶叫が交錯し、現場はもはや統制という言葉から最も遠い混沌の渦中にあった。
肺から酸素が強制的に絞り出されるような濃密な死の気配の中、警察から下された悲痛な決断が物理的な暴力となって実行されようとしていた。
「出せ…! もうこれしかないんだ!」
拡声器を通した警察の指示を受け、現場に放棄されていた大型のトラクターシャベルカーが重々しいエンジン音を轟かせて始動する。
巨大なディーゼルエンジンが黒煙を吐き出し、重さ数トンにも及ぶ鉄の塊が、防衛線を食い破ろうとする「奴ら」の群れへと容赦なく前進を開始した。
油圧で持ち上げられた巨大な鉄の爪が、群がる死者たちを容赦なく薙ぎ払う。骨が軋み、何かが決定的に砕ける鈍い音が夜の空気を震わせる。
トラクターは止まることなく突撃し、障害物ごと「奴ら」を虚空へと吹き飛ばしていく。
だが、その鉄の爪は「奴ら」だけを綺麗により分けることなどできない。逃げ遅れた市民たちすらも、その圧倒的な質量の前に巻き込まれ、アスファルトの上へと無残に吹き飛ばされていく。
治安を守るための最終手段が、皮肉にも守るべき対象をも傷つける結果をもたらしている。その圧倒的な不条理が、御別橋を真の地獄へと変貌させていた。
バリケードの裏手、ひしゃげたパトカーの陰に座り込み、年配のベテラン警官は荒い息を吐いていた。
彼の制服は泥と血飛沫に汚れ、長年市民を守ってきたという誇りは、今や足元で塵のように砕け散っていた。
大の虫を活かすためには、小の虫を切り捨てなければならない。その冷酷な数式を実行した代償として、彼の魂は取り返しのつかないほど摩耗しきっていた。
震える手で、彼は胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
少し色褪せたその写真には、満開の桜を背景にした入学式の情景が写っている。少し照れくさそうに笑う彼自身と、寄り添う愛する妻、そして真新しい制服を着て無邪気に微笑む娘の姿。
この狂った世界で、彼女たちが無事である保証などどこにもない。通信が途絶した今、愛する家族の安否を知る術は完全に失われていた。
「…すまない」
掠れた声が、夜風に溶ける。
彼が守るべきだった街は炎に包まれ、同僚たちは次々と生命の灯火を掻き消されていく。その重圧と絶望に耐えかねた彼は、ゆっくりと腰のホルスターから拳銃を抜き取った。
冷たい鉄の感触が、不思議と熱を持ったこめかみに心地よく触れる。
このまま引き金を引けば、すべてから解放される。終わりのない悪夢に、自らの手で終止符を打つことができる。指先にじわじわと力を込め、永遠の沈黙を受け入れようとした、まさにその瞬間だった。
「班長! お待ちください!」
若い部下が顔面を蒼白にさせながら駆け寄り、ベテラン警官の腕を力強く掴んだ。
「離せ! もう我々にできることは何もないんだ!」
「違います、見てください! SWATが…SWATが来ました!!」
部下の叫びにベテラン警官は弾かれたように顔を上げ、橋の向こう側へと視線を向けた。
圧倒的なまでの、黒い波だった。漆黒のタクティカル・アーマーを身に纏い、優れた耐弾性能を持つバイザー付きのケブラー製防弾ヘルメットで素顔を完全に隠した部隊が、音もなく御別橋へと展開していた。
彼らは警察の特殊部隊SWATを思わせる重武装を施しており、その装備は一線を画していた。全身を覆う厚厚な防弾ベスト、手には最新鋭のサブマシンガンや自動小銃が握られ、後方にはスナイパーライフルを構えた狙撃手が配置されている。
「あれは…本庁からの応援か?」
ベテラン警官が呆然と呟く中、その「SWAT」部隊は一糸乱れぬ動きで戦闘を開始した。
ダァァァンッ! ダダダダッ!
