世界が滅びても、俺の安全とスローライフが最優先だ 作:最高司祭アドミニストレータ
水深数千メートルの暗い海底。光の届かないその絶対的な暗闇の中に、人類の叡智と規格外の力が生み出した巨大な要塞が息を潜めている。
「文明復興財団パナソル」の深海本部。外界のいかなる脅威も、この分厚い隔壁と無数の兵器群を突破することはできない。こここそが、タチバナ・ケイイチが自らの安寧のためだけに築き上げた、この世で最も安全な揺り籠であった。
その中枢たる作戦司令センターは、壁一面を覆う巨大なマルチモニターの青白い光に照らされている。絶え間なく続くのは、規則正しく響くキーボードの打鍵音と、情報処理を知らせる電子音だけだ。
タチバナは、司令室の最奥に据えられた最高級レザーの巨大なシートに深く身を沈め、ふぅと心地よい息を吐き出した。手には、メイドが丁寧に淹れた香り高いエスプレッソのカップ。室温は完璧に管理され、空気は清浄そのものだ。
彼の視界の端では、自身が卵や鉄、レッドストーンからクラフトした『作戦司令オペレーター』たちが、静かに、そして正確に地上の情報を処理している。
グレーを基調とした機能的な制服、身体のラインに美しくフィットしたタイトスカート、そこから伸びる白く滑らかな脚線美。彼女たちの清潔感と知的な美貌は、無機質な計器類に囲まれたこの空間において、タチバナの精神を安定させる至高のオアシスとして機能していた。
「…さて。地上の元気な高校生たちは、無事に進んでいるかな」
タチバナは優雅にコーヒーを口に運びながら、正面のメインモニターへ視線を向けた。
モニターには、ドローンが上空から捉えた床主市の住宅街が映し出されている。アスファルトの上を重低音を響かせて進んでいるのは、南リカの家から拝借したであろう軍用車両「ハンヴィー」だ。水陸両用の巨体を揺らし、ゆっくりと、だが着実に市街地を抜けようとしている。
助手席には小室孝、運転席には鞠川静香の姿が見える。そしてハンヴィーのルーフハッチからは、平野コータが周囲を鋭く警戒し、後部には宮本麗や高城沙耶、毒島冴子、そして「不良のアレックス」と名乗る謎の少女が乗り込んでいる。
「あの進行方向…高城邸を目指しているのか。あそこなら、右翼団体『憂国一心会』の強固なバリケードがあるはずだ。賢明な判断だが…道中が長すぎるな」
タチバナがぼんやりと戦況を分析していた、その時だった。
『──っ!? 前方、ワイヤーです!!』
スピーカーから、コータの切羽詰まった声が司令室に響き渡る。
ドローンの高解像度カメラが、道路を横断するように張られた透明なワイヤーの罠を捉えた。誰が何の目的で張ったのか。生存者を狩る略奪者の罠か、あるいは単なる悪戯か。
ともかく、気付いた時には遅かった。運転席の静香がパニックになりながら急ブレーキを踏み込む。凄まじいスキール音と共に、重装甲のハンヴィーが前のめりに沈み込み、急停止した。
「うわっ、危なっ!」
タチバナは思わず身を乗り出し、コーヒーをこぼしそうになった。
急ブレーキの猛烈な慣性は、ルーフに乗って警戒していた者たちを容赦なく襲う。車体の上部に身を乗り出していた麗が、悲鳴を上げる間もなく前方に勢いよく弾き飛ばされたのだ。
モニター越しとはいえ、その瞬間の描写はタチバナの目に鮮明に焼き付いた。
白地に緑のセーラー服のプリーツスカートが激しく翻り、健康的に引き締まった太ももと、胸元の黒いリボンを弾き飛ばさんばかりの豊満な双丘が、重力に逆らって大きく波打つ。
しかし、そんな少年漫画的なラッキースケベに目を奪われている余裕はなかった。
麗はアスファルトに叩きつけられ、苦悶の声を上げて転がる。
そのハプニングを合図にするかのように、静まり返っていた住宅街のあちこちから、異様な唸り声が湧き上がった。
路地の奥から。民家の陰から。そして放置された車の下から。圧倒的な数の「奴ら」が、音と熱に惹かれて次々と姿を現したのだ。
『麗!!』
『来ます! 囲まれますよ!』
画面の中では、即座に戦闘が開始された。
コータがAR-10改造狙撃銃を構え、冷徹なスナイパーの顔つきで次々と奴らの頭部を粉砕していく。孝はショットガンを手に麗の元へ駆け寄り、彼女を庇いながら近距離の敵を吹き飛ばす。
さらに不良少女のアレックスが「ひゃっはー! 喧嘩の時間だね!」とテンション高く叫びながら、釘バットをフルスイングして奴らの顎を粉砕する他、もう二丁拳銃を乱射して道を切り開こうと暴れ回っている。
冴子も剣を振るい、血飛沫を上げながら美しい剣舞で敵を斬り伏せていた。
しかし、数が多すぎた。
撃っても撃っても、奴らは湧いてくる。弾薬には限りがあり、何より生身の人間である彼らには「疲労」という絶対に逃れられない枷がある。徐々に包囲網が狭まり、孝たちの行動範囲が削られていく。
「おいおいおいおい、嘘だろ…。あんなの、あんな数に囲まれたら普通に全滅するだろ…!」
タチバナは顔面を蒼白にし、たまらずシートから立ち上がった。
司令室の床をウロウロと歩き回りながら、彼は激しい葛藤に苛まれていた。
桜並木で言葉を交わした彼らだ。未来への希望を胸に抱いた、若い高校生たち。麗の眩しい笑顔や、孝の真っ直ぐな瞳を思い出すと、元警察官としての──いや、一人の大人としての良心がズキズキと痛む。
(部隊を派遣しろ。あの程度の群れ、俺の『汎用執行兵』や『CXタイプ』を数小隊も投入すれば、ものの五分で更地にできる。助けてやりたい…助けてやりたいが…!)
タチバナは頭を抱え、ギリッと歯を食いしばった。
(それだとなァ!? もしパナソルの部隊が公の場に姿を現して、生存者や国家権力の残党に『未知の部隊』の存在が露見したらどうなる? 「あいつらは何者だ」「どこから来た」「我々を助けろ」「いや、我々に服従しろ」と、世界中から面倒事が雪崩れ込んでくるに決まってる!)
極度の小心者であり、徹底した自己保身を至上命題とするタチバナの理性が、激しく警鐘を鳴らす。
(俺は安全な深海の底で、可愛いメイドやオペレーターたちに囲まれて、ストレスフリーなスローライフを送るんだ! そのためのパナソルだろ!? ここで情に流されて彼らを助ければ、孝くんたちから「タチバナさん、他のみんなも助けてください!」と熱血ヒロイックな要求を突きつけられるのは目に見えている。無理無理無理無理! 俺は英雄になんてなりたくない!)
「うーん、うーん…!」
司令室のど真ん中で、頭を抱えて唸り声を上げる最高指導者。その姿をオペレーターの少女たちが不思議そうな、どこか見守るような目でチラチラと窺っている。
善意と保身。良心と恐怖。
観測者としてのジレンマに引き裂かれそうになりながら、タチバナはモニターを睨みつけた。
「頼むから…自力でなんとかしてくれ…!」
祈るような思いで画面を見つめ続けていると、地上の状況が急転直下で動き始めた。
『撃てェッ!!』
ドローンの集音マイクが、凛とした大人の女性の号令を拾い上げた。
「か、彼女は…!?」
元ウォール街の金融マンにして、高城家を取り仕切る妖艶なる女主人。彼女が率いる「憂国一心会」の私兵団が、圧倒的な暴力と統率力で奴らの群れを横から食い破り、一網打尽にしていく。
「おっ…おおっ! 助かったのか…!」
タチバナの顔に、ぱぁっと安堵の色が広がった。自分が出張るまでもなく、現地勢力の力で危機が去ったのだ。これほど嬉しいことはない。
モニターの中では、百合子の部隊が素早く展開し、沙耶やコータ、静香、そしてアリスたちを次々と安全な車両へと収容していく様子が映し出されている。
「よかった、よかった。やれやれ、心臓に悪いぜ全く…」
タチバナはこれ幸いとばかりに責任を放り投げ、額の汗を拭った。しかしドローンのカメラがズームアウトし、別のアングルを映し出した時、彼の動きはピタリと止まった。
「ん?」
画面の端、本隊が群れを制圧しているのとは逆の方向。
住宅街の細い路地を抜け、別の奴らの群れを引きつけるようにして走っていく二つの影があった。
小室孝と、毒島冴子だ。
どうやら乱戦の中で合流のタイミングを逸し、沙耶や麗たち本隊を安全に逃がすための「囮」として、二人だけで別ルートへ切り離されてしまったらしい。
彼らの背後には、依然としておびただしい数の死者が迫っている。だが、孝はショットガンを構え、冴子は木刀を鞘のように腰に据え、背中を預け合いながら絶望的な路地裏へと消えていった。
「やれやれ。あいつら、また離れ離れになっちまったな」
タチバナは短く溜息をつき、再び革張りの司令席に深く腰を下ろした。完全に安全になったわけではない。むしろ、孝と冴子の二人はこれからさらに過酷な生存競争を強いられるだろう。だが、先ほどの「全滅の危機」に比べれば、百合子という強力な後ろ盾がすぐ近くにいる分、希望はある。
「マスター」
不意に、透き通るような声がかけられた。振り返ると、青い髪とエメラルドの瞳を持つオペレーターの一人が、タブレットを胸に抱いて静かに立っていた。
「本隊は高城邸へ向けて撤退を開始しました。…孤立した二人の追跡を継続しますか?」
彼女の問いかけに、タチバナはすっかり冷めてしまったコーヒーのカップを持ち上げ、ゆっくりと一口飲んだ。苦味が口の中に広がるが、今の彼にはそれが心地よかった。
「いや。百合子たちが合流を目指して動くはずだ。あそこの私兵団ならしぶといだろうからな。こちらから積極的に介入する必要はない」
タチバナはモニターに映る、別々の方向へと離れていく二つのグループの残像を静かに見つめた。
自分はあくまで観測者。この安全な箱庭から、彼らの足掻きを眺めるだけの存在だ。それに徹することが、パナソルの、そして自分の平穏を守る唯一の道なのだ。
「引き続き、監視のみを続けろ。余計な手出しは無用だ」
「了解いたしました、マスター」
オペレーターが美しい所作で一礼し、自席へと戻っていく。タチバナは深く息を吸い込み、清浄な空気を肺いっぱいに満たした。地上の血と硝煙の匂いなど、ここには一切届かない。
ただ波風の立たない、この完璧な環境に改めて満足感を覚えながら、タチバナ・ケイイチは静かに目を閉じ、大いなる怠惰と平穏の中に身を委ねた。