統制の取れた乾いた銃声が連層的に響き渡り、火薬の閃光が夜闇を切り裂く。
彼らの動きには恐怖も焦りも、一切の感情が存在しなかった。互いの死角を完璧にカバーし合い、前衛がサブマシンガンで「奴ら」の足を止め、後衛の自動小銃とスナイパーが的確に頭部──思考の座──を粉砕していく。
弾切れを起こせば、隣の隊員が瞬時に射線を塞ぎ、リロードの数秒すら完璧に防御する。
圧倒的な火力と連携により、先ほどまで警察の防衛線を食い破ろうとしていた「奴ら」の群れは、瞬く間に無力化され、物言わぬ骸の山へと変わっていく。
わずか数分の間に、御別橋を埋め尽くしていた死者たちは一掃され、静寂が取り戻された。
火薬の匂いが漂う中、SWATの隊長と思しき人物が、悠然とした足取りでベテラン警官のもとへ歩み寄ってきた。
「周囲の脅威は排除されました。助けに参りました」
機械を通したような無機質な声が、隊長の口から発せられる。
しかし極限の恐怖と絶望に晒され続け、自ら命を絶とうとまで思い詰めていたベテラン警官にとって、その言葉は安堵よりも激しい怒りを引き起こすものだった。
「遅かったじゃないか!」
ベテラン警官は、怒りに震える声で感情をぶつけた。
「なぜ、もっと早く来なかった! あんたたちの到着が遅れたせいで、我々は…市民すらトラクターで吹き飛ばしてしまったんだぞ! 守るべき市民を、この手で…!」
血を吐くような慟哭が、冷え切ったアスファルトに落ちる。
その怒声に呼応するように、SWAT隊員たちを取り囲むように群がり始めた。
その中には、マイクを握りしめた女性レポーターの姿もあった。彼女は蒼白な顔のまま、カメラを向けさせながら鋭く問い詰める。
「お答えください! なぜ、私たちを一箇所に集めたのですか!? 危険な場所に市民を押し留め、見殺しにするつもりだったのではないですか!?」
群衆の間に、疑心暗鬼の炎が燃え広がる。
「落ち着いてください。あなた方をここに集めたのは、安全な場所に連れて行くためです」
隊長の澄んだ声が響く。だが一度理性のタガが外れかけた群衆に、その言葉は届かない。
「嘘だ! 政府の陰謀だろ!」
「私たちを実験台にする気か!」
パニックに陥った市民たちは、口々に身勝手な憶測と被害妄想を叫び続ける。
暴動の火種が再び燃え上がろうとしたその時、ベテラン警官が怪訝な表情でSWAT隊長を睨みつけた。
「もう一度だけ聞く。…我々をここに集めた、本当の理由はなんだ」
その瞬間だった。SWAT隊長は一切の言葉を発することなく、無言で銃口を下げ、代わりに腰のポーチから何かを取り出した。
それに呼応するように、周囲を取り囲んでいた大多数のSWAT隊員たちが、一斉に自動小銃の銃口を市民と警察官たちへ向けて構え直したのだ。
さらに驚くべきことに、ベテラン警官の部下であるはずの婦警・神代までもが、ためらうことなく彼らへ向けて拳銃を抜いていた。
「なっ…! お前たち、何を…神代、お前まで!?」
ベテラン警官が驚愕に目を見張る。
「どうか指示に従ってください」
SWAT隊長が、落ち着き払った声で静かに告げる。
彼の手には、太いペンのような形状をした銀色のデバイスが握られていた。隊長はそれを、群衆の目の高さに掲げる。
隊長だけでなく、銃を構えていない一部のSWAT隊員たちも、同じようにペン型のデバイスを取り出し、前方に突き出している。
「これを見るように」
優しく、しかし有無を言わせぬトーンの言葉。
銃口を突きつけられ身動きが取れなくなった市民や警官たちは、本能的な恐怖に縛られながら、掲げられたそのペンの先端へと思わず視線を吸い寄せられてしまった。
カチリ。
かすかなスイッチの音が鳴った。
次の瞬間ペンの先端から、夜の闇を完全に白く染め上げるほどの強烈な閃光が放たれた。
「──っ!?」
網膜を焼き切るような光の奔流。
声にならない悲鳴すらも光の中に溶け込み、橋の上にいたすべての人間たちの思考は一瞬にして真っ白な空白へと叩き込まれた。
光が収まり、再び夜の闇が視界に戻ってきた時。
ベテラン警官は自分がなぜ拳銃を握りしめていたのか、なぜ怒りに震えていたのか、その理由を完全に失っていた。
周囲の市民たちも同様だった。先ほどまで口走っていた政府への不信感も、陰謀論も、トラクターで吹き飛ばされた人々の惨劇も。脳の海馬に刻み込まれていたはずの鮮烈な恐怖の記憶が都合よく欠落し、綺麗に上書きされていた。
残されたのは、「絶体絶命のピンチに陥った自分たちを、優秀な特殊部隊が間一髪で助け出してくれた」という、シンプルな感謝の念だけだった。
「あ、ありがとうございます! 助けに来てくれて…」
女性レポーターが、涙ぐみながらSWAT隊員に向かって頭を下げる。
周囲の市民たちも安堵の息を漏らしながら、彼らに対して次々と感謝の言葉を口にし始めていた。
ベテラン警官もまた、ポケットの中の家族の写真を無意識に握りしめながら、目の前の「救済者」たちに深く安堵の視線を向けていた。
自らの手で記憶を書き換えられ、完全に無害化された群衆。
SWAT隊長は静かにデバイスをしまい込むと、平坦な声で告げた。
「安全な場所に連れて行きます